口の中の酸味をなんとかしたかったからだ
13
不動は、山下公園にあるコンビニの駐車場──もちろん、店からもっとも遠いスペースを選んだ──にZの鼻先を道路に向け停めた。コンビニの中に入り五〇〇mlの緑茶一本買ってすぐに出た。口の中の酸味をなんとかしたかったからだ。
Zに運転席に戻ると、ジャケットの内ポケットから携帯を取り出す。マップ画面を開いた。ぶん殴った場所から一旦動き出した池部だったが、いまは停まっている
池部がいる場所は、斜向かいのラブホテルだった。正解だよ、池部。顔を腫らし、よれよれのスーツ姿で、歩く様はまるで滑稽だったぞ。そんな格好でいつまでも早朝の街中を歩いていたら、職質されるに決まっている。
ラブホテルなら、二四時間営業のデリバリーが少なからずあるから、早朝、ひとりで入っても怪しまれない。もしかすると、迎えはデリ嬢に扮して現れるかもしれない。
手の中でマナーモードにしていた携帯が震えた。メールだった。開いてみると〝直接話したい。電話を寄こせ〟とある。不動は電話した。
「いま、大丈夫か?」電話に出た桂がいった。
ちっ。大丈夫だから、こっちから電話したんだろうが。「何の用だ。いま、池部を送り狼している最中なんだぜ」
「分かっている、モニターしているんだから。ところで、羽田で殺し損ね、行方が知れなくなっていた稲城が見つかった。どうする?」
「殺る」不動は即答する。「決まっているじゃないか。稲城の奴は、どこにいる?」
「飯田橋の再開発地区、帝都のフロントが管理する廃ビルに向かっている。帝都に集合がかかった。銃火器で武装しお前を待つつもりだ。三、四〇人は参戦するらしい」
「糞ガキなんぞ、何人いようが知ったことじゃない。羽田の二の舞にしてやる」
「いくらなんでも多過ぎるだろ。周到に罠を仕掛けているかもしれない」
「だから?」
「あえて襲撃しないという手もある。池部の監視を続け、先に堂上のヤサを──」
「断る」不動は言下に否定した。「いくら人数がいようが、罠を仕掛けられていようが、素人に毛が生えた程度の連中に、この俺を殺れるものか! どうせ、池部を発信器で追っているんだ。池部が接触するはずの堂上は後回しで構わない」
「帝都だけではない。マークしている組対が、帝都の集合をほっとくわけがない。組体はもちろん、捜査本部がある恵比寿署、現場やその周囲の所轄、特殊部隊も集まってくる。おそらく数一〇〇人規模の出動になるはずだ。面倒なことになる」
「だから、いくな、と?」
「ああ。どうせ、稲城は収監されるんだ。逃げることはできない。シャバに出てきてから、殺ればいい」
「出てくるまでどれだけ時間がかかるんだ、ええ? 銃刀法違反、凶器準備集合罪、麻薬取締法違反、公文書偽造……稲城は、実刑は免れない。いつまでたっても殺れないじゃないか!」そうか、というと不動は続けた。「お前、自分の目的を達したら、俺を当局に売るつもりだな?」
「そんなことはない。考え過ぎだ」
「だったら、俺をほっとけ! 俺は、今日、稲城を殺る。分かったか?」
「ああ、分かった」
「分かったら、しっかりサポートしてもらおうじゃないか。〝マクミラン〟と書いてあるボックスを丸ごと持ってこい。それから、ガキどもが籠城するビルの図面もほしい。帝都のフロントが管理しているビルなら、図面くらいあるだろ。頼めるよな」
「何とかする」桂は続けた。「ところで、郷田巡査だが、殺された」
「俺が殴った巡査か。すっかり忘れていた。ま、お前が何をいいたいかは分かる。だが、重要だと思うなら、そっちで動け。俺は、まず、稲城だ!」
桂は女房の遼子に電話した。声がゆがんでいるのは盗聴防止装置付きの回線を使っているからだ。「変わりないか?」
「ええ」遼子は応えた。「でも、私がそう思うだけ。外にいる人に訊いてみる?」
「いや、いい」配置したSPは特殊部隊上がりのプロだ。いまのところは大丈夫だろう。だが、油断してはいけない。
「二本ほどあなた宛の電話を受けているわ」と遼子はいった。「一本目は奥多摩署の総務課長の三村さん。あなたへ電話があったって」
署への電話ではない。それなら署長だ。俺個人に対するものだ。「どこからだって?」
「神奈川県警。県境の捜査の実状について、週明けに話し合いの場を設けたいそうよ。三村さんは、訳が分からないって」
