世界が終わるその前に
寒空の下に足音だけが響く。
ステンレス製の外階段の音がこんなに響くなんて知らなかった。
あんなに人がいたこのオフィス街は一足先に終焉を迎えたかのようにしんと静まり返っている。
人が居ないどころか電気すらもついていない。
いつも通りドアを開けても受付嬢の姿はなく、ただただがらんどうのロビーがあるだけ。そこを通り過ぎていつもの如く角を曲がって、いつもの如く二つ目のドアを開ける。
「おはよう、羽鳥くん。……よく来たね」
そこには驚いた顔の課長がいて。
「おはようございます、課長。……来てしまいました。」
そう言ってニコリと笑えば、課長はほっとしたようなでも少し悲しそうな、そんな顔した。
「まさか他に来る人がいるとは思わなかったな。来てくれてありがとう。お陰で一人で終末を迎える必要がなくなったよ」
そういう課長はやっぱり少し、いつもより表情が柔らかくて。
「私も、一人で迎える事にならなそうで良かったです」
そう、私たちは今日ここで世界が終わりを迎える。
世界が終わるその前に
「さて、何をしようか」
結局時間になっても誰も来なかったので課長も私が2人きりだ。当たり前だけど。
正直やる事なんてないのだから。仕事の依頼もこないから仕事なんてないし。
「そうですね。とりあえずお茶入れましょうか。コーヒーで良いですよね」
「ああ、そうだね。悪いけど入れてもらっちゃおうかな」
「じゃあ、お湯沸かしてきますね」
「やっぱり緑茶でお願いしてもいいかな?」
「え、ええ。いいですよ?」
「ありがとう」
ビックリした。課長はいつもコーヒー飲んでいるから。お茶を飲んでいる所なんて見たことないぐらいに。
給湯スペースもいつも通りだった。乱雑に置かれたいろんなものの中から何とかお茶葉を取り出す。普段飲まないから多少探すハメになった。
やかんの音が鳴る。いつもよりよく響く。
「こんな音鳴るんだな」
「そうですね」
知らなかった訳じゃない。いつも聞いていたはずだ。それなのにいつもと違うように聞こえるのは何故だろうか。
「下北沢が聞こえずらいとか、さんざん言ってたけどなぁ 」
そうですね、と同意し損ねて言葉を飲み込んだ。まるで独り言のように課長の言葉が小さくて返答しずらかったから。
なぜかとても良く、聞き取れてしまっただけで。なぜ、なんて理由は自分が一番分かってるけど。
「どうぞ」
そう言ってお盆から一つ湯のみを下ろす。
湯気が顔を近づけた課長の眼鏡を曇らせた。
課長の前の時雨さんの席に勝手に座る。いいよね、どうせ来ないし。もう二度と。
座ると乱雑に積まれた資料の向こう側に課長が見えた。まるで困ったかのような顔をしてお茶を飲んでいる。いつもはここに座らないからなんだか新鮮。
「……なんだ?」
「いえ、なんだか困ったような顔をしているので。……お茶入れ直してきましょうか?」
私は普段、お茶を入れたりなんかしない。家では面倒を省くために年中麦茶だし、職場ではいつもコーヒーだ。だから緑茶を入れるのは少し自信がなかった。新人の頃にしか入れた記憶がなかったから。
「いや、美味しいよ。家内が入れたものより、よっぽど」
そういう課長は寂しそうに目線を下に落としてお茶をすすいだ。
「そうですか」
なんとなく開いた間が怖くて、ぽつりと肯定でも否定でもない言葉を返す。課長は聞いてほしくて、でも言いたくないのだろう言葉の続きを紡ごうか迷っていた。
「お茶、入れるの大変ですよね。コツとかがありますから」
私はずるい。
「すまないね、そんなものを頼んでしまって。コツ、か。羽鳥君はどのようなところを気にして入れるんだい?」
言いたくないであろう言葉を聞きたくて、こうして聞き出そうとしている。話せば話すほど、課長が傷つくことを知っているのに。
「そう、ですね……母の真似、ですかね。実家が和菓子屋なんです、私。だから両親はお茶入れるのが上手だったんです」
私はあんなに手を尽くして人をもてなせない。せいぜいお茶を入れるくらいだ。
それでも。幼少期からずっと見てきたのだ。やろうと思えばある程度のことは出来る。普通の人よりは上手くできると自負してる。
「そうかそうか、親御さんの教育の賜物かぁ。そりゃあうまいよなぁ」
課長はまるで独り言のようにそういう。いやきっと独り言なんだ。私が課長の話が聞きたくて、聞いているだけで。
「お茶一つでこんなに喜んで頂けると、きっと私の母も喜びます」
課長が、話をしてくれるもんだから。私はついつい欲張りになってしまう。課長に聞きたい言葉をいわせようとしてしまう。
「お世辞じゃなくてな、本当にうまいよ。家内はこんな風にお茶をいれないからね。いつももっと薄いんだ」
「……そうですか」
