17
安藤ハナの住むマンションは大通り沿いに建っていた。
駅からは徒歩十分。
近くには世田谷警察署があり、犯罪とは無縁に思える立地だった。
伊織はまず玄関のドアを調べた。
福田良隆殺人事件のときと同じ電子錠だ。
合鍵は作れず、ピッキングも難しい。
使われたのが被害者の鍵なのは間違いないだろう。
三人は靴を脱いで部屋に上がった。
すぐ前が廊下で、左手がトイレとバスルーム。
右手が寝室と書斎。
突き当たりはリビングだった。
最初にリビングから見て回った。
リビングは白を基調とした部屋で、四十インチテレビとレコーダーを除けば、椅子が一つあるだけだった。
十代の女性が住むにしては、あまりにものがなさ過ぎた。
それは書斎も同様で、何もない部屋に段ボール箱が積んであるだけだった。
引っ越しをしてきて、開封をしていないというふうだ。
プロデューサーの話では書斎らしいが、実態はただの物置だ。
普段は使わない部屋なのか埃の臭いがした。
「アイドルの家ってのは、こんなに殺風景なもんなのか」
沖野が疑問を口にした。
伊織も同じことを思っていた。
この家には生活感がない。
最後に犯人が侵入したとされる寝室を見た。
「やっと女の子らしい部屋を見たっすね」
山田が言った。
ぬいぐるみや小物類があちこちに飾られていた。
壁に貼られたコルクボードはメンバーと一緒に写る写真で埋まっている。
今までの部屋が嘘のような華やかさがあった。
「この辺に飾ってあるのはファンからの贈り物だろうな」沖野が棚を見て言った。「ベッドの下のボックスにもファンレターがぎっしり詰まっていたって話だしな」
「へぇ、ファンにもらったものを大切にしてたんすね。いい子だなぁ」
「そうね。わざわざ寝室に置くくらいだものね」
伊織はベッド脇のデーブルに触れた。
その付近はきれいに掃除されていた。
マグカップやリップクリームなど生活雑貨もあった。
まるでこの一部屋で生活しているかのようだった。
アイドルは忙しいと聞くし、他の部屋のインテリアに気を配る時間がなかったのかもしれない。
「これが例の窓か」
沖野が寝室の窓を開けた。
縦は一メートル、横は二メートルほどだろうか。
施錠は一般的なサムターン錠だった。
窓にはソフトボール大の穴が空いていた。
何らかの方法でガラスを割り、腕を差し込み鍵を開けたとされていた。
割られたガラスは寝室の床に落ちていた。
「どうやって、ここまで来たんでしょうね?」
「上じゃねぇか?」
沖野は窓から身を乗り出した。
マンション自体が十階建てなので、窓から屋上までの距離は数メートルだ。
ロープを垂らせば、降りてこられないこともない。
「隣のビルも近そうですよね」
部屋の向かいには隣のビルが迫っていた。
距離は二メートルもないだろう。
「雑居ビルだったか」
「そうみたいです」
病院やカフェなどが入居する。
同じく十階建てなので、屋上から被害者の自宅を見下ろせる。
ただし、雑居ビルはマンション側に窓がないため、侵入するとしたら屋上から降りてくるしかない。
ロープでぶら下がりながら窓に穴を空ける。
しっかりと体を固定しなければとてもできそうにない作業だ。
「窓を割ったとき被害者は目を覚まさなかったんでしょうか?」
伊織は気になっていたことを聞いてみた。
「焼き破りだろ。バーナーで炙るだけならほとんど音はしねぇ」
「炙るだけで、ここまできれいな穴が空くんですか?」
「予めガラスカッターで溝を付けていたか、温度差を大きくするために金属テープを使ったんだろ。どっちにしろ叩き割るような音は出ない。一分もあれば、開けられる」
「なるほど……」
さすが熟練の刑事だ。
殺人捜査以外のことでも昔ながらの手口には精通している。
「で、まんまと侵入した犯人は寝ている被害者を襲った。争った形跡もねぇし、まず間違いないだろう」
寝ている相手の自由を奪うのは簡単だ。
声を出されないよう口にテープを張り、手足を縛ればいい。
「ただ、運ぶのは一苦労ですね。ひとりだと難しいと思います」
「あぁ、最低でもふたりだな。それも腕っぷしに自信のある奴だ」
マッチョがふたりで被害者を運び出す。
相当に目立つ姿だ。
「カメラには何も映ってないんだったか?」
「はい。プロデューサーとふたりで帰宅した際の映像は残ってますが、連れ出された映像はないみたいです」
マンションは正面玄関にカメラが設置されていた。
最新型で夜間撮影にも対応する。
逆に裏口にはカメラが取り付けられておらず、直接、道路へ出ることができた。
「裏口から出たのは間違いないだろうな。問題はそのあと、どうしたかだ」
「検証中のようです。ただ、よほどおかしな動きをしない限り、街頭防犯カメラには映るそうです」
「だろうな。そこかしこにあるもんな」
街頭防犯カメラの多くは全天球レンズだ。
視野角は三百六十度。
交差点に設置すれば、かなりの範囲を撮影する。
もちろん、死角がないわけではないが、死角の大半はビル間の隙間だ。
