三
何となく落ち着かない気がして、瑠衣は本のページを捲る手を止めて耳を澄ませた。家の中に、確かに、何か不慣れな気配を発するものがいる。
時計を見ると、そろそろ午前二時になろうとしていた。
この時間まで起きているのは彼女か信彦ぐらいだが、父は北海道で考古学の学会があるので、明後日まで帰らない。気が進まないようであったが、考古学界において信彦の成果はかなり評価されており、行かないわけにはいかなかった。
抄樹とレイの二人にいたっては、熟睡の真っ只中だ。
そっと足音を忍ばせてベッドを下り、制服のスカートのポケットから、先日レイからもらったばかりでまだ使ったことの無い痴漢撃退スプレーを取り出した。
廊下に出て、真っ暗な中を足元に注意し進む。明かりを点けては、階下の何ものかに気付かれてしまう恐れがあった。
暗闇に目が慣れた頃、ようやく階段に到着する。
と、その時。
「!?」
階段を下りようとした彼女を何者かが後ろから抱え込み、その口をふさぐ。
一階にのみ気を取られていた瑠衣は、予期せぬ事態に驚き、それを振りほどこうともがいた、が、その直後に耳に届いた声に拍子抜けする。
「瑠衣、俺だ」
「あーちゃん」
振り返ると、抄樹の隣にはレイも立っていた。二人の顔には緊張の色が濃い。
「お前は部屋に戻っていろ」
いつにない抄樹の声の厳しさに一瞬怯んだ瑠衣だが、すぐに気を取り直す。
「でも、あーちゃん」
「でも、じゃない」
出した抗議を即座に一蹴され、瑠衣は顎を引いて抄樹を睨む。だが、彼もこればかりは譲れんとばかりに義姉を見下ろした。
無言の眼力合戦に終止符を打ったのは、先ほどからなにやら考え込んでいたレイだった。
「いや……一緒に行ったほうがいいかもしれない」
二種類の視線──一方は期待、もう一方は抗議の──を受けて、レイは言葉を継ぐ。
「携帯電話がね、圏外なんですよ」
「?」
唐突な話運びに、抄樹にはレイの言いたい事が解りかねたが、瑠衣にはすぐに通じたようだ。
「それって……」
「そう、変でしょう?二人は携帯を持っていないからピンとこなかったかもしれませんがね。今日の昼間には何の問題もなく使えていた筈なのに、今は全くの圏外。どんな山奥だろうが電波が届く時代だというのに、この住宅街で、有り得ないでしょう?でも、有り得なくても事実なのだから仕方がない。何らかの妨害電波でも出ているんでしょうかねぇ」
レイはまるで宙を飛び交うその電波が目に見えるかのように辺りを見回してから、それにね、と続けた。
「ケーブルを継げたメールも駄目でした。多分、電話も駄目なんじゃないですかね。電話線が切られているとかで。つまり、家の中からは連絡手段がないという事で、裏を返せば、相手は我々を家の外に出したくない、という事になりますよね。それなら、外に出てしまえば何とかなるのではないかと思うのですが」
「それなら、瑠衣を部屋に隠しといて、お前が助けを呼びに行くか……?」
抄樹の提案に、レイは渋い顔で首を振る。
「こんな時間に音も無く行動できるような相手ですよ?しかも明かりも点けずに。相手の実力はかなりなものではないでしょうか。万一抄樹、君が勝てなかった場合、二階の、しかも一番奥の部屋にいる瑠衣さんはどうなる?逃げ場も、隠れる場所も無い」
問いかけられ、抄樹は返事に困った。確かに一理ある。
「それだったら、彼女を連れて一階まで行き、瑠衣さんに外部への救援を頼んだほうがいいでしょう」
その展開は抄樹にとっても望むところである。ポンと握り拳で片方の掌を打つまねをしてうなずいた。
「そうしろ、瑠衣」
「いやよ。私一人で逃げろって言うの?」
速攻で返る抗議に、レイは彼女の両肩に手を置いて説き伏せる。
「違います。ただ逃げろと言っているのではありません。あくまでも、助けを呼びに行って欲しいのです」
「そんなの、ただの詭弁だわ」
瑠衣とレイの間で始まりかけていた応酬を、今度は抄樹が止める。
「よし、レイ。お前が瑠衣と一緒に行け」
これは名案とばかりに自信満々で言った抄樹の台詞に、二人が同時に抗議の声をあげる。
「君一人で残る気か!?」
「そんなのだめ!じゃあ、私も絶対残る!」
必死に縋り付く瑠衣の頭に手を乗せ、宥めるように軽く叩いてから、レイの目をじっと見つめる。
