姫草百合子を巡って
1人目(私)
私の恋人、姫草百合子は浮気をしている。
それに感付いていたのは最近ではない。随分前――もう三か月前になるだろうか――からずっと疑ってきた。
仕事を終え、炎天下の中を歩いて我が家に向かうと、彼女は門外で掃き掃除をしていた。
声を掛ける前に、彼女は私に気付く。
「あら、貴方。おかえりなさい。早かったのですね」
「ああ。今日は授業が少なくてね。朝言ったろう?」
「そうでしたかしら」
ほほ、と口許に手を当てて笑う。その白い手首に、赤い痕があった。私の付けた覚えのない痕。
しかし、私はそれには触れずに尋ねる。
「では、これは憶えているかい? 私は今から出掛ける」
「それは何となく憶えていますわ。杉山さんの所に訪問するのでしょう?」
「そうだ。しかし、何故それは憶えているんだ? お前は」
すると、百合子は胡桃のような瞳を瞬かせる。
「あら、どうしてでしょう。不思議ですねぇ」
百合子は言いながら、竹箒を片付け、「貴方、いつに帰ってくるのですか?」
「そうだな、日が暮れるまでには帰ろう。夕飯は一緒に食べようか」
「そうですね。――お荷物、預かります」
「あ、ああ、ありがとう」
百合子は一礼をして、家に消えていった。
夫婦のような遣り取りをしているが、私達はまだ籍を入れていない。なので、姦通罪で相手の男を訴える事は出来ない。
ならば、すべき事は一つ。私が直々に男に刑を与えるのだ。
私は家に背を向けて歩き出す。
とにかく、何をするにしても、相手を知らなければならない。
さあ、何から始めようか。
2人目(六作)
蝉がうるさい。
加えて、この暑さ! 何とかならないのか!
夏は嫌いだ。汗でシャツが肌に張り付くのは気持ちが悪いし、何をしても汗を掻くのが一番腹が立つ。
「くっそう、夏の野郎……」
泰道のとこで食らった酒が回ってきたのか、足許がフラフラする。が、これが存外悪い気分じゃない。
陽気に歌でも歌いたいが、生憎俺には歌える歌がなかった。
あ、そういえば、この前同僚が口ずさんでいたのは、あれはどうだっただろうか。
「北海道はでっかいど~! 蛙が帰る~! 微分積分いい気分~! わはははは!」
聴いた時には下らないと思ったが、言ってみると意外と気分がいい。愉快、愉快!
こんないい気分の時には、あいつの所に行きたくなる。
足の向くまま、姫草の家に行く。
着いた途端、俺はがらりと玄関の戸を開けた。
「おーい! 姫草ぁ! 俺が来てやったぜぇ!」
靴を脱ぎ捨て、ずんずんと家の中に入る。すると、ヒョイと今から姫草が顔を出した。
「あ、貴方……」
姫草の表情には、何処か怯えのようなものが混じっている。
あー、気に食わない、その顔。
「何だぁ、姫草。俺が来ちゃ、まずい事でもあるのか?」
睨みを利かして言ってやると、姫草は目を瞬かせた。かと思うと、呆けた顔を蕩けさせた。
「ああ、六作じゃあないか」
姫草が綺麗に結われた髪を解く。その行為だけで、グンと色気が上がる。
「ご婦人、ご機嫌はいかが?」
「まあまあかしらね」
「そりゃあ結構。上がってもいいか?」
「何よ、もう上がってんじゃないの、アンタ」
「くくっ、言えてらあ。そいじゃ、失礼」
少し進んで今に入ると、姐さん座りをした姫草が待っていた。
これで着物を着崩したら娼婦、煙管を咥えりゃ花魁ってとこか。
そう考えていると、姫草は妖しく笑って言う。
「旦那様ぁ、可愛がっておくれやすぅ」
「惜しい、それは京の芸者だ」
何にしろ、様になってる。
「あらぁ、うっかりしてた。ねえ、六作はどっちが好きだい?」
「抱かせてくれれば何でもいいや」
「相変わらずねぇ」
言葉とは裏腹に、どうしてか姫草に呆れた様子はなかった。
姫草は腰を下ろした俺の許にいざり、華奢な身体を委ねてきた。
「けど、どんな妾でもアンタは可愛がってくれる」
小さな口から下がチロリと覗く。
「そうでしょう?」
姫草は格別色っぽいわけではない。胸は小さいし、魅惑的とは言い難い体型だ。しかし、その気になると頭のてっぺんから足の爪先まで、世の中の女達から集めた艶で出来たヴェエルを纏ったかの如く、色っぽくなる。
姫草の瞳が俺を誘おうとする。
さァ、おいで、おいで……
これまでに幾度も拒否を試みてきた。けれど。
堪らなくなり、俺は返事を口付けに変える。
結局、俺は姫草が好きなんだ。
例え姫草が逃げようとしたとしても、俺はこいつを追い掛ける。どれだけ嫌がられても、涙を流されたとしても、俺は此奴に執着する。
ああ、なんて莫迦らしい! そして、なんと女々しい事か!
