兎のユメと揺れるセカイ
もういないのだ、と思った。私の愛した人は。私を愛してくれた人は。
お腹の底に、ずっと深い底に、手の届かないところに、おそろしく重いものを抱え込んだかのようだった。膝に力が入らない。猫背のように背を丸めて、すっかり渇いてしまった目元に、からだの中の最後の水滴が浮きでてきた。
「大丈夫。大丈夫だから、 」
声が聞こえる。誰の声だろう。聞きなれた、家族みたいに、安心できる人の声。あったかくて、渇いて冷えた私のからだに熱と再びの潤いを与えてくれる。
「 、 」
また声がした。私を呼ぶ声。私の名前を、ずっとそう呼ばれ続けてきた、私を呼ぶ声。
重いものはなくならない。時の進むに連れて、その重さはより増していくようにも思える。重くて、重くて、放り出したくなるけど、持ち上げられもせずに。
息苦しくなって、背中の熱も溶けていって、最後の水滴が、頬をつたっていった。
きっと私の中の重さはなくならない。きっと、今までどおりには笑えない。ならばいっそ、誰もかも、忘れてしまったほうがいいのではないか。
私は、ワタシは、わたしは、
*
目をあけると、兎が背筋を伸ばして二足歩行していた。これは夢だ。
背もたれ代わりになっていた本棚はカラで、もともとそこにあったであろう本の数々は、素足を投げ出して座り込むわたしの周りに積みあがっている。
整然と、うずたかく。
その様子は短絡的な妄想に見る本の海とはまるでかけ離れていて、きっちりしているのに、どこか現実的ではない不安定さを感じさせられる。
視界の中の色彩に統一性が無い。ぐちゃぐちゃの、ばらばらの、色が置き去られているかのような不確定さ。
胸元の金時計をきつく握り締めて、わたしは本棚から体を離した。絨毯の敷かれた床に、はだしのままで立ち上がる。それを見た直立兎の紅い瞳がわたしを捉えて、それから彼は口を開いた。
「それでは、貴女」
「あなたって、わたしの事?」
「そう、貴女、貴女です、アリス。お目覚めならば早くゆかねばなりません。さぁ、さぁ、急いで」
兎の口調は本当に焦っているように聞こえた。そもそも兎が口をきいていることに驚かないわたしという存在について、一通り考えなければならないような気もするけれど、まさしく夢の世界であるならば、その程度の不思議は当然として処理されてもなんらおかしいことはないだろう。
それより、そう、返すべき言葉は別にある。
「待って、何をそんなに急いでいるのか知らないけれど、兎さん。何処に行くつもりなのかしら、それに
、わたしの名前はアリスでは無いわ」
「良いのです、構わないのですそんなことは。兎に角アリス、急がねばなりません、兎の世界が狂ってしまわない内に。海にゆくのです。今の貴女はどうしてもアリスなのです」
「兎の世界……? 此処はわたしの夢じゃないの?」
「それは貴女が気付くべきことです、私が教えて差し上げるわけにはいかないのです。さぁ、急いで、急いで。三月が来てしまう前に!」
言うなり、兎はわたしの手を取って、強引に走り出した。覚束ない足元で、連れられるままに、わたしは兎の後を着いていく。
三月が来る前に、と兎は言ったが、私の記憶が正しければ、私の生きる日常は既に葉桜の季節を迎えて久しかったはずで、現にわたしの今の格好は、ラフな部屋着、無地の白Tシャツにジャージ素材の短パンと、衣替えの準備を一通り終えた段階にある。そうでなくても、夢に違いないこの世界の気温は、そもこの格好で、いや、極論、一糸纏わぬ姿であったところで気温の高低を感じることはないみたいだった。
肌が外気を感じない。ちぐはぐな色彩の中で、季節感もとらえられない。
しばらく走って――その結果どのくらいの距離を移動したのかもわたしには分からなかったけれど、兎の足が唐突に止まった。視界をしめる本の塔、その高さは歩を進めるごとに増すようで、今となっては塔の隙間、それも段々狭くなっていく中を、細く見取れるだけである。高くなった塔の所為で、あったのかどうか、把握し損ねていた空も見えない。
「ねぇ兎さん、ついたの?」
立ち止まってから黙り込んでいる兎に堪えかねて、尋ねる。首だけで振り返って、紅い瞳がこちらを見据える。
「えぇ、ここです。ここが海です」
「……うみ?」
「そうです」
海。言われてあたりを見回しても、相変わらず本の塔が視界を満たすばかりで、水の一滴も見当たらない。波の音もない。潮のにおいも感じられない。
「……海なんて無いけれど」
