二
──瑠衣……瑠衣。泣くなよ。俺が護ってやるよ。誰が、何をした?ほら、言えよ。
しかし、少女は、頬に涙を伝わらせながらも微笑んで、静かに首を振った。
その儚い微笑みが心を締め付ける。彼女の笑みは、太陽に向かう向日葵のようなものでなければならなかった。
彼は懸命に腕を伸ばしたが、届かない。
抱き締めることさえできるような距離にいる少女なのに、なかなか、手が、その肩に触れない。
あと少し。
ああ、届いた。
そう思った瞬間、彼女の姿は掻き消すようにどこかへ失せる。
慌てて周囲を見回すと、離れたところに、三歳ほどの幼女の姿が浮かび上がった。
──あれは……あれも、瑠衣?
確かに、同じ存在だった。
でも、俺が初めて瑠衣を見たのは、あいつが七歳のときじゃなかったっけ?何で、あんなに小せぇんだ?
瑠衣が六歳の頃に火事にあったとかで、彼女が幼い頃の写真も失われており、抄樹はそれ以前の瑠衣を見たことは無いはずだった。
不可解さが頭をよぎったが、泣いている瑠衣が目の前にいることには変わりが無い。
走り寄ろうとしたところで、彼女が何かを言っていることに気が付いた。
しかし、距離があるために、その声は届かない。
口の形だけで内容を理解しようとするが、はっきりとは見えず、やきもきする。
声が届かないことを悟ったのか、少女は言葉を紡ぐのを止めて、再び、涙を流す。
三歳の子供の泣き方には見えない、静かな涙。
それを止めたくて、彼は思わず、声に出して呟いた。
「泣くなよ」
──……あれ?
その声で、抄樹は、自分が今まで夢の中にいたことを知らされる。
「夢、か……。……?」
ほっと息を吐いたが、彼は、たった一つだけ、夢の中から付いてきたものがあることに気が付く。あるいは、これが原因で、あんな夢を見たのだろうか?
耳を澄ますと、静寂の中に、微かに聞こえた。
──誰か、泣いている?
はっきりと聞こえるわけではないが、誰かが声を押し殺して泣いている気配がする。
初めは夢と混同しているのかと思ったが、そうではなかった。声の主は、おそらく、レイ。
瑠衣でないのならば無視してしまえ、とばかりに布団を被るが、一度気付いてしまうと、どうにも耳に付く。並より優れている五感も災いした。
「安眠妨害だぞ、あの野郎」
二度目の眠りに入れず、抄樹は呻く。
金髪の少年があの時すれ違いざまに吐いた、あの暴言。あれは彼にとって、かなり強烈だった。最初の印象が悪すぎて、どうも寛大になれない。
時計を見ると、二時を回っている。
そろそろ夜更かしの瑠衣も眠りに就く頃だった。
寝つきも寝覚めも非常によい抄樹に対して、瑠衣の寝つきはやたらと悪い。この程度でも起きてしまうかもしれなかった。
「くそう。ただでさえあいつの睡眠時間は短いんだからな」
ぶつぶつ言いながら、足音を忍ばしてベッドを下りる。もともと、物音を立てずに身動きするたちだが、常よりも更に輪をかけて音を立てないように心がける。
そーっと歩いて、そーっとドアを開けて……。
「……あーちゃん?」
「うわっ!?」
背後からかけられた、全く予期していなかったその声に、抄樹は文字通り飛び上がらんばかりになる。ばくばくと激しく鳴る胸を片手で押さえ、彼は振り返った。
「瑠衣!?」
「いやぁね。何でそんなに驚くの?」
呆れたような目の前の義姉が、一瞬、夢の中の少女と重なった。そこに全く違和感は無い。まるで、彼女の幼い日の姿を見たことがあるかのようだ。
そんなはずは無いのに。
夢の中でのことだ、辛うじて残っていた写真でも見たことがあったのだろう、と理屈付けようとするが、何か頭の中がすっきりしない。忘れてはいけないことを、忘れてしまっているような気がする。
「あーちゃん?どうかした?」
考え込んだ抄樹を、空飛ぶ象よりも不思議なものを見るような顔つきで、瑠衣が見上げている。
──真剣に頭を使ってる俺が、そんなに珍しいのか?
