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殺戮機械 La Machine Slaughter  作者: 瀬良 啓 Sera Quei
2/26

ピーピー、ピーピー。年末は小うるさいなあ

 2


 桜田門、警視庁本部六階。捜査一課の大部屋の通路脇にある現場資料班には、金属製のラックにびっしりと無線機が並んでいる。それらはLEDを点滅させ、電子音を発していた。

「ピーピー、ピーピー。年末は小うるさいなあ」捜査一課殺人犯第一三係の北野秀夫は、コーヒーをすすりながら中に入ってきた。

 パソコンに向かっていた班員の日暮将太の目が、北野が持っているカップに転じてはりついた。「あー! ここ精密機器だらけなんですから、こぼさないでくださいよ、その、どんぶりの中身」

「どんぶりはいい過ぎだろ」

「それスープカップです。取っ手がなければ、そのまんま 〝どんぶり〟です」

「いいじゃないか、器に変わりはないんだし。たっぷり中身を入れられるというのが気に入って買ったんだから」

 日暮は突っ込まないことにした。「戻った方がいいんじゃないですか?」

「いま、来たばっかりだぞ、そう邪険にするな。夜、だだっ広い捜一の大部屋に一人きりでいるのは辛いんだ。ウサギは一人ぼっちだと寂しくて死んでしまうぞ」

 はあ……。日暮はため息をついた。「それは単なる都市伝説です。ウサギは寂しくても死にません。そもそも寂しいなんて感情、持ち合わせていないらしいです、北野さんみたいに。ところで、報告書は書き終わったんですか?」

「ドキ!」北野は声に出していった。「分かっているだろ?」

「いえ、分かりませんけど?」

「山村のおっさんの追い込みがきつくて、何度も書き直しさせられているんだよ!」

「私に怒らなくたっていいじゃないですか。首席主任さんが下手な文章書いていたら、部下に示しがつかないからですよ」

「いいや。あのおっさんは、俺のことが嫌いなんだ。だがら、何かにつけとやかくいうのさ。なんたって、俺は優秀な上にイケメンだからな」北野は笑った。「そういや、イケメンって 〝イケてるメンズ〟の意味なんだってなア。てっきり、俺みたいな、イケてる面の奴のことだと思っていたよ」

「何をいまさら、莫迦ばかしい! どうせなら、山村さんにも、そうした冗談いって煙に巻いたらどうです?」

「恐ろしいこというなよ。ここだけの話だが、俺、あの係で浮いているのさ。どうすればいいと思う?」

「すみません、北野さん。ここは、談話室でもお悩み相談室でもないんですけど」

 けたたましい音が部屋に響いた。部屋の緩んだ空気がいっぺんに消えた。

 同報電話だ。通信司令部に重大事件の一一〇番が入ったのだ。日暮は受話器を取っていた。一一〇番を通報した人間と通信司令部の係官のやりとりが聞こえてくる電話の内容を、メモし続ける。

 備え付けのスピーカーががなった。

「恵比寿署管内、事件発生! 駒沢通り。通行人が突然燃えたとの旨!」

「なんだ、そりゃ! なんとかファイルじゃあるまいし」

 日暮が振り向いた。視線が〝静かにしろ!〟と恫喝している。

 北野は、声を出さずに口を動かし〝すまない〟というと立ち上がる。現場資料班を出て、捜一の大部屋へ向かった。〝どんぶり〟は置いたままにしてきた。気が利く日暮は洗って持ってきてくれるはずだ。そのとき、最新の情報を聞くことができる。

 いろいろ準備で忙しいぞ。よって、報告書は先送りだ。


 回転灯を回しサイレンを鳴らしながら、機動捜査隊の覆面パトカー、シルバーの日産スカイラインは渋谷駅を通り過ぎ明治通りを南下していた。

「しかし、人体発火現象とはな」ハンドルを握っていた静内 明がいった。「実際、なんだと思う?」

「さあな」助手席の新倉正志が気のない返事をした。「そのままでいいんじゃないのか〝人体発火現象〟で。どうせ、俺たちは、現場をつつくだけ、ニワトリ捜査の機動捜査隊なんだ。所轄や鑑識の連中がくるまで、お茶をにごしておけよ」というとシートに身体をうずめて目を閉じた。

