俺の目的にも気づいているに違いない
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小田急小田原線座間駅。座間駅前交差点と駅西口の間に火の見櫓がある。櫓の下のスペース、エンジンを切り駐車しているグレーのトヨタ・ヴィッツの運転席には不動がいた。
午前〇時五四分、上り最終の町田行が出てしまうと、駅前から人は消える。ちっぽけな繁華街はあるものの、開いている店は、いまはわずかだ。
恵比寿と広尾の事案が俺の仕業であることを、警察の連中はとっくに知っているはずだ。俺の目的にも気づいているに違いない。すると、どうなる? 少しでも頭が回れば、ガキどもの居所を捜し出し俺を待ち伏せしようとするに決まっている。問題は、当局がガキどもを見つけるまでの時間だ。発見までどの位かかるか見当がつかない。数時間かかるのか、それとも、もうとっくに発見していて俺を確保するための人間が向かっているのか。いや、ガキどもはネームロンダリングをしている。時間はかかるはずだ。
監視や尾行は確認できなかった。暗視装置でビルの屋上を一つひとつ見ていったが、怪しい人間はいなかった。その道のプロに教わった方法──通りを歩くとき急に立ち止まったり、いきなり進路を変えたりする──を駆使してみたが、同じだった。だが、付け焼刃であること──特に、尾行だ──に変わりなく、実戦経験がないのでまるで心もとない。一方で、コンビニに入りカメラに映って、自らの痕跡を残すといった余計なことをしている。カメラがオンタイムで連中につながっている可能性はゼロではないのに。
不動は身体を震わせた。無意識だった。冷えてきたからだ、と自分にいい聞かせた。
唐突にルームミラーに光が映った。瞬間的に心臓の鼓動が早まる。ちらちら揺れている。不動は後ろを振り向き目視した。自転車? こんなくそ寒い夜中にか? 助手席にあるジュラルミンのカメラケースから暗視装置を取り上げると、揺れる光にレンズを向けファインダーをのぞく。緑色の背景に、自転車にまたがった制服警官が白く浮かび上がる。
おかしい! この時間、この辺の警邏はないはずだ。警邏の時間やルートは何度も下調べしていたんだぞ。くそっ、気づかれたのか! 辺りにある防犯カメラの映像が直接伝わっていた?
不動は、暗視装置をカメラケースに放り込みふたを閉めた。フライトジャケットのファスナーを下げた。脇に手をつっこみ、FNファイブセブン自動拳銃がおさまっているショルダーホルスターの留め金をはずした。
サイドミラーに映った制服は、ヴィッツの後に自転車を停めて降りた。駐車禁止スペースに車がとまっていれば、確かめるに決まっている。それが仕事のひとつなのだから。スタンドを立てるガタガタという音がした。制服はマグライトを出した。その光が上下に動き近づいてくる。
制服が立ち止まる。車の中にいる俺の気配を感じたからだ。二度び動き出し運転席の横まで来ると、サイドウインドウを指の背でたたいた。知った顔だった。少しだけほっとする。だが、油断ならない。不動はファイブセブンを意識しつつ、面倒臭そうにして、ドアについているスイッチを押した。モーターの音が響きウインドウが降りていく。
降りきると制服は顔を突き出した。「ちょっといいですか?」
不動は高圧的に訊く。「いま時分、何の用だ、ええ?」
「お、恐れ入りますが、免許証を拝見させていただけますか」言葉が震えていた。
不動は不機嫌を装い、フライトジャケットの内ポケットから手帳を出し、開いてから制服の鼻先に突き出す。「持っているそれで、照らしてみるんだな!」
手帳にライトを当てた制服は息を飲んだ。目に飛び込んだのが旭日章をデザインしたバッジだったからだ。〝POLICE 〟と〝警視庁〟の文字が浮かびあがる。制服を着たバストアップの写真──もちろん偽造防止のための旭日章のホログラムが施されてある──その下には階級〝警部 Police Inspector〟と名前〝長谷川 正 Hasegawa Tadashi〟そして手帳番号。
「も、申し訳ありません!」
「やめろ」不動は小声で恫喝すると、手帳を内ポケットにしまった。「職質するフリをしろ。張り込み中なんだぞ」
制服はうなずいた。
「とっととPSに戻れ。朝まで外に出るんじゃない」
「それはどういう訳で?」
なぜ、斟酌しない!「質問はするな。それとも何か? 神奈川県警では、警視庁の仕事に対しては邪魔をしろ、と教えているのか、郷田巡査?」
自分の姓を呼ばれ郷田は固まった。しばらくの沈黙の後、やっと出てきた言葉はまたしても質問だった。「どうして、自分の名前を知って……」
