七
出発を明日に控えた日の晩となった。
瑠衣と抄樹は、信彦がどういう手段を用いたのかは判らないが、日本の国籍を持つものとなっており、パスポートはすんなりと取得することができた。
「おじさんに感謝ですね。余分な手間が省けました」
赤地に金の紋が押されたそれを、レイが珍しそうにペラペラと捲る──日本国のパスポートというもの自体は別に目新しくも無いのだが、国家機関をごまかせるほどの記録操作がなされた上で発行されたパスポートのいうものには、そうお目に掛かれまい。
三人は、本来、どこの国にも属していないはずなのだ。彼女たちを人間として扱ってはいなかったエールリッヒたちが、ご丁寧に出生届など出したはずが無いのだから。養い親たちが、おそらく不法な手段で、国籍を取得してくれたのだろう。
「帰ったら、どうやったのかお父さんに訊いてみよう」
「あ、それは僕も知りたいかも……」
首を傾げる瑠衣に、レイが同調する。
州ごとに人口調査が分けられているようなアメリカならいざ知らず、戸籍がこれほどしっかりしている日本では、そう簡単に出来ることではないだろう。ハッキングにしても、流石に国のシステムに入り込むにはかなり困難なはずだ。
だが、二人の素朴な疑問も、抄樹にとっては何とも気の抜けるものだった。思わず溜め息を漏らしてしまう。
「二人とも、呑気過ぎるぞ……」
「君には僕たちの向学心が理解できないだけだ」
瑠衣は照れ笑いでごまかし、レイは言葉で答えたが、抄樹の言うことに一理──あるいは三理ほど──あることは確かである。
よりにもよって抄樹に指摘されるとは、と渋い顔をしながらも、取り繕うように小さく咳払いをしてレイは口調を改める。
「彼らの場所は、予想が付きました。予定通り、明日、アメリカに渡りましょう」
パスポートに航空券を挿んで差し出す。
「向こうに着いたらすぐに車を購入し、その場所へ向かいます」
「ちょっと待て、そんな金なんか無いぞ」
気軽に言ったレイに、少しはこの家の経済状況を知っている抄樹が口を挟み、かなりよく知っている瑠衣がコクコクと頷く。確かに九条家は貧乏ではないが、三人の渡米費を出した上、ポンと車が一台買えるほど裕福なわけでもないのだ。帰ってきてからの生活もある。
だが、二人の心配に、レイはにっこりと微笑んで答える。
「心配は要りません。今、僕は、ちょっとした小金持ちなんですよ」
「お前が?」
納得できない抄樹は、疑わしげに眉を顰める。亡くなったマリア・ジョンソンの遺産でもあるというのだろうか。だが、信彦は飯島魁が抄樹に残した遺産を、彼が二十歳になるまで定期貯金にしてしまってある。レイのものも同じだと思うのだが。
それを尋ねると、レイは肩を竦めて両手の平を空へ向けた。君の想像力はそんなものなのかい?というふうに。
「株、です」
「株?」
胸を張ってそう言ったレイに、今度は瑠衣が目を丸くする。
「そう、何にしても、先立つものは必要ですからね。最初は、そんなにおじさんに世話になるつもりは無かったんです。中学校を卒業したら、この家を出ようかと考えていましたので。で、こちらに来て少ししてから、株を始めたんです。いや、なかなか楽しくて。あっという間に貯まりましたよ、五千万」
「五千万だと!?」「レイ君、この家出る気なの!?」
同じ台詞の中のそれぞれ別の事柄に驚いた言葉が、抄樹と瑠衣の口から同時に飛び出した。抄樹方には取り合わず、瑠衣に困ったような目を向け、レイは言葉を濁した。
「え、あ、いや、だって、その、一応、他人の男女が……」
「他人?」
その言葉を聞きつけ、瑠衣の目がジワジワと潤んでくる。
「そういう意味じゃなくて……」
「じゃ、どういう意味?」
「え……、ええっと……」
しどろもどろと、いつもなら理路整然とどんなことにも答えられるレイだが、このことに関しては言葉が出ない。
頭を悩ます彼の姿をたっぷり拝んでから、抄樹が助け舟を出してやる。
「つまりな、瑠衣。男ってのは、惚れた女にはいいとこ見せたいもんなんだよ。たとえば、自分はもう一人前なんだってな。特に相手が年上だったりしたら、尚更なんだ」
したり顔の抄樹の言葉に、瑠衣は目を丸くしてレイを見つめる。
「レイ君、好きな人がいるの?」