「そりゃそうだ」奥多摩は、神奈川県に接していない。堂上の犬、神奈川県警本部長の一宮だ。郷田の殺害にこいつは関わっている。露骨に探りにきたな。莫迦が。見え見えだ。
「かなり、きな臭いわね」
「まあな」不動があれでは仕方がない。放っておくわけにもいかないし、人の手配をしないと。だが、向うがいろいろ動き出したのはいい知らせだ。「二本目は?」
「ジェームス・ベリーとかいうアメリカの方。大使館の人間といっていた。知り合い?」
「ああ」もう嗅ぎつけたのか。まあ、バージニアのトモダチが出張ってきてもおかしくはない状況ではある。在日米軍は、堂上が卸したドラッグで汚染されている。しかも、そのドラックは、GRUの元将軍がボール・フ・ザコーネをしている、ロシアマフィアが買い付けて卸したものなのだ。「なんといってた?」
「パーティに自分も参加したいとか」
結構、踏み込んでいる。どういう形で伝えようか。まあ、これは後で考えればいい。まったく余計なことばかり増えていく。「分かった。折り返しておく。他になかったか」
「その二本だけよ。誰かからくる予定があるの?」
「山村だ」
「同期の山村さん? いまは捜査一課だったわね。彼も絡んでいるの?」
「これから絡ませようと思っている。奴が在庁番のときをわざわざ選んで作戦を開始したのは、そのためだ。気づいてもいいころだというのに」
「いくらなんでも、まだ材料が足りないわよ。待つなんてことせずに、直接、頼めばいいじゃない」
「それは駄目だ。気づかないということは、スキルがないということだ。そんな奴は、いたら邪魔になるだけだ」
「また、そうやって上からモノを見る。そのせいで、あなた、山村さんに嫌われたんじゃなかった? 山村さんは気づいても連絡を寄こさないかもしれないわよ」
「可能性は高いな」
「私から連絡しておく?」
少し考えてから桂はいった。「いや、俺からする」
「それが賢明だわ」遼子は続けた。「用は、それだけじゃないわよね? 真ちゃんの件でしょ?」
「ああ。設計図面がほしいとさ。飯田橋にあるワールド綜合開発が占有している梶山ビルヂングだ。頼めるか?」
「ワールドって、帝都のフロントよね?」
「そうだ」
「ワールドはウチで内偵していたから取り扱い物件についてはすっかり調べている。その梶山ビルヂングとやらについても、登記簿と一緒に設計図面がファイルに保存されているはずだわ。すぐに送るわね。ところで、真ちゃんは、どんな様子?」
「かなりイラついている。危険水域に入っているような気がする」
「心理的負担をかけ過ぎるのは、よくないわ」
「軽くする努力はする。だが、それは不動の暴走を抑えるということではないだろ」
「もちろん承知しているわよ。死に際、美咲は復讐を強く望んでいたから、真ちゃんも絶対にやり遂げようとするに決まっている」美咲、死んでるあんたには悪いけど、まったく罪なことをするわ。真ちゃんは、人殺しが上手だけど、人殺しを嫌悪している。その度ごとに、嘔吐している。あんたも知っていたはずよ。私たちも他人のこといえないけど。「その心理につけこむのは、どうもね。身内も巻き込んでいるし」
「不動は納得している。それに奴は、俺たちのバックアップがなくても、殺るつもりだったというではないか」不動にはプランすらなく、目的を達成できる確率は恐ろしく低く、単なる自殺行為に見えた。俺たちが介入したおかげで──不動の個人的な復讐であることを最後まで貫かないと、とんでもなく面倒なことになる可能性はあるが──ここまで漕ぎつけることができたのだ。「少なくてもお前たちについては、怨みに思っていることはないと断言できる」
「それならいいけど……。あなたにも、負担をかけっぱなしだけどね」
「そんなことはない。むしろ、感謝している。俺は、糞田舎の副署長で終わる気なんか、さらさらなかったわけだから、チャンスがあれば飛びつくさ。週末だけ帰る、中途半端な単身赴任にも飽きていた」
桂はふと思った。最初から、遼子に俺のつまらないプライドを見抜かれていたのかもしれない。掌で踊らされているってことか。だが、と桂は考え直した。踊らされているからといって、俺に損失が発生するわけではない。むしろ利益ばかりだ。だとしたら、喜んで踊らされてやろうじゃないか。