「『質問はするな』とさっきもいったよな、ええ? それに姓しかいっていない。莫迦だろ、お前。だが、お前の下の名前は知っているぜ、恭介ちゃん」
郷田が口を開こうとした。そうはさせない。「ところで、なんでお前みたいなクズが、ここにいるんだ?」神奈川ではどんな人事をしているんだ、米軍基地が緊張しているっていうのに、と不動は聞こえるようにつぶやいた。「いま、アラブとアメリカの関係はどうなっているか、分かっているか? ビンラディンが死んで好転したか? どうなんだ?」
「……いえ」
「だったら、俺の仕事の想像がつくはずだ。わざわざ警視庁から出張っているんだぜ。俺の仕事の想像がつけば、俺がお前のことを知っている理由も自ずと分かる。そうじゃないか? 郷田恭介巡査。父親は信弘、母親の名前は緑。父親は新潟の工業高校の副校長だ。母親は同じ市内の小学校の担任。二人ともかつては組合員だった。だが……もっといおうか?」
「いえ」すえた臭いが漂ってきた。郷田の吹き出た汗のそれだ。「自分は、その事実を隠していたわけではなく……もちろん、敵対する人間とも一切……」
「否定をするな。いい訳なんぞもよせ。俺は、逆らっていると見なすからな。お前は、俺の仕事の邪魔をさっきからしているんだよ! よって、お前に対し、神奈川県警でも警視庁でもなく、警察庁から極めて悪い連絡が、座間署を通じて確実に入る。いっている意味、分かるか?」不動は立て続けに質問した。「捜査専科講習、どうする? 受けたくないのか? それより警察自体を辞めるか? 辞めたら辞めたで、ウチの人間が一〇年単位で張り付くぜ。どうする? え? どうなんだ?」
逃げ場を失った郷田の、うろたえている様が見てとれた。ますます体臭がきつくなる。「だったら、自分は……」
くそ! 話が終わらない。「質問の前にいうことがあるだろ!」
「そ、それは……」
莫迦か、こいつは!「お前、自分のより階級が上の人間に、いま、どういう態度で接しているんだ?」
郷田は黙ったままだった。
こいつ邪魔臭い。不動は脇にあるファイブセブンを意識した。いや、銃はまずい。素手だ。だが、俺には手加減できるほどのスキルはない。殺してしまうかもしれない。その場合、死体はどうする? 後部座席に放り込んでおくか。不動は、ドアのレバーに指をかけようとした。
「すみませんでした!」郷田が突然いった。
殺気を感じたのか?「やっと分かったようだな。お前は、俺を見てなかったし、俺の声も聞いていない。違うか?」
郷田はうなずいた。
「いまのことはすべて忘れろ。分かったか?」
「……はい」
「ものの本によると『忘れてくれ』といわれると逆に忘れないらしいが、お前はどうだ?」
「わ、忘れます」
やっとコントロールできるようなった。「では、どうすればいいんだ? 覚えているか?」
「……すみません、忘れました」
「『とっととPSに戻れ。朝まで外に出るんじゃない』だ。そこまで忘れていいとはいっていない」
「はっ、その通りです。すみませんでした」
「やっと素直になったな、ええ? そうだ。徹頭徹尾、服従しろ。階級は絶対だ。いままで、自分が警察の中で最下級の人間であることを自覚していなかっただろ? そのことが分かったでもよかったよな、ええ? なぜ、それができていなかったんだ?」
赤ん坊が泣く前にやるように顔をゆがめ郷田は「すみせんでした」と何とか謝った。不動は解放してやることにした。「とっと消えろ!」
郷田は小走りで停めてあった自転車までいった。スタンドをはらい、またがる。不動の横まできても、会釈などなく走り去った。いや、逃げ出した。
郷田の後姿が闇にまぎれた。不動は、ウインドウスイッチを押しウインドウをあげた。車内が密室になる。不動の大きく吐いた息がフロントウインドウを曇らせる。不動はグローブボックスを開け、入れてあったウエスで曇りを拭った。拭き終わると、不動はウエスをグローブボックスに叩きつけるように放り込み、力任せにカバーを閉めた。
まるで学芸会。莫迦丸出しだ! 考える時間は腐るほどあった。ありとあらゆる可能性、あらゆる最悪の場合を想定してきた。そして、いま、その通りになった。
だが、職質されたのはまるで失態だ。情報を仕入れたおかげで、中途半端な安心感が生まれた。交番勤めの制服を把握する必要はあったか? 偽造した警察手帳はどうだ? 制服のプロフィールなんぞ知らず、偽造した警察手帳を持っていなかったら、職質を避けていたはずなんだ。もう少しまともな位置にいたことも間違いない。そもそも、動きがとれない車で待機することはなかった。制服は、いまのやりとりをすっかり記憶しただろう。こんなことでは、足元をすくわれる。くそっ! 切り替えなくては。