確かに、考えることはあっても、考え込むことはめったに無いことは自分でも認めるが、ここまで意外そうに眺められると、少々複雑な気分になる。
「別に。それよか、瑠衣こそ何やってんだよ?」
答えは判っているのだが、一応、訊いてみる。
「あーちゃんと同じよ。……レイ君が、泣いているのよね」
昨日まで空室だった部屋のドアに目をやりながら、瑠衣は、抄樹に、というよりも自分に言い聞かせるように呟いた。
瑠衣は、雰囲気、というか、他者の感情の気配というものに対して、非常に敏感なのだ。他人の悲しみも、喜びも、正確に素早く感じ取ってしまう。
それは瑠衣に特別に備わっている能力というわけではなく、実は誰もが持っているべきものなのかもしれない。ただ、多くの人がその力によってもたらされる辛さに負けてしまい、いつの間にか手放してしまうそれを、彼女は失わずにいるだけなのだ。
──楽しいことにだけ敏感だったら、この上なく幸せなのにな。
瑠衣のそういう面を見ると、抄樹はいつもそう思わずにはいられない。楽しいことよりも辛いことのほうが多いこの世の中では、あまり歓迎できる能力とはいえないだろう。
他人の悲しみを我が事のように受け止めては声を殺して泣く瑠衣を見る度に、抄樹は彼女を真綿で何重にも包んで何処かに隠してしまいたくなる。
だが瑠衣は、どれだけ泣いても、やはり悲しみを見て見ぬ振りはできず、何度でも歩み寄っていくのだ。抄樹にできるのは、ただ傍にいることだけである。
そんな抄樹の心など知ることなく、瑠衣はレイの部屋の扉の前で軽く深呼吸した。
「レイ君、開けるよ?」
軽く、ノックをする。
数秒の沈黙の後に、返事があった。
「……どうぞ」
瑠衣だけが部屋の中に入る。抄樹は戸口に寄り掛かり、静観することにした。
「お二人とも、何の用ですか?こんな、夜遅くに」
声音だけからは、たった今まで泣いていたとは思えない。明かりを点ければ、微笑みさえ浮かべていることに気が付くだろう──口元だけの、ではあるが。
瑠衣はそんなレイに黙って近づき、ベッドの縁へ腰掛ける。じっと、彼を見つめた。
「何ですか?」
疑問というよりも戸惑いを声にしたような問いだったが、次の瞬間、彼はそんな些細なことなど、頭の中からすっ飛ばしていた。頭に押し付けられた柔らかな双丘の感触に、レイの頭は混乱の極致を迎える。
彼の頭は瑠衣の胸にしっかりと抱きしめられていた。
「な、何を!?」
「動かないで」
ほっそりとしているくせに柔らかな身体に頭を押し付けられ、レイが大慌てで彼女の腕を振り解こうとしたが、瑠衣はそれを穏やかに、しかし、逆らうことを許さない強さをも秘めて、制する。
その声が鋼の鎖にでもなったかのように、レイの抵抗はぴたりと止まる。
「泣きたいんでしょう?どうして隠すの」
「何を唐突に、僕は、別に……」
レイの反論を、瑠衣は軽く笑って、いなす。
「嘘。さっきまで、レイ君、泣きたいのを一生懸命に堪えていたわ」
返す言葉が無くて、彼はぐっと詰まる。
それは事実だった。だが、彼の目からは、決して涙がこぼれようとはしないのだ。永いことそうしてきたがために、嗚咽が漏れても、涙が溢れることはない。
「泣きたかったら、いくらでも泣いていいのよ。涙を堪えたままだと、いつまで経っても、悲しいことはレイ君の身体の中に残ってしまうわ。だから、泣きなさい」
背中に廻された瑠衣の手が、優しいリズムを刻む。
高く澄んだ柔らかなその声は、レイの心に静かにしみこんでいく。驚くほど素直に、それを受け入れることが出来た。
「でも、僕は、他の人とは違うんだ。そんな感情に流されては……」