欲しい言葉を、貰ったくせに。私はあまり嬉しくなかった。何故なら課長が愛おしそうに覗いたそのお茶はきっと私が本来入れたものよりも色が薄いのだろうから。
「しかし、本当に何するかな。何をしても何にもならないけど、何もしないというのも暇だしなぁ」
窓を見ながら課長がいう。私はこうして課長と話していられればいいのだけど、きっと真面目な課長はそうではないのだろう。
「羽鳥くんが良ければ掃除でもするか。どあせ、無駄になってしまうのだろうけど」
課長は少しだけ済まなそうに提案をだす。きっとこんな最後の日に仕事なんてさせたくないのだろう。
「それでいいですよ。それに、掃除が無駄になってしまうならほかの人たちがしていることもきっと無駄ということになってしまいますし」
私は課長と一緒にいられるのなら、なんでもいいのだし。
「そうか。それじゃあやってしまおうか。といっても個人の私物が無いところだけ、になってしまうけど」
「綺麗にするのが目的じゃないのですし、それでもいいと思うますよ」
「そうだね。所詮は世界が終わるまでの暇つぶし、か」
掃除が暇つぶしなんてとても不思議だ。掃除なんて今までやらなくてはいけない義務だったのに。
それが、世界が終わるということなのか。
「そうだね、それじゃあ掃除道具を持ってこようか。すまないが場所を教えてくれないか」
「あ、私持ってきますよ」
「いやいや今日ぐらい私もやるよ。今日は出来るだけ上下関係なんて無しでいこう」
「それじゃあ、よろしくお願いします。こっちです」
課長の言葉に一気に距離が縮んだ気がした。
掃除は思ったよりも順調だった。私は掃除している時の無言が気にならないし、むしろ集中出来るから好きだ。だけれども今回は暇つぶしだ。どうせなら少しでも楽しくやりたい。ということで課長と世間話しながら掃除をすることになっていた。
「え、課長柿ピーが好きなんですか」
「柿ピーが好き、というよりはあれに入っているナッツが好きかな。」
「わかります、あれ美味しいですよね」
なんて、たわいのない話。たわいのない、くだらない個人の話だ。課長とはこういう話を今までしたことが無かったから、面白い。きっと世界が終わらるなんていうことにならなければこんなことにはならなかった。
「おっ、羽鳥くん。ちょっと来て貰えるかな」
「何でしょう課長」
「いやずいぶんと古いラジオを見つけてね。これ、動かし方分かるかい?」
そういって見せられたのは言われた通りずいぶんと古そうなラジオだった。そもそもの話、ラジオというもの自体がずいぶんと古い。今どきテレビだって、小型機から空中に投射して見てみるものなのに。ラジオ局とかは災害時用とかなんとかで残って入るし、携帯端末にラジオ機能はついているから使われてないってことはないのだけど。それでもラジオしか機能の着いてないもの、というのは今は見ない。
「どうやら災害時用にとっておいたみたいだ。乾パンやら救急箱やらと一緒にあったから」
なるほど、それなら納得が行く。
「だけど俺では動かし方がわからなくてね。どうせだから聞いてみたいと思ったのだけど」
「ちょっとみせてください。もしかしたらわかるかも知れません」
見せてもらうと簡単に電源は分かった。ただ手回し発電で電気を通すらしい。こんなこと初めてするねと言って、2人で順番こに回した。ずいぶんと回したから、多分電気が足りないということはないと思う。それにしても2人で並んでいるもんだから、ずいぶんと課長との距離が近い。
「それじゃあ、電源入れてみようか」
『……皆さん!!!!げんきかーい!!!こちら○○ラジオ出張所!36ビルに来ています!!!』
ラジオの向こう側はたいそう盛り上がっているらしい。わいわがやがやと人々の雑音が交じる中、たいそうテンションの高いお兄さんが声を張上げてラジオ放送している。どうみても素人だ。だけどとても楽しそう。
「36ビルってのはどこのビルか、分かるかい?」
唐突に言われて驚いた。36ビルといえば、女性ファッションを中心とした東京の有名なビルの名前だ。確か今日は無料で服を販売するらしい。いや、販売というのは可笑しいか。ビル全体を無料開放するらしい。もうそこには店員さんもいなくて、好きで接客をしたい人は接客して、着たい服を貰っていくシステムらしい。行きたいといっていた友人からそう聞いた。もしかしたら彼女もラジオの雑音の1部なのかもしれない。
「東京の女性ファッション用ビル、だったと思います。今日はビルの無料開放するとかなんとか」
「服を御自由に持って行ってどうぞ、みたいなことを言っていたのはここかい?」
「はじめに言い始めたのはここですね。真似して同じことしてる店舗もあるみたいですが」
「そうか。しばらくこのチャンネルでもいいかい?」
「……いいですよ?」
女性ファッションビルなのに?