「いいえ、あります、ここが海なのです。分かるはずです、貴女には。――色を!」
兎がそう叫ぶのを聞いて、そんなはずはないのに、わたしの見ている世界の色彩が一気に変わり果てたような錯覚を覚えた。夢、錯覚、色、どれもあいまいなものばかり、この世界には溢れている。
変わり果てた世界は、一様に灰色がかっていた。白い兎と、わたしの肌と、服と、髪と、それから胸元の金時計だけが、異質なもののように強く色を保っている。
「――――塔が」
思わずもれたつぶやきに、兎がうなずく。
塔が、崩れてきていた。バサバサと、羽ばたくように、本の山が頭上から降り注いでくる。頭を抱えることすら出来ずに、でも、一冊としてわたしに直撃するものは無かった。すべての塔が崩れ去って、次第に、気づけば、わたしと兎の足もとは、元の地面の色が思い出せないくらい大量の本の山に埋め尽くされてしまっていた。
本の海。ここがそうだと、兎はそう言っていたのだ。
「さぁ、アリス、時計を」
言われるがままに、ずっと首から下がっていた懐中時計に目をやる。かちり、スイッチを押し込んで、文字盤を表示してみる。時刻を表す三本の針も、数字も無い。表記されているのは、レタリングされたアルファベットが六つだけだった。
夢の中に時間があるのかは甚だ疑問だけど、時計に文字盤が無いとはユメにも思わなかった。思わず兎に訝しげな顔を向けてしまう。
「この時計、時刻が知れないわ」
「えぇ、そうでしょうとも、アリス。さぁ、まだまだ時間に余裕はありませんよ、貴女は貴女を目覚めさせなければならないのです。そこに浮かぶ言葉こそが、貴女を導く地図となりうるでしょう」
「待って、制限時間があるのなら、それは何時なの? それにわたしは、何をすればいいのかも分からないわ。この本の――――本の海で、わたしは何をすればいいの?」
「すべてはその時計が教えてくれましょう! 三月までのタイムリミットは波のウき・シズみをもって示されます」
わたしの知る波は寄せて返るものであって、浮きも沈みもしないものだが、それに関して、兎の言っていた意味はすぐに身をもって実感できた。本の海が、奥の奥から、うねるように一度、小さく浮き上がったのだ。重なっていた本たちの位置がわずかにずれて、小さなうねりは収まっていく。
そのうちの一冊を拾い上げる。無造作に一ページを開くと、ひと目でその正体が知れた。
桜の木の根元に、緊張した面持ちで立つ、園児くらいの小さな女の子。その両側に、にこやかな若い男女の姿が認められる。
――――女の子は、わたしだ。そして若い二人は、わたしの両親。これは、幼稚園の入園式の写真だ。
他のどの本を開いても、現れるのはわたしと両親の姿だった。小学校の入学式、運動会、卒業式、家族旅行、中学、高校――――。ここにあるすべてがわたしの人生の記録……アルバムのようだ。
「アルバムです、そうですとも、アリス。ですが、そうだけではありません。それだけではいけません。目覚めるためには幾つか、成さねばならぬことがあるのです。――練習を、しましょう」
「練習?」
彼の言葉を反復して首をかしげたわたしに、兎はかくんとうなずく。伸びた背筋をさらにぴんと伸ばして、波が高まっていく中から、一冊を抜き出す。
「さぁさ、お答えなさい、アリス。貴女は今何歳ですか?」
それがなんの練習になるのか、わたしには分からなかった。だが、分からない以上、何かしらを知っているらしい兎の指示に従わない理由は無い。少し考えて、すぐに答えを出す。
「わたしは……十九」
「考えましたね」
わたしの言葉にほとんど重ねるように、ぞっとするような口調で、兎は言い放った。
「年齢を尋ねて、貴女は今、『少し考え』ましたね? 考えるようなことではないはずです、何せ、貴女は次の誕生日がくるまで、意識するまでも無く十九歳なのですから」
「そう、だよ。来週の末までは、わたしは紛れもなく十九――」
来週の末までは? 自分自身の言葉に違和感を感じて、すぐに頭を振って思い直した。
当たり前だ、来週末には誕生日が来る。ほかでもないわたしの、誕生日。そうすれば、わたしは二十歳になるのだ。
「そう、その通りですよアリス。練習はここまでです、後はご自身の力で見つけなさい。貴女が忘れかけていること、……目をそらしていることは、何でしょう?」
「……」
目をそらしている。
二十歳になることから? どうして。
