六
あれから丸一日が過ぎた。
午前三時。
今、家の中で起きているのは、レイ一人であろう。瑠衣は一時間ほど前に眠りに就き、抄樹はそろそろ目覚めるはずの時刻。
デスクライトだけを点けた薄暗い部屋の中で、レイは解読し終えた信彦の手紙を前に、頭を抱え、唇をきつくかみ締めた。そこに書かれていた予想を超えた事実に、彼は打ちのめされる。
「こんなことっ!僕や抄樹はともかく、瑠衣さんに何て言えば……」
暫らくの間、身動ぎ一つしない。これから、どんなふうに事を運んだらいいのか、頭の中でいくつかのパターンを組んでみる。だが、これが最上といえるものを見つけることは出来なかった。
諦めたように溜め息を一つ吐くと、立ち上がり、手紙を手にして抄樹の部屋へ向かう。戸の隙間から光が漏れているところを見ると、やはりすでに起きているようだ。
大きく息を吸い、ノックをする。返事を待たずに中へ入ると、抄樹が驚いたようにレイを見た。
「どうした、こんな時間に。それにすげぇ顔色だぜ?お化けでも見たか?」
茶化す抄樹に、黙って手紙を渡す。軽く小突いただけでも倒れてしまいそうなレイの様子を訝しみながらも、抄樹は手紙を受け取ると読み始めた。
読み進むうちに、戸惑い、驚愕、動揺がその顔を走っていく。顔を上げ、縋り付くようにレイを見たが、抄樹はそっくり同じ眼差しとぶつかったことで、手紙の内容に偽りが無いことを証明されてしまう。
「それが、手紙にあったことなんだ。……どうしたら、いい?」
抄樹は答えられずに、再び手紙に目を落とす。読んではいない。二度は読む気になれなかった。
自分が、今、受けたショックと、瑠衣がこのことを知ったときに受けるだろう衝撃を比べてみる。その差は明らかであった。
「……駄目だ。とてもじゃないが、瑠衣には言えん」
「だけどな、抄樹。あいつらに……エールリッヒに会えば、必ず瑠衣さんには知られてしまう。やつらが話してしまう。思いやりも何も無い方法で」
「だから、俺たちから言ってしまえってぇのか!?」
「やつらは彼女に様々なことをするだろう。瑠衣さんが本当にここにあるような能力を持っているとしたら、やつらが彼女をどんなふうに扱うかは、嫌というほど判る。彼女を物扱いし、瑠衣さんの自我など、決して認めようとはしないだろう。薬物の投与や、電気ショックなどを行うことにも、何の躊躇いも覚えない」
次の台詞を躊躇するように、一瞬間が空いた。軽く唇を舐め、息を呑む。
「彼らにとって、瑠衣さんは……ただの作り物に過ぎないのだから」
レイの口から出た『作り物』の言葉に、抄樹はこぶしを振り上げかけたが、レイの冷静な眼差しに会い、それを辛うじて押し留める。
「けど、俺たちの口から言えるのか!?瑠衣に……お前は──」
尻すぼみになる抄樹の声に、思いもかけなかった第三者が被さった。
「私が、何なの……?」
突然聞こえた細い声に、レイと抄樹は愕然として振り向く。無意識のうちに高まってしまった声が部屋の外にまで漏れてしまっていたことに、二人は気付いていなかった。これほど近くに来るまで人の気配に気付かないなど、常ならば、抄樹には有り得ないことだった。
心を絞るような思いで、同時にその名を呼ぶ。
「瑠衣……!」
その少女は、血の気を失い、目を見開き、口元を震わせていた。
「私は、何なの……?なんで、黙ってるの……?」
身体を固くして唇を引き結んでいる二人の姿が、瑠衣には、小さい頃に彼女が両親のことを尋ねるたびに困ったように目を伏せて同じように口を閉ざしてしまった信彦と重なって見えた。
自分の存在が根底から覆されようとしている。その恐怖は何ものにも勝る。
だが、そんなものに負けて真実から逃れるようなことは、瑠衣には出来なかった。
「手紙が解読できたのね……?見せて」
静かな要求。
激昂したものでなかったからこそ、逆らうことは出来なかった。抄樹は唇を噛み締め、レイは黙って手紙を差し出した。
*
瑠衣、抄樹、レイ、すまない。
ここに書いてあることは、本来ならば、私の口から直接話すべきだった。しかし、私にはどうしてもその勇気を出すことが出来なかった。全て話し終えたとき、お前たちにどんな目で見られるかを想像すると、どうしても言い出せなかったのだ。
