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trinity  作者: トウリン
9/13

 何とか日本からアメリカへと舞台を移すことが出来た三人は、最初の宿泊先はごく普通の、どちらかといえば安っぽいと言えるモーテルへ腰を落ち着けた。金銭的な余裕はあったが、あまり目立つことの無いようにと、レイが中堅どころを選んだのである。

 日本を出たのが夕方のはずなのに、アメリカに着いたらまだまだ真昼間という、記憶上初めての、十時間以上もの時間の逆行を経験し、瑠衣るいは気だるい身体をもてあましていた。

「瑠衣さん?大丈夫ですか?」

 気遣うレイに、彼女は微笑み返す。

「ありがとう。でも、ちょっとだるいだけだから。大丈夫、すぐ治るよ」

「それならいいのですが……無理はしないでください」

 瑠衣に優しく声をかけておいて、それにしても、とレイはもう一人の同行者に目を向ける。

抄樹あつきは随分元気だな。長距離の移動には慣れていないはずなのに全然堪えていないとは、やはり並みの神経とは思えない」

 信じられない、とばかりにわざとらしく溜め息を吐くふりをする。

 国内を横断するだけでもおよそ四時間の時差を経験することの出来た──しかも、その卓越した頭脳のために国内外を問わず飛行機での移動が多かった──レイでさえ、地球を半周するこの行程には少々辛いものがあったというのに、生い立ち上は瑠衣と同じ条件である抄樹は平常そのものである。

「あーちゃんはいつも元気だから……」

「元気──使い勝手のよい言葉ですねぇ」

 仲が良いのに喧嘩ばかりしている弟たちを見守る姉の風情で苦笑を浮かべる瑠衣に、レイは肩を竦めて目だけで天井を見上げた。

 ホテルの部屋を隅々まで調べようと歩き回っている抄樹を、レイが目一杯バカにした眼差しで見る。

「いい加減に落ち着いたらどうだ?マーキングをしている熊じゃないんだから」

 動きがピタリと止まった。

 しかし、身長が百八十センチ以上で、しかもスレンダーとは到底言いがたい男がのしのしと歩き回っているさまは、その形容が非常にしっくり来るのである。

「……くま……」

「瑠衣。そういう顔をしているということは、お前もそう思ってるってことなんだな」

 いかにも笑いを堪えています、と言わんばかりに肩を震わせている瑠衣を恨めしそうに睨む。そうなると、熊というよりも、さながら頭からバケツいっぱいの水を掛けられた長毛種の犬である。

 渋い顔で探索を中止すると、抄樹は瑠衣の隣に腰を下ろした。

「やれやれ、ようやく作戦会議が始められますね。あまり時間が無いというのに」

 これ見よがしな溜め息を吐きつつ、レイが肩を竦める。

「一言多いんだよ。ったく……嫌味なやつだよな……」

 ぼやいた抄樹の背中を、苦笑しながら瑠衣が軽く叩いた。

「レイ君もあーちゃんも、作戦会議でしょ。早くしようよ。これからどうしよう?」

「そうですね。僕としたことが、つい抄樹ごときに馬鹿なことを」

 反応するのは無駄なことだと解っているのだが、いちいち癪に障るやつである。抄樹はこめかみに青筋を浮かべながらも、何とか心の中でゆっくり三まで数えた。舌戦で適うわけがないのはわかりきっていることだ。抄樹は口にしっかりチャックをすることを決め込み、腕を組んでそっぽを向いた。

「これからすぐに買出しに行きましょう。まず、自動車を──足が無ければ、如何ともしがたいですからね」

 口を動かしながら手を動かし、レイはこの滞在のうちに必要となるものを次々と書き出していく。

「でも、私たちみんな未成年でしょう?保証人も無しに車を売ってくれる人いるかしら」

 尤もな瑠衣の言葉に、レイは無言で彼女の横に腰を下ろしている抄樹を指差して答える。

「彼だったら、もう十八歳だと言っても通用するでしょう。ましてや日本人だといえば、童顔だということで納得してもらえます。個人経営であまり盛っていなそうなところを選んで、向こうの言い値に五割かそこら上乗せすれば、大丈夫です」