ややあって、レイの口から息が一つ吐き出された。ニッと笑って応える。
「わかった」
「レイ君!」
瑠衣が押し殺した声で悲鳴を上げるが、レイと抄樹はしっかりと視線を絡め、頷きあう。
抄樹の、瑠衣を護るという意志は、痛いほどに感じられた。そして、今、レイ自身の中にも同じ気持ちがある。
この家に来た次の日に抄樹に言われたことが、少しだけ理解できたような気がする。
目を閉じ、自分のなすべきことを確認し、心の中を整理する。
再び目を開けると、瑠衣の心配そうな顔がこちらを向いていた。
行動を開始する。
抄樹を先頭に、階段を下りていく。
下りきったところで、抄樹は右手に持った、鉛を仕込んである素振り用の竹刀を握りなおした。
気配を探った抄樹は、侵入者の居場所が居間であるとあたりを付ける。外に出るには、その前を通らねばならないのだが。
レイも瑠衣の腕を、振り解かれてしまうことの無いように強く掴み、いつでも準備は出来ていることを示す。
目で合図し合って、抄樹は居間へと飛び込んだ。
続いて廊下を走り抜けようとしたレイだが、直後に響いた驚愕に満ちた抄樹の声に、思わず足が止まる。
「何だ……!?」
一瞬その手が緩んだ隙に、瑠衣が拘束を解き、居間へと走ってしまう。
「瑠衣さん……!駄目です!」
彼女を連れ戻すべく後を追ったレイだったが、次の瞬間、抄樹の声の原因を目の当たりにし、自分の正気を疑った。
「これは……?」
彼と同じに目を見張ったまま硬直している瑠衣。
竹刀を構えてはいるが、動揺を隠せない抄樹。
そして、その先にいるのは。
金色の地に黒い縞模様。獰猛な肉食動物の目が闇の中で赤く光る。
しなやかでいて同時に強さを漲らせたその姿は、紛れも無く、虎だった。
二メートルはあるだろう巨体で尾を緩やかに揺らしながら、低い声を上げている。
「何故、こんなところに……?」
そんな場合ではないということは充分解っているのだが、レイは頭で納得できる理由を探してしまう。思考の迷宮に入り込もうとしていた彼を現実に連れ戻したのは、切羽詰った抄樹の声だった。
「レイっ!行けっ!」
その声でレイは半ば反射的に身を翻し、瑠衣の腕を取る。
「行きますよ!」
「でも……っ!」
瑠衣の目にもそれの姿は入っていた。抄樹に勝ち目が無いのは、一目瞭然である。
動こうとしない瑠衣に、レイはかなり痛い一言を投げつける。
「あなたがいたら、抄樹も逃げられません!」
振り返った瑠衣に、レイが真剣な目で頷く。確かに、瑠衣がこの場にいる限り、抄樹が逃げることは決してないのである。
足手纏いになっているのは明らかだった。
居間から聞こえてくる激しい乱闘の音に後ろ髪を引かれながら、半ば引きずられるようにして、瑠衣はレイと共に玄関へ向かう。
このあたりは住宅街で、夜中になると全くと言っていいほど、人通りが無くなる。たまに通るのは、午前様の酔っ払いか、夜食を買いに出た受験生ぐらいだ。通りすがりの人間に助けを求めるのは無理である。
家から出れば携帯電話が通じるようになっていることを祈るが、もし駄目であれば、公衆電話を探すか、隣の住人を叩き起こすか。
後者のほうが早いだろうが、セキュリティシステムという問題があった。急速に治安が悪化した二十二世紀半ば頃から、ある程度の資産を持つならば、自動照準式の麻酔銃の設置が新築建売一戸建ての標準装備となっている。うかつに踏み込んで眠らされてしまっては、元も子もない。
「まったく、究極の自衛手段は、他人の事は知りません、て事だったんだな」
ぼやきながらも一番近くにある公衆電話を思い出しながら玄関のドアノブに手を掛けたレイの耳に、さほど硬くないものが叩き付けられた音が届いた。
「あーちゃん!?」
肩越しに振り返った瑠衣が、そこにあるものを認めて目を見開く。
その瞬間、瑠衣は、普段の彼女からは想像できない力でレイの手を振り払い、居間から廊下の壁へと投げ飛ばされた抄樹の元へと駆け寄った。制止する暇を与えない素早さで。
慌てて連れ戻そうとしたレイを、瑠衣の静かな声が縛る。取り乱しているはずの彼女の、らしくも無い冷静な声。
「来ないで」
「瑠……衣、さん?」
彼女から発せられる逆らいがたい威圧感に、身体が自然と従ってしまう。
──これは、誰だ……いや、何だ?
