五
レイが九条家に来てから三ヶ月が過ぎた日曜日。とはいえ、三日前に夏休みに入ったところであるから、曜日はあまり意味を持たない。
家の中に突然虎が現れるという、まず普通は起きることの無い事態が起きて以来、九条家に変わったことは無く、表面上は、何事も無く過ぎていった。しかし、あくまでも表面上は、なのだ。
──信彦の様子が変だ。
子供たちの中で、それに気付かないものはいなかった。体重は少なく見積もっても五㎏は減り、家にいるときは書斎に閉じこもりきりである──以前は出来る限り子供たちに接するようにしていたものだったが。
そして、今日。
彼が行き先も告げずに家を出て行って、すでに十時間が過ぎている。
「どうしよう。探しに行ったほうがいいのかなぁ」
夕食の時間を過ぎても戻らない信彦に、瑠衣は時計を見ながら心配そうにそう言った。横たわった爪牙──レイによって付けられた虎の名前である。瑠衣が付けたがったが、あまりに似合わないものばかりであったため、却下。抄樹に頼まれ、レイが選ぶことになった──の毛を落ち着かない様子でいじっている。彼の背中の毛は、すっかり毛羽立ってしまっていた。それを気の毒そうに横目で見ながら、抄樹は答える。
「でもなあ、親父も子供じゃないんだし、なあ、レイ?」
同意を求められ、レイがその後を引き取った。
「まぁ、取り敢えず九時まであと一時間ちょっと、待ってみませんか?ほら、街に出たら物凄い渋滞に巻き込まれてしまったとか、気晴らしにちょっと遠出したら道に迷ってしまったとか……」
何事につけ、きっちり計画立てる信彦が今までそういった事態に陥ったことはなかったが、最近の信彦のぼんやり具合では、有り得ないことではない。
だが、希望的観測を並べたレイの台詞を、突然、全く聞き覚えの無い声が遮った。
「いや、残念ながら、そうではないよ」
三人と一匹が、同時に声のしたほうへ向く。瑠衣たちには覚えの無いものであったが、爪牙にだけは、その声の持ち主が誰であるか判った。
自分を、創った男。
創られたときから刻み込まれた、その男に対する服従心に逆らいきれず、自然と身を低くしてしまう。
そして、他の三人も、奇妙な感覚に襲われていた。
この男に逆らっては、いけない。
頭の奥で、声がする。
何故、見たことも無い人物がこの家の中にいるのか。
重要であるはずのその問いが、彼らの頭の中では二の次となってしまう。
男は、三人の戸惑うさまを見て、満足そうに口元を歪めた。
「私は、アルベルト・エールリッヒ。君たちの義父、クジョウ・ノブヒコは、我々が預かっているよ。会いたければ、会いに来なさい。君たちなら、ノーヒントで我々の居場所を探し当てられるだろう。ある程度近づくことが出来たなら、迎えに出てやろう。期限は、一ヶ月。それを過ぎたら、君たちがノブヒコに会えるチャンスは無くなる」
「ちょっと待て!」
止めろと叫ぶ理性を押しのけ、抄樹が怒鳴った。
「お前、どうしてここにいるんだよっ!第一、パッと出てきて急に親父を攫ったなんてほざきやがって、ハイそうですかと信じるとでも思ってんのかよ!」
下品な口の利き方だな、と軽く眉を顰めて呟き、男──エールリッヒは、抄樹に向けていた目をレイに向けながら尋ねる。
「レイ……。君も、全く判らないかね?」
抄樹の威勢のよさに励まされ、レイも我を取り戻す。
「いえ、まあ、半分は。あなたがそこにいるのは前例がありますからね」
と、ちらりと爪牙に視線を流した。抄樹と瑠衣が、はっと息を呑む。