「……人のこと指差すなよ」

 真っ直ぐ向けられた指を払いのけ、抄樹は憮然とした顔で呟いた。

「おや、失礼。そんなことを気にするほど繊細な神経を持っているとは思わなかったもので」

 再び、可愛げが微塵も無い物言い。

 元々それほど丈夫な堪忍袋の持ち主ではない抄樹である。ブチッとその緒が切れる音が頭の中に響いた。

 男二人が同時に勢い良く立ち上がる。

 漆黒とライトブルーの二つの瞳が真っ直ぐにぶつかり合った。二人の衝突が表面化したのはこれが初めてである。

 軽いジャブのような言葉の応酬はしょっちゅうあった。だが、ここで注目すべきはそれらの発端が、常にレイの側にあったということであり──そして、大きな喧嘩にならなかった理由というのもそこにある。

 事有るごとにレイは抄樹の揚げ足を取り、揶揄し、皮肉った。それは今まで他人とは常に透明な壁を通してしか接しようとしなかったレイには有り得なかった言動だった。

 何か曖昧な苛立ちのようなものが彼にそうさせるのだが、それでは、何故、そんな子供じみたことをするのかと問われると、答えを返すのが困難なのだ。

 そのことが、なお一層レイを苛々させた。

 睨み合いは一瞬。

 抄樹がレイの胸倉を掴もうと腕を伸ばし、それを避けようと身構えた細身の肩がこわばった。

 その時、彼の気を殺ぐタイミングで、のんびりとした声が隣から届く。

「レイ君て、本当にあーちゃんのことが好きだよね」

 視線がベッドに座り込んだままの瑠衣に集まった。

「……今、何て言った?」

「だから、レイ君は、あーちゃんのことを、とっても、好きだよねって」

 耳を疑う台詞に強調語が加えられた。

 がくりと、二人の緊張が解ける。息を揃えたわけでもないのに、全く同じ仕草でドサリと腰が落ちる。

「僕が、抄樹を、ですって……!?まさか!」

「お前な、状況を全っ然、理解できていないだろう。どこをどうやったら、そう見えるんだ?」

 こういうときだけ息の合う二人の猛烈な反対に、瑠衣はきょとんと首を傾げるだけである。

「え?違うの?二人とも仲良いでしょ。いつも、ちょっと妬けちゃうんだけどな」

「仲好いように見えるのか、これが?」

 肩の間に頭を落とし、尋ねるというよりも確かめるような口調で、抄樹がいささか間の抜けた彼女の台詞を繰り返した。レイに至っては言葉も無い。

 二人のそんな態度が解せない瑠衣は、益々首を傾げる。

「でも、レイ君てば、あーちゃんには自分から話しかけるんだよ。それに、私には丁寧な言葉しか使わないし」

「こいつのは話しかけてくるんじゃなくて、喧嘩売ってきてるんだぜ」

「喧嘩するほど仲がいいって言うのよ」

「そういうレベルじゃぁないと思うけどな……」

 とことん対人関係において感覚が違いすぎると見た。天然ボケもここまで来ると幸せなものである。

「おーい、レイ。お前は何か言うことが無いのか?」

 瑠衣を正すことは諦め、抄樹はさっきから黙り込んでいるレイへと話を振った。が、反応が無い。

 いつも隙の無い彼がぼんやりするとは珍しい。

「?……レイ君?」

 瑠衣が覗き込んだが、やはり返事が無い。

「あんまりお前が馬鹿なことを言うもんだから、こいつの優秀すぎる脳の回路がどっかいかれちまったんじゃないのか?」

「どこが馬鹿なの?ホントのことでしょ」

 ひそひそと二人の遣り取りが耳に届いたのかどうなのか、レイが突然伏せていた顔を上げて声を上げる。それはまさしく、『ユリイカ!』と叫ばんばかりの動作であった。

「そうです!そもそも、この僕が抄樹風情にいちいち目くじらを立てるということ自体が間違っているのです!そんなことに今更気付くなんて、僕としたことが……」

 情けない、と頭を振るレイであるが、『風情』呼ばわりされた抄樹にそんな台詞を放っておけるはずが無い。

「おい、なんだよ、その言い草は!」

 ベッドをひっくり返す勢いで立ち上がり、怒鳴り飛ばす。

「いや、気にしないでくれ。自分の馬鹿さ加減にも気が付いたところだから」

「だからな、それがお前ムカつくってんだよ、俺は!」

 完全に頭に血が昇っている抄樹に、レイは両手の平を上に向けて首を振る。

「ほら、こうやって母国語さえ満足に扱えないものを僕が相手にすることが間違っていたんですよね。そう思いませんか、瑠衣さん」

「お前、ムカつくぞ、非常にムカつくぞ、俺は!」

「え……えーっと……?」

 なんと答えるべきなのか。

 あちらを立てればこちらが立たずという状況で同意を求められても、瑠衣に返事ができるわけも無い。さらに時差ぼけで半分寝ているような脳味噌では、満足な思考も成り立たない。自然、言葉尻を濁した、意味を持たない感嘆詞しか口から出てこなかった。