桂はいった。「そろろそ、出た方がいいんじゃないか」
「心配してくれるの?」
「当たり前じゃないか。SP付きの小旅行は無粋だが、念には念だ」
「そうね。のんびりさせてもらうわ」セーフハウスじゃあ、出歩けないしね。
電話を切ったと同時に、二階から降りてきた娘が訊ねた。「いまの、お父さん? 話しておきたいこと、あったんだけど。携帯にしていい?」
「駄目ね。仕事中だから」遼子は続けた。「例の件のこと?」
「うん。大成功」娘は、精神的、物理的に危害を加えられていた同級生のために、加害者の親の職場にメールを送ったという、いじめの現場を映した動画ファイルを添付して。娘は嬉々としていった。「父親の仕事の都合で引越しする子が、一人二人……」
「やり過ぎじゃない?」
「そんなことない。爆弾を投下する前、親宛に内容証明じゃないけど手紙を出していたんだから。『ただじゃ済みませんよ』といった警告文に、洒落にならない行為を撮った写真まで入れて。何人かはグループから離脱したけど、相変わらず続ける者が大半。それらの保護者は、保護者の責任を果たしていない。だから罰を受けるべき!」
随分、きっぱりというわね。「月曜日の面談、面倒なことになりそう?」
「誰にも気づかれていないから安心して。手紙については、すべて手袋をして作業したし、投函も渋谷でした。メールもいくつものサーバーを経由して送ったから」
考えている。ただ──「あんたはいいけど、イジメられていた子、雅子ちゃんだっけ、仕返しされない? 状況証拠だと、犯人はその子になるけど」
「もちろん、大丈夫。いじめグループのメンバーが数人いるところを見計らって、雅子ちゃんにお父さんの名刺を渡して『お父さん、何かあったら、直接、自分に電話してだって』と伝えたら、名刺を見た雅子ちゃんが『警視庁……副署長? 絵里ちゃんのお父さん、ただの警察官じゃなく、偉い人だったんだ』というから、私はわざと小声で『実は怖い人なのよ。公安なんてところにもいたから、合法的に人殺しをしたことあるかも』って」実際、間接的にだけど現在進行形でそれしてるのよね、と遼子は思った。「そうしたら、真面目な雅子ちゃん『優しそうな感じなのに……』と真に受けて神妙な顔して応えるのよ。もちろん『冗談に決まっているじゃない』といって、大爆笑」桂は三人で会っていたんだ。「で、メンバーを横目で見たら──」情景を思い出したのだろう、娘は笑い転げた。
「あんたねえ、順番違うでしょ。名刺を渡す方が先だわ。こういうときこそ、出し惜しみしないで親の権力使いなさい。そうしたら、その時点でイジメがなくなっていた可能性は高い。あんたも余計なことをする必要なかったんじゃないの?」
「あ、そっかあ。そうだよね」というとニコリとする。自慢げな顔が、桂そっくり。
絶対、分かってやっている。娘のこういうところ、嫌いじゃない。
サモワールは電熱式ではなく木炭式だった。銀製で高価な年代物であることは素人の俺にも分かる、と桂は思った。胴には双頭の鷲がエッチングされている。
蓋の上にはセットの銀のティーポットが載っている。中には、これでもか、といわんばかりに濃く煮出した紅茶。こうなると茶葉の種類がなんだろうが関係ないよな。
ティーカップはインペリアルポーセレン、一七四四年、ウェッジウッドより一五〇年以上も早く、ロシア皇帝が設立した窯だ。一九五二年、一旦、ロモノーソフという名称に変更されたものの、現在は元の名に戻ったそうだ。よく分からんが。
コバルトネットといわれる白地に青の格子が描かれ、ところどころ金で装飾されたカップに、ポットの紅茶を四分の一ほど注ぐ。サモワールの蛇口をひねり熱湯を流し入れると、香が立った。壺に入っていたストロベリー・ジャムをスプーンですくい口に入れた。ティーカップを持ち上げ縁に口をつけようとしたが、火傷しそうな熱気に気づく。空気と一緒に音を立ててすすることにした。
「日本人よねぇ」振り向くと女がいた。「行儀が悪いといわれているけど、そもそも音を立てることがなかなかできないのよ、私たちは」
「誰かいると分かっていれば、しなかったさ。日本茶のときは、熱かろうがそうでなかろうが、マナーだけどな」
桂は女を目で追った。ティーセットが載っている、天板が強化ガラスの籐のテーブルをはさんで桂の真向かいに座る。
