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橋村の声が重く響く。
密室。
それこそが、今日まで捜査本部を悩ませ続けた課題だった。
現場には大きく分けて二種類の出入り口がある。
窓と玄関だ。
遺体発見時、福田紗季は玄関の鍵を開けて家に入った。
それは同行した友人が、はっきり見ている。
そして、窓の施錠は駆け付けた警察が確認した。
警察が到着するまで、福田紗季と友人らはリビングで待機。
一歩も部屋を出ず、窓にも触れていないという。
現場は外部と遮断された空間だった。
「当然、我々としても様々な可能性を考えました」
二次会参加者が嘘をついていた場合。
犯人が外部から鍵をかけた場合。
だが、いずれの可能性も否定されていた。
ひとえに家賃二百万円のマンションに備わったセキュリティによるものだった。
家の窓には人感センサーがつけられていた。
夜間に人の出入りがあればすぐに警備会社に連絡が行く仕組みになっている。
被害者を殺害したあと、犯人が窓から逃げることはできない。
神庭が顎に手を当て、意見を述べる。
「犯人が室内に隠れていたのなら、警官が到着する前に玄関から逃げることもできます」
間髪入れず沖野が否定する。
「玄関を開ければ当然音がする。リビングと玄関は近いから気付くはずだ、というのが第一発見者らの証言だ。奴らは遺体を発見したあと、犯人がまだ室内にいる可能性に気付いて、警察が来るまでリビングで身を寄せ合うことに決めたそうだ。だから、玄関にも意識を配っていたらしい」
窓からの脱出はセンサーにより不可能。
犯行後、室内に残り玄関から逃げることも不可能。
残る可能性は一つしかない。
「殺人に及んだあと、鍵を使って玄関の鍵を閉める他ありません」
「そうだ。だが、玄関の鍵はピッキング不可能なタイプである上に、電子ロック併用の特殊キーだ。このタイプの鍵は、鍵の形状と鍵の内部に仕込まれたチップで二段階のロックになっている。鍵屋に持ち込んでも合い鍵は作れない」
「事件当日、鍵を所有していたのは誰ですか?」
「被害者とその妻のふたりだけだ。被害者の鍵は寝室から見つかっている」
「だとしたら、被害者の妻である福田紗季さん以外に犯行は不可能ですね」
「福田紗季にも無理だ。こいつにはアリバイがある」
資料には、福田紗季の行動が緻密に記されていた。
事件当日、彼女は午後七時に家を出て、新年会に参加している。
会場はマンションから徒歩十分のカフェだ。
当初は新年会を抜け出し殺人に及ぶことも可能だと考えられた。
しかし、彼女はカフェの防犯カメラにずっと映っていた。
二度ほどトイレに立ったが、いずれも五分ほどで出てきている。
彼女に犯行は不可能だ。
しかも、動機がない。
「逆に動機を持つ人物はいたんですか?」
「ひとりだけいる。被害者の会社の副社長だ」
グラッツェの副社長は桜井保という実業家だ。
彼は被害者と会社の経営方針を巡って衝突していた、という噂がある。
事件当日は自宅にいたと証言しており、アリバイもない。
「最も怪しいが、証拠はない。こいつは被害者の古い知り合いで、普段から現場に出入りしていた。こいつの遺留物は直接の証拠にはならない」
「鑑識が何も見つけられなかったのなら、何もなかったんでしょうね。……世田谷署の情分は何か言っていましたか?」
「さぁな。ごちゃごちゃ言ってたが、ろくな証拠はあげてこなかったよ」
沖野は露骨に機嫌を悪くしていた。
超科学なしで解決すると意気込んでいたところに神庭が来たためだろう。
「まぁ、これが事件の概要です」と橋村がまとめる。「正直って、難事件です。今では未解決事件のレッテルが張られています」
「三ヶ月間、俺たちが缶詰になって考えて、不可能だって結論が出た。実際は何らかのトリックがあったんだろうが、それを証明できなかった」
沖野が忌々しげに補足する。
伊織も続いた。
「指紋は取りつくしたし、フローリングの足跡も全部見た。どうやって殺したのかを調べるために、再現実験だって何百回と繰り返した。それでも、ダメだった」