何にも知らない瑠衣の言葉に、レイはちょっと肩を落とした。
──まあ、解っていないだろうとは思っていたけどね。
心中ひっそりと、溜め息を漏らす。
再びニヤニヤしながら、抄樹が口入れをする。
「まあまあ、思いっきり、片思いなんだから、訊いてやるなよ」
『思いっきり』のところに必要以上の力を込めた抄樹を、顔を赤くして睨みながら、レイは何とか取り繕う。わざとらしい咳払いをして。
「とにかく、お金はあるんです。あちらで車を買いましょう。というより、買い物はあちらで済ましたほうが利口ですね」
レイがそう言うと、まだ何となく納得のいかない顔をした瑠衣が、それでも、それ以上の突っ込みを止めて答える。
「うん、そう思ったから、他のものもまだ買ってないの。取り敢えずリストだけは作っておいたのだけど」
「流石、瑠衣さん。抄樹とは脳味噌が違いますね。抄樹は何も考えていなかっただろ」
先ほどのお返し、と言わんばかりに、抄樹に話を振る。
「何で、そこに俺が出てくるんだよ」
彼の抗議に、レイは肩を軽く竦めて、
「それは、君。抄樹ほど、頭の天辺から足の先まで、隈なく筋肉だけで出来ているようなやつは、そうはいないから」
ぐっと鼻白んだ抄樹だったが、決して負けてはいない。
「お前こそなあ、もうちょっと身体を鍛えろよ。吹けば飛ぶぞ?」
「良いんだよ。僕には、この、非常に優秀な頭脳があるからね。瑠衣さんと信彦おじさんぐらいは、一生余裕で養えるから」
「ケッ、男は身体だ」
「そんな下品な言い方を……」
漫才のようにポンポンと遣り取りをする二人を見て、思わず瑠衣が笑い出す。
「そんなに笑うようなことかよ?真実だろ」
渋い顔をしてみせる抄樹だったが、信彦の手紙を読んで以降初めて響いた朗らかなその声に、ほっとしたような顔でレイと小さく視線を交わす。一日の内に一度も彼女の笑い声を聞くことが無いというのは、辛いことだった。瑠衣にはいつでも笑顔でいて欲しいのだから。
弟たちの交わす安堵の気配に、瑠衣の胸も痛みを覚える。彼らの心配には気付いていた。そのたびに何とか笑って見せようとするのだが、どうしても形にならなかったのだ。
「ごめんね、私、元気出すから。負けないから」
瑠衣の言葉に、二人は、何を言っているんだ?というようなふりをする。
「何謝ってんだよ?」「そうですよ、突然」
そんな二人に、彼女は抱きつき、その肩に顔を埋める。
「二人とも、護るからね。お父さんも、爪牙も。あんな人たちに手出しなんかさせない」
その独白を聞いて、男たちは情けなさそうな顔になった。
「そういう科白は、男から女性に言わせてください」
「格好悪いよなあ」
「あら」
と、それは心外だと言わんばかりに、瑠衣は憤然と顔を上げる。
「誰だって、大事な相手は、護りたい、と思うものよ。ねえ、爪牙?」
話を振られ、人間並みの知能を持った虎は、その通り、と言わんばかりに目をつぶって見せた。その様子があまりに尤もらしく、それでいてどこと無くユーモラスで、三人は一瞬顔を見合わせ、ついで、笑いを爆発させる。何故そんなに笑うのかと言いたげな爪牙には取り合わずに。
今は、無理矢理にでも、笑い声を出していたかった。
*
「ところで、ですね」
久方ぶりの笑いの後に、レイは信彦の手紙の解読と同時進行で彼の頭の中を支配していた考えを、そう切り出した。これもまた、避けては通れない難題のうちの一つである。
「瑠衣さんの能力というやつを、僕なりに考えてみたのですが……」
他の二人にとっても、瑠衣の能力のことは非常に重大な問題だった。
「何か、解ったのか?」
半ば身を乗り出すようにして、抄樹が意気込む。
「まあ……あくまでも推理だけど、な。何しろ爪牙が襲ってきたあのときしか実例がないから、本当に単なる推測しか導き出せない」
その言葉を聞く瑠衣の顔には、期待と不安がある。彼女の知らない、彼女の能力。
レイは手元のメモパッドに意味のない図形を書き込みながら、先を続ける。
「僕が見る限り、瑠衣さん自身に、おじさんの手紙にあったような能力があるとは思えません。抄樹は……今まで、彼女がああいうふうになるのを見たことがあったか?」
抄樹はそれに、頭を左右に振ることで答える。レイは軽く頷いて首を傾げた。
