コンクリートはこびのぽん太
あるところに、ぽん太という、たぬきのような小太りのわかものがいました。
ぽん太は毎日のようにコンクリートをはこびました。プラスチック製や木製のパレットの上に、袋に入ったこなごなのインスタントコンクリートを、いくつも積み上げました。いくつか集まると、それはハンドリフトかフォークリフトでどこかへはこばれて行きます。
それがなにに使われるのか、ぽん太は知りません。それがどこへ行くのか、ぽん太は知りません。ただひたすら言われたものを言われた場所にはこびました。
ぽん太は、家に帰ったら、まずゴミを放ります。あとは、寝つくまでお酒を飲むだけでした。
ぽん太の家は、三畳一間、風呂なしトイレ共同、入居者は(恐らく)ぽん太一人、家賃一万五千円のぼろアパートでした。
ぽん太はいつも、ご飯はお店で食べるか、コンビニエンスストアやスーパーマーケットで買ったおにぎりや、パンやそうざい、その日食べたいと思ったものを帰りながら食べるかしていました。それだから、コンビニかスーパーで食べ物を買った場合は、帰り着く前に食べきって、ゴミはいったん、部屋の布団からいちばん遠い窓際に投げ捨てました。そうして、週末にいくらかまとめて、ゴミ袋にも入れずに、抱えきれるものは抱きかかえて、近所のゴミ捨て場にばらまいて行くのでした。ただ、大きなお酒のボトルだけは、他のゴミといっしょには抱えきれないので、ためこむことが少なくありませんでした。それでも、ときどき、た外食ばかりしてゴミが少なかった週には、他のゴミといっしょに五、六本捨てることもありました。だから、ぽん太の部屋は、いわゆるゴミ屋敷とは少しちがいました。
ぽん太のシャツはいろいろな食べ物や飲み物の汁と汗で汚れて、ヘンな茶色と黄色のまだら模様になって、なんともいえない臭いを放っていました。もはや、コインランドリーでは落としきれない汚れになっていました。
ぽん太の仕事場には、ひとり怖い人がいました。その人は、ぽん太の作業が少しでも遅れると、いつでも怒鳴りにやって来ます。きっと、怒鳴ることが仕事なんでしょう。その証拠に、いつでも飛んできては怒鳴るだけで、今までにぽん太を殴ったことはありません。そういう仕事でもなければ、殴っているはずです。ぽん太は怠惰なので、自分は殴られても仕方がない人間だ、といつもびくびくしていましたから。
ある日、ぽん太はいつも以上にぼうっとしていました。きのうの夜、意味もなく断酒したせいで眠れなかったのでした。
いつの間にか怖い人が目の前に立っていました。その日は、何か事情が違ったようでした。怖い人は、なにか叫ぶと、ぽん太の胸の辺りに前蹴りをくらわせました。
ぽん太は、インスタントコンクリート二十五キログラムを二袋抱えたまま、なんとか倒れずに踏みとどまりました。しかし、前蹴りの衝撃はぽん太の心臓に強く届いていました。心臓は、一度だけ、ぽん太の脳に電撃を与えました。
ぽん太は抱えていた二袋のうち、下側の袋を片手でひっ掴むと、怖い人の顔に、横殴りに一撃おみまいしました。すると、怖い人はうめきながら床にうずくまりました。ぽん太は、もう一発、もう一発……と怖い人の頭にインスタントコンクリートを袋のまま叩き込みました。一度、こめかみを守っている肘に狙いをつけて袋をブン回した時、ちょうど怖い人が、何を思ったのか仰向けに体勢を変えようとしました。狙いははずれ、袋はあごに直撃、怖い人のオトガイがヘンな方向に向きました。ぽん太はそれを見て、あとは素手で下顎を捩じ切ってやろうと思いつき、いろいろといじくり回しましたが、うまくできなかったので、ふたたびインスタントコンクリートで殴りつけました。
すると何度目かで、既に折れて口内に刺さったり舌の裏に入ったりしていた歯や、まだ歯茎で踏ん張っていた歯に袋が切り裂かれて、怖い人の喉いっぱいにコンクリートの粉がぶちまけられました。
怖い人は咳き込むことすらろくにできない様子でした。今、怖い人が息を吸おうとすると、気管に這入って来るのはコンクリートの粉でした。
ぽん太は、なんとなく、自分も息が詰まりそうな思いがしました。もうひとつのインスタントコンクリートの袋を掴んで振り上げた途端、肺がとめどなく空気を押し返しはじめました。時折ぴくりと全身を震わせる怖い人の横に丸くなり、咳き込みつつ、何とか新鮮な空気を吸おうとしました。
視界が少し灰色がかった頃、ようやく咳が収まってきたので、ぽん太は立ち上がって、再びインスタントコンクリートの袋を持ち上げました。