現場から得られる手がかりは事細かに調べ尽くしたと言ってもいい。
容疑者も絞れている。
なのに、最後の決め手がどうしても得られなかった。
「神庭くん、何か感想はありますか?」
橋村が問いかける。
神庭はわずかに考え、こう言った。
「そうですね。率直に言うと、あまり難しくなさそうな事件に思えました。これなら数日もあれば解決できると思います」
正直、びっくりした。
伊織は神庭の顔を覗き見た。
顔色一つ変えず、あくまで真顔。
淡々とした口調は、冗談を言っている素振りもなかった。
今のを本気で言ったのだとしたら、神庭は何を考えているのか。
怒った沖野が椅子を蹴り倒した。
「お前、言葉を選べよ。難しくなさそうなんてどこ見て言ってんだ」
「そうだ。現にタケさんが三ヶ月も捜査して解決してないんだぞ」
追従するように山田も言う。
自分たちにできなかったことを簡単だと言われたのだ。
怒るのも無理はない。
沖野は神庭の顔を睨んで言う。
「お前、話をちゃんと聞いてたのか?」
「聞いていました」
「聞いていた上で、簡単だと言うんだな?」
沖野が詰め寄る。
年季の入った刑事である沖野は、取り調べの経験も豊富だ。
怒ると本当に怖いが、神庭はまるで動じていない。
「はい。範囲が狭いので解決は容易だと思います」
「じゃ、どうやるか言ってみろ」
「現場周辺の情報をすべて調べます。今までの捜査は可能性のある仮説を作り、それを検証するやり方でしたが、僕は捜査のあり方はそうでないと思います。現場の情報を徹底的に収集し、意味を抽出します」
伊織は聞いていて半分も理解できなかった。
沖野も同様らしく、珍しく鼻白んでいた。
「小難しい言葉を並べやがって……」
「説明を変えましょうか?」
「いらん。俺から言えるのは一つだ。俺はこれまでに警視総監賞を受賞した経験がある。係長も同様だ。山田や伊織は若いが、それぞれ才能ある刑事だ。その俺たちが三ヶ月も全力を尽くして解決しなかったヤマだ。俺はお前には解けないと思っている。その上で、お前が数日で解決してみせたら、俺は刑事を辞める」
「た、タケさん!?」
「当たり前だろ。……数日でできることが三ヶ月かかってもできないなら、刑事やってる意味がねぇ。だから、お前も懸けろよ。桜の紋章を」
「そういうのはちょっとよくないんじゃないかな」
橋村が仲介に入る。
が、それより先に神庭はこう言った。
「構いません。けれど、僕が数日で解決しても沖野さんが辞めることはないと思います」
「なぜだ?」
「僕は警察功労賞をもらいましたから。解決できないのは、実力の差です」
「は?」
驚いた。
大先輩に向かって実力の差だと言ってしまう神庭の神経に。
だが、それ以上に功労賞の響きに。
警察の表彰のうち功労賞の順位は二番目だ。
慣例的には退職する幹部らに感謝の意を込めて渡されるもので、二十代では殉職しても手が届かない。
ちなみに沖野がもらった警視総監賞は上から四番目あたりだ。
「あー、そう言えば、神庭くんは最年少で功労賞をもらったって話だっけ」
橋村が相槌を打つ。
それはそのまま沖野への追撃となる。
ぐうの音も出なくなった沖野は、乱暴に立ち上がるとそのまま部屋を出て行った。
山田が慌ててそのあとを追う。
伊織はため息をつく。
「あんたねぇ、少しは言葉を選べないわけ。いきなりあんなこと言われたら、誰だって怒るわよ」
「年功序列って、好きじゃないんだ。どんな方法でも解決できる方が偉いと思う」
なんて身勝手な考え方だろう……。
伊織は半ば呆れてしまった。
「もう勝手にすれば。数日って曖昧だから期限を決めましょ? 三日後でどう?」
「構わないよ」
「じゃあ、決まりね」
「あぁ、そんな勝手に決めて……」
橋村がおろおろする。
だが、これは神庭が自分で撒いた種だ。
処理できないようなら、自分で責任を取ればいい。
そもそも、ここまで場を乱すような男がいては、協力して捜査をすることもままならない。
捜査会議はなし崩し的に解散となり、伊織は沖野と山田を探しに出た。
神庭にはひとりでやらせ、自分たちは自分たちで捜査を進める。
おそらくそれが最良の選択に違いなかった。