肆月目
※誤字脱字等ございましたら、ご連絡下さい( ^ω^)
ーー烏だ。窓の外に烏がいる。
私の思考は、目の前の烏によって完全に麻痺していた。黒い影に埋め込まれた宝石のように赤い二つの目が、微動だにせず私を見つめている。
ーーどうしよう。
私の頭の中は、それでいっぱいだった。幸い窓の鍵は閉まっており、普通であれば入ってくる事は不可能だ。だが分からない。あの『烏』には、塞がれた窓をどうにか出来る力があるかもしれない。昨日、私に襲いかかった時のように。
『亜莉沙ちゃん?』
「ッ!」
ふと、部屋の外から声がした。その後に数回、扉をノックされる。葵さんの声だった。
『晩ご飯の時間だよ~一緒に食べよ~』
「あ」
ーー声、出さなきゃ。
「今っ。今行きます!」
扉に向けて、叫ぶ様に言った。一瞬だけ視線を窓から外したが、直ぐに烏を探す。しかし、そこにその姿は無い。
ーー………消えた、?
『亜莉沙ちゃん、どうかしたの?』
部屋の外から、また葵さんの声が聞こえる。私は慌てて部屋の扉を開けた。ギャルソン姿ではない、私服の葵さんが心配そうに私を見ている。
「す、すみません」
「いや。………声が震えてるように聞こえたから、何かあったのかと思って。大丈夫?」
何故か少しだけギクッとした。葵さんは勘が鋭いようだ。
「はい。えっと、部屋の片付けに少し手間取っちゃっただけです」
「そう?………なら、良いけど」
「はい、すみません」
「………ううん、謝らなくていいよ。僕が勝手に心配しちゃっただけだからさ~」
まだ何かあるのではという表情だったが、私の答えを聞くと、葵さんはすぐにいつもの調子に戻る。
私は、どうしてか分からないけれど、止まらない激しい心臓の音を彼に聞かれているような気がした。それに、先程の出来事を他の誰かに知られるのではないかと焦りを感じて、そしてそれを葵さんに気づかれたくなくて、私は振り切るようにして下の階に降りていった。
それからというもの、食堂でご飯を食べていても、萠さんの家事の手伝いをしていても、居間にあるテレビを観ていても、私は実際に烏に襲われた時よりも、あの出来事に強い恐怖を感じていた。
本当は、小太郎くんに烏の正体や彼が烏達に何をしたのか聞いてみたい。でもそれを知ってしまったら、私の中の何かが暴かれるような気さえしてしまう。彼はあの時、知りたいなら教えてあげると言ってくれたが、今の私にそれを聞く為のそんな大きい勇気は無かった。知りたい気持ちとは裏腹に、恐怖の方が私の思考を占めていく。やはり私は、なかなか一歩を踏み出せない。
部屋の荷解きも終わり、学校に行く事も無い私は、この家で何をしようかと考えていた。一応近くの高校に編入したらと、母は言ってくれたが、私にはまだ忘れられない出来事があって、それが学校への、いや学校が怖い訳では無いのだが、私の中にあるその恐怖を募らせていた。だから暫くの間は、萠さん達のために私の出来ることをしようと思った。
まずとりあえずは、家事を手伝う事にした。この家の生活の軸は、萠さんである。時々葵さんに頼むこともあるが、食事を作るのも、お風呂を準備するのも、掃除や洗濯、その他の雑用等も殆ど萠さんがしている。それに加え、喫茶店の店番もしているのだから、相当な労力だ。あの小さな体の何処にそんな力が宿っているのか不思議だが、居候の身で何もしない訳にはいかない。今はこれ位しか思い付かないが、また何か出来る事を見つけられたらしてみよう。私は、少しでも彼等の役に立ちたかった。
その日の夜、私は昨日と同じようにお風呂に入って、萠さんにお休みの挨拶をし、自室で眠りについた。でも、数時間ほどで目が覚めてしまった。夕方からずっと自分の不安について考えていたから、きっと興奮していたのだと思う。なかなか寝付けず、何度も寝返りを繰り返す。この部屋には一応ガスストーブが置いてあるが、寝る時は電源を切ってしまうし、まだ夜は随分冷え込むので、寒さで顔が少し痛かった。でも、そうやってもぞもぞ動いていると、次第に瞼も落ちてきて、私はやっと眠れると思って目を瞑った。
ギシッ。唐突になった音に思わず意識がいく。それはこの部屋に居れば、この家に居れば必ず聞く音。
ーー誰か、………廊下を歩いてる?