しかし、目の前は刻一刻と暗くなっていくようでした。ぽん太は、ふと「この袋入りコンクリートで殴打されるのは、どんな気分なんだろう?」と思い、袋を頭上高く掲げてから、手を離しました。頭頂部に降る二十五キロの硬い粉のカタマリ。はじめに口が勝手に閉じ、上の歯と下の歯がガチッと音を立ててぶっつかると同時に、首が胴体にめり込むかと思うような衝撃がぽん太を襲いました。
ぽん太はにやにや笑いながら棒立ちしていました。死に触れたように感じ、首に残る鈍痛を余韻のように味わっていたからでした。そして、それを自分が怖い人に与えたのだと思うと、我知らず口角が上がるのでした。鼻血が出ている気がして手で拭ってみましたが、勘違いでした。それでも、どことなく鉄臭い雰囲気がぽん太を取り巻いていました。白目でも剥いた方が自然な気がしました。
手首に齧りついてみた。思い切り糸切り歯を突き立てて、やっと少しだけ血が出た。もう一度その傷に糸切り歯を刺して、今度は横に引き裂こうとした。歯が折れるかと思った。だが、うまくいかなかった割には、血を多く出せた。いままでに、普段の生活においても、鼻血が出ているかのように錯覚することがままあった。その正体は頭痛だった。今、壁に顔を打ちつける。これなら本当に鼻血が出る。鉄の芳香が立ち籠める。吐き気をもよおす冷たい鉄の香に陶然とする……。
「金宮智音、男性、二十六歳、一人暮らし、アルバイト……、一人っ子。A中学を卒業後……、二年の空白期間を経て、現場の活久目コンクリートでアルバイトとして働き始めてます。工場長によると、作業は黙々とそつなくこなすが、無口で、周囲との交友関係はなかった、とのことです」
妄動塔、答えろ、妄動塔。
「また、両親は音信不通。えー、今の所、消息不明です」
――はい、こちら妄動塔。あなたの疑問は承知しております。
「被害者について。村田俊夫、四十二歳、既婚。今年十八歳になる一人息子がいる……活久目コンクリートでは、工場内のアルバイトを監督する役職に就いていたそうです。……よく容疑者を怒鳴りつけていたとの証言があります」
――ですが、あなたは捕えられなければいけません。
そんなことをききたいんじゃないよ。
「……妻によれば、息子を大学に行かせるため、夫婦にかかる経費を切り詰めて生活していたと……、いよいよ受験が近づき、息子につられて、村田俊夫も緊張していたようです。事件発生時まではアルバイトに手を上げたことはなかったそうですが……、事件前夜、息子さんとトラブルがあったそうで、そのことでいらついていたのではないかと思われます。詳しいトラブルの内容については、後日聞き取りを行います」
――いくらあなたにとってカスでも、家族にとってはかけがえのない父でした。罪の大きさは計り知れません。
別にどうでもいいよ。あまねく人類は平等にカスだ。罪なんか、ただ気にしなければ無いも同然だし。
「動機については、日頃からよく怒鳴られていたとのことですから、怨恨の線が濃厚かと。蹴られた際についカッとなって殺した、というわけですね」
全然違う、あれは、確かに蹴られたのがきっかけだったが、衝撃によって心臓から強制的に脳に注ぎ込まれた血流が、意識を覚醒させたからだ。今までは、ずっと起きながらにして眠っていたというわけだ。だから、やってみようと思っただけだよ。死んでいい人間は、死んでもいい。で、試しに殺した。言うなれば、動機を一言で表すなら、好奇心だな。
――ぽん太はすぐそうやって嘘をつく。どうしてそんな風に取り繕おうとするのですか? そんなに他人の目を気にして……。最後のつながりで、社会とのキズナだった怖い人を居なくしたなら、もう何も気にすることなんてないはずです。心を開いてください。
「……、……こいつ、喋ったな。今の聞きました?『死んでいい人間は死んでいい』、『好奇心で試しに殺した』、週刊誌が飛びつくなァこりゃ」
――ほら、周囲はこんな風に信じ込む。ぽん太は今みたいに自滅して、やがて心を閉ざした。私を見て、ぽん太。私だけを見て。
「本当にそれが動機か? こいつ、何か隠してるんじゃないか。怖い先輩への日頃の恨みが爆発したんでしょ。いきなり蹴られて、パニクったんだ。カッコ悪いな」
恨み? ……何か恨むところがあった? そんな理由じゃないよ。何となく殺した。この答え方がいちばん単純明快だ。
――まだ嘘があります。がんばって!
「何だこいつ。いい加減にしろよ、サイコ気取りが。本当に好奇心で殺したのか。こいつへの当たりが強かったのは事実、でも本当に死んでいい人間だったか? 村田は。俺は家族に会ったんだ。息子さんと奥さんから直接話を聞いたんだ。息子さん、親父のこと尊敬してるって。喧嘩したままになっちまったのが悔しいって、泣いてたぞ。村田は殺されていい人間だったか? そんな奴いるかよっ、死んでいい人間だと? そりゃ自分じゃねぇのか!」
そうだよ! ぼくだよ! 死んでいい人間だよ!