田園調布にあるダーチャ──戦前から続く旧財閥に属する人間の持ち物だったが、子孫が財産をつぶし売りに出されていたものをロシア大使館で買い取ったという──の庭から注ぎ込む朝の光が、女のブロンドを輝かせている。コントラストがより鮮明になる黒のスーツも、ブロンドの引き立て役だ。透明感のある肌に覆われた胸は、白の薄手のブラウスからはちきれんばかり。しかも、ボリショイのプリマドンナごとき長い手足と首の持ち主。タイト・スカートからのぞく、黒のタイツにまとわれている組んだ脚の隙間が気になって仕方がない。
「ひと言いっていい? ジャムは、カップに入れてもいいのよ。私はそうしているわ」
「酸味がきつくならないか」
「もう少しお湯を入れて薄めたら。濃過ぎるから、余計、酸味を感じるのよ。それに紅茶は煮立ったまま飲むものじゃないわ。カップの底が狭く、淵が広がっているのは、熱を逃がすため。熱いまますすりたい緑茶を入れる湯飲みは真逆。考え方は、形に出るわ」
「確かにな」面倒くさい女だ。「二杯目からは仰せのとおりにしてみるよ」
「その方がいいわね。ところで、満足いただけている?」
「もちろんだ。いまさらだが、何から何まですまないな。女房の部下のキューバいきまで手配してもらって助かったよ。〝タヴァリッシ〟アレキサンドラ・ドミトリエヴナ・スパスカヤ一等書記官兼SVR少佐」
「ソヴィエト連邦崩壊から先〝タヴァリッシ〟はないわ。〝ガスパージャ〟もやめてね。逆に受け取って莫迦にされている感じがするから。〝サーシャ〟でいいわよ」
「分かった、サーシャ」
「いずれ、利害は一致しているんだから仲よくいきましょう。活動資金も随分と援助してもらっているしね。後でいただける報酬の額にも期待してるわよ」
「できればそれを、千島返還に関わる費用の一部にしたいんだがな。もちろん返してもらうのは、いわゆる北方四島だけではなく、北海道からカムチャートカ半島の付け根までの全部の島だぞ、なんてな。一応、主張だけはしておく」
「費用にしてはちょっと足りないかもしれないけど、あなたのいい分は、お金と一緒に伝えておくわ」というとアレキサンドラは続けた。「元もとあなたのところの土地だもんね。ヤルタであなたのトモダチが参戦を条件にウチにくれると約束したけど」
「分かっているじゃないか。それが、ケルト人からグレートブリテン島を簒奪した蛮族、トモダチのくそったれ先祖、アングロ族とサクソン族のやり方だよ。こっちは、あんたの国との国交回復の大義のために、完全放棄する用意もあったんだ。だが、トモダチは、そんなことをすれば沖縄は返さないと恫喝したんだぜ。勝手にあんたの国にくれてやっておきながら、だぞ」
「でも、受け入れたらお終いだわ。私たちとの関係だって、交渉すればなんとかなるはずよ。とっくにコムゥニーズムを放棄しているのよ、私たちは。カピタリーズム国家同士なんだから、話は以前より簡単でしょ。交渉できる人間がいればの話だけど」
「痛いところつくじゃないか。トモダチの意に沿わないと、こっちの人間はすぐに粛清されることを知っているくせに。最近も、地検のでっちあげに嵌った政治屋がいるだろ。かわいそうに、メディアすべてに叩かれ、青息吐息だ」
「在日米軍は第七艦隊だけで十分といったら、そりゃあダメよ!」アレキサンドラは声を立てて笑った。真っ赤な上下の唇の間からのぞく白い歯。並びも完璧だ。
「ところで」突然、アレキサンドラは笑うのをやめた。エメラルド・グリーンの瞳で見据えられ、桂はドキリとする。「元スペツナズで構成されている傭兵団が動き出したわ」
「スペツナズだと?」またも、心臓の鼓動が高まるのを感じた。今度は、性的な意味はまるでなかった。
「ええ。一個小隊計五人。シェレメチエボ空港から、それぞれが別べつの便に乗ったりして警戒していたようだけど、こっち側のスツーカチが連中を監視しているとは思わなかったようね。で、目的地は、もちろん東京」
「なんだって?」いくらなんでも、不動だけでは太刀打ちできない。「まずいことになった。くそっ!」
ふっ、とアレキサンドラは含み笑いをした。
「何が、おかしい! スペツナズだぞ!」
「メリットを考えたら? 彼らは、東京にくるのよ。目的は何? 不動、そして、あなたを殺すことだわ」
