3滴目 「鬼神先生というヒト」
ピリピリとした指の痛みに顔を歪ませながらも、ぼくは保健室の扉をノックした。
数秒もしないうちに、中から返事があったので、ぼくは扉に手をかけた。
「失礼します。1-Bの、榊原凛音です」
名乗ってから1歩、室内に入るなり、病院でするような消毒液の匂いではなく、甘い香水の匂いがした。
ぼくは香水とか、匂いのキツいのは嫌いなはずなのに、この香水の匂いが鬼神先生の匂いだと思うと、嫌じゃない……むしろ、好きになった。我ながら単純な嗅覚だと思う。
保健室の中を見渡すと、鬼神先生は机に向かって何かの書類を見ているようだった。
顔を上げた鬼神先生はなんとメガネをかけており、知的スキルが50ぐらい上がっていた。
鬼神先生は何かを読む時はメガネをかける。思わぬところで新しい先生の情報を入手できたので、ぼくはすかさず心のメモ帳に書き込んだ。
鬼神先生はぼくの顔を見るなり、桜井先生のような嫌味なニヤニヤ顔とは全く違う天使のような素敵な笑顔をぼくに向けてくれた。
「また怪我をしたのかい、君?」
そう言って先生が椅子から立ち上がると、先生の腰まで届く黒髪が肩から胸へとサラリと流れた。
もったいないことをしてしまった。もっと先生の近くに寄っていれば、先生のシャンプーの匂いを嗅げて、もしかしたらシャンプーのメーカーが分かったかもしれないのに……。よし、今度からは保健室に入ったら真っ先に先生に駆け寄ろう。
「……えっと……指……指を切っちゃいました」
そんな固い誓いは一旦心の片隅に置いといて。ぼくはうつむきながら先生に右手を差し出した。
余談だが、先生は背が高い。ぼくは決して背が低いわけじゃないけど、先生とは頭一つ分身長差がある。だから、うつむいてないと先生と目が合いすぎてしまって、妙にドキドキしてしまうんだ。
ぼくの人差し指はというと、赤い糸で縫ったような真っ直ぐな傷にうっすらと血が滲んでいた。
「……君は切り傷が多いな。そういえば、先週も切っていたな」
鬼神先生は苦笑混じりに自らが羽織っている白衣のポケットに手を突っ込んで、絆創膏を取り出した。
すると、いきなり鬼神先生はぼくの右手を掴み、ぼくの人差し指をぱっくりと口に入れた。
「いっ……た」
先生の舌が人差し指の傷口に触れる度に、ジリッとした痛みが指先を走る。
痛みに恥ずかしさに声を上げそうになった時、鬼神先生はぼくの指を開放してくれた。
そして、くるくるっと絆創膏をぼくの指に巻き付けると、ふわっと目を細め、にっこりと笑った。
「もういいぞ。君、怪我をしないないよう、もっと周りに注意を配りたまえ」
「……はい。ありがとう……ございます」
『ツバ付けとけば治る』それが先生……鬼神朔夜先生の信条らしく、先生はいつも何故か傷口を舐めるのだ。
本当は、ぼく以外の人にこんなことをして欲しくなんかないけど、ぼくはそんなことを言える立場じゃない。
だってぼくは……ぼくは、先生にとってただの一人の生徒で、ぼくの想いは決して先生に届く事は無いんだ。
……外側の傷はそのうち治っても、内側の傷はどんどん深くなって、化膿していく。
ぼくは予鈴に急かされながらも保健室を後にした。