「瑠衣さんは確かに人に好かれはしますが、それは『好かれる』というレベルのものに過ぎません。ひとを支配するようなものでは、ない……それでは、やつらにとって意味のあるものではないでしょう」
紙には隙間がなくなり、レイはペンを置く。小さな溜め息を一つ吐き、
「爪牙のとき……あの時、瑠衣さんは全くの別人のようでした。何よりも、僕自身が、頭で理解する前に、身体が自然と瑠衣さんの言うことを聞いてしまいそうだった。あの時、何があったのか、瑠衣さんは覚えていますか?自分が何をしていたのか、記憶にありますか?」
「いいえ、全然。あーちゃんが壁に叩きつけられたのを見たとき、何とかしなくちゃ、助けなくちゃ、て思ったとき、頭の中が真っ白になって……気がついたら、全部終わっていたわ」
ここまでいって、瑠衣は軽く首を傾げる。
「でも、目が覚める直前に、何か大事なことがあったような気がするの……」
ずっと心に引っかかっているのだが、どうしても思い出せない。顎を抱えて考え込む瑠衣を、レイは冷静に見つめた。彼女の返事で、レイは自分の考えに確信を持つ。
「僕が思うに、瑠衣さんの中には、その能力を持つ瑠衣さんと、持たない瑠衣さんがいるのではないでしょうか」
「それって……」
息を呑んだ瑠衣に、レイが頷く。
「ええ、多重人格というやつです。通常、多重人格というのは子供時代のストレスからなることが多いのですが、瑠衣さんの場合は少し違いますね。その能力があるために、もう一人の瑠衣さんが存在することになった、いわば、先天的のもののようです。そして、力を持たない瑠衣さんが手の出しようもない危機に直面すると、それを助けるために、もう一人の瑠衣さんが出てくる。……何か心当たりでも?」
本来なら相当衝撃的な事実であるはずだったが、レイが言葉を重ねるほど、瑠衣の顔が明るく輝いていく。彼女の頭の中でジグソーパズルのピースが一つ一つはめられていき、そして、完成した。そんな風情だった。
繋がった記憶を抱きしめ、瑠衣は微笑む。
「それ、ルナだわ」
「え……?」
初めて耳にするその名に、男二人は怪訝な顔をする。
「ルナ、よ。私の中のもう一人の私。ああ、思い出した。思い出せた。何で、今まで忘れていたのかしら。そうよ。爪牙と初めて会ったときの後にも、ルナと話をしたのに」
「瑠衣さん、その、ルナ、というのは?」
詳しく説明してください、というレイに、瑠衣が困ったような表情を浮かべる。
「説明、といわれても、私にもよく解らないから困っちゃうのだけど、とにかく、私の中にいるの」
「じゃあ、瑠衣が呼び出せば、ルナってやつとも話が出来るんだろ?」
頬杖を突きながら至極簡単そうに言ってのける抄樹に、レイは心底呆れたような目を向ける。
「お前、そんなに気楽に言うなよ。殆どの臨床例では難しいことなんだぞ。本人が別人格のことを認識しているというだけでも、珍しいことなのに」
そう言ったレイは、続く瑠衣の言葉を、耳に入ってきたものとは違えて脳に伝えてしまう。
「出来るよ」
「ほら、瑠衣さんだって、出来ないって……え?」
「ルナと代わればいいんでしょ?確か、子供の頃はやっていたもの。たぶん、今でも出来ると思う」
にっこりと笑う瑠衣を、レイは見つめる。その頭の中では、新しくもたらされた情報を処理しようと、脳細胞がめまぐるしく働き始めていた。
主人格と分離人格の両者の間での移行が主人格の意思で容易に行えるということは、多重人格の症例の中でも、そう多くはないはずだ。ただ単に瑠衣さんがその数少ない例のうちに入っただけなのか、それとも、また、全く別の理由によるものなのだろうか……?
目を細めて、しばし考える。
「では、取り敢えず、ルナと代わってみてもらえますか?」
レイの依頼にこっくりと頷いて、瑠衣は目を閉じた。
抄樹とレイが無言で見守る中、十秒ほどで、明らかに彼女の表情とその発散する空気が変わってくる。どこが、と言葉で言い表すことは出来ないが、別人だということは、はっきりと解った。
あのときのように。
二人は、目の当たりにするその変化に、改めて息を呑む。
そして、再び、その瞳が開かれたとき。
──爪牙のときの瑠衣と同じだ。
──これが、瑠衣さんなのか?