ラジオを聞いていても女性ばかりだ。男性はラジオをやっている兄さんだけ。
「いいですけど、課長これ聞いていて、楽しいですか?」
「うーん、どうだろうな。」
そんな、曖昧な返事。どこか上の空。まるで課長がラジオに吸い取られてしまったみたいに。
私はここにいるのに。
「じゃあ男の人がいるようなチャンネルにしましょうか」
「いや、いいよこのままで。男物では羽鳥くんもつまらないだろう?」
そういって私を気遣う素振りを見せるけど、きっとそうじゃない。
「探してみたら案外2人で聞ける面白いものがあるかもしれませんよ」
「もしかして、羽鳥くんはこのチャンネルじゃいやかい?」
「いえ、そういう訳では」
本当は少し、嫌なのだけど。
「ならいいんだけど。すまないがもし良かったら、もう少し聞かせてもらっていいかい?」
「いいですよ」
課長にそんな顔で言われてしまったら、私は断れない。
「私の友達、今日そこにいるはずなんです」
だから私は、課長の意見に賛成出来るような、理由を作る。
「その友達と一緒に行かなかったのかい?」
「私、賑やかで人多いの苦手なんです」
だったら私は課長と二人、他に誰もいないこのオフィスビルがいい。
「分かるよ、私も賑やかなのは苦手でね。いつも引いてしまう。よくそれで家内に怒られたよ」
「そうなんですか?」
「あぁ、それで呆れられてしまってね。今日は誘われもしなかった。多分、家内は今日このビルに来ているんだろうけど」
ポツリとラジオを見ながらいう課長の背中は頼りなさげに猫背に曲がっている。
「……お茶入れてきます」
「コーヒーでお願いしていいかい?」
「分かりました」
私は結局、薄いお茶をいれなくてすみそうだ。課長のコーヒーの好みはわかってる。ブラックだ。お気に入りのインスタントの銘柄も覚えてる。
お湯を沸かしながら、課長を盗み見ると、相変わらずラジオを前に項垂れていた。
私達以外いないこのビルは差し込む光も少なくて、とても静かだ。あんなにうるさかったプリンターの音もなければ、隣のビルの声もしなくて。聞こえるのは雑音混じりのラジオの音だけだ。
ラジオの音が弱くなると、発電機を回して再び聞いていた。掃除の途中だったのに、それさえも忘れていた。
ポットが沸騰したことを知らせる音に驚いて、急いで火を落とす。
コーヒーの作り方はもう、体が覚えてしまった。勝手に体が動くものだから、ついつい頭が別のことを考えてしまう。
結局課長は奥さんに置いていかれたのが寂しいのだろうな、なんて。
そんなことを考えているうちに、勝手にコーヒーは出来上がっていた。自分の分に口をつけると、当たり前だけどいつも通りの味だった。苦い。
「コーヒー、出来ましたよ」
「あぁ、ありがとう」
課長はなんとなく受け取って、そのまま中身を口に含んでーーー舌を火傷した。
「大丈夫ですか、課長」
「あ、ああ大丈夫だ。猫舌なのをすっかり忘れていたよ」
「それなら、良かったです。拭くもの、持ってきますね」
こぼれた分は少ないけれど、あったほうがいいだろう。もしかしたらコーヒーも入れ直した方がいいかもしれない。使ってしまえ。どうせ今日で使いきれないぐらいにはまだあるはずなんだから。
「羽鳥くんすまないね」
「いいえ、これくらいのことなら全然大丈夫ですよ」
本当にこれくらいぜんぜん大丈夫だ。むしろ、どんな時でもコーヒーはすこしだけ冷まして飲んでいた課長がいきなり口つけた方が心配だ。どれだけ心ココにあらず、なのか。
「ありがとう」
少しだけ、課長が口角を上げてそういうだけで、私はもう何倍にもなるお返しを貰えている。