内ポケットから不動は警察手帳を出した。身体をねじり、尻の左側を浮かせると、尻ポケットからは財布を抜いた。中に挟んであった免許証を取り出す。その二つを財布の上に重ねるとダッシュボードの上に置いた。助手席のカメラケースを引き寄せふたを開けた。裏ぶたの内張りを剥ぎとると、別の免許証と警察手帳のセットが出てきた。二つを確かめる。どちらとも〝佐藤和也〟名義だ。ダッシュボードの上にあった〝長谷川 正〟名義のそれらを内張りの隙間に入れ、ふたを閉めた。新しい警察手帳は内ポケットに入れた。新しい免許証は財布に入れ尻ポケットに収めた。手帳と免許証は、計三セット用意してあり──〝長谷川 正〟は、すぐさまシュレッダーいきだ──他のもう一セットは、都内の駅にあるコインロッカーをいったりきたりさせてある。
不動は、ショルダーホルスターからファイブセブンを引き抜いた。弾倉をはずす。弾が装填されているのを確認し、弾倉をグリップの中に戻した。セーフティを解除しスライドをわずかに引く。チェンバーに弾が見えた。スライドを元通りにし、二度、セーフティをかけるとファイブセブンをホルスターに収めた。
不動は、ようやく落ち着いた。
薄汚れたベージュ色のバスが、不動が乗っているヴィッツの横を通り過ぎ踏み切りを越えていった。
来たか。不動は、キーを回しエンジンをかけると、バスの後を追った。
バスがロータリーに着く。不動は、ロータリーの前を通り過ぎ、左側の路地にバックで車を入れた。エンジンを切り灯火類もすべて消した。暗視装置を取り出すと、辺りを見回す。駅前の交番には誰もいない。自転車は置いてあった。不動はほっとした。朝まで間抜け面を見せるんじゃないぞ、郷田恭介巡査殿。
バスからエアの抜ける音がした。扉が開く。薄汚れた男たちが降りてきた。緑の画面の中に、そいつはいた。寺岡祐一、次の標的だ!
寺岡祐一は、いま〝麻井庄助〟を名乗っている。婿養子となった河島比呂志と違って、戸籍をネットカフェの住人から買ったのだ。
紐とポケットがあちこちについた黒のカーゴパンツをずりさげ、ファーがついたカーキ色のジャケットを裕一ははおっていた。頭にはニット帽。そいつは年中被りっぱなしでドブのような臭いがするに違いない。
祐一に、ハケンの一人が話しかけてきた。だが、いつもはじゃれあうのに、今日に限って不機嫌そうに追い払う。比呂志の件を知っているのか? なぜだ? 報道では、比呂志はまだ身元不明のままだったはずだ──。よせ!〝なぜ〟なんて考えるな。後回しにして、受け入れろ。比呂志が殺されたとなれば、祐一がまっさきに思いつく人物は、当然、俺。それでいいじゃないか。祐一は目の前にいて、仕留めることができるんだぜ。
祐一は、帝都聨合が実質的に支配する派遣会社の正社員だった。派遣先の職場でハケンを管理する役目を負っている。相模川沿いに広がる工業団地にはハケンが腐るほどいる。ハケンは、いわゆる搾取の対象だ。仕事に文句をいおうものなら明日から収入がたたれてしまう、使い捨ての駒。〝歩〟以下だ。〝金〟に成ることは絶対にない。気づかないのだろうか? 無理だな。気力がなくなれば、人間は尊厳をなくしてしまうものだ。しかも、奴隷と気づかぬ奴隷が、使う者にはもっとも都合がいい。
祐一のやっている管理とは、ハケンのガス抜き。酒、女、ギャンブル、ドラッグ……の提供だ。まんまとのってくれば、しめたもの。搾り取るだけ搾り取り、金が足りなくなれば、帝都が仕切る闇金を紹介。多大な借金をこさえさせて一丁あがり。返せないとなれば──当然、返せる額には最初から設定しない──有無をいわさず、より多くの金をむしりとれる、どこぞの飯場に送り込む。見栄えがよければ尻の穴を貸す新宿二丁目だ。もしくは、ただの臓器提供者。運よく借金がチャラになったとしても、最低の環境で人間として生きていない者が、まともな職にありつけることはない。そんな連中には生活保護を受けさせ、ピンハネする。最終的には戸籍を買い取りホームレスに落す。
まったく、よく考えられている。ハケンを装置としてシステマチックに管理することによって、連中は高い収益を上げているのだ。
バスは、次の目的地、海老名に向けて走り去った。年代もののディーゼルエンジンの音が消え周囲が静かになると、後に残されたのはバスがエコのためと称し使っている廃油、てんぷら油の臭いだけだった。