「爪牙、と言っても判りませんね。その虎のことです。彼をここに送り込んだのも、あなたでしょう?物質転送の理論は出来ていますからね。ついでに言えば、あなたのことも存じ上げていますよ。十八年前、遺伝子法に反する実験をやらかして、医学界、生物学界から追放となった、アルベルト・エールリッヒ、でしょう?あれはそれまでの功績を帳消しにするような失敗でしたね。以来論文も発表できなくなって、今までいったい何をなさっていたのですか?」
そこはかとなくどころではなく皮肉な色を滲ませたレイの言葉に、一瞬、エールリッヒの目が剣呑な光を含んだ、が、すぐにまた、取って付けたような笑みを貼り付ける。
「よく知っているな。だが少々事実の認識に誤解があるようだ。論文を発表『出来なくなった』のではなく、『しなくなった』のだよ。素晴らしい研究も、凡人の理解力では認めることが出来ないようなのでね。こちらのほうから見切りを付けたようなものだ」
「そういうことにしておきましょうか……では、その偉大なあなたが、何故、平凡な僕たちの義父を攫ったりするのですか?理由がありません」
爪牙と対峙したときの瑠衣とは違う、どこか毒々しさを漂わせた威圧感が、エールリッヒの全身から放たれている。レイはそれに屈することの無いように背筋を意識して伸ばし、気合を入れた。
「とてもではないが、信じられない」
「何、理由ならあるさ。やつは裏切り者だからね。──十年ほど前までは、彼は我々の仲間だったのだよ。その頃の名前は、トリノ・ノブユキだったがね」
「いい加減なことを言うんじゃねぇ!」
抄樹が色めき立ち、瑠衣とレイも目に同意の色を浮かべている。しかし、並の者なら身を竦ませる抄樹の恫喝もきれいに受け流された。
「本当のことだ。君たちの保護者、トリノ・ノブユキ──ああ、ルナは最初からそうだったね。それと、アツキの元保護者イイジマ・カイそしてレイの元保護者、マリア・ジョンソンの三人は、我々の元から大事な実験成果を持ち逃げしたのだよ」
「何故、母のことを……?──まさか……まさか、母の事故は……?」
レイの瞳の奥に、暗い炎が揺れる。問いかけの形を取ってはいるが、それは、確信だった。瑠衣と抄樹が振り返る。
「母の事故現場は見通しが良くて、道路条件も悪くなかった。慎重な母が何故あんな事故を起こしたのか、不思議だった」
「まさか、そんなこと……」
瑠衣の不安そうな声には答えずに、レイはエールリッヒを睨む。
「流石に、察しがいいな。トリノ──クジョウは用心深くてね、なかなか居場所を掴むことが出来なかったものだから……賭けだったよ。身寄りの無くなった君をクジョウが引き取るかどうかは。イイジマを探し出したときにはすでに彼は他界していたし、クジョウは偽名まで使っていたからね」
「賭け、で、母を殺したと言うのですか」
「止むを得ない処置だった」
全く良心の咎めを感じていない物言いだった。あまりな態度に、とうとう抄樹の頭に血が昇りきる。
「てめぇ、それが人一人殺しておいての言い草かよ!?」
「そういう品の無い口の利き方は止めなさい。イイジマが草葉の陰で泣いているよ」
「余計な世話だ!」
鼻でわらうようなエールリッヒに、抄樹が飛び掛る。が、彼の手が届く寸前でエールリッヒの姿は掻き消え、部屋の反対側に、また、現れた。
「お前には、もう少し冷静さが必要だな」
商品に評価を下す口調で、エールリッヒは言い放ち、瑠衣とレイに呼びかける。
「我々がノブユキを攫った証拠が必要だと言ったね。よろしい。今から三十分後に電話をかける。その時、彼の声を聞くがいい」
「声なんて、いくらでも作れますよ」
不信に満ちたレイの言葉に、エールリッヒは軽く肩を竦めて返した。
「ふむ。まあ、その辺は会話の仕方によるのではないかね。君たち次第だよ」
その言葉を終えると同時に、エールリッヒの姿が消える。現れたときと同様に、何の前触れも無かった。