結局そんな騒ぎで冷めてしまったコーヒー
を入れ直した。課長は勿体ないとか言ってたけど、今日で終わりですよといって納得させた。どうせなら美味しいものが飲みたいし、美味しいものを出したい。
ラジオは更に盛り上がりをみせて、どんちゃん騒ぎになっている。まるでお祭りみたいだ。いろんな人が入れ代わり立ち代わり、楽しそうに喋っている。人が変わる度に課長は気を引き締めて、奥さん出ないことに落胆している。
お祭り騒ぎはどんどん盛り上がりをみせていて、一体どこまでいくのだろう。
「そうか、もう終わるのか」
課長がポツリと時計を見ていう。つられて時計を見れば、なるほどあと十分で世界が終わるとされた時間だ。ラジオの向こう側ではいつの間にかどこか広い場所に移動して、カウントダウンを始めていた。
「羽鳥くん、今日はきみがいてくれて良かったよ」
「私も課長が来てくださっていて、良かったです」
コーヒーを片手に私達は話しだす。
賑やかでさわがしいわけじゃない。お祭り騒ぎなわけじゃない。
ラジオの向こう側ではなくて私たちはここにいる。
毎日通ったオフィスビルにいる。
ここで毎朝課長に会った。
初めての仕事で大きなヘマをした時に一緒に頭を下げてくれた課長。
仕事でつまづくと、一緒に悩んでくれて。
あぁ私は上司に恵まれたんだな、とその時に思って。
コーヒーを入れるといつもありがとうと言ってくれる課長。
いろいろな課長がこのオフィスビルにいる。
世界が終わるというのなら、最後にいるのはここが良かった。
行ったことのない、煌びやかなビルよりも。知らない人とどんちゃん騒ぎするよりも。
ここでひっそりと終わる方が良かった。
その方が私らしいと思ったし、その方が好きだったから。
そして私はひっそりと一つ、大きな賭けに出た。
終末に向けて、本当に大切な人と過ごす人が多くなった。そんな時に一人でいるのはきっと居場所のない人なのだと思う。例えば、夫婦仲が良くない、とか。
だから、もし、万が一、今日ここに課長が居たらーーー
「課長」
ラジオはもう無秩序に人々の叫びを伝えている。
世界が終わらないように、だとか。世界が大好きだ、とか。皆大好きだ、とか彼氏のことが大好きだ、とか。感謝の気持ちとか、もう既に遅い懺悔とか。
だから私もそこに便乗しよう。
「一つ、良いですか」
『あと、一分!!!』
ラジオが世界が終わるまでのカウントダウンを始めた。
多くの人達が一緒になって、時を叫ぶ。その声はまるで私の背中を押す、声援のよう。
『40!39!』
刻み始めた時は戻らない。多くの後悔がある人やまだ終わりにしたくない人には悪いけど、私にはそれがとても都合が良い。
『24!23!』
「羽鳥くん、どうせだからカウントダウンぐらいするかい?」
『20!19!18!』
鼓動が早い。
時間がゆっくり過ぎていくような、そんな錯覚。
「いいえ。」
『12!11!ーーー10!!』
課長は奥さんのことが大切なんだろう。上手く二人の関係が回っていなくとも、大切な人なのだろう。
『9!!』
私はその仲を切り裂くようなことはしたくなかった。
『8!!』
課長がどれだけ奥さんを大切にしているのかは、課長を見ていればよく分かるから。
『7!!』
でも奥さんはここにはいない。
『6!!』
奥さんにとって課長は大切な人じゃないのかもしれない。
もしそうならば。
『5!!』
私がこれからする最悪な行為の免罪符に少しはなるのではないのだろうか。
『4』
答えはいらない
『3』
ただ、聞いてほしい
『2』
世界が終わるその前に
「課長」
『1』
「好きです」
『0