この家で廊下を歩く際に必ず聞こえる、床が軋む音だった。音は小太郎くんの部屋の方から私の部屋の前を通り、階段を降りて行く。何故か気になってしまった私は、ベッドから出ると、側に掛けていた上着を羽織って、部屋の扉を開けた。
ーー………小太郎くん?
一瞬だったので確かではないかもしれないが、階段を降りていったのは小太郎くんだった。トイレにでも立ったのだろうか。いや、それにしては格好が違う。
彼は普段、黒い服を着ているが、寝る際は白いパジャマを着ている。お風呂から上がってきた時に見かけたので、きっと当たっているはずだ。あの白いパジャマなら、電気の付いていない暗闇の廊下でも直ぐに分かる。しかし、今階段を降りていった彼は、普段と同じ黒い服。しかも上着を着ている。どう考えてもただトイレに立った訳では無い。
ーー………何処かにお出かけでもするのかな。でも、こんな時間に一人で?
足音は階段を降りきり、そのまま一階の廊下を歩いていく。いや、歩いていると言うよりも早歩きと言うか、少しスピードがあった。気になった私は、そのままの姿で彼の後を追いかける。と言っても、気付かれないようにそーっとだ。なんだか気づかれてはいけないような気がした。
小太郎くんは勝手口から出て行った。この家は、喫茶店の入口と一階食堂の勝手口、そして店の路地裏に面した玄関の三つの出入り口がある。そのため、開店中は勝手口か玄関のどちらかで出入りをするらしい。萠さんが開店中はそうして欲しいと、この家の構造を説明してくれた時に言っていた。小太郎くんが普段どちらの入口を使っているのかは分からないが、普通に考えて玄関だと思う。でも、彼は勝手口から出て行った。
ーーなんで玄関からじゃないんだろう?
前々から述べているように、この家は木造建築な上に古い。それなりには頑丈なので少しなら平気だが、大きな音や衝撃があると直ぐに分かる。玄関は引き戸。しかも古いので、開け閉めする度にガラガラと大きな音がする。でも、小太郎くんが出て行った勝手口は扉で、比較的開閉時の音は少ない。それだけ彼は、物音を立てないようにしているという事だ。
そう考えると、小太郎くんが何処に行こうとしているのか気になる。小学生の男の子がこの時間に出かけているという心配よりも、彼が何処に向かっているのかという好奇心の方が私の中で勝っていた。正直、ごめんなさいと少しだけ思った。
玄関から自分の靴を取り、彼と同じように勝手口から外に出た。出た途端、夜の凍えるような寒さが全身に纒わり付く。住宅ばかりなので、殆どが眠りについた街は静寂に包まれていた。しかし、そこでよく分からない事が一つあった。
ーー何だろう?これ………。
周辺、いや恐らく街中に何故か分からないが、霧のような、靄のようなものが薄らと立ち込めている。しかもその謎の靄は、少しだけ赤みを帯びていて、そしてなんだか胸がおかしくなるような、もやもやするような違和感を感じさせた。
少し不安になったが、今はそれよりも小太郎くんが気になる。この変な靄の中ですら出かけていく彼が一体何処に行くのか、私は尚更気になった。
遠くの方で表では無く、裏通りを行く彼の姿が見えた。足取りは先程よりも速かった。彼に気付かれないように、電柱や塀に隠れながら後を付ける。尾行なんて初めてだったが、体力の無い割にはいいかもしれない。案外上手くいくものだと、そう思った時だった。
「あっ………!」
突然小太郎くんが走り出した。それはもう物凄い速さで街中を駆けて行く。思わず声が出てしまったが、直ぐに彼の後を追いかけた。しかし、その尋常でない速さと日頃の運動不足が祟って、ついに小太郎くんの姿は靄のかかる闇の中へ消えてしまった。
ーー小学生の時って、あんなに脚の速いものだったかな?