人間である限り、日々を生きれば年齢が重なっていくのは当然の摂理である。わたしはそれについてなんら抵抗を覚えたことはないし、合法的に成年を迎えられることを、少なからず喜ばしく思ってもいたはずだ。そのことから、目をそらすなんてありえない。
手の中の金時計、アルファベットの列がくるくると回り始めた。『m、e、m、o、r、y』のアルファベット。『Memory』、すなわち、わたしの記憶。
何か、記憶に靄のかかった部分がある。そもそもわたしは何者だ? アリスじゃない、なら、いったい。アリスじゃなくて、性別は女、年齢は十九……。
「学校……」
「えぇ、えぇ、貴女は大学生です。良いですね、良い経過です。しかし時間はありません、急いで、急いで」
むこうの世界で、わたしは大学生である。普通に学校に通って、普通に授業を受けて、バイトをして、家に帰って、母の作ってくれた夕飯を食べる。ありふれた生活だ。
「本当に? 嗚呼、波が高くなってきました、もっと考えるのです、貴女、貴女の生活は、本当にそんなものでしたか?」
「でも、だって」
思い出せないのだ。頭がぼぅっとして、視界がはっきりしない。時計の金は、くもる記憶を少しずつ、その光で照らし出していくけれど。
ぐらぐらと、ひときわ大きく波が来た。下から浮き上がった本が、表面に漂っていたそれらと一気に入れ替わる。そのうちの一つを、また手に取った。
「……?」
開いたページの写真に向けて、首をかしげる。思い出を記したこれまでのものと違って、写真の中のわたしは大学生の今と同じ姿をしていた。その隣に、見覚えのあるような、背の高い、曖昧な笑顔をたたえた青年の姿がみえる。今までのと同様に、写真のわたしは笑っていた。家族に見せるのと同様の笑顔で。そこにいるわたしは笑えていた。
「記憶の正体に心当たりがあるはずです、アリス。これは貴女の記録。貴女の夢。夢は記憶を整理するもの――」
「ジュン君……」
唇から音が漏れる。ジュン君。高校時代の同級生で、同じ大学に進んで、それで、
「思い出しましたね。でも、それでもまだです。答えは近い、急ぎましょう!」
ジュン君はわたしの彼氏だ。三年生のとき、希望進路が同じと知って、その年の長い時間を一緒にすごした。勉強もしたし、息抜きに遊びにも行った。二人とも大学に受かって、合格発表の帰り際に、告白された――。
波は強さを増す。とめどなく、浮き沈みを繰り返す。足もとが覚束なくなって、わたしは膝を追って座り込んでしまう。
彼との日々を思い返した。長く一緒に過ごすうちに、わたしの想いも彼のほうを向いていたし、一年間誰よりも近くにいたおかげもあって、わたしと彼の付き合いは至極順調だった。両親の半分にも満たない人生の中で、それでも強い恋愛の感情を、わたしは知った。
『 、大丈夫だから』
唐突に、頭の中を言葉が駆け巡った。暖かな彼の声で再生される、やさしい言葉。やさしいのに、どこか哀しさを感じさせる、すこし揺れる声音。
「あぁ」
嘆きともつかない声が漏れる。哀しみに沈むわたしを慰めながら、ジュン君もまた、哀しんでくれていたのだ。何を。
ずん、と、身動きできなくなるくらいの見えない錘が、わたしの肩にのしかかったような錯覚を覚えた。
もういないのだ。誰が。
涙が落ちる。なんで。
哀しいかれの声が聞こえる。どうして。
哀しいわたしのコエがキコエル。
なんで死んでしまったの、って。からっぽの広い家の中で、わたしは一人取り残されたのだ。
「思い出しましたね」
しみこむような、兎の声がした。波の高さは最高潮で、でも、わたしの周りはすっかり落ち着いたままである。揺らいでいるのはわたしの心なのだ。
兎の周囲もまた、静かなままに、波が立っていた。
「思い出しましたね、貴女、貴女は」
彼――――否、今となっては分かる、『彼女』の紅い瞳から、涙の筋が落ちるのを見た。
「貴女は、私、なのね」
そっとつぶやいた言葉に、兎は無言でうなずいた。
泣きはらした、哀しみに暮れる紅い瞳。さびしさに埋もれる壊れた心。波立つ世界。
「お母さんと、お父さんが、死んだね」
細く、わたしは問いかける。哀しい瞳のままに、私はあごを引いて答える。
「広くて寂しい部屋に、耐えられなかったんだね。夢中で電話して、ジュン君が来てくれたけど、私は」
彼の優しさに触れて、一緒に哀しんでくれる彼の優しさに触れて、少しだけ緩和された寂寥感は、それでも弱い私を壊してしまうには十分だった。もう一度、私はうなずいた。
「夢は記憶を整理するもの――
「覚悟は出来た?