出来得ることなら、これから書くことは、一生私の胸の中だけに留めておきたかった。
だが、爪牙が送られてきた以上、いつか必ず、お前たちが彼らに遭遇するときが訪れてしまうだろう。
その時、真実を知らないということは、とてつもなく大きな弱点になってしまうかもしれない。
だから、私は全てをお前たちに話そうと思う。
私は、日本で九条信彦という名で瑠衣と生活をするようになる前には、ある男と組んで研究をしていた。アルベルト・エールリッヒというドイツ人だ。
彼は幼少時を宗教的な対立から内戦状態にあったヨーロッパの某国で過ごし、その時、両親を、そしてとても大切な人をその内戦で失った。そのためもあって、彼は思想の違いというものを憎んでおり──その憎しみは、並大抵のものではなかった。
そして、彼のその強すぎる憎しみと、物心つく以前からの、あまりに悲惨な体験で、彼の思想は歪んだものへと変わっていってしまった。争いが無ければ、という考えを通り越し、争いをなくすには皆が同じ考えを持てば良いのでは、と考えてしまったのだ。
そしてまた、私も彼と同じような経験をしていた。
私の場合は、アジアの某国の内戦で──これは政治上の理由によるものだった──恋人を失った。
彼女はそこの野戦病院でボランティアとして活動しており、私は医者として働いていた。
我々が手を尽くしても、次から次へと怪我人は運ばれてくる。手当てをしたものはまたすぐに武器を取って戦場に戻り、再び、更に酷い有様となって病院に送り込まれてくる。波打ち際で砂の城を築いているようなものだった。
虚しい努力。その一言に尽きる。
だが、それでも頑張れたのは、彼女がいたからだった。
負傷者にとっても、そして、私たち医療スタッフにとっても、彼女はまさに白衣の天使だった。
彼女に想いを寄せるものは何人もいたが、彼女は私のプロポーズを受けてくれ、内戦が終わったら、結婚しようと約束していた。
だが、彼女は、その約束をした数日後に、流れ弾に当たって亡くなってしまった。
まだ、二十歳になったばかりだった。
彼女を失った後、私は戦場を離れ、アメリカに渡った。二度と医者の仕事をする気にはなれなかった。彼女を助けられなかった私は、いったい誰を助けられるというのだろう。
出来るだけ医者からかけ離れたことがしたくて、大学では多少興味もあった考古学を専攻した。
そこで会ったのが、遺伝子学を学ぶエールリッヒだった。
私と彼は、すぐに意気投合した。
そして、彼と同様に争いを憎んだ私は、彼の考えにも、非常に共鳴してしまったんだ。
全ての人間を同じ旗の下に統一するという思想に。
私たちは同じような人間を集め、研究を始めた。
再び医者に戻った私は数名の医学者、生化学者と共に、人間の、生存本能に因らないこの好戦性の理由を突き止めようとした。だが、その謎は遺伝子にあると考え、それを調べていた我々が発見したのは、まったく別のものだったのだ。
それが、カリスマの遺伝子だった。
リーダーとなる人間には、遺伝子にあるパターンがある。それを特定して遺伝子に組み込めば、強力なカリスマ性を持った人間を創ることが出来る。その人間に世界を統治させようと考えた。
しかし、この人間に対する遺伝子操作の実験は上に知られ、我々は学会を追われることになった。
それぞれの分野で取った特許があったので、資金に困ることが無かった私たちは、人目につかないところへ引き込んで、そこで研究を続けることにした。
そうして生まれたのが、瑠衣、お前だ。
爪牙を送り込んできたのも、おそらく彼らだ。エールリッヒに私たちの居所が知られてしまった以上、いつかは、真実を知ることになるだろう。彼の口から出る前に、私から伝えよう。
瑠衣、お前に親はいない。お前は、科学の力を借りて、人が作り出した存在だ。
クローンのようなものとも言えるかもしれない。エールリッヒが選んできた女性の卵子に、我々が編み上げた遺伝子を組み込むというようなものだった。その卵子は、人類保存機関の卵子バンクの人間を買収して手に入れたのだと、エールリッヒは言っていた。