「あら、どこが違うの?頭はとっても良いそうだけど、あーちゃんと同じ、十四歳の男の子じゃない。まだまだ、子供よ。泣きたいときは泣けばいいし、怒りたいときは、そうすればいいのよ。あんまり過剰だと周りの人が迷惑するけど、そうならない程度なら、いいの」
あーちゃんも無表情で無愛想だけどね、怒るときは早いから、と当人に冗談めかして同意を求める瑠衣に、抄樹は肩を竦めて見せた。
瑠衣の腕の中で、レイは彼女のせりふを反芻する。初めて言われた、自分をさらけ出せという言葉。
知能指数という数字はレイから子供でいる時間を奪い去り、今まで、彼には完璧であることだけが求められてきた。お前は凡人とは違うのだ、というせりふと共に。
自分に対して周囲が求めている役割を無視することは出来ず、彼は無意識のうちにそれを演じていた。そうしなければ誰も自分のことを見てはくれないのではないだろうか──そんな恐れがレイの心の隅に居座っていたから。
「頭がいいっていうことが、大人だっていうことにはならないわ」
初めて顔を合わせた、あの時、自分は確かにこのひとを見下したはずだった。なんとあけすけで、幼稚なのだろう、と。正直なところ、知能の程度まで、疑った。
だが、今、彼女の言葉で、こんなにも自分は楽になっている。
涙が、自然と溢れていた。
知らず、嗚咽が漏れる。
トクン、トクン、と、押し付けられた耳に、規則正しい音が響く。それは、彼女が生きている証だった。
自分にもこのリズムがあるということを、いつの間に忘れてしまっていたのだろう。
瑠衣の鼓動を感じながら、レイは声を上げて泣いていた。
科学者であった、母マリアは、自分の持てる知識の全てを、レイに伝えてくれた。それが、学問に身を投じ、彼という息子は持ったが結婚をすることは無かった彼女の、精一杯の愛情表現であったのだろう。
母の信じる愛の形を否定することがレイにはできなかったから、マリアもそれが彼の心を小さな箱の中に閉じ込めることになったことに気が付くことができなかったのだ。
そんな中で彼は年齢不相応に大人び、いつしか真の自分の感情と欲求から目を逸らすようになっていた。永久に手に入らなくなるまで、本当は己が何を欲しているのかという至極簡単なことに気付くことができなかった。
柔らかさと温かさ。
安らぎに身を包まれながら、レイには徐々に眠りが満ちてくる。
もう、母親が生きながらにして炎に包まれていく姿は、脳裏に浮かんでは来ない。
数十キロも離れた場所での事故だったというのに、まるでその場にいたかのように鮮明な悪夢が、毎晩彼を苛んだ。
飛び起きるたび、何も出来なかった、という罪悪感と――皆が誉めそやすこの能力は、大事なひとを護ることすらできないのだという無力感とに襲われた。
──そして、失ってしまった、愛情。
涙が溢れるたび、それは決して取り戻せないのだと心に刻まれ、同時にその悲しみと憤りは過去のものへと昇華されていく。
そこにできた新しい隙間は、別の想いで埋められていった。
今、自分を包んでいる、温もり。
この温もりは壊させない。どんなことをしても。絶対に、失わない。
夢うつつの中で、少女の身体に腕を廻し、しっかりと抱き締める。
まるで、溺れるものが一片の板切れにすがりつくかのように。
まるで、どんなものからもその存在を護ろうとするかのように。
*
「おはよう、レイ君。いい朝だよ」
少々寝不足気味のレイをキッチンで迎えたのは、純日本風朝食──和風ではない──のにおいと、晴れやかな瑠衣の声だった。
──何でこんなに元気なんだ?