そのまま押し倒すと、姫草はにんまりと笑って見せたのだった。
そして、蝉が静かになってきた頃、やっと俺と姫草は事を終えた。
元々来ていた服は汗が染み込んでいたので、もう一度着るのが億劫だ。
周りを見ると、新しそうな黒い和服が見留められた。
それを身につけ、寝惚け眼の姫草の頬に接吻を落としてから、家を出た。
3人目(久野)
西の空が火事になったように燃えている。そろそろ、鳥が帰る時間だ。
僕も同じく帰るとしよう。愛しき百合子さんの許へ。
カフェエから真っ直ぐ百合子さんの家に来たが、いつも玄関口で水撒きをしている彼女の姿はなかった。
怪訝に思いながら、「百合子さん」と玄関から声を掛ける。返事はない。
「百合子さん?」
しばらくして、「はぁい?」と気怠そうな返事があった。
何かおかしい。
思いながらも僕は名乗り上げる。
「百合子さん、僕です、久野です」
「久野君? ちょっと、待ってて、そこで」
心なしか、その声は焦っているように感じられた。
もし、ここで僕が戸を開けたら。彼女は鶴の姿で羽ばたいていくのだろうか。綺麗に織られた織布を残して。……否、そんなファンタヂイではないだろう。では、かの鴎外氏の描いたエリス嬢が如く……。
止めておこう。あれこれ邪推するのは悪い癖だ。論理的思考を生業としているのだから、こんな根拠のない妄言は取り下げるべきだ。
言い聞かせても、ぼんやりとした不安は広がっていくばかり。
その不安にやっと終止符を打ったのは、百合子さんだった。
「すみません、遅くなって。待ったかしら?」
不自然に乱れた髪を直しながら、百合子さんは尋ねた。
「いいや。しかし、何されていたんです?」
「何を……って?」
「百合子さんはこの時間、いつも玄関に出てるじゃないですか。しかし、今日は違ったので」
「ああ……」
百合子さんの瞳が一寸揺らぐ。
「つい、うとうととしていたら、寝てしまったようなの。心配かけてしまったかしら?」
下から潤んだ眼に見つめられ、僕は反射的に「いいや、そんな事は」と答えてしまった。
しかし百合子さんは安心したように笑ってくれたから、これでよかったかもしれない。
「あっ、久野君、ずっと立ちっぱなしよね。すみません、気付けなくて。さ、どうぞ」
百合子さんが身体をずらして、奥を示した。遠慮なく、上がらせてもらう。
居間に通され、座布団の上に腰掛けていると、乱雑に脱ぎ捨てられたシャツとズボンが目に付いた。
「百合子さん、あれは?」
「え?」
百合子さんは服を手に取り、「どうして、こんな所に?」と首を傾げる。その顔は本当に疑問に思っているようである。
「……誰か、訪問者があったんですか?」
「いえ? なかったと思うんですけど。取り敢えず、洗いましょう」
百合子さんは簡単に折りたたんだ服をその場に置き、台所へ向かう。
「昨日、街へ出てお茶菓子を買ったのよ。久野君、食べるかしら?」
尋ねられて、すぐに返事をしようとしたが、既に茶菓子を棚から出していた。僕は女と同じくらい甘い物が好きだから、構わないけれど。
茶菓子は僕の前に、百合子さんの前に置かれ、二人で食し始める。
半分食べたくらいで、百合子さんが口を開いた。
「ねえ、久野君、今日は何の用件で来たの?」
「……どうしてそんな事を訊くんですか?」
「だって、いつもなら何か連絡をくれるでしょう? なのに、今日はなかったから」
「…………」
その通りである。今日、僕は何もせずに訪問した。
「ねえ、どうしてなの?」
百合子さんは無邪気に尋ねる。僕は答えられない。
実のところ、僕は彼女に結婚を申し入れに来たのだ。英国の言葉にすると、プロポオズである。
しかし……言えない。緊張のために、口が開かない。
百合子さんは不思議な顔をして返事を待っている。
ああ、何をしているんだ、僕は! 勇気を出せ! 言うんだ! 百合子さんに、貴方が好きだと、結婚して欲しいと!