「いつまでも、時間は止まったままではいてくれないから――
「錘を抱えたままでも、私は――
*
目が覚めると、白い壁の部屋にいた。少し考えて、ここが病室であることを知る。堪えられなくて、意識を失ってしまっていたらしい。左腕からは点滴のコードが伸びていた。
少し首をめぐらせると、ベッドの傍らのパイプ椅子に座っていたジュン君が、目を大きく見開いて私を見ていた。
「雪、お前、起きたの」
驚いた顔の割に、口調はひどく落ち着いている。目頭が熱を持つのを必死にこらえながら、小さくうなずく。ふっと、彼の表情が優しくゆがんだ。
「三日も寝ていたから、心配したよ」
「……ごめんなさい」
でも、ありがとう。彼の表情から、ずっと看てくれていたのだろうことが分かる。
「ご両親のことは?」
「わかってる。ちゃんと覚えてるよ。心配してくれてありがとう、ジュン君。大丈夫だから、私」
「嘘だ」
さらっと両断されて、驚いたのと同時に、こらえていた熱が溢れ出してしまった。ほらみろ、と言わんばかりに、ジュン君の大きな手が私の髪をかき混ぜる。
「大丈夫なわけないだろ、雪。嘘言うな」
「……ごめんなさい」
それから落ち着くまで、ジュン君は頭を撫でていてくれた。沸きあがる嗚咽を必死に抑えながら、私は彼に、夢の中の話をした。
兎の姿をした私のこと。壊れて、狂ってしまいそうなくらい、心が揺れていたこと。兎と一緒に、アルバムの海の中で、大事な記憶をちゃんと思い出せたこと。
ジュン君は始終だまって私の話を聴いていた。語り終えて、私が幾分か落ち着いてくると、彼は何か意を決した風に口を開く。
「雪、僕と一緒に暮らさないか。君が抱えてしまった錘を軽くするために、少しでも力添えしたい。……というか、前から考えていたんだ。ゆくゆくは、君の家族になりたい」
「……っ」
ようやく落ち着いたばかりの心が、また大きく乱されてしまった。ぼろぼろと溢れる涙を止める手立てはなくて、ジュン君の胸に顔を押し付けて嗚咽を殺す。
彼の広い手を借りられるのなら、重すぎるくらいのこの錘も、背負っていけるような気がした。
こういう内容なので解説をば。
私こと雪は、両親の突然の死を受け入れ切れずに意識を遮断してしまいます。夢の中、「わたし」として一切の記憶の受け入れを拒否した状態の彼女は、兎に導かれる形で、現実を思い出し、受け止めていきます。
本の海を雪の記憶、浮き沈みする波を心にたとえております。兎は実は全て忘れられずにいる「私」自身で、「寂しいと死ぬ」とか、瞳が紅いところから連想して比喩に使いました。その他いろんなところに題が関係あったりなかったりする掛詞などなどがある……はずですので、よろしければそういった部分も楽しみつつ、なんだかんだ、雪とジュン君の前途を祈っていただければなぁと、そんなところです。
それでは、読了ありがとうございました。気が向きましたら作者のほかの拙作もよろしくお願いします。
草々。