小さい頃、お前が両親のことを尋ねるたび、私は私の犯した大罪を責められているような気がした。それでも、私は、お前を作り出したことを後悔はしていない。お前は私に家庭の温もりをくれた。小さなお前が私に向かって微笑んでくれるだけで、私は失ったものを取り戻せる気がした。
お前は私にとって、実の子供以上の存在なんだ。
彼女を失って以来、絶えることの無かった喪失感を、お前は、その笑顔だけで癒してくれたんだ。
どんなに言葉を尽くしてみても、私のこの気持ちは表現できないかもしれない。
だが、仮にエールリッヒからどんな事を言われたとしても、私を救ってくれたのはお前なのだということを、決して忘れないで欲しい。
話を元に戻そう。
瑠衣を生み出した私たちは、次に、肉体的にも精神的にもお前を支えることの出来るような補佐も必要だと思った。
参謀としてレイを、護衛として抄樹を。
お前たちは、選び抜いた精子と卵子を受精させ、人工子宮から生まれた。両親と呼べる存在もいる。その生殖細胞は瑠衣と同じ手段で手に入れた。
レイは優秀な知識人を数多く出している家系から、抄樹は多くの叙勲を受けた軍人の血筋から選び、胎芽期に薬物を投与した。
レイの卓越した頭脳と、抄樹の並外れた運動能力はその結果だ。
嬉しいものではないだろうがな。抄樹は、鍛え方次第では、常人の数倍の筋力を持つことが可能なはずだ。筋肉も骨も、通常の人間の数倍は強い。
そうして生まれてきたお前たちの面倒を見たのが、医者であった私と飯島魁、マリア・ジョンソンだった。
当初、私たちはお前たちのことをただの研究対象としか見てなかった。いや、仲間以外の人間は、人間ではないと思っていたのかもしれない。
すっかり忘れていた他者の存在というものを、皮肉にも、お前たちが思い出させてくれた。そして、そうなると同時に、お前たちに対する愛情もまた、湧き上がってきたのだ。
瑠衣が言葉を一つ覚え、抄樹やレイがハイハイをするようになる。そんな些細なことに、私たちは一喜一憂したものだった。
しかし、我々がお前たちを愛するようになると同時に、エールリッヒたちの心にもまた、それまでと違ったものが生じ始めたのだ。それが、支配欲という化け物だった。
もともと胸の奥に潜んでいたのか、それとも、あまりに強すぎる瑠衣の力を見て生まれてきたのか、それは私には判らない。だが、それが、私たちと彼らが道を分かつことになる始まりだった。
私たち三人の反対を押し切り、エールリッヒはお前たちに、彼には決して逆らえないような暗示をかけた。それが決定的な要因となり、私たちは彼らと決別した。お前たちを連れ、それぞれ別々に逃げたのだ。それが十年前のことだった。
子供には研究所での生活を忘れるように暗示をかけ、我々は時々連絡を取り合った。エールリッヒのかけた暗示を解くことは出来なかった。非常に巧妙なものだったからだ。
逃げ切れていたと思っていたが、私の居場所が知られていたとなると、先の二人の事故死も、彼らの仕業だったのかもしれない。
お前たちがこの手紙を読んでいるのだとしたら、私にも何かが起きたということだろう。その時、私が足手まといになっているのだとしたら、私のことは見捨てるんだ。そして、逃げろ。やつらはどこまでも追い続けるだろうが、お前たちなら逃げ切れる。
私も、魁も、マリアも、お前たちのことを愛している。
だからこそ、絶対に奴らの手に落ちて欲しくない。お前たちが物のように扱われるのを、二度と見たくは無いのだ。
お前たちも私たちのことを愛していてくれるのだったら、逃げてくれ。
私たちがお前たちに望むのは、ただそれだけだ。
頼む。
*
読み終えた瑠衣は、手紙の束ごと、手を強く握り締めた。関節が白くなるほど、強く。
「私のお父さんは九条信彦だし、抄樹もレイも、私の弟よ」
瑠衣は頭を上げ、その瞳に強い光を宿して抄樹とレイを見つめた。手紙を読んでいた間中噛み締めていた唇には、うっすらと血が滲んでいる。
「私の出生がどうであれ、お父さんが私を愛してくれる限り、私はお父さんの娘だし、あなたたちが愛してくれる限り、私は二人の姉よ。たとえ、本当にここに書かれているように私は彼らに作られたのだとしても、そんなの関係ない」
確信を込めて紡がれた言葉。一片の迷いも無い。