 ちっ。腹の中で静内は舌打ちをした。最近の新倉は周囲からの受けがよくない。やる気がまるでないのだ。警邏中、助手席で居眠りばかりしているというのは本当だった。

 原因は分かっている。結婚生活がおかしくなったせいだ。しかも、離婚協議に入っていたときに〝311〟が加わる。気仙沼の母親は大津波で流され死んだ。父親は行方不明だ。他の身内や地元の知り合いも、少なからず同じ目に遭っている。無理からぬ事情に同情できなくもないが──結局、新倉は女房と別れた。財産分与でもめたそうだが、震災を理由に強引に安く押し切ったらしい──限度というものがあるだろう。もう少しなんとかしてほしいものだ。おかげで、俺は上から何やかやいわれ、お前のお守りをしなければならなくなったんだぞ。

 渋谷橋交差点に近づく。その先で回転灯が回っているのが見えた。相当な数だ。「向こうは広尾か? 立てこもりだったよな」母親と一歳になる娘が人質とされ、犯人はとんでもない額の金を要求しているといっていた。「同じ界隈で立て続けに二件とはな」

 新倉がぼんやりと目を開けた。「年末だからだろ」とにべもない。「それに、俺たちの担当ではない」というと二度、目を閉じた。

 どうしようもねえな。ため息をつくと静内はウインカーを出すとスカイラインを右折させ、駒沢通りに入れた。山手線の高架下をくぐる。交差点の点滅信号が見えてきた。その下に、白バイ一台と、パトカーが二台。赤の回転灯を回している。

 広尾の立てこもりに比べ、こっちは随分と少ない。事件発生直後というのもあるだろうが、所轄もくだらない超常現象に付き合うほど暇ではないってところか。向こうが優先なのは当然だ。減速して近づいていくと、通行止めにした恵比寿南交差点の周囲に、人だかりができていることが分かった。

 完全に停止させると静内は窓を下げた。悪臭がした。人が燃えたというから、その焦げた臭いなのだろう。窓から顔を出し、静内は交通整理している白バイ警官に声をかけた。「先へ進めないのか?」

「すみません。何せこの人だかりですから」

「ここに置いていいか?」

「ええ、大丈夫です」

 静内はスカイラインを道端に寄せた。窓を上げ、サイドブレーキを引く。エンジンを切った。ふと隣を見た。新倉は目を開けていた。しかも、ぼんやりではない。

 〝二機捜〟と書かれたえんじ色の腕章をすると、二人はほぼ同時に左右のドアを開け、降りた。静内の、日頃からジムに通って身につけた、筋肉質の身体の上にのっかっている四角い顔がゆがむ。しかし、酷い臭いだ。血の臭い、肉の焼けた臭い、繊維の焦げた臭い。髪の毛の焼けたそれは、特にひどい。鼻が曲がりそうだ。その中に、気になる臭気があった。静内は新倉に訊いた。「なんだか、ニンニク臭くないか?」

「ああ」新倉はとっくに気づいていたのかもしれない。茶化した雰囲気が完全に消えていた。「富士の裾野へいったとき、嗅いでいる。オーストラリアでもだ」

 二人は強引に人の輪の中へ入っていった。「警察だ、通してくれ」と繰り返しながら人波をかきわけ、ようやく黄色のテープの前にたどりつく。一〇メートルほど先には、ブルーシートのパーテーションで覆われた一角があった。