そうして、僕はやっと、口を開いた。
「顔が、見たくなって」
百合子さんは首を傾げた。無理もない。僕も傾げたい。
「まるで女の子みたいね、久野君」
何気なしに言った百合子さんの言葉に打ちのめされそうになる。好きな女に『女の子みたい』と言われるなんて……。
なんと屈辱的な事か!
何とか平静は保てるものの、プロポオズの勇気はぺしゃんこに萎えてしまった。
それから、百合子さんの話に耳を傾けて、夕食に誘われたのを断って、家路に着いた。
ああ、一体、いつになったら彼女に結婚を申し込めるのだろう……。
再び1人目(私)
太陽はどっぷり山の向こうへ沈んでしまっている。
遅くなってしまった。百合子には日が暮れる前に帰ると言ったというのに。
自然と足が急く。
近所の家にはぽつぽつと明かりが灯っている。我が家も同じだった。
「ただいま」
玄関を開けると、台所から百合子が顔を出した。と思えば、駆けてきて、いきなり抱きつかれた。
「おかえり!」
私の頭は混乱する。
百合子は実に慎ましい女性だ。出会ってから、ずっとそうだ。だから、自分から積極的に、しかも抱きつくなんて事はしない筈だ。
「百合子、どうしたんだ?」
「……え?」
百合子が顔を上げ、私をじっと見る。
「百合子?」
百合子の顔が急激に紅潮した。
「あっ、すっ、すみません!」
パッと私から離れる。
百合子は火照りを冷やすように手を頬に当て、視線を落とす。
「あら、私ったら、どうしてしまったんでしょう……こんなはしたない……」
私は何も言わない。訊きたい事は山ほどある、しかし、何も訊かない。
「貴方、お腹空いたでしょう? すぐ夕食に致しますわ」
逃げるように百合子は台所に引っ込む。
私は追わず、自室へ向かう。仕事着から和服に着替えようとして、そこで、不思議な事と遭遇した。
着替えが無いのだ。確か、新品が下ろしてあった筈なのだが……。
居間まで出ていき、「おぉい、百合子!」
「何ですぅ?」
声がだけ返ってくる。
「私の着物を知らないか? 先日買った奴だ」
「ああ、それなら居間に畳んでありますよぉ」
言われたとおり、居間を見回す。が、無い。
「……………」
沈黙するしかない。
一体、どういう事なんだ?
「ありましたでしょう?」
百合子が居間に顔を出す。
「否、見当たらない」
「えっ? そんな筈は……」
百合子も捜索に加わるが、やはり見つからない。
私達の間に諦めの雰囲気が流れてきたところで、百合子が私の服を見て言う。
「貴方のお召し物、何だか探している着物に似ていますわ」
「それがどうした」
「いえ、ふと思ったものですから……」
「そうか。しかし、私は朝から一度も着替えていない。そうだろう?」
「ええ」
「ならば、意味はない。そうだろう?」
「……ええ」
渋々だったのが気になったが、特に咎めなかった。
結局、他の和服に着替え、夕食の席に着いた。
いつものようにどちらからも話し出そうとせず、沈黙のまま食事は進み、やがて食べ終わった。
百合子は食器を片付け始め、その背中に私は言葉を投げかける。
「そういえば、茶菓子があったろう? 昨日買った奴だ。夏だから早く食べないと、すぐに傷んでしまうだろう。出してくれ」
「分かりました」
茶棚の戸を開けて、「あら?」と百合子は声を上げた。
「どうした?」
「見当たらないんです、茶菓子が」
「…………」
「おかしいですね、ここに入れた筈なのに」
「……もう、いい」
「はい?」
「もういい」
「……そうですか」
またしても、不服そうな百合子の返答で会話は終わった。
そして、気まずいままに夜は更けていき、私も百合子も、消えた服と茶菓子の話題は決して出さなかった。
けれど、私はどうしてもそれらの行方が気になって仕方がなかった。きっと、百合子もそうだろう。
床に入る時、明日また、杉山を訪ねようと決めた。
友人・杉山泰道
「聞いているのか? 杉山」
気付けば、対話の相手が苛立った顔でぼくを見ていた。
「ああ、聞いている。姫草さんが他の男と付き合ってるのではないか、と疑っているのだろう?」
「そうだ」
昨日も、更に前の日も、ずっとその話題しか口にしないのだから、聞いていなくても当たる。
「昨日なんて、私の和服が無くなっていたんだ」
「ほぅ。盗まれたのか?」
「分からない。先日買ったばかりの新品だったから、無い事だけは分かったのだが」
