2.デッド・ア・デート
時刻は午前九時三十八分。予定通り、二十分早い到着だ。
彼女との待ち合わせ時刻は十時。彼女により良いイメージを持ってもらうためには、遅刻などまずあり得ない。デートでは女の子よりも先に着いていることが、男としての最低条件だ。
完璧な朝のスタートから、完璧に日中アプローチして、完璧にプロポーズで締める。この三拍子ができてこそ、デキる男というものだ。そして俺は今日、そのデキる男の仲間入りを果たす。
今日の最も起こる可能性の高い、デートプランAはこうだ。
まず予定通り十時三十分から上演が始まる映画を見に、映画館へ向かう。今回見る作品は、前々から真木が見たがっていた、彼女が好きなジャニーズグループの一人が出演するラブコメ映画。なんでも、彼が初めて映画主演を務めるようで、この日を彼女はとても待ち遠しそうにしていた。
それから二時間十四分の上映が終わった後、お昼を食べるわけだが、そこは彼女の気分に任せて決める。何を隠そう、映画館の近辺にある飲食店は全て、昨晩までにリサーチ済みだ。何件か目星も付けてあるし、彼女が要求してきたジャンルには全て、応答できるはずだ。
その後はバスで街へ赴き、ブランドショップへと向かう。交際一年記念日ということで、新しいバッグが欲しいと彼女はは先日呟いていた。もちろん彼氏の俺にとっては、そんな彼女の一瞬の呟きですら見逃すはずがない。数ヶ月前から貯めこんでいた給料を使って、最高のプレゼントを彼女へ送る予定だ。
それから夜までの間は、フリータイム。買い物時間の長さにもよるため、ここは予め余分に設けておく。もちろん長引いたのならそれまでだし、早まったのならそれはそれで、他に時間を費やせる場所をリサーチ済みだ。それ以前に、ブランドショップ以外に行きたいと彼女が要求してきた場合にも対応できるように、この時間は臨機応変に務めるようと思う。
最後に、夜七時には駅前の高級レストランの席を予約してある。もちろんこのことは、彼女にはまだ内緒だ。この店は以前、真木が雑誌で見つけては俺に行ってみたいと告げていた場所だ。なかなか値が張る店だが、もちろん今回は全て俺が全額支払うつもりでいる。きっと彼女も喜んでくれることだろう。
そんな最高のムードの中、最後に俺は指輪を差し出してプロポーズをする。完璧な一日を過ごし終わった後の彼女は、そこでプロポーズをされたらきっと、断る理由もないはずだ。俺の婚約に、笑顔で応えてくれるに違いない。
――全てはこの日のために準備してきた。婚約指輪だって、一番彼女が似合いそうなものを、ブライダルショップに開店から閉店まで悩みに悩んだ末決めたんだ。絶対に成功する。……いいや、させなきゃダメなんだ。
待ち合わせ時刻まで、十分を切った。もうそろそろ、彼女も到着する頃だろう。
そうだ、彼女が来る前に今一度、持ち物をチェックしておこう。どこに何が入っているか、最終確認をしておけば、万が一のときすぐに対応できるはずだ。
――えっと、財布にモバイルバッテリー三個に、印鑑と通帳、乾パンに水三本とレジャーシート。あとは……。
一つ一つ、昨日の夜に詰めた荷物を確認する。それぞれ予め、昨日自分が詰めた場所にしっかりと入っていた。……のだが。
――あれ……ない。ない、ない、ない、ない……。指輪は? 昨日俺、ここに入れなかったか?
リュックサックの中の、左のポケット。ここにケースごと入れたはず。記憶をたどってみても、確かに昨日ここに入れた記憶はハッキリとあった。
――な、なんでだ!? あれほど何回も荷物を確認したはずなのに、なんで入ってないんだ!? ……あっ!
思い出した。今朝家を出る前に、タイミングよく実家からの宅配便が届いたのだ。その際、印鑑をリュックサックから取り出したときに、確か荷物をいくつか外へ出したはず。つまり……。
「あっ……あぁっ……!」
――マズい。マズいマズいマズいマズいマズいマズい非常にマズい……!