 静内と新倉を見つけた制服警官が近づいてきて、敬礼をした。

「機捜だけど、担当刑事はまだか?」と静内。

「すみません。そろそろ来るとは思いますが。いま、ウチの所轄はてんやわんやなんです。先ほど発生した立てこもり事件が優先されているらしくて」

「目撃者の証言はとれているのか?」

「超常現象だってみんないっています。しかし、人間が突然燃えるなんて、どういうことなんでしょうかねえ」

「銃声を聞いた者はいるか?」

「銃声?」

 いないってことだな。「不思議そうな顔をするな。超常現象なんてあるかよ」

「しかし、目撃証言では銃声は──」

「消音器を使ったんだろ」

「燃えたんですよ。そんなことが──」

 面倒臭ぇなあ。「ここの責任者は誰だ。どこにいる?」

「あそこに。いろんなところから問い合わせがあるらしくて」

 制服が右手で指し示した方向を見た。年長者らしき制服がパーテーションの角に見え隠れしていた。無線機と携帯電話を交互に耳に当て、右往左往している。いちいち待ってられない。気づくと新倉はビニール袋を靴の上に履き始めている。静内もそれにならおうとしたときだった。

「あの、何をするつもりなんです?」と制服。

「決まっているじゃないか。ホトケを見せてもらう」

「すみません。鑑識がくるまで、現場保護のため誰もいれるな、と……」

「お前と議論する気はない」静内は押し殺した声でいった。「こいつは、殺しだ。緊急配備を要請するんだな」

「しかし……」

 静内は声を張り上げた。「貴様、たかが巡査のくせに、警部であるこの俺に逆らうってのか、ええ? それとも、ニワトリ捜査の機捜だから、莫迦にしているのか? 銃器の扱いに慣れている機捜の俺たちがマル害を見れば、使った銃や弾の種類が分かるんだ。目星がつくんだよ。それを邪魔した上、緊急配備が遅れ犯人に逃げられたとなったら……貴様に責任を取らせてやる」

「はっ! すみませんでした!」降参した制服は露骨なお辞儀をし、電話をしている年長者に向かって走った。

 満足して振り向くと新倉がパーテーションの中に入るところだった。マイペースな奴だ。静内は、ビニール袋を履き白手袋をすると新倉の後を追った。

 パーテーションの中は悪臭がこもっていた。ニンニク臭も、一層はっきりしている。目に入ったのは、尻にでかい羽根をはやした真っ赤なポルシェ。傍らには、シートがかけられているふくらみ。その下には死体があるのだろう。新倉は、ふくらみを踏まないようにしながら、ポルシェを眺めていた。

 静内の気配に気づき新倉は振り返った。「見てみろよ」

 新倉があごをしゃくった方向を見る。運転席側のウインドー全体、放射状に汚れが張りついている。赤い染みは血、茶色いそれは頭皮についた髪毛、ピンク色は脳みその欠片、白は頭蓋骨の欠片……。どういう訳か、足元から視線を感じた。見ると、神経の束がついている目玉がタイヤの陰からのぞいていた。勘弁してくれ。「ヘッドショットか」

「ああ。こう──」新倉はノブに手を伸ばした。「──ノブに手をかけようとしたとき、撃たれたんだ」ノブを引っ張る格好をした。「分かるか?」

「何がだ? 分からねぇよ」

 新倉はニヤリとした。「頭が動かなかっただろ。このタイミングを狙ったのさ」

「なるほど」狙撃手というのは、随分と細かく面倒臭い人種だ。

「さて、ご開帳といこうか」新倉は背を向けてかがむと、ふくらみのシートの片端を両手でつまみ、めくった。こもっていた臭気が舞い上がる。右手で口と鼻をふさいだが、間に合わない。静内は咳き込んだ。黄燐のニンニク臭がした。焼夷弾を使ったのは間違いない。「見ろ。一流の仕業だぜ。しかも、超がつくくらいのな」