抄樹の頭の中には過去が、レイの頭の中には疑問が浮かび、そして、すぐに同じ結論に辿り着く。
──これが、『ルナ』なんだ。
あまりに圧力を持った、その瞳。二人の身体は、ギリギリと締め付けられるような感覚に襲われる。
「私が、ルナよ。やつらがお望みのね」
瑠衣の唇から出たその声は普段聞いているものよりもわずかに低く、そして、自嘲的な響きを含んでいた。その眼差しは、有無を言わせず、見るものを惹きつける。
「あんまり、私の目を見ちゃ駄目よ」
冗談めかしてはいたが、そこに含まれる苦い響きは隠しようが無かった。
「本当は、私は出てくるべきではなかったのよ。まあ、場合が場合なだけに、仕方ないけど」
全てを見通しているかのような口調である。
「あなたは、どこまで知っているんですか?」
もしかしたら、何もかもに答えをもらえるのでは、二人はそんな期待を抱く。しかし、彼女から返された言葉はそっけないものであった。
「この子が見聞きしたことだけ」
それを聞いた男二人の表情を見て、ルナは片眉を持ち上げる。
「おかしい?でも、そうなの。私は、万能ではないわ。単に余分な因子を組み込まれただけの、ただの、人間」
言葉を切り、一呼吸置いて。
「いうなれば……私は、この子の双子の片割れなの」
最後の言葉に抄樹は顔中に疑問符を浮かべ、レイは合点がいったと大きく頷く。
「バニシング・ツインですか」
レイがさらりと口にした耳慣れない単語に、抄樹が目で問いかける。早く先を聞きたいレイは、なおざりに説明した。
「双子を身ごもったとき、まれに双子の片方が消えてしまうことがあるんだ。片方に吸収されてしまうのではないかという説があるが……こういう形で残ることが有り得るのか……?」
今までそういった文献は見たことが無かった。首を傾げているレイに、ルナは苦笑を含んで先を続ける。
「まあ、ほら、私の場合はかなり特殊だから、あまり過去のデータに頼らないほうがいいと思うけど」
「他にも、何か……?」
「んー、一般のケースがどうなのかよく知らないから、これが変わっているのかどうか判らないけれど、私の場合は、私の意志で瑠衣と同化したの。私がそう望んだから、そうなったのよ」
「いわゆる、胎児の段階で、意志があった、と……?」
「ええ、そうしないと瑠衣が生きることが出来なかった。だから、そうしたの」
「でも、どうやったら、そんなことが?」
「私にもよく解らない。ただ、瑠衣を生かそうとしたら、そうなっただけ。なんて言ったらいいのか……瑠衣自体は、本当に、普通の、本物の人間なのよ。そして、所詮、人間に人間を作り出すということは不可能だった。
『私』は試験管に入れられたとき、『一人』だった。暫らくして『私』は五つに分かれたけれど、みんな次々に死んでいってしまった。私から分裂してしまった彼女たちは、自分で生命として活動するためのエネルギーを作り出すことが出来なかった。その意志を持つことが出来なかった。残ったのは、私と瑠衣……でも、瑠衣も時間の問題だった。一番頑張ったけれど、やっぱり駄目だった。
どんどん弱っていく彼女を見て、私は瑠衣に入り込むことを決めたわ。私から分裂した彼女たちは──そうね、双子というよりも、私の子供のようなものだった。最後の一人だけは、助けたかった」
どこと無く悲しげに、顔を伏せ気味にルナは言う。が、一瞬後にはそれを奇麗に振り払い、彼女は昂然と頭を持ち上げた。
「やつらは、多分、私の存在を知らないわ。単なる二重人格だと思っているのじゃないかしら。だから、瑠衣の意志を操れば、それでうまくいくと思っている。ところが、そうはいかないわ。私と瑠衣は、全く別の存在なのですもの」
ククッと、喉の奥に含んだ、鳩が啼いたような笑い。
「実際は扱いやすい瑠衣が消え、能力的にも性格的にも厄介な私が残ることになる。これをうまく使うことね。私はこれ以後、表には出ない──決して。仮にあなたたちが失敗して瑠衣の自我が消され、やつらの思い通りになったとしたら、私も、自分の活動を止めるわ。やつらの好きにはさせない。瑠衣が死んだときが、私の死ぬときよ」
その眼差しが、決意の固さを物語っていた。
「私は世界の支配者になんてなりたくない。瑠衣を通して入ってくる、この暖かな情報だけで満足なの。瑠衣はとても暖かいのよ。あのときの選択は、間違ってはいなかった。私が誕生したのではなく、瑠衣が生まれたから、信彦たちの気持ちも変えられた」
心底嬉しそうに、瑠衣の身体を抱きしめる。顔を上げ、レイと抄樹を強く見据える。その瞳には、エールリッヒたちによって植えつけられたものとは別の力が満ちていた。
この二人には、余計な力など使う必要はない。そして、余計な言葉も。
「私にとっても、瑠衣は大切な子なの。だから……」
護って。何があっても。
その言葉は声にはなっていなかったが、二人の心にはしっかりと届く。それを最後に、ルナは再び瑠衣の置く深くへと沈み込んでいった。その頬に伝う涙は、果たしてどちらのものであったのか。次に二人の前に立っていたのは、瑠衣であった。外見はそのままに、明らかに異なる存在。
「私も、絶対に負けない。絶対に。今度は、私がルナを護る」
瑠衣の持つ力は、他者に対しての強制力は全くない。だが、どんなものよりも強かった。