参月目
※誤字脱字等ございましたら、ご連絡ください´•ᴥ•`
その日の夜、私は死んだように眠った。
一度に色々な事が起こり過ぎて、体が安らぎを欲していた。だから、部屋に用意されていたふかふかのベッドが視界に入った瞬間、私は無意識に倒れ込んで、そのまま眠ってしまった。
結局のところ、あの恐ろしい烏が何であるのか、小太郎くんがあの烏に何をしたのか、それ等は全く分からなかった。というか、私が教えて貰うのをすっかり忘れていた。
自己紹介が終わった後、小太郎くんが葵さんに散々いじられているのを見ていたら、萠さんが作ってくれていた夕飯が出来上がったので直ぐに夕食をとった。
飲食店を経営しているだけあって、萠さんの料理はどれも美味しかった。というか、烏に追われて走り回った私にとって、温かい食事は美味の何物でもなかった。私が夢中で食事をしているので、萠さんは花が咲くように笑って「沢山あるからいっぱい食べてね」と言ってくれた。家にいた時も勿論母の料理は食べていたが、それとは違って、なんだか優しさというか、人の温かさをとても感じた。
夕食をとった後、とてつもない睡魔に襲われていた私を見て、萠さんがお風呂と部屋の場所だけ教えてくれた。特別広い建物では無いが、明日また詳しく中を案内してくれるらしい。萠さんは、可愛い上になんて気遣いの出来る人なんだろうと思った。同じ女性なのか疑ってしまう、主に自分に。
お風呂場に向かう途中、葵さんに会った。私の両手がタオルや着替えで塞がっていたので、代わりに扉を開けてくれた。そこにちょうど小太郎くんが通りかかったのだが、葵さんが風呂を覗こうとしているのではないかと言って、思いっ切り睨み付けていた。本人は、「僕は紳士だから、助平な事はしない。するとしたら本当に好きな子にだけだよ。ね、亜莉沙ちゃん」と謎の同意を求めてきたので、丁重にお断りしておいた。
それから無事に入浴し終え帰還した私は、最初に述べたように睡眠という微睡みの世界を堪能したのだった。
翌朝、下の階に降りていくと、すでに小太郎くんは登校した後だった。小学生のようだから、朝が早いのは当然のことか。食堂に行っても誰も居なかったので、お店の方に行ってみると、萠さんが開店の準備をしていた。
「お、おはようございます」
私のガサガサ声に、カウンターの中で何かの作業中であった萠さんが振り返る。
「おはよう、亜莉沙ちゃんっ。良く眠れた?」
「はい、おかげさまで。すみません、昨日はそそくさと寝てしまって」
「いいのよお♪沢山移動して疲れたでしょう?眠れたのなら良かったわ」
まだ少し眠たい目に、綺麗な金髪が朝日のように輝いて見えた。
「さ、朝ご飯にしましょうねえ~。わたしはもう食べ終わっちゃったけど、ゆったりしてていいからねっ」
そう言って、食堂に誘われ、あっという間にホカホカのご飯が出される。ぐっすり眠って、朝起きたら天使みたいな可愛い人に出会って、温かい朝食をとれる。ああ、なんという至れり尽くせりなんだろう。
変な感動をしながら、ゆっくりと朝食をとる。
食堂には、細かなデザインの入った細い足の木製の大きなダイニングテーブルがあり、それを囲む様にまた足の細い高めの椅子が六つ並ぶ。
外国の家庭を思わせるような広いカウンターキッチンは、壁が一面タイル張りで綺麗に磨かれた瑠璃色がキラリと光っている。ここからでは少し見づらいが、枠が四つもある大きな黒いコンロの下に、ターキーが焼けそうな、これまた大きなオーブンが付いている。ステンレスでは無い、おそらく陶器製なのか、やけに白いシンクから綺麗なカーブを描いた首の長い蛇口が出ていて、横のスペースには先程洗われたのか、濡れたままの食器が並べられていた。
萠さんは、きっと西洋風というか、ヨーロッパ系の国々のものが好きなのだろう。古い物が多い印象だが、とても手入れが行き届いていて、どれも凄く綺麗に見えた。
「ふああ~、眠っ………。あれ、亜莉沙ちゃんだ~おはよぉ~」