「ちっくしょおっ!」
怒鳴って、抄樹は床を殴りつける。鋭い音と共に亀裂が入ったが、気に留める余裕は無かった。
レイも急に支えを失ったかのように、その場に崩れる。
「あーちゃん、レイ君……」
今まで見ることの無かった二人の打ちひしがれたようすに、涙を堪えながら、瑠衣が双方を抱き寄せた。精一杯の力を込めて。
そして、呟く。
「負けないよ。……負けないで」
*
「瑠衣、抄樹、レイ……」
電話口の信彦の声はかなり憔悴していた。肉体的な疲労より、精神的なものから来る理由が大きいだろう。三人は息を呑んでその声に耳を澄ます。
「すまん、結局こんなことになってしまった。爪牙が送り込まれたことで、あまり時間が無いことは解っていたのに……。真実を伝える勇気が無かった私を、許してくれとは言わん。助けにも、来るな。すぐにそこから離れるんだ。だが、もし、お前たちが全てを知りたいと言うのなら、私の書斎の──」
「さあ、もういいだろう。どうだね、本物と判断するか、偽者と判断するか……、君たち次第だよ。まあ、本物だとしても、助けに来るな、とは言っていたがね」
馬鹿にしたように、エールリッヒが鼻で笑う。
「もう一度言うが、期限は一ヶ月だ。……そうだな、アメリカだということだけは教えておいてやろう。君たちの能力が充分に発揮できるよう、祈っているよ。辿り着けないなら、それまでのことだ」
「ちょっと待ってください。もう一度、義父と話をさせてください」
精一杯感情を押し殺し、平静を装ったレイの頼みを、しかし、エールリッヒは一蹴した。
「駄目だよ。もう充分だろう。では、一ヶ月以内に会えるように」
「あ、ちょっと」
受話器に耳を押し付けるが、聞こえてくるのは無常な電子音のみであった。
*
「おそらくこれが、信彦おじさんが言おうとしていたものだと思うのですが……」
三人がかりで書斎を隈なく家捜しし、ようやく見つけたものを、レイは瑠衣と抄樹の前に差し出した。それは、推理小説の古典にあるように手紙の束の中に隠されていた一通の封書であった。表書きには、短く、『子供たちへ』とだけある。
「すぐ、読みましょう」
瑠衣の言葉に、レイはいつになく歯切れが悪い。
「それが……読もうにも、中はちょっとした暗号になっているんです」
そう言ってレイが中を開いて見せると、文字ではなく、数字で紙面が埋め尽くされていた。
「げ、俺パス」
一目で戦線離脱を宣言した抄樹に、レイは速攻で返す。
「最初から、抄樹には期待していない」
「どういう意味だよ、それは?」
さながらコブラとマングースのように睨み合った二人を引き離すように、瑠衣が口を挟む。
「私も……レイ君がやったほうが速いと思うんだけど」
打って変わってにこやかに、レイが振り向いた。
「そうですか。それでは暫らく僕が預かります」
あまりの態度の違いに頬を引き攣らせる抄樹には全く構わずに、先を続ける。
「それで、この手紙を解読できた後、なんですけれど、二人ともパスポートは持ってますね?……というよりも、二人の国籍はどうなっているんですか?エールリッヒの言うことを信じるとしたら、アメリカ国籍のはずなんですけど……」
瑠衣と抄樹が顔を見合わせる。長年日本人として生活してきた二人には、そんなことは確かめる必要は無いことだった。若干心許なげに顔を見合わせる。
「パスポートは持ってないわ。それに、当然、日本国籍、よね」
「だよな」
そうでなければ、今まで問題が起きなかったはずが無いだろう。小中高と入学するとき、何か言われた記憶は無い。外国籍になっているのだとしたら、何かあって然るべきだった。