 静内は、新倉の背中越しに死体をのぞきこむ。頭は存在していなかった。焦げた首の付け根からは白い骨がわずかに見えている。手足があらぬ方向を向き、妙にひしゃげていたが、仰向けということは分かる。毛羽立ったコートの襟があり、ネクタイがあったからだ。それにしても、高そうなものを着ている。静内の目は死体が身につけている品にフォーカスしだした。左手首に巻かれてあるクロノグラフ、両手の指にいくつもはめられているごつい宝石のついた指輪、磨きこまれた靴……。そして、乗っていた車はポルシェ。同情する気が失せた。「こいつ、カタギじゃないな」

「さあな。それより死体だ」新倉は、生前のマル害に興味を示さなかった。「焼夷弾ではなく焼夷徹甲弾を使っている。頭蓋の中で止まってから焼夷剤が破裂するよう、弾自体をカスタムしている」

「そんなのを人に向けて撃っていいのかよ」

「知らん。俺は、ジュネーブ条約をそらんじているわけじゃないんでね。それに、最初から法律を破ろうとしている人間にとっては、どうでもいいことさ」

「燃やす必要があったのか?」

「あったから燃やしたんだ。俺には、こいつの考えがよく分かる」

 新倉は、特殊急襲部隊狙撃支援班にかつて所属していた。超一流の部類に入るひとりだった。制圧班にいた静内は、実際、実戦で、それを目の当たりにしている。ということは、犯人も超一流。

 突然、音楽が聞こえてきた。死体からだ。「携帯の着信音だ。どうする?」

「ほっとけ。かけてきた相手に、説明するのは面倒だ」シートを死体にかけると、新倉は立ち上がって振り返った。音楽は鳴ったままだ。〝タクシー、タクシー〟を連呼している。「さて、射撃ポイントまで、いってみるか」

「分かったのか?」

「いわずもがなだよ」


 立てこもりの現場、広尾一丁目は喧噪に満ちていた。だが、立入禁止の黄色いテープが張られた路地の内側はその限りではなく、トヨタ・ハイエースを改造した特殊犯の指揮車は外の騒がしさに煩わされることはなかった。

「マルタイからの連絡は、途絶えたままなのか?」特殊犯捜査第一係長の鈴森直也は訊いた。

「はい、まるでつながりません」副官である主任の大友直樹が応えた。

 鈴森は、腕時計を見た。二〇一九時、連絡が途絶えて一一分。「いま、中はどうなっているんだ?」

「屋上から窓枠の上までラペリングして、ファイバー・スコープでのぞいているのですが、マルタイは見当たらないようです」

「〝ようです〟なんて、推量は使うな! 確かめろ!」鈴森は怒鳴り散らした。

「すみませんでした。すぐに!」大友は、現場に無線で命じた。

「それから、様子をモニターに映せ」

 大友は、隣にいるオペレーターに命じた。

 天井からぶら下がっているモニターに部屋の中が映った。右から左に画面が動いていく。それにしても、広い部屋だ。2LDKだが、全部で一〇〇平米。これでは、ちょっとのぞいただけでマルタイの確認はできない。広尾にある一二階建てマンションの最上階にある部屋。見取り図の上でWICウォークインクロゼットやら、SCシューズクロークやら、STOストレイジやら、アルファベットの略号が踊っていた。一体、いくらするんだ? 贅沢しやがって。

「止めろ」猿ぐつわをされた女性がベッドで横になってもがいている様子が映った。隣にベビーベット。赤ん坊は、寝ている。死んでるんじゃないだろうな。

 女は井川綾子、赤ん坊は明日香。この部屋の所有者である井川比呂志なる男──管理人によると、三〇前の若き経営コンサルタントだそうだ──の女房であり娘だ。

 それにしても、マルタイだ。マルタイはどこにいる?