キョロキョロと部屋を見回していると、大きな欠伸をしながら葵さんが入ってきた。とても眠たそうにしている。
「おはようございます」
「朝早いねえ~」
彼はそう言うが、時刻はとっくに午前九時を回っている。別に早くはない。
「あら、アオちゃんも起きてきたの」
そこにちょうど萠さんもやって来た。私の様子を見に来てくれたらしい。葵さんの分の朝食を用意しつつ、私の使った食器も洗ってくれる。
「あの、何か手伝います」
さすがに申し訳無い気持ちになってきたので、萌さんの側に歩いて行った。
「いいのよ?ゆっくりしてて」
「いえ、色々して貰ってるので何かしたいんです」
「そう?………じゃあ、アオちゃんにお味噌汁出してくれるかしら?もう温めてあるから、そこのお鍋から隣のお椀に容れて?」
にこりと向けられた笑顔に、何故か少しだけ嬉しくなった。
「はい、分かりました」
鍋に近寄り、蓋を開ける。先程まで自分が食べていた物だが、特別な物のように思えた。お椀にお味噌汁を容れ終え、テーブルの方に振り返ると、椅子に座る葵さんがニヤニヤとこちらを見てきた。
「わあ~いいなあ~、女の子が僕の為にお味噌汁を持ってきてくれるなんて。まるで新婚さんみたいだよねえ~」
脳は彼の方に近づこうとしているが、足はとても彼から離れたがっていて、動きが鈍くなる。
「そ、そうですか………」
萠さんは毎朝これをしている様だから、毎朝新婚さん気分なのではないかとも思ったが、葵さんの視線がとても辛かったのでとりあえず相槌だけうって、素早く萠さんの元に戻った。
「あっはは~、亜莉沙ちゃんは可愛いなあ」
私の気も知らないで、ヘラヘラと笑っている。この人はいつも楽しそうで、逆に羨ましい。
「あ、そうだ。亜莉沙ちゃんは、今日はどうするの?」
蛇口をキュッと止め、タオルで手を拭きながら萠さんが聞いてくる。
「今日は、荷解きしようと思います。昨日はすぐ寝てしまったので、全然片付いて無くて」
「あっ、そうよね、荷解きがあったわよねっ。アオちゃんも起きて来たし、お店任せてお買い物にでも行こうと思ったんだけど………。また今度の方が良さそうねっ」
私が洗い終わった皿をタオルで拭き、それを萠さんが戸棚に仕舞う。萠さんの気遣いが嬉しくて、無駄にテンションが上がった。
「じゃあこれが終わったら、とりあえず家の中を案内するわね♪」
「すみません、忙しいのに色々考えて貰って」
「いいのよお~、別にお店も昼間は忙しくないし」
それはそれでどうなんだろうか。喫茶店は、昼間が一番忙しいものだと思う。
「ふふっ、じゃあ最後のお皿を仕舞って、と。アオちゃん、食べ終わったら自分で食器洗っておいてね~」
「りょ~うかいです」
まだ少し眠たそうな葵さんを置いて、私は萠さんに家や店の中を案内してもらった。
この家の構造はとてもシンプルだった。一階は、喫茶店のスペース、食堂、居間、和室、お風呂やトイレなどの水周りがあり、二階は各々の自室が中心で、萠さんには自室とは別に書斎がある。部屋の造りも色々あって、私の部屋は洋室だが、小太郎くんの部屋は和室らしい。他にも使っていない部屋が幾つかあって、気に入った部屋があれば好きに使って良いと言われた。
この家は、元々宿泊施設として使われていたらしく、部屋数が多い。持ち主が萠さんになった時に、一階の待合室を喫茶店に改装したそうだ。
ひと通り説明し終わると、萠さんは店番をしに下の階へ降りていった。
それから、どれ位の時間が経っただろうか。私は、ずっと部屋で荷解きをしていた。
途中、ギャルソン姿の葵さんが私を昼食に呼びに来てくれて、食堂で一緒に昼ご飯を食べた。テーブルは広いのに、何故か隣に用意されていて、無駄に距離が近くて、とても食べにくかった。
昼食を取り終えて、朝のように食器を片付けて、私はまた荷解きをした。元々そんなに物が多い方では無いのだが、物持ちが良いので懐かしいものが出てくるとつい見てしまって、なかなか整理が進まなかった。