 頭に血が昇りきっている抄樹と、二人の弟の板ばさみとなって頭を抱えている瑠衣を尻目に、一週間越しの便秘がようやく解消したような晴れ晴れとした顔をしているレイではあるが、では、何故、抄樹のことを目の敵にしたのか、という肝心な問題から目を逸らしていることには、彼自身気付いていなかった。

 何故、抄樹のことが気に障るのか。

 プライドの高いレイではおそらく一生悟ることは無いと思われるその理由というのは、ひとえに『嫉妬』という感情に基づいたものであった。何のことはない、自分よりもはるかに昔から瑠衣と一緒にいた抄樹に、レイは焼餅を妬いたのである。

 そして、また。

 抄樹のほうが瑠衣といた年月が長いというレイの嫉妬の理由は、同時に、抄樹の余裕となっていた。本来なら、言葉でとはいえこれほど喧嘩を売られていて、抄樹がおとなしくそれを受け流しているはずが無いのだ。

 レイが抄樹に抱いている嫉妬、そして、抄樹がレイに対して抱いている無意識の優越感。

 知らぬが仏、という微妙なバランスで三人の天秤は保たれていた。

「じゃあ、すっきりしたところで行動を開始しましょうか」

 一人で『すっきり』した顔をしているレイはスックと立ち上がると、意気揚々と地図を広げ始めた。この辺りの大まかな道をあらかじめ頭の中に入れておけば、不必要に歩き回る無駄は省ける。

「俺のこのムカつきは、いったいどうしてくれるんだよ、畜生……」

 取り残されてぼやいた抄樹の背中を、瑠衣が苦笑しながら軽く叩く。そのフォローが無ければ、最高潮となっていた彼のストレスは爆発していただろう。

 ──今は、こいつを相手にしている場合じゃないんだよな。小さいことは後だ。親父を取り戻さなきゃならないんだし、瑠衣を護ってやらなきゃならない……レイもな。

 抄樹は大きく深呼吸して気を取り直す。

「俺とレイで用は済ませてくるから、その間瑠衣はここで寝てろよ。少しは楽になるだろう」

 抗議の声を上げる間を瑠衣に与えずに、それで良いよな、と同意を求めるようにレイに目を向けたが、抄樹の予想に反して彼は首を振った。

「いや、時差ぼけはかえって外に出て動いたほうが早く治るし、バラバラになっているときにやつらが手を出してこないとは限らない。つらいでしょうが、瑠衣さんにも一緒に行ってもらいます」

「けど、かなり具合悪そうじゃないか。無理してもっと悪くなったら……」

「私なら大丈夫だよ。それより、二人と離れるほうが、いや。一緒に行く」

「抄樹、多数決だ。一対二では勝ち目は無いだろう。そもそも、過保護にすればいいというわけでもないし」

 確かに、レイの言うことには一理ある。抄樹にしても、自分が過保護だと思うときが多々あるのだが、瑠衣が転びそうになると、つい手を出してしまうのだ。これは彼にとって、理屈や頭で判断できるものではなかった。

 二人──取り分け瑠衣本人の反対を無下にするわけにもいかず、抄樹は三人揃っての行動を受け入れる。

「仕方ないか……やつらがいつ手を出してくるか判らないし。全く、厄介だよな」

「まさに神出鬼没。彼らにあの移動法が使える限り、僕たちにはわずかな油断も許されない」

「あーあ、俺向きの相手じゃないよ。こういう、色々作戦を練らなきゃならないってのは」

「わざわざ自分で言わなくても、そんなのは判りきったことだよ。君は力だけの人なんだから」

「それを言うなら、お前はもやしだろ。ひょろひょろしやがって」

 またぞろ始まるじゃれあい──抄樹とレイにとっては、お互いの威信を掛けたそれなりに真剣な口論なのだが──に、その収拾が付かなくなるほど過熱する前に、と瑠衣が割り込んだ。