 ──いまから約一時間前の一九三五時、「一〇〇億よこせ。さもないと母親と娘を殺す」と一一〇番があった。直後、恵比寿署に、送信先アドレスがフリーメールのEメールで拘束された女房の写真が送られてきた。電話番号も書かれてあった。その後、恵比寿署から特殊犯に連絡が入り、鈴森が対応することになる。

 一九五四時、突入班の配置を終えると、鈴森はEメールに書かれていた番号に電話をかけた。

「やっと、交渉人おでましか」電話に出た男はいった。「さっき電話をしてきた所轄は莫迦ばっかりだったし、助かるよ。こちとら旦那とつながらなくて困っていたんだ。だから、一一〇番して金を要求したのさ。旦那は、きっと女のところだぜ」

 その旦那とはこちらも連絡がとれていない。事件発生当初から、事務所や携帯にかけているのだが、まるでつながらない。留守電に用件を入れておいたものの、折り返しの電話も一度もない。いまは、新人に「つながるまで、かけ続けろ」と命じ、指揮車の外でリダイヤルさせている。

 鈴森は男にいった。「莫迦なことはやめておけよ」

「そうかなあ。いい考えだと思っているんだが」

 一筋縄でいかない相手だと鈴森は思った。落着き払っているのだ。案の定、交渉は平行線。話題を変えつつ世間話をしてみるが、結局、投降する気はない、とにかく金を寄こせ、だ。だが、どうにも違和感がある。緊迫感がまるで伝わってこないのだ。そこから攻めてみようか、と思っていた矢先、電話が通じなくなる。二〇〇八時のことだ。メールしてもなしのつぶて。おかげで、強行突入するしかなくなった──。

 大友が叫んだ。「狙撃班から連絡、配置についたとのこと。やはり、マルタイ確認できません!」

「なんだって? 狙撃班は赤外線影像装置、使っているんだろ?」

「ええ。ですが、部屋には、女と赤ん坊以外いないとのことです。映像、モニターに接続します」

 緑色の中に、赤外線であぶりだされたいくつもの白い影。横になっているのは拘束された女、隣の白い小さな塊は赤ん坊。ドアの前に特殊犯隊員が五人。左右に二人ずつS&Wを握りしめている。もう一人は、右の二人から離れ、ドアの蝶番と鍵穴に貼り付けたC4から伸びるコードがつながった起爆装置を持っている。窓の外にも二人。ロープにぶらさがり壁に両足でふんばっている。

 鈴森は、狙撃班にカメラを上下左右に動かすよう命じた。ズームさせたりパンさせたりもした。赤ん坊にズームさせる。赤ん坊が手足を動かしているのが分かった。ただ寝ているだけだ。死んではいない。モニターに映る部屋の中を何度も凝視して確かめてみるが、説明のつかない正体不明の影はない。鈴森は息を吐き出し、椅子の背もたれに身体をあずけた。マルタイはいない。

 一体、どういうことだ? 背筋を伸ばすと鈴森はいった。「蝶番と鍵穴に貼りつけた、〝練り物〟をはがせ。マスターキーを使って入るんだ」必要もないのに、莫迦高いマンションの鍵や扉を壊したら、いくら請求されるか分かったものではない。「人質の保護を優先。ただし、現場保存も怠るな。土足は禁止だ」

「案外、狂言だったのかもしれませんね。旦那が、どこからか電話をかけていたんですよ」ヘッドセットをはずしながら、大友は訊ねた。「金持ちのガキって、何考えているか分かりませんから」

 適当な推理しやがって。しかも多分にひがみが入っている。「いいじゃないか。いい訓練になっただろ?」

「そりゃまあ、そうですが」

 そのとき、旦那に電話をかけ続けているはずの新人が指揮車に飛び込んできた。「係長、電話がつながりました」

「そうか。旦那に事情は説明したか」

「いえ……」

「なら俺が説明してやろう。ところで、旦那はどこにいるんだ?」

「それが──」

「そのぐらい聞いておけよ!」ったく気がきかない奴だ。

「それが──向こうにいるのは旦那ではなく、鑑識なんです」


「テレビは観たか?」

 受話器をとった途端、これだ。相変わらず前置きがない。オフィスにある直通の秘匿回線だし、本人の表示がディスプレイに表示されて確認できるからいいけど。

「ええ。ウチの人間は役に立ったかしら?」

「もちろんさ。ところで、回収の準備はできているか?」

「準備どころか、とっくに回収したわ。部屋は消毒済み。偽の個人データも一切を洗浄。痕跡すら残っていない。後は、出国すればいいだけ。ついさっき、本人から羽田に着いたとの連絡があった。もちろん、作戦終了まで日本に戻すことはしないわよ」