「へぇ」
「それと、茶菓子が無くなっていた」
「茶菓子? 姫草さんが一人で食べたんじゃないか?」
「違うそうだ」
目の前の男は厳しい顔付きをしている。
茶菓子如きでそこまでか。がめつい奴だ。
その感想は飲み込む。
神経質な性格だから、下手にそう呟けば聞き咎め、糾弾するだろう。面倒な男なのだ。この男に比べると、姫草百合子はまだ扱いやすいだろう。
姫草百合子。
こいつに連れられて、何度か会った事がある。
彼女は多重人格者だ。
ぼくが把握出来ている人格は三つ。昔ながらの日本人女性にありがちな、慎ましく控えめな人格。快楽を求め、艶めかしく男を誘う人格。今時というべきか、自分の見せ方を熟知している可愛らしい人格。
他人のような彼女達は、一つの肉体で共生している。
ただ、それらの人格は個々に独立していて、記憶の共有はないようだ。ぼくにとっては二度目の訪問をした時、彼女はぼくに「初めまして」と言った。そして、「お名前は?」と尋ねたのだ。
しかしその事は、と相手を見ると、ますます仏頂面になっていた。
辟易しながら、宥めにかかる。
「少しは冷静になったらどうだ?」
「私はいつだって冷静だ」
言って、目を鋭くする。
怒ってるな。これだと、後々が面倒だ。あの手を使うしかない。
「分かった、分かった。じゃあ少し軽く考えたらどうだ? 深刻は良くない。気分が暗くなる。すると、考えも暗くなる。後ろ向きはいけない。どうだ? 酒でも飲まないか?」
畳みかけるようにまくし立てると、虚を衝かれたらしく、何も言ってこない。
しめた。
「何も遠慮するような事はない。今は夜だ。ここは友人である杉山泰道の家だ。数学教師なんて頭使う仕事をしてたら疲れるだろう。しかも毎日ときた。これは疲れるに決まってる」
流しから持ってきたガラスのグラスに酒を注ぎ、前に置いてやる。
「さあ、飲みな。久野六作」
久野は躊躇いを示しながらも、前に置かれた酒に手を伸ばした。そして、ちびちびと飲み始める。
長年の付き合いだが、こいつの陰気さは苦手だ。それでも今でもこうして交友している訳。それは久野の稀有な性質にある。
ちびちびと飲んでいたのが、徐々に飲む速度が上がる。やがて飲み干し、久野の顔に赤みが差した。
さっきまでは眉間に皺を寄せていたが、今度はキッと眉を吊り上げ、苛立った声で言う。
「おい、泰道。まさかぁ、これっぽっちの酒しかねぇって言うんじゃないだろうなぁ?」
「そんな事はない。まだあるさ」
お代わりを注いでやると、久野はぐいと飲みほす。
やはり、こっちの久野の方がいい。
久野六作。
彼もまた、多重人格者だ。
久野とは学生時代からの付き合いだから、人格の性質だけでなく、発現方法も分かる。例えば、堅物の数学教師からお気楽な道楽者にするには酒を飲ませたり、賭け事をさせればいい。
ちなみに、この二人の人格の他に、もう一人、気弱な文学青年もいるが、彼にもあまり会いたくはない。そして、姫草さんと同様、彼等に記憶の共有はない。
「……何か、変な事考えてないか?」
顔を赤くした久野尋ねられたが、「気のせいだろ」と避ける。
そうそう、人格が変わると言っても一つの肉体を共有しているわけだから、どれだけこの人格の久野が酒好きでも、そんなに酒は飲めない。きっと、堅物者に戻った時に「頭が痛い」なんて仏頂面で言っているのだろう。
「まあ、いい。それよりも、聞いてくれよ、泰道」
この人格の久野は良く喋る。訊かれなくても、「姫草のここが良かった」だとか「姫草はとんでもなく艶っぽい」だとか語り始める。他の二人が姫草さんの男関係について訝しんでいるというのに、こいつは全く気にかけていない。
今も例によって同じだ。そして、昨日と同じように突然立ち上がった。
「姫草の事を話してたら会いたくなっちまった」
「そうかい」
「酒、御馳走さん」
「ああ」
久野は足早に出ていく。
久野六作と姫草百合子。
多重人格の二人は、常人が推し量る事が出来ないであろう位置にいる恋人同士だ。彼等が行く先は、一体何処であろうか。それはまさに、神のみぞ知る所だ。
ふと、ぼくは酷く、彼等の事が羨ましくなってしまった。
〈終〉
文化祭の企画で、シチュエーション『19~20世紀』、主人公『多重人格』、縛りワード『微分、積分、いい気分』でした。
ちなみにキャラ名は某文豪に関連した名前なのですが、分かる方はいるのでしょうか。