祐一を除く全員は東口に向かった。なじみのツケがきく安い居酒屋で遅い夕飯を食らい、酒をあおるのだ。もちろん、その居酒屋は裏で帝都が経営しており、カモになりそうなハケンのチェックもしていた。祐一は、自分が借りているアパートがある西へ向かって、歩きだしている。酒をくらっている暇はないと考えているのか。莫迦な奴、末期の酒ぐらい飲ませてやったのに。
不動は暗視装置で周囲を見回した。おかしな兆候はない。装置をカメラケースに入れふたをする。キーをひねりエンジンをかけ、Dレンジにシフトを入れるとアクセルをかすかに踏み、祐一の後を尾行けた。
左側の歩道を祐一は、両手をポケットに突っ込み歩いていた。座間駅前交差点、赤の点滅信号の前で立ち止まった。左手をポケットから出すのが見えた。携帯電話が握られていた。キーをいじり耳に当てると再度、歩きだした。
不動は祐一の横を通り過ぎた。携帯電話のディスプレイからもれる光が、裕一の横顔を照らしていた。確かに、寺岡祐一! 不動に殺気がみなぎる。一〇〇メートルほど先の脇道に車を入れる。先にあるアパートの駐車場でギアをバックギアにいれ、Uターンさせた。左手でシートベルトをはずし、ギアをDレンジに入れた。本道に出る前にブレーキを踏み、左右を見る。一台も走っていない。よし!
ライトをハイビームにする。ブレーキを離しアクセルを床まで踏んだ。エンジンがうなる。フロントタイヤがアスファルトをかみ急加速した。フロントウインドウに祐一が映った。右手で光を防いでいる。ブレーキペダルを蹴飛ばす。サイドブレーキをひいた。スキール音が響く。完全に停止する前に不動はドアを開けていた。車から降り目の前のガードレールを飛び越える。右手でファイブセブンを脇から引き抜き、セーフティをはずす。右人差し指を引き金にかけ、左手を右手にかぶせた。
銃口の先に第二の標的。口を開けた呆けた面、ニット帽に覆われた額、眉間……不動は頭の中でズームしていった。はずしっこない! 祐一の背後は、ゴミが散乱している林だ。夜中どころか、昼間にも歩いている奴はいない。銃弾が祐一の頭蓋を貫通しても、流れ弾が他人に危害を加える確率は限りなくゼロ。
「寺岡祐一!」不動は、両肘をのばしファイブセブンを頂点に両腕と胸で三角形をつくると、ヘッドライトを背に叫んだ。「河島比呂志が殺されたことは、知っているな!」
祐一は、マネキンのように動かない。携帯電話は耳に当てたままだ。
「どうなんだ、祐一!」引き金に触れている人差し指がむずがゆい。
思い出したように、祐一はうなずいた。だが、開けっぱなしの口からは声が出ない。
「だったら、俺が誰かも想像つくよな!」
うながされるまま、何度も顔を上下に動かす。
「俺が何をしようとしているのかも!」
祐一はやっとの思いで口を開いた。「そ、それは──」
人差し指が勝手に反応した。辺りに銃声が響いた。
寺岡祐一の眉間に、黒ぐろとした穴が開いた。制御を失った身体は鉛直方向に崩れ落ちた、糸の切れたマリオネットように。地面に達した人の形をした物体はうつ伏せになり、手足はあらぬ方向を向いている。後頭部は半分がない。ニット帽がなくなり露出した頭からは、血液やら脳漿やら液体が流れ出し、地面に染みをつくっていた。
背中で音がした。不動は反射的に振り向いた。かすかな足音。しかし、はりつめた神経は五感をより鋭敏にしており、ブロック塀の陰に人が引っ込む姿を見逃したりはしなかった。放ってはおけない。覗き見をし忍び足で逃げようとする人間が、通りすがりであるはずがない。不動はブロック塀の角をカッティングパイの要領で遠回りした。いた! 街灯の下、一〇メートル先。男が背中を向けていた。自転車にまたがろうとしている。
「動くな!」不動は叫んだ。
男はフリーズした。右脚が宙に浮いたまま止まっている。男は、黒のつばつきのキャップを被り、分厚い黒のジャケットを着、黒のチノパン、黒の靴下、黒のスニーカーを履いている。怪しい者です、といっているようなものではないか。不動は男の背後、三メートル手前まで近づいた。
「ゆっくり脚を下ろせ」男は素直に従った。ゆっくり脚が下りてくる。「チャリンコのスタンドを出し立てろ」男はスタンドを出し立てた。「手を挙げてから、ゆっくりとこっちを向け」男は黒の手袋をした両手を挙げ、そして振り向いた。
何!?つばが影をつくり顔が見づらかったが、誰だか分かった。さっきの制服、郷田! どういうことだ! こいつ、誰かの命令を受けて動いている。通常の警邏とは時間、ルートが違っていたのは偶然ではない。しかも、黒づくめで見張っていやがった、あれだけ脅したのに!