例えば、廃墟に住み着いたホームレスを殺したとする。どういう廃墟かにもよるけど、ほんと、だぁーれも寄り付かない廃墟だったら、死体をそのまま放置したって、未来永劫犯行がバレることはない。この時、このホームレスは殺されてもいい人間だったと言える。なぜなら、誰も困らないからだ。存在するかどうかもわからない人間が死んでも、誰も感知しないからだ。ただ、廃墟と共に、自然に任せて朽ち果てるだけだ。もし何人か、小学校の頃の同級生とか、彼を少しでも覚えている人がいたとしても、彼の死は誰も知らない。知る必要もない。仮にその同級生が、「あいつ、どうしてるかな」とふと考えたところで、一切会おうとはしないし、同窓会に出席してもしなくても、現実にどうしているか確かめたりはしない。死んでいても生きていても、どっちでもいい。死んでもいい人間というは、同時に生きていてもいい人間、どっちでも困らない、不明でも困らない人間であるとも言える。
それは、果たして人間と呼べるのか? 集団生活の場に対して、存在しようとしまいと、何の働きも持たない者、それは人間というより、もはや、意図不明な意識と呼ぶか、何とも呼ばないかすべきだ。
つまり、社会を捨てるということは、人間であることを捨てるということだ。誰にも知られていないということは、生きていても死んでいても同じだということだ。ただし、現実にそこまでやるのはかなり難しいけどね。
ぼくはいい線いってたと思う。後は蒸発すればよかったんだけど、惜しかったな。ヘンに楽しくなっちゃって。現に、他人からは「アイツ」とか「コイツ」とか、三人称代名詞でしか呼ばれない。「おいっ、金宮、てめぇ……云々」と言ったのは、村田が最後だった。だから殺した。
――よくできました! ぽん太、よく本心を語ってくれました。だけど、まだ不完全です。一緒に、檻の中でゆっくり考えていきましょうね。それから、もう他人には何を言われても無視してくだい。あの青い刑事もね。彼の興味は怖い人に向いているので、心配ありません。はい、もう、ぽん太は現実世界から切り離されました。これからは私と一緒に暮らしましょうね。
「そうじゃねぇよ! そんなこと言ったんじゃねえぞ! 俺は村田がっ! ……落ち着け。……記録、取ったな。よし。動機は、まあなんとなくわかった。また明日ね。ホゥ。………………これは、無罪かもしれないなァ」
「無罪って……、弁護士の腕次第だけどね。まあ奴は協力しないだろうしなァ。ああ、どうだろう。でも安心しろ、無罪でも檻には入る。拘束衣とか着てな」
妄動塔、妄動塔、一人になったよ。ついに、一人になったんだ。
――はい、ぽん太。話します。大事なのは、人間の想像力の巨大さ、深遠さです。今、私がどこにいるか分かりますか。
僕の頭の中じゃないの?
――違います。地球外にいます。神の国よりも遠い、宇宙の彼方に。ぽん太はどんな所だと思いますか。
何だろう……雪と永久凍土に閉ざされた、不毛な大地かな。見渡す限り、絶望的な白い景色が広がっている。そこにひとつ青く透き通った氷の湖があって、妄動塔はその湖を見下ろしている。
――そう。ぽん太が思った所に、私は居ます。私は今から実在します。心が身体を離れ、五感を連れて宇宙に飛び立つ時、それは実際に宇宙を見るのと同じこと。そして心を宇宙に飛ばす時、現実は不要です。帰る必要もありません。
死ぬ時はどうするの?
――人間は、歳を取るにつれて、現実での体感時間が短くなります。それとは逆に、妄想での体感時間を長く取ることができるようになります。死ぬ間際には、無限の体感時間を得ることができます。それは丁度、分子を一、分母を残りの寿命と置いた数式に表せます。その式の解は、命の尽きゆくにつれて無限大に近付き、零、即ち死は特異点となります。想像力の乏しい人間であれば、死の間際、永遠の虚無に落ち込みます。社会を形成する生物でありながら、真社会生物ではない意味。細胞のようにそれぞれの役割を持ちながら、独立して存在できる意味。ただ生き残るだけなら不利となる筈の個が、何故存在するのか。つまり孤独の意味を考えたことのない人間は。
――ぽん太は大丈夫です。ぽん太は、ぽん太の世界に深く没入する限り、死はありません。死ぬ直前に、時間が意味を成さなくなるからです。
そうなんだ。妄動塔のお蔭だね。何も無い人生、後はいずれ死ぬ時を待つだけだと思っていたから、妄動塔は死ぬ準備をしてくれていたんだね。ありがとう。僕は、永遠の想像力の中を泳ぐんだ。
――想像力は無限大。想像力は宇宙。ですが、本当に無限大の想像力を持つのは、特異な人間か、意図不明な意識だけ。それを知る者は素晴らしい。貴方が想像したことは全て、広大無辺な宇宙の何処かで起こったことか、これから起こること。宇宙の前で、人間は虚無。無限大の想像力の前で、現実は虚空。
――それでは、お待ちしております。アルキオニアの畔にて。