「またぁ。二人とも、のんびりしている暇は無いんでしょ。全部終わったら、いくらでも遊べるんだから、今は取り敢えず退いて退いて」

 まるで子犬の喧嘩を引き分けるような物言いに、義弟らは情けない顔で肩を竦めあった。

 度々言及される『力と頭脳、どちらがより役に立つものなのか』という議論は、他でもない、この瑠衣のためなのである。ここでも知らぬは本人ばかりなり、ということか。

「俺らって報われねぇよなぁ」

「そうだな……ま、持久戦は覚悟の上だ。ああ、言っておくけど、僕は気が長いから」

「俺もだよ。何たって、この道突っ走ってかれこれ十年なんだからな」

「……それだけ掛けても駄目なんだから、もう諦めたらどうだ?」

「バカ言うなよ。それが出来るくらいなら苦労しない。大体お前、人事じゃないぞ。あいつの鈍さは尋常じゃないんだから」

「それはそうかも……」

 ぼそぼそと野郎二人が額を寄せ合って内緒話をするさまは、かなり変だ。瑠衣が不審も露わに顔を寄せるのに、抄樹とレイは揃って口を噤む。仲間はずれにされて、当然彼女には面白くない。

「何よ、やっぱり仲良いんじゃない」

 二人に背中を向けて口を尖らせた瑠衣の後ろで、抄樹とレイは顔を見合わせて苦笑する。

「おーい、瑠衣。むくれるなよ」

「そうです。美人が台無しじゃないですか」

 すかさず点を稼ごうとするレイを横目で睨み、抄樹が鋭い切り替えしを浴びせた。

「バーカ、このぐらいじゃぁ、瑠衣はブスにはならねえよ」

「うっ……これは一本取られたかも……」

 放っておけばいつまでも続いてしまいそうな弟たちの掛け合い漫才に、瑠衣のジェスチャーも長くは続かず、つい頬を緩めてしまう。

「そういう台詞は私にじゃなくて、将来好きになった娘に言うものよ」

 クスクスと笑みを漏らしながら無邪気に言ってくれる瑠衣を、男二人は複雑な心境で見やった。なかなか気が合うことのない二人だが、彼女のことについては常に共通なのである。

 顔を見合わせて苦笑いを浮かべる抄樹とレイを、一人事情の飲み込めていない瑠衣が首を傾げて見つめる。その顔がなんだか嬉しくて、二人はとうとう声を上げ、身体を曲げて笑い出した。なんとも平和な、何も知らない者が見たら、子供たちが親抜きの旅行を楽しんでいるとしか思えないような、その光景。

 だが、いくら三人で軽口を叩いていても、彼らの心も同じくらい軽いわけではない。気を抜けば容赦なく首をもたげてくる不安を紛らわすためには、そうするしかなかった。

 強大な力を持つ敵を相手に、特異な能力を背負わされたとはいえ、まだ子供でしかない瑠衣たちには、時折目の前の壁から目を逸らすことも必要だったのだ。

   *

 部屋に入ってきたエールリッヒに、信彦は薬でどんよりと濁った目を向けた。だが、現在の敵である男を見ても、信彦の心は何の反応も示さない。

 その人物がエールリッヒだということは判っており、彼がどんなことをしたのか、ということも覚えているのだが、思考と情動を繋ぐ糸がプッツリと切られたように感情が働かない。

 背中を丸めてベッドに腰を下ろしたままの信彦を、エールリッヒは冷たく一瞥する。

「だらしないな……信行。それとも、信彦と呼ぼうか?」

 皮肉な色を浮かべるエールリッヒの言葉にも返事はない。

 膝の上に投げ出された両手首の包帯に視線を送り、エールリッヒは外見だけは痛ましそうに小さく肩を竦めた。

「私だって、君に薬なんて使いたくはなかったのだよ。ただ、少し目を離すと、すぐに君は怪我をしてしまうからね、仕方がない。まったく……せっかく君の可愛い子供たちが助けようと頑張っているというのに、彼らがここについたとき、君がこの世にいないのでは、可哀相ではないかね」

 信彦の目に、微かに生気が戻る。

「な、に……?」

「ルナたちがここに来るよ。もう、同じ大陸に足を下ろしている」

「ルナ、ではない。あの娘は瑠衣だ……ごく普通の子供として育ててきた──現に、ここから出て以来、あの力は一度も発現していない」

 細かく震える信彦の肩を宥めるように叩くと、エールリッヒは子供に言い聞かせるように優しく微笑んでみせた。

「君は聞いていないのかい?ルナは一度現れている。十七号──ああ、君たちはあれを爪牙と呼んでいるのだったかな、あれを君のところに送ったときにね。ルナが十七号を従わせたのだよ。そうでなければ、どうしてあれがおとなしく言うことを聞いていると思っているのだ?」