被害者を抱えてビルの隙間を縫うように歩く必要がある。
そんなことをすれば不審者として通報される。
目撃証言が出てくるはずだった。
「にもかかわらず、カメラにも映らず目撃者もなしなんだよな。妙な話だな」
この事件が難しいとされる理由がそれだった。
逃走経路を思えば、人やカメラの目を逃れることはまず不可能とされている。
なのに、どのカメラにも映らず、目撃者も見つかっていない。
「何かトリックがあるのかもしれないですね。人目にもつかず、カメラにも映らないで連れ出す方法があるとか」
「とすりゃ、普通の誘拐じゃねぇな」
だから、神庭が呼び出されたのかもしれない。
神庭は独自の技術で突拍子もない事実を見つけてくる。
管理官より上の誰かが期待しているに違いなかった。
「また科学野郎が一人勝ちってか? 絶対させねぇぞ」
沖野は自身の頬を叩いて言った。
先日まで落ち込んでいたのが嘘のようだった。
何度でも蘇り食らいつく。
この粘り強さは見習いたいと伊織は思った。
神庭は捜査本部の片隅で犯人が書いたと思しきメールを読んでいた。
メールは安藤ハナの所属事務所宛てに送られたものだった。
本文には『安藤ハナの命は預かった。
彼女は永久に私のもの。
』とだけ書かれており、写真が一枚添付されていた。
写真の安藤ハナは両手を縛られており、恐怖に顔を歪めていた。
同様のメールは警視庁の問い合わせフォームにも送信されており、こちらは警察への挑発と見られていた。
安藤ハナの腹部は赤黒く染まっている。
犯人は彼女を誘拐したのちに刃物で危害を加えたと見られていた。
一刻も早く彼女の居場所を明らかにしなければならないが、情報分析課がメールや写真を調べても、居場所につながる情報は得られていなかった。
「神庭くん、調子はどんな、ものですか?」
本部で連絡員を務める橋村が様子を見にやって来た。
「写真を調べているところです」
「何かわかりそう?」
「まだなんとも言えません。とりあえず、彼女を縛る縄を見ています」
写真の中の安藤ハナはひざまずき、カメラを見ていた。
正面からではなくやや右側から撮られているため、両手を縛る縄が写っていた。
「え? 縄の種類って鑑識がすでに特定してなかったっけ?」
「したという報告はありました」
神庭は一度言葉を切り、
「しかし、報告は間違いです」
「間違い? どうして?」
「縄は購入件数自体が少ないので、手掛かりになりやすいと聞きます。わざわざ写真に写すはずがありません」
「でも、そんなこと犯人が知っていたとは限らないんじゃ……」
「撮影場所が暗過ぎる上に意図的に解像度を落としているのが問題です。これならどうとでも編集できます」
神庭は画像編集ソフトを立ち上げた。
ネット通販で調べた適当な縄の画像を切り出し、編集ソフトに放り込む。
安藤ハナの手の周辺を選択し、メニューから入れ替えというボタンを選んだ。
すると、ソフトが勝手に色味とサイズを調整し、縄を神庭が選んだものと入れ替えてくれた。
まるで最初からその縄で縛られていたような完成度だった。
「こ、これは……」橋村は信じがたいとばかりに目を見開いた。「最近はこんなこともできるの?」
「昔は腕のある人間にしかできませんでしたが、今は自動化されているので、ソフトさえあれば誰でもできます」
「じゃ、じゃあ、この縄の種類は信用がならないというわけなんだね……」
「縄だけではありません。この写真に写っているものは何一つ信用できません」
「ひえっ」
「調べるだけ無駄です」神庭は画像編集ソフトを閉じた。「そう伝えてください」
「わ、わかった。管理官にも報告するよ。他にわかったことは?」
「メールの送信元を特定しようと時間を割いているなら、それもやめさせてください。このメールは誰にも追跡できません」
「ど、どうして?」
「中国を経由しています。今の中国には当局の管理するインターネットとそうでないインターネットの二種類があります。後者は反社会的な団体による運営なので、捜査協力を仰ぐのは不可能です」
「うわぁ……」橋村は渋い顔をする。「情分にはメールの追跡に全力をあげさせている、と聞いたばかりだよ」
「それから……」
「まだ何かあるの?」
「いえ。被害者のマンションには防犯カメラがあったそうですね。その映像を見せてください」
「カメラの映像ね。それも要求しておくよ。ちょっと待っててね」
橋村は慌てた様子で席を立った。
その一方で、神庭はじっとメールを見つめていた。
気にかかる点があった。
犯人はなぜ警察にメールを出したのか。
身代金目的なら騒ぎを広める必要はない。
認知度を上げることが目的で、安藤ハナはそのための素材だとする方がよほど納得がいく。
だが、なぜマスコミに送らなかったのか。
噛み合わない。
何が狙いなのかが見えてこない。
もっとも推測する必要はない。
すべてを科学が解き明かしたのちに、犯人から直接聞けばいいだけの話なのだから。