「勿論だ。瑠衣は俺たちの姉さんだし、俺たちの親は、どこの誰とも知れないようなやつじゃない。九条信彦と飯島魁、そしてマリア・ジョンソンだ」
抄樹とレイの口から、同じせりふが出る。
まるきり中身の異なる二人だが、これだけは共通する事柄だった。ほんのわずかでも、躊躇うことの無い。
だが、そんな二人を見つめていた瑠衣の瞳が、不意に揺れた。とても強かった、瞳が。
「でも、私たちを追うあの人たちにとって、私たちは道具なのね」
堪えきれなくなったようにあふれ出す、涙。
ハンカチを取り出し、レイがそっとそれを拭う。
「あんな奴らに捕まってやる義理はありません。道具になんて、なってやるものか」
「けど、お父さんが……」
「勿論、親父は取り戻す。それに、ちょいとおまけを付けてやる。なあ、レイ」
抄樹の目が、ギラリと光った。常に自らの力を抑え付けてきた彼が、今、初めて、全身に闘気を漲らせていた。全力で戦うことに、ためらいを微塵も見せていない。
レイが不敵に笑い、それを受けた。彼もまた、真に自らの能力を発揮すべきときを見つけることが出来たのだ。
「ええ、僕たちにこんな能力を付けたことを、死ぬほど、後悔させてやる」
*
九条家から研究所に戻ったエールリッヒの異常に気が付いたものは、そう多くなかった。その数少ないうちの一人が、サラ・オドンネルである。
「エールリッヒ……?」
強張った背中を小さく呼び止めたサラの声に、エールリッヒは気付かない──あるいは聞こえていてもそうでない振りをしたのかもしれなかったが。研究のことについての報告は決して聞き逃すことは無いくせに、それ以外のことは、故意かそれとも無意識か、不思議と耳に入りにくいようだった。
「転移装置は完璧だよ。充分、実用に耐え得る。ご苦労だったな、次の成果も期待しているよ」
にこやかに労をねぎらうと、エールリッヒは心なしか早足でラボを後にする。
サラは彼を追おうとして、結局それが出来ずに見送ってしまう。時々、エールリッヒには全てを拒絶するような雰囲気を醸し出すことがあった。
人が共通の理念を抱くことを望んでいるくせに、エールリッヒ自身はそれに入ろうとはせずに、いずれ全てを捨ててしまうのではないか、そう思わせることすらある。
彼を包んでいるのは、決して癒されることの無い孤独だった。
ここの人々の、己の研究しか見ていないというあまりに狭すぎる視野に付いて行けなくて、何度か、決別しようかと思ったことがある。そのたびにサラをここに引き止める錨となってきたのは、それだった。
「あなたが見ているものは、いったい何なのですか……?」
目の前にいない相手に対するその問いは、答えを得ることは出来ない。
サラの溜め息は、空気に溶けた。
*
エールリッヒは自室のドアを閉ざすと同時に、大きく息を吐いた。顔を覆う両の手は、細かく震えている。
「ルシアナ……シスター・ルシアナ……」
掠れた声で紡がれたのは、何よりも大事なものの名前だった。
十年ぶりに見た、ルナ。
成長した彼女は、まさにあのひとそのものだった。
確かに『彼女』を素としてルナを作るようにしたのはエールリッヒであったが、あれほど似たものになろうとは彼も予想していなかったのだ──ほんの少しでも『彼女』を思わせるものになれば、それで充分だったのだから。
それが、もう一度会えるとは。
「ルナ……ルシアナ……あなたなのですね」
熱に浮かされたように呟く彼の脳裏には、失ってから四十年は過ぎている『彼女』の姿が、微塵も色褪せないままに浮かぶ。その声は、微笑みは──そしてその死に顔は、いつでもエールリッヒの生きる糧だった。
血にまみれた大事なひとの身体を前に自らの無力を嘆いた少年は、もう存在しない。今、彼は、護りたいものを護ることが出来るほどの力を手に入れた。
彼女に対するエールリッヒの想いは、恋や愛などではない。そんな錯覚のようなものではなかった──もっと確かで、絶対的な存在感のある信念だった。
ルシアナは神の下僕としてエールリッヒの前に現れたのだが、彼にとっては神そのものなのだとすら言える。
「今度こそ……あなたは私が護ります」
囁きは宣誓だった。
そして、それは決して破られることは無い。