「すまんな。手間をかけさせた」

「平気よ。本人も休暇を楽しみしているようだしね。やっと安心して羽根を伸ばせる、といっていたわ」

「キューバだからな。あそこでは連中の存在は確認できていない。露骨な犯罪組織が、革命防衛委員会──いってみれば秘密警察だが──その監視をくぐって活動するのは容易ではない。基本的には、反革命的な行為とみなされることさえしなければ、外国人でも一人で自由に行動できる」

「軍事施設や、存在しないはずのスラム街にいったりしなければの話よ。いずれ、葉巻ふかして、ラム酒飲んで、サルサ踊って、野球観戦していれば、時間なんてあっという間に過ぎる。野球のせいかどうかは知らないけど、日本人には友好的だしね。実際、三人でいきたいところだわ。私とあなたの親たちは、ガイドつきで温泉旅行だし。むさい男にストーカーされるのとは雲泥の違いよ」

「あと少しの辛抱だ。来週末までには、すっかり解決さ」

 あまりにも楽観的だわ。あなたのそんなところが心配なのよ。「ところで、月曜日、絵里の三者面談があるんだけど?」

「進路相談だったな。忘れてなんかいないぞ。とはいっても、さすがに月曜は難しいと思う。お前に頼んでいいか?」

「いいわよ、もちろん」願ったりだ。なるべく夫にはいいかせたくない。父と娘、二人の仲がいいのは結構なんだけど、しわ寄せが必ず自分にくる。

「すまない。だが、あの成績だから、特に問題はないんじゃないか?」

「成績はね。男子校を除いてどこでも入れる。でも、問題がないとはいえないのよ」

「何があるんだ?」

 当事者だと気づかないものね。「あなたとそっくりな性格をしているところよ」


 多摩川は、あっさり越えることができた。緊急配備は発動前、検問はまだ敷かれていなかったからだ。

 不動はひとりごちた。東名高速は、年末の物流で忙しいトラックで混んではいたものの、スムーズに流れている。流れに乗っていればいい。急ぐことはない。

 カーステレオから、この時期、定番のクリスマス・ソングが流れてきた。「ハッピー・クリスマス」ねぇ、ジョン・レノンの。いまは、この手の脳天気な歌を聴く気分ではない。なんだか、イライラさせられる。

 不動はハンドルから左手を放し、ラジオのスイッチを切ろうと人差し指を伸ばした。だが、やめた。情報は入手し続けなければならない。緊急ニュースがないとも限らないからだ。

 定時のニュースでは、広尾での立てこもり事件が大々的に読み上げられていた。警察が突入したところ、犯人はいなかったという。そりゃそうだ。交渉人らしき人間と電話をしていたときにはすでに、俺はあの場所にいなかったんだから。

 加えて、恵比寿で人が燃えたという報道。いまだ個々の事案として扱われているが、それはマスコミに伝えていないだけのことだろう。証拠をあえて残してきたんだから、警察はすでに俺のことをつかんでいるはずだ。いや、そうしてもらわないといけない。

 さて! まずは、一人始末した。朝までに、あと三人。

「ハッピー・クリスマス」がサビに入っていることに、不動は気づいた。

 〝すべての闘いをやめよう〟か。まったく大したお題目だ。一般論としては〝Love & Peace〟同様、否定はしない。否定はしないが、いまの俺には──

 へっ、お断りだ!


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