とてつもない、違和感。
それは直感に過ぎなかった。理性的な根拠に基づくものではない、直感。
しかし、これまで馬鹿にしてきたそんな下等なものが正しい場合も有り得ることを、レイはたった今実感した。
──目の前にいるのは、瑠衣さんではない……少なくとも、僕たちの知っている彼女では……いったい、誰なんだ?
半ば呆然と、レイは心の中で繰り返す。
そして、床に倒れたままの抄樹も、同様の感覚を覚えていた。義姉を見上げたまま、呆然とした彼は彼女に掛ける声も無い。
外見は変わっていないが、その身に纏う空気が、明らかに二人の知る瑠衣のものとは異なっていた。冷ややかで、超越した存在。
永い年月をかけて育て上げられたようなとてつもない存在感は、こんな幼い少女には──いや、どんな人物でも、持ち得るものではない。
鋭い爪で引き裂かれた腕を押さえながら壁を背にして膝を突く抄樹の前に立ち、瑠衣は、今にも飛びかかろうとしている虎を、強く見据えた。その視線は、見えない鎖となって金色の身体を縛る。
戸惑うように攻撃体勢を取り、そして次第にそれを解除していく虎から目を離さず、瑠衣が命令を口にする。
「駄目よ。抄樹を傷つけることは、私が許さないわ。わたしがゆるさない」
虎は戸惑ったような唸り声を上げ、そして、その声に打ち据えられたかのように彼女の足元にうずくまる。そのさまは、王女に跪く騎士にも似ていた。
瑠衣の口元に、満足そうな微笑みが浮かぶ。
「瑠衣……?」
名前を呼ぶというよりも、相手の存在を確かめるような口調でかけられた抄樹の声が合図であったかのように、ふらりと彼女の身体が崩れ落ちる。
抄樹が手を伸ばすよりも速く、虎が彼女の身体を支え、大事な宝を扱うようにそっと抱え込んだ。
彼女が意識を失うさまを目にし、我に返ったレイが、虎の存在にも躊躇することなく、瑠衣の手首を取り時間を計る。
「……大丈夫。脈は正常だ──気を失っただけだろう」
レイと抄樹は、同時に安堵の息を漏らす。
「今のは、何だったんだ?」
「僕に訊くなよ。抄樹のほうが、瑠衣さんとは長くいるだろう。まあ、この話は後にして……それより、君のその腕、早く止血しないと。それ、多分痕になるぞ──まあ、男だから構わないけど」
血塗れの腕で瑠衣を抱き上げようとした抄樹を制し、代わりに手を伸ばしながら、レイは素早く抄樹の傷の状態に目を走らせる。
咄嗟に虎の爪を遮ろうとしたのだろう、前腕の外側を横断するように付いた三筋の傷から、ポタポタと赤い滴が垂れていた。
「取り敢えず、居間に行こう」
四十五キロちょっとの瑠衣の身体を抱き上げ、レイは多少ふら付きながら居間に入る。その後に、私は貴女の下僕です、といった風情の虎と、シャツを脱ごうと四苦八苦している抄樹が続いた。
居間に足を踏み入れた一同は、思わず絶句してしまう。
部屋の中は、かなりの惨状であった。
信彦のお気に入りであったソファは切り裂かれて中の綿がはみ出ており、瑠衣のコレクションだった陶製の人形たちは大半が無残な姿を晒している。テーブルは足が二本折れて天板の片方が床に付いているし、カーテンもビリビリだ。これらは全て、先ほどのわずかな時間での乱闘によって成された結果だった。
部屋をぐるりと見回し、一番被害の少なかったソファに瑠衣を寝かせ、レイは抄樹の傷の手当てを始める。かなり酷く抉られているが、抄樹は大して痛がる様子も見せない。意地を張っているのかと思ったが、そうではないようだ。
「俺、傷が治るの速いから、適当でいい」
けろりとそう言った抄樹に、レイは包帯を巻きながら呆れたような目を向ける。
「まさか。こんな抉ったような傷じゃあ、ある程度塞がるまで、少なく見積もっても二週間だ。不注意に動かしたりすれば、もっとかかる。完治するには二ヶ月は必要だろう。──出来たら病院に行って縫ったほうがいいけど、理由を訊かれたら困るからな。こんな見るからに大型動物にやられましたっていう傷……まさか、飼い猫にやられましたって言うわけにもいかないだろうし」