やっぱり、俺も含まれるか。
「彼らが堂上に会うのは確実。スペツナズに自分を警護させることもするんじゃない。身内じゃ心細いはずよ。となったら、潜伏場所が分かる。不動の殺しに失敗した、池部とかいう下っ端を追跡するより確か。堂上は、池部を生かしておいたことを不審に思っているはず。だから──」
「──送り狼を警戒して、池部を自分には近づけさせないか。だとすると、不動が離脱しても問題ない。しばらく不動の好きにさせてもいいか」
「そういうこと。ちなみにスペツナズは、ロンドン、ベルリン、パリ……をそれぞれトランジットして、夕方から夜半にかけて、三々五々羽田と成田に到着する予定だわ。監視と尾行に、ウチの人間を配置しておくわね」
「助かる」
「ちなみに、スペツナズを手配したのは、ミハエル・ニコライエヴィチ・アガヤンツ」
「アガヤンツ。GRUのか!」
「ええ、いまはしがない武器商人」
「なんで奴が絡んでいるんだ?」
「堂上に決まっているじゃない。しかし、なんてあざといのかしら、堂上って。あなたに放逐された人間をスカウトし飼っているんだから。分からなかったでしょ? だから、私を誘って正解。電話があったときはちょっと驚いたけど」アレキサンドラは笑みを見せた。「いまだから聞くけど、私たちも堂上を追っているなんてよく分かったわね」
「あんたらが気づかないわけないじゃないか」アレキサンドラは目立ち過ぎる。着任以来、ずっとマークしていた。反対に監視されてもいたが。奥多摩に左遷された後も、フェイクと勘違いしてしばらく続けてしていたことは分かっている。それが役に立った。「日露の怪しい取引に、堂上は必ずといっていいほど絡んでいるんだから。元GRUのマフィア、ボリスと組んでやっているシベリアの資源開発なんかいい例だ。互いに国家公務員だったものだから、そのコネを使って税金から事業資金を引き出している。しかも、自らが事業化する気はさらさらない。権利を丸投げするならまだしも、計画段階で金を取るだけ取って撤退した例もあったはずだ」
「それだけではないわよ。未確認情報だけど、中国では軍閥や党幹部に接触を図っているらしい。スキャンダルをネタに脅しをかけて浸透中。アメリカに留学させている坊ちゃん・嬢ちゃんの写真を送るだけでも、いいなりになるらしいわ。総資産が日本円で一兆円を超えている輩なんてざらだから、美味しいわよ」
「家族を盾にする方法は、どこでも通じるんだな」
「そうみたいね」というとアレキサンドラは宣言した。「さあ、我われ〝正義の味方〟が泣きごといっている暇はないわ。スペツナズがなんぼのもんよ!」
「勝算があるんだな?」アレキサンドラの自信満々な態度に桂は不安を覚えた。
「もちろん!」アレキサンドラはこれでもか、という笑みを見せた。
「どんな勝算だ」
「いまから私たちで考えるのよ、決まっているじゃない」アレキサンドラが平然という。
「俺は泥船に乗ったんじゃないよな?」
「大丈夫。あなたは、夕べから寝てないから、ネガティブ・シンキングに陥るのよ。休んだら? 私も付き合うわよ、丈太郎。いえ、ジョー」
無茶いうな! アンナ・チャップマンなんて目じゃない容姿を持つアレキサンドラが、士官学校でどんなテクニックを学んだか確かめたい気持ちはある。朝ということもあり、本能が鎌首をもたげているのも事実だ。だが、寝室にはビデオカメラが仕掛けられているに決まっている。まんまと誘いにのったら、アレキサンドラのいいなりにならざるを得ず、そりゃあ発覚しないよう努力はするが、万が一の場合「金髪美女に目らくらんでSになりました」なんて取り調べでいわせられるんだ。いくらなんでも、恥ずかしいだろ! 蔑んだ遼子と絵里の顔が目に浮かぶ。まるで耐えられそうにない。とはいえ……。
「せっかくだが、いまは休んでいる暇はないと思う。飯田橋の件もあるんでな」さんざん妄想した挙句のいい訳がこれだった。
「よかった。返事が遅過ぎるから、本気にされたのかと思ってドキドキだったわ」
山村の携帯にメールが入った。送信先のアドレスは、ランダムなアルファベットと数字が組み合わされたフリーメール。山村は訝りながらメールを開いた。西条からだった。
〝すまん、山村。俺は降りざるを得なくなった──〟