ゼイゼイ息を切らしながら、私はゆっくりと小太郎くんの走って行った方へ歩いて行く事にした。肺よりも心臓が痛くて、思わず胸に手を当てる。寒さで冷たくなってきていた体が、走ったおかけで少しだけ温まった。
ーー追いつけるかな………。
少しだけ不安が過ぎる。でももう帰り道も分からないし、小太郎くんはいないし、とにかく進むしかない。まるで洞窟の中を歩いている様だった。
ーーなんで付いてきちゃったんだろう………。
今さら後悔しても遅い。でも、今の私にはそんな考えばかりがグルグルと回っていた。いつもそうだ。何かした後にその重大さに気が付く。進むしかないと分かっていても、いつも何だかんだで知らない振りをする。今は物理的だから、目を背けたって意味が無いけど。
暫く歩いてみたが、小太郎くんの姿はやはり見当たらない。完全に迷子になった私は、何か持ってきていないかと上着のポケットを触った。
「あっ、………スマホ」
幸運な事にスマホが入っていた。
ーーこれでお店の場所を検索すれば、家に帰れるかもしれない。
そう思って取り出そうとするが、悴んだ手のせいでポケットからスマホを落としてしまった。少し遠くに滑り落ちていくスマホ。私はそれを拾おうと、その場にしゃがみ込んだ。スマホを手に取り、何となく前方を見る。
「………?」
何かがいる気配がした。私はそのままの体勢で辺りを窺う。今だ赤みを帯びる靄。静まり返った街。
ーー気のせい、………かな?
そう思って立ち上がった瞬間、何かが物凄い速さで近づいて来るのを感じた。
「ッ!」
慌てて振り返ると、私と同じような大きさの黒い影がこちらに突進して来るのが見えた。しっかりとした四本脚で大地を踏みしめ、その大きな体を左右に揺らしながら向かってくる。口なのか何か分からないが、体から強風のような空気の塊を吐き、その度、これまた大きく突き出た肩が上下に揺れている。種類は分からないが、その黒い影は獣の姿で、そして。
「ッ!!!」
あのおぞましい赤い二つの目で、私を真っ直ぐ見つめていた。瞬時に夕方の出来事がフラッシュバックする。心臓がどくどくと血液を送り出し、体全身に激しく躍動を鳴り響かせる。烏の比では無い、大きな恐怖が私に押し寄せてくる。
ーーどうしようどうしようどうしよう。
またその言葉が脳内で繰り返される。驚きと混乱と恐怖で体がびくともしない。と言うか、もはや私の中にこの場から動くという選択肢は無かった。完全に固まってしまっている。
ガァルル。黒い影が喉を鳴らす。赤い目が光っている。どんどん距離は縮まる。しかし私は。
ーー………このまま死ぬのかな。
身の危険が迫っているというのに、悠長にそんな事を考えてしまう。今まで起きた色々な事が走馬灯のように頭の中で再生されて、「ああ、このまま死んでもいいかもな」等と他人事のように思った。そしてあの烏は、私に死を告げる為にやってきた使者なのだと思った。
「お前も、………私を呼んだ?」
そう、影に呼びかけた時だった。とても眩しい白い光が、私と影を割くようにいきなり真上から降ってきた。
「んッ!!!」
地面が割れるようなドゴンという音を立てる、そのあまりの衝撃に、私は後方に吹き飛ばされた。弾みで持っていたスマホは勢い良く地面に叩きつけられ、画面やら何やらが大きく音を立てて割れた。鈍い痛みを体の端々から感じながら、力を振り絞って光の方にゆっくりと目を開けた。
「ここに居たのか、デカ物」
ーーっ!
「小太郎くん、?!」
そこには、私がずっと探していたその彼が立っていた。