 言葉を増すたびに、徐々に嘲笑の色が濃くなっていく。

「どうしたのだね?ああ、彼らに隠し事をされていたのがショックだったな?」

 だが、彼らを責めてはいけないよ。彼らなりに考えた結果だったのだろうからね。

 信彦の沈黙をどう取ったのか、エールリッヒは、鉄格子越しに窓から外を眺めながら続ける。

 しかし、信彦はその台詞の半分も聞いてはいなかった。エールリッヒに言われなくても、子供たちの結論に異を唱えるつもりはない。いつでも子供たちの自主性に任せてきたのだから。

 だが。

 信彦には、今回の瑠衣たちの判断を認めることは到底できなかった。助けに向かっていると聞いて、嬉しく思う気持ちは微塵もない。愚かとしか言いようがなかった。

 瑠衣たちがここに来るまでに何とかしなければ。

 そうは思っても、焦りは強制的に毎日投与されている薬物の効果と相まって、心と脳をちぢに掻き乱す。

「頼むから……頼むから、もう放っておいてくれ……あの子達は幸せに暮らしている──いたんだ。お前たちが手を出さなければ……普通に暮らしていける」

 頭を抱えている信彦に、エールリッヒは冷ややかな眼差しを向ける。

「君は、あの目的をすっかり見失ってしまったのだな。自分たちさえ良ければいい、というくだらない人間どもと何ら変わることがない」

「それは違う。私は……」

「何が違う?何も違わないだろう。君たちは、一時の情に流されて、大勢を見失ったのだ」

 信彦の弁明は、穏やかな声で叩き潰された。

「私たちが目指したのは、完全なる平和ではなかったのか?そのために必要なことは、君も解っていると思っていたが、それは私の見込み違いだった」

 淡々とした口調には何の感情も込められてはいないようだったが、そうではなかった。永い年月をかけてエールリッヒの奥底に凝ったものは、あまりに深すぎるがために、外側から察することは難しい。

 かつてはその根本に共鳴したことのある信彦にも、エールリッヒの心を知ることは結局出来なかった。

 もし、エールリッヒの思想ではなく、彼の心を理解することが出来ていたら。

 信彦はこの研究所を離れていた頃、考えてみたこともある。けれども、それは実現することのないまま、永久に手を離れてしまったのだ。

 もしかしたら、何としても知るべきであったのかもしれない。

 そうすれば、何かが変わっていたのかも……。

 信彦の短い物思いは、エールリッヒの声で断ち切られた。

「残念だったよ、君があれらを連れて姿を消したときは。まさか君が、裏切るとは思っていなかったからね」

 彼の放った『裏切り』という言葉が、信彦の中の何かを刺す。

「裏切り、か……。では、アルベルト、君のしたことは何だったのだ?決別の直接の引き金となったのは、瑠衣たちにかけたあの暗示だった。何故、あんなことをした?君はあの娘の力を私有しようとしたのではないか?君こそ、私欲に負けたのだろう?」

 会話が次第に信彦の頭を覚醒させていく。言葉を紡ぐのにももたついていた舌が滑らかになるのに比例して、脳の回転も速やかになっていくのが自分でも判った。

「瑠衣を操り、自らが世界を支配しようとしたのではないのか?それこそが、私たちの目的に対する裏切りだった。アルベルト、君が変わったから、私も変わったのだ」

「なるほど……お互い様だといいたいらしいな。だが、ルナたちを私に逆らえなくしておいたのは必要に迫られて、だ。彼女の能力を、君も見ていたはずだろう。ルナの成長が間違えた方向へ伸びたとき、誰が彼女を止められると思う?ルナが逆らえない存在も必要だったのだよ」

「それでは、あの子達の意思はどうなる?君の思うままに操られ、望まぬ権力を握らされるのか?」

 責めるように、皮肉るように問い掛ける信彦の声を、エールリッヒは軽く受け流す。

「まさか、操るなど……馬鹿なことは言わないでくれ。彼女は大切に扱うよ。ただ、時々軌道修正するだけだ──道を間違えることの無いように」

 憤りを含んだ信彦の眼差しと、冷ややかなままのエールリッヒのそれとが絡まりあう。

 だが、二人の辿る線は、どこまでも平行のままだった。決して交わることは無い。

 幸せの在りかを違えてしまった二人には、かつての共鳴は有り得なかった。

 言葉は途切れ、沈黙がその場を支配する。

 凍った空気の中で、二人の息遣いだけが揺れていた。

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