日が傾いて来た頃、下の階から誰かが階段を上がって来る音がした。部屋の中の音は聞こえづらいが、建物が古いのでやはり廊下などの共有エリアでの動作音は、直ぐに分かってしまう。
「………何」
ふと気になったので廊下へ出てみると、ランドセルを背負った小太郎くんに出会した。私が何も言わずに見つめるので、少し睨まれた。
「えっと、………おかえりなさい」
「………うん」
無愛想に返事をして、小太郎くんは私の部屋よりも一つ奥の部屋に入って行った。おそらく、そこが彼の自室なのだろう。
小太郎くんは、とても不思議な子だと思う。人格とか、行動とか、そういう事もあるけど、まず見た目が不思議だ。
昨日初めて会った時もそう思ったが、小太郎くんはとても綺麗な容姿をしている。ツヤのある黒髪で、前髪が少し長めな以外は結構さっぱりした髪型をしている。瞳はパッチリとした二重で、睫毛が長く黒目が大きい。肌は白く、子供だからか体付きは華奢だ。背丈は特別高いわけでは無く、年相応に普通くらい。パッと見、美少年と言われても可笑しくはない。でも、服装が不思議だ。
彼は、全身真っ黒の服を着ている。上は黒いシャツで、下は黒の短いズボンに黒いベルトを締め、黒いハイソックスと黒の革靴を履いている。昨日は外で会ったので、上にコートを着ていたが、それも黒だった。とにかく全身が黒い。まるで葬式にでも出るかのような格好をしている。でも今見たら、ランドセルだけは黒ではなく茶色というか、グレーの混ざったような艶のある茶色だった。
今までの印象だと、好き嫌いがはっきりとした性格で言葉遣いは悪く、少しというか大分無愛想だが、無口なわけでは無い。少しばかり恥ずかしがり屋のようだったけど、でもちゃんと受け答えはする。そういう所は、少し可愛いと思う。
でも、一番不思議なのは、やはり昨日の烏との事だ。彼よりも年上の私があんなに怖い思いをしたのに、小太郎くんは私を助けてくれて、此処まで連れて来てくれた。確かに只者では無さそうだったが、まだ小学生の彼に何の力があると言うのか。
それに、葵さんと会話していた時のあの言葉。『喰われる』、『視える』とは、一体どういう意味なのだろう。どちらにしても、私へ向けられていたのは確かだと思う。
『この人、視えるっぽい』
脳内で昨日の小太郎くんの言葉が再生される。『視える』というのは、あの烏が『視える』という事だろうか。
では、あの烏は何なのだろう。最初は一羽だけだったが、目が赤く光った後、数え切れないくらいの大群と化していた。
「目が、赤く………」
ーーなんだろう………何処かで見たような………。
烏の目が赤く光った。そこから全てが変わった。いや、もしかしたら、異変があったのはそれより前かもしれない。駅前にいた時、烏は完全に私を見ていた。そして、私がその存在に気が付くと、誘導する様に動いた。
『喰われそうになってたから』
また、脳内で小太郎くんの言葉が再生される。
『喰われる』とは。そもそも『喰われる』とは、何だ。単純な私に複雑なことは分からない。でももし、言葉の意味がそのまま当てはめられるとしたら、一体。
ーー何が、何を、どうやって『喰らう』?
もう少しだ。あともう少しで何か分かりそうだ。だが、私の使えない脳では考える能力が足りない。でもとにかく、あの烏が私にとって良くないものであることは確かだった。
ーー私に、恐怖を、悲劇を呼ぶもの。
ならばあの烏は、本当は見えてはいけないものなのではないか。
ーーあの烏が『視える』ことは。
ーーあの烏に『喰われる』のは。
ーーあの、『烏』は。
「ッ!!!」
そこまで考えを巡らせた時、窓の外でバサバサと何かが飛び立つ音が聞こえた。部屋に付いている唯一の窓に視線を送る。
「………」
時刻は夕方になろうとしていた。胸が焼けるようなオレンジ色の光が、薄暗い部屋に差し込んでいる。
「………」
見ている。
窓の外から。
こちらを、私の存在を見ている。
「………」
いや、視える。
私の目に、『視える』のだ。
「………烏」
私を『喰らう』、赤い眼を。