──手早く包帯を巻き付けながらレイはそう言ったが、実際、一週間後に傷の様子を確かめた彼は、抄樹を化け物扱いすることになるのだ。
手の動きや感覚には問題が無く、神経は傷ついていなそうだった。さしあたって出血は抑えられているようなので、レイに出来るのはここまでだろう。
丁度抄樹の手当てが終わった頃、瑠衣が小さく声を上げた。人の名前を呼んだようであったが、レイと抄樹にははっきりと聞き取ることは出来なかった。
*
瑠衣は白い闇の中にいた。
白い闇とは変な表現ではある。だが、実際に、周り中真っ白であるにも拘らず、闇のようなのだ。自分の姿を確認しようと腕を持ち上げてみても、何も視界に入らない──あるいは、膨大すぎる光量によって目が眩んでいるのかもしれない。
不思議な安堵感に揺さぶられて、瑠衣は力を抜いてその闇に身を任せた。
突然居間に現れた虎のことも、二人の弟のことも忘れたわけではなかったが、何故か二人はもう大丈夫だ、という確信があった。もう、二人は危険に晒されてはいない。
この非現実的な状況に対しての興味が大部分を占める感情を抱きながら不思議な光景を見回していた瑠衣の頭に、不意に誰かの声が響いた。それは、いわゆる『音』ではない。耳ではなく、直接頭に、あるいは心に届く。
今まで聞いたことが無いはずなのに何故か覚えのあるその声は、彼女のものと似ているが、わずかに相手のほうが低いような気もする。懐かしい、声。
「誰……?」
声の主を探す瑠衣の身体を、誰かがフワッと抱き締めた。
やはり姿は見えないが、その温もりを、確かに感じる。
──私はルナ。あなたは私を知らないだろうけれど、私はあなたのことをよく知っている。多分、あなた自身よりも。
──知らない……?いいえ、私はこの腕の持ち主のことを知っている。
姿の見えない相手のことではあるけれど、確信を持って、そう断言できる。
彼女を抱き締める腕。
気遣うような、躊躇うような、その声。
存在そのものが、自分に近しいものだと囁きかける。
──これは、あなたの夢。目が醒めたら大半は忘れているだろう。でも、これだけは覚えておいて。あなたとあなたの大事な二人を狙っている奴らがいるの。私たちを玩具にして、世界で遊ぼうとしている奴らがね。『彼』は本当に世界のことを憂えているのかもしれない。でも、あの人の背後にいる連中は、世界のことなどこれっぽっちも考えてはいないわ。
──?
ルナの言葉がよく理解できず、瑠衣は疑問符を浮かべる。そんな彼女に、ルナが小さく笑った。
──なんでもない。ただ、あなたのためにも、そして、あの人のためにも、私は目覚めてはいけないの。だから、私のことをこのまま忘れておいて。私のことを思い出してはだめ。あなたにはあなたでいて欲しい。あなたが幸せに暮らすには、私の存在は邪魔なのよ。
そんなことは無いと向きになって否定する瑠衣を、ルナはクスリと笑って受け流す。
彼女は、もう一度瑠衣を優しく抱き締めると、促すように背中を押した。
──ほら、そろそろ行ってあげないと、二人が心配するわ。あの二人は、どんなことがあっても、あなたを護ってくれる。どんな時でも、二人を信じていなさい。三人一緒なら、どんなことでも乗り切れる。……さあ、もう行くのよ。
彼女のその声を合図に、瑠衣の意識は急速に覚醒へと向かい始めた。
もう少し。もう少しだけ、あなたといたい。
その瑠衣の願いは叶わず、彼女は容赦なく現実へと引き戻されていく。
ふわふわとした、海の奥深くから浮いていくような感覚を味わいながら、瑠衣は最後にただ一言呟いた。
誰よりも自分に近しい存在である相手の名前を。