「だ、誰だ、お前は! 警察官じゃないな!」郷田は開き直った。だが、声が震えているのは隠しようがない。酷い体臭も漂ってくる。
「だから、どうだというんだ?」少しずつ郷田の腕が下りていくのを不動は見逃さなかった。「動くんじゃない!」
郷田の動きが止まった。こいつ、何をするか分からん。パニックになっていながら、俺をなんとかしようと一方では思っている。両手でファイブセブンを構えたまま、不動は郷田との距離をつめた。銃口は眉間を狙っていた。
郷田がゆっくり後ずさりする。気づいた不動は、さらに声を荒げた。「動くな、といった! 人語、分からないのか。何度もいわせるな!」
「うわあああ!」郷田が恐怖の混じった雄叫びをあげた。自転車をつかみ、不動に向けて押し出した。自転車は倒れ足元に迫ってきた。不動は飛びのいた。郷田の右手がジャケットのポケットに突っ込まれたのが見えた。くそっ! 不動は間合いをつめた。銃を持っているなら容赦しない! 郷田の左太ももを思い切り蹴る。右足甲に肉の感触。不快な悲鳴とともに郷田の体勢が崩れた。頭が下がる。
「おい!」という不動の声に反応し、郷田の顔が上を向いた。
不動の頭上にはファイブセブンを持った両手があった。全体重を乗せ斜めに振り下ろす。ファイブセブンのグリップが郷田のアゴを捉えた。鈍い感触が両手に伝わる。
郷田は、アスファルトの上に、仰向けに倒れた。横向きの顔に貼り付いている両目は、半開きで白目をむいている。上下がずれたアゴの間からは舌がだらしなくたれ、血とよだれが流れていた。
意識がないことは分かっていたが、それでも不動は警戒を解かず、銃口を郷田の眉間に向けたままにしておいた。ポケットに入っている手を蹴飛ばして外に出した。ペン型の特殊警棒が握られていた。銃ではない? たかが交番勤めの制服警官が、私服で銃を持ち出せるわけがない。当たり前だ。当たり前過ぎて逆に違和感がある。しかし、こんなもので……どうかしている。
不動は、ファイブセブンをセーフティにしてからホルスターに入れた。腰を降ろし左手の中指と薬指で郷田の首筋を触ってみた。脈はある。死んではいない。ほっとした。
アパートの部屋の明かりが、ぽつぽつ点き始めていた。外の騒ぎを聞きつけたのだ。窓からのぞいている人間のシルエットが見えた。一一〇番している者もいるだろう。座間警察署は、この道の先、最初の交差点を左に曲がればすぐだ。距離にして五〇〇メートルあるかないか。車で一分とかからない。急がなくては。
不動は車に戻った。助手席のドアを開け、銀色に鈍く輝くカメラケースを引っ張りだす。うつ伏せになっている祐一──頭から流れ出た染みが大きくなっていた──を一瞥すると、不動は、林の中に入っていった。
カメラケースから出した暗視装置を、時折覗きながら林の中を進んだ。住宅街にあるちっぽけな林は、まるで整備されておらず、格好のゴミ捨て場だ。不燃ゴミがあちこちに散らばっているせいで、足元は危険極まりない。枯葉の下から割れたガラス瓶がのぞいているところもある。まるでトラップ。冬なのにすえた匂いもしている。吐きそうだ。だが、こんなところでゲロして時間を食うわけにはいかない。