四
「吐き気や眩暈はありませんか?」
目を開けて真っ先に飛び込んできたのは、レイの声だった。
瑠衣はふらふらする頭に手をやりながらゆっくりと起き上がり、周囲を見回す。まず目に入ったのはなんとも無残な部屋の様子だった。
「これって……?」
どういうこと?
そう口に出す前に頭のピントが合い、それと同時に状況の認識も行われた。
最後に見た、あの情景。
「……あーちゃんは!?」
常に自分の隣に在ったその人は、今も、いた。利き腕を血塗れにした姿で。
これほどの手傷を負った抄樹を、初めて見た。どんなに相手が大人数であろうとも、これまで掠り傷一つ負うことは無かったのに。
「あーちゃん!」
蒼白になりながら慌てて抄樹の元に行こうとしたが、足元がおぼつかずに倒れそうになる。レイがそれを支え、再びソファへ座らせた。
「彼は心配ありません。きちんと手当てをしました。それよりも、瑠衣さんは?どこか具合の悪いところはありませんか?」
冷静なレイの口調に、瑠衣の心が少し落ち着く。
「私も大丈夫。どこも変じゃないわ。でも……あの虎は?どうなったの?逃げたの?なんでこんなところにいたの?」
瑠衣の記憶の中からは、彼女が虎を制したという部分がすっぽりと抜け落ちているらしい。
レイは頭の中で、話してもいい事とそうすべきでない事をより分ける。
「あなたは抄樹が殺されそうになったのを見て、気を失ってしまったのです。……虎は、このソファの後ろにいますよ。何故か急におとなしくなりました」
こう言いながらも、レイの頭の中には、瑠衣が虎を従わせたのだという確信があった。
彼女の、あの異常な様子が脳裏に浮かぶ。あのときの彼女には、どこか非人間的なものがあった。瑠衣の中に潜む、何か。今回はそれが彼らの助けになったが、恐らく、原因でもあるのだ。
天涯孤独の四人の他人が家族として集うこと。
抄樹の並外れた運動能力。
レイの、百年に一人と言われた頭脳。
それだけであれば、ただの偶然と言い張ることは、辛うじて可能だったかもしれない。
だが、それに先程見せた瑠衣の特異さが加われば、偶然では有り得なくなる。何者かの手が、この事態を作り出しているのだ。
だが、その『何者か』とは、いったい誰なのか。
情報不足の現状では、推測すら困難だった。
信彦がいれば、何か判ったのかもしれないが。
独り悶々と姿の見えない敵の存在に思い悩むレイの隣で、瑠衣は、起き上がった虎の鼻面に恐る恐る手を伸ばす。そっと触れ、撫でてみると、虎はこの上なく嬉しそうに目を細めた。もっとしっかり触って欲しいというふうに、彼女の手に頬を擦り付ける。先ほどまでの様子とは打って変わった、愛嬌の振り撒きようだ。
「……可愛い」
思わず漏らしてしまった、瑠衣のかなり間の抜けた言葉に、抄樹とレイの肩ががっくりと落ちた。どうも、彼女のテンポは常人と外れている。拍子抜けすると同時に、彼女のことを熟知している抄樹の頭には、なにやら不吉な予感が忍び込む。
「お前……まさかとは思うぞ。思うが、そいつを飼おう、なんて言わねぇよな?」
尋ねるというよりは、確かめる口調で言う抄樹に、レイが笑い飛ばすよりも速く、瑠衣が返事をする。
「え……え…………うん」
常識人にのみ囲まれて生きてきたレイにとっては到底信じられない返事だが、この少女と付き合って十年以上になる抄樹には、多少予測していたものだった。呆気に取られるレイを尻目に、速攻で反撃する。
「駄目だ」
「でも、こんなにおとなしいのに……」
「おとなしかろうが、凶暴だろうが、こんなに馬鹿でかい虎なんぞ飼えん。猫じゃないんだぞ」
眉を逆立てている抄樹に、何とか現実に立ち返ったレイも加勢する。
「そうです。第一、外には出せないんですよ。こんな狭い中で一生を過ごすなんて、この虎にも可哀相でしょう?」
至極当然な彼らの説得に反論できなくて、瑠衣は抄樹を見つめる。無言かつ最強の攻撃だった。
「うっ……!」
ちょっと上目遣いに涙を溜める。瑠衣のその目には、抄樹は昔から弱いのだ。しかし、どうしても譲れないこともある。それが、この状況だ。心を鬼にして、腹に力を込める。直視してしまうと理性が感情に負けてしまうので、少し目を逸らして、言う。
「駄目だ」
「どうしても……?」
ますます涙の珠が大きくなる。彼女はレイに目を移した。
──か、可愛い……。どうしてこの人は、僕よりも年上だというのに、こんなにこういう表情が似合ってしまうんだ!
心の天秤がぐらぐらと承諾へと傾きそうになるのを、必死で止める。
しかし、時に女の涙は、何にも勝る武器となる。それが惚れた相手のものであるならば、効果は万倍にもなるだろう。
瑠衣の顔が喜びに輝くには、そう時間を必要としなかった。
夜明け前に、男二人は折れることになる。
*
「十七号はあちらの手に落ちたようです」
モニターに映し出されている、虎の脳に埋め込んであるナノマシンから送られてくる脳波を目で追いながら、白衣の男がそう告げた。
波形の一部は、催眠状態に置かれていたはずの十七号が覚醒したことを示している。
「だろうな。人間でさえルナには逆らえないというのに、畜生では尚更だ。まあ、よい。ルナを手に入れれば、十七号も戻ってくる」
エールリッヒは、そんなことはどうでもいいと、軽く手を振る。
「だが、ルナの威力は一層強くなっている。早く手を打たねば、我々にも手が出せなくなるかもしれん。ノブユキを始末……いや、あいつを囮にしよう。……あの裏切り者をな」
唇に薄い笑いを貼り付かせ、視線を宙に据えた。
「今、彼はホッカイドーにいるそうです。考古学者の集まりがあるそうで……」
「ふむ、やるなら今のうちかもしれんが……暫らく様子を見てみよう。私の『メッセージ』を受け取った奴がどうするのか、見てみようじゃないか」
鳥野信行――今は九条信彦と名乗っている男。
今はその名を捨てた人物は、かつて、あらゆる点で誰よりもエールリッヒに近しい存在であった。彼の思想に理解を示し、共鳴した、最初の人間。だが、いや、だからこそ、その裏切りは許しがたい。
「何故やつらがあのような行動を選んだのか、未だに理解できん。しかも、自分らだけで逃げ出すのではなくルナたちをも連れ出すとはな……欲に目が眩んだのかと思えばそうでもない」
軽く肩を竦める。
「そうであれば、もっと早く居場所が知れたのだがな」
逃亡した三人のうち、すぐに所在を掴めたのは、自分の研究分野にしがみ付いたままであったマリア・ジョンソンのみであった。しかし、彼女のほうがまだしも理解できる。他の二人──飯島魁と鳥野信行は、まるきり彼らの専門から遠ざかっていたのだ。功成り名を遂げた己の研究からそう易々と離れることが出来るとは、到底信じられなかった。しかも、鳥野に至っては、偽名をも使うという念の入れようであった。
「最後まで逃げおおせればたいしたものだったが、こうなった以上、彼らはただの愚か者だな。苦労は水の泡となり、我々からの離反は愚挙に過ぎなかったことを、後悔と共に悟るだろう」
冷ややかな宣告。
下された以上、それは速やかに実行されなければならない。