もう待ち合わせ時刻まで、五分もない。今から家へ向かっても、早くて十二分は掛かるだろう。遅かれ早かれ、このまま家へ戻れば、遅刻することは確定だ。
――どうする!? このまま今日のプロポーズを諦めて後日に回すか? でもせっかく予約のとれた高級レストランまで行ったのに何もなかったら、彼女はなんて思う?
『あー、ここまでは気が利けるのに、あと一歩足りない男なのかぁ。……なんか残念』
――なんて思われたりでもしたら、堪ったもんじゃないぞ。かと言って今から取りに帰ったら、遅刻することは確実……!
『せっかく付き合って一年記念日デートなのに、遅刻するとかサイテー。私、そういう男嫌いなのよね』
――とかなんとか思われたらおしまいだ! どうする? どっちのほうがまだ真木にショックを与えずにデートができる!?
デッド・オア・デッド。どちらを選んでも、俺の完璧だった計画が破綻するのは間違いない。
ならばどちらを選べば、まだマシな結果になるかを考えろ。どちらのほうが、真木を喜ばせられる? どっちだ? ……どっちだ!?
「あっ、あの……! やめてください!」
そんな俺の迷いが廻る思考を、突如としてつんざく悲鳴が遮った。
咄嗟に声がしたほうに視線が引き寄せられる。するとそこでは、一人の若い女性が中年の男性に絡まれていた。
「えぇ……いいだろうよぉ、少しぐらい。おじさんと、話してくれてもよぅ……」
「ですから、私はそんなこと……ひっ!」
一歩一歩、女性が男に詰め寄られている。彼の話口調を見るに、どうやら酔っぱらっているようだ。こんな朝から外で酔っぱらっているなど、一体どんな生活をしているのか、はなはだ疑問だ。
――あぁもう、何やってんだあのおっさん。誰か助けてやれよ……。
周囲には数人、通り過ぎる人々はいるものの、その様子を見るだけ見て、誰も彼女のことを助けようとはしなかった。「あーあ、変な人に絡まれちゃって可哀想」そんな言葉すらも、表情を見るだけで伝わってくる。
「……あぁっ、たくもう!」
どうしてこんなときに限って……。苛立ちを覚えながらも、結局荷物を適当に詰めたリュックサックを手に取ると、俺は早足で二人の元へと向かった。
「よぉ、待たせたな。待ったか?」
「……あぁ?」
俺が声をかけると、開口一番男は俺を見ながら、太い眉に深くしわを寄せてみせる。そんな彼からはやはり、ほのかなアルコール臭が漂ってきた。
対して絡まれていた女性は、驚いたようで目をぱちくりと見開いてみせた。
「すみませんね、おじさん。この子、俺の彼女でこれからデートなんで。部外者は帰ってもらっていいすか?」
そう言いながら俺は、少し申し訳ないと思いながらも、強引に彼女の肩をこちらへ寄せた。
男は何かを言いたそうにしていたが、わざとらしく大きな舌打ちを一つしていくと、何も言わずにその場を立ち去っていった。
「ふぅ……行ったいった。すんません急に、変なこと言って抱き寄せちゃって。大丈夫すか?」
すぐさま彼女から手を放して、謝罪を口にする。すると女性は小さく首を横に振りながら、「いえ……」と呟いた。
長い髪を後ろで一つに縛った、茶色っ毛のある髪。どこか自分に自信なさげな表情をしていて、比較的大人しい女性っぽさがうかがえた。
「あんな人に絡まれたの、初めてだったので……。わざわざ助けていただいて、ありがとうございました」
「まぁ、大ごとにならなくてよかったっすよ。気を付けてくださいね」
「はい。……あの、ぜひともお礼がしたいので、お名前を……」
「いやいや、いいっすよそんなの。それに俺、他に彼女がいるんで」
「あっ、そうなんですね……。でもそれじゃあ、何かお礼だけでも……!」
「大丈夫ですって。じゃあ俺、もう行きますんで。それじゃあ……」
そうカッコつけて、彼女の元から立ち去ろうとしたそのとき。目に入った視界の景色に、俺はつい後退んでしまった。よく人は驚くと声が出なくなると言うが、この瞬間に俺は、その言葉の真意が分かったような気がする。
「へぇ……。俺の彼女ってどういうこと? 詳しく聞かせてよ。ねぇ、昌大?」
現在時刻、十時二分。俺の完璧なはずだったデートプランは、たった二分で全て跡形もなく破綻した。