だが、あれだけ常識はずれのことがあったというのに、まだその常識に囚われているままの二人を、レイは呆れたように見る。彼の脳味噌は柔軟性も兼ね揃えているのだ。
「ちゃんと調べたことは無いんですね。学校の書類をごまかすなんて、簡単なものですよ。今は何もかもコンピュータ処理ですからね。その上、信彦おじさんは同じ学校の大学部の教授をしているんでしょう?おじさんの書斎からでも、あなたたちのデータを書き換えるぐらい出来ますよ」
溜め息を吐きつつ、メモをする。
「それでは、それも調べなければならない。アメリカ国籍だとしたら、ちょっと厄介ですね。信彦おじさんがそこまでやっていてくれると、楽なんですが。パスポートを作って、となると、十日は必要です。明日にでも取り掛かりましょう。後は……ああ、そうだ。図書館で、アメリカのゴシップ記事を集めてきてください。それを使って、奴らの居場所を推理しましょう。タブロイド版がいいですね。よく、宇宙人がどうの、政府の陰謀がどうの、と書いてあるのがあるでしょう?奇妙な話を探すには、あれが一番です。あること無いこと書いてあるのには閉口しますが、少しでも目を引くようなことがあれば、何でも記事にしますからね。彼らの秘密裏の怪しい実験のことも、きっとあるはずです。十年ぐらいまで遡って、調べてください」
「解った」
瑠衣が頷くのを待って、今度は抄樹に顔を向ける。
「抄樹」
「……何だ」
そのあまりに顕著な態度の違いに、一度は殴ってやる、と心に決めながら、抄樹は答えた。この件が片付くまではこいつの頭も必要だが、終わってしまえば構わない。少しばかり脳細胞を壊してやったほうが、こいつのためかもしれない。人間、並が一番なのである。
だが、レイのほうはといえば、抄樹のそんな不穏当な心中は知らず、いたって冷静に先を続ける。
「車は運転できるのか?」
「免許は無いがな」
実を言えば、時々こっそりと夜中に信彦の車を乗り回しているのだ。これは義父も知っている。
初めて動いている自動車の運転席に座ったのは、八歳のときだった。やはり車の少なくなった夜中に、信彦の膝に乗せられてハンドルを握ったのだ。アクセルとブレーキに足が届くようになってからは、信彦を助手席に乗せて運転するようになった。思えば、信彦はあの頃からこうなることを予期していたのかもしれない。
「なら、いい。車自体は向こうに行ってから都合しよう」
レイは頷くと、今度は床に寝そべった爪牙を振り返った。この虎が、人並みか、それ以上の知能を持っているということは、九条家の中では周知の事実となっている。
発声器官の構造上、人間の言葉を話すことは出来ないが、こちらの言うことは完全に理解している。レイは、いつか、爪牙と抄樹、どちらのほうが高い知能を持っているのか調べてやろうと思っていた。
「爪牙、お前は流石に連れて行けないからな。おとなしく待っていろよ」
名を呼ばれて頭をもたげた爪牙の前に跪き、宥めるようにそう言い聞かせる。爪牙は留守番と聞いて不満そうな唸りを響かせるが、彼にも、どうしようもないのは解っていた。
「ごめんね、出来るだけ早く帰ってくるからね」
瑠衣がそう言いながらその鼻面を撫でてやるのに応えて、爪牙は甘えるように目を細めた。
「では、今晩のところはもう休みましょう。明日からはフル回転です。瑠衣さんは図書館での資料集めを、抄樹は昼間に寝て車の運転を練習、僕は暗号を解読します。ああ……あと、パスポートですね。国籍が日本のものでないと少し厄介ですが、まぁ、そのときはそのときで考えるとしましょう」
保護者の消えた九条家の夜が更ける。皆が皆、その胸に抱いている不安をきれいに隠し。
こんなことはすぐに終わり、平穏な日常がすぐまた返ってくるのだと、信じていた──信じようとしていた。