レイよりも、彼女の睡眠時間のほうが短いはずだ。にも拘らず、この軽快さ。
泣き顔を見られた照れ臭さよりも先に、三時間も寝ていないはずである彼女の元気さに、驚き呆れる。
「あーちゃん、起こしてきてくれる?まだ起きてこないの。一緒に学校行かないと、すぐにサボっちゃうんだもの」
それで、学校にいないと思ったら、街で喧嘩しているのよね。
瑠衣はおたまを持っていないほうの手を頬に当て、フウ、と溜め息を吐く。
何の武道の流派にも属していないにも拘らず、抄樹の戦い方は一分の隙も無く、完璧な攻撃と防御を見せた。
正当な理由なくして抄樹のほうからその拳を振り上げることは決してなかったが、売られた喧嘩は必ず買うという律儀さと、それに伴う彼の派手な戦歴は、素人のみならず玄人にまで一目置かれている。
買った喧嘩の数など覚えていられないが、両手両足の指を使っても足りないことは確かであり、未だに負け知らずであることもまた、真実であった。
弟のその方面における能力には揺るぎ無い信頼を置いているので、彼の身に対しての心配はしていないが、如何せん相手の被害が大きすぎる。
本人は手を抜いていると言い張り、実際にそうであるのだろうが、病院送りの数が多すぎた。
あくまでも相手から先に手を出し、その上、抄樹一人に対して向こうは五人以上であることが殆どなので、一応こちらには非が無いことにはなっているが、一歩間違えれば過剰防衛で前科持ちになりかねない。そうなったら、抄樹の一生はぶち壊しだ。
彼の母親代わりだと──自分では──思っている瑠衣である。
大抵のことは許してしまう彼女だが、これだけは苦りきった様子で話をする。
一方、そんな瑠衣の嘆きを耳にしながら、今まではあまりに型通りの人間に埋もれてきたレイは、この家の住人がごく普通の人間なんだとは思えなかった。尤も、そう思うようになってしまったら、彼もすっかりここの水に毒されたということなのだろうが。
頭を振り振り、抄樹を起こしに二階へ上がっていきながら、レイは昨夜のことをぼんやりと思い起こしていた。
あのような醜態は、本来、彼にあるまじきものだった。にも拘らず、さっき瑠衣と顔を合わせたとき、予想していた気恥ずかしさは、全く無かった。彼女の第一声が、あまりにも自然だったからだろうか。
今までレイの周囲にいた、どこか無機質な人々とは違う、表情のコロコロ変わる少女。
一見年下のようなのに、昨晩は、十も年上のようだった。
抄樹の部屋の前まで来て、思わずクスリと笑みを漏らす。
「自分でも、よく解らないな」
独りごちて、抄樹の部屋のドアをノックする。
返事が無い。
もう一度、ノック。
やはり、返事は無い。
「……開けるぞ」
一応断ってから、ドアを開けた。遮光カーテンの所為で、部屋の中は暗い。
「アツキ……?起きろよ」
声を掛けながら近づく。
ベッドまであと三歩、という距離になったところで、何の気配も見せなかった抄樹が、
ムクリと起き上がった。
「起きていたのか!」
予測していなかったその動きに、レイは驚き、次いで少々ムッとする。
「今、起きたとこ。……ああ、お前か」
頭をぼりぼりと掻きながら、寝ぼけ眼でおはようという抄樹に、レイは、それに対応しない返事をする。
「お前にお前呼ばわりされる筋合いは無い。きちんと敬称を付けて、名前で呼んでくれ」
高飛車極まりないレイの口調に、抄樹は一瞬目を丸くしたが、すぐに、にやりと意地の悪い笑みを浮かべて反撃する。攻撃のための口なら、よく回るのだ。
「ふぅん。女に抱き付いてビービー泣いていたガキが、随分偉そうじゃねぇか」
その揶揄は、レイにとって、かなり痛いところを突いた。白磁のような肌が、見る見るうちに真っ赤になっていく。
ギンと二人が睨み合ったところで、パタパタと、スリッパの音も高く瑠衣が現れた。抄樹を起こしに行ったレイまで帰ってこないのに業を煮やして様子を見に来たのだ。
あまり和やかには見えないその場に、果たして彼女は気付いているのか──おそらく気付いていないのだろうけれども──瑠衣は目を丸くする。
「あらあら、なぁに、二人とも?あーちゃん、早く支度しなきゃ。ご飯が冷めちゃうじゃない。あれ、やだ、レイ君てば、真っ赤。お熱でもあるのかしら?」
言いながらスイッと、瑠衣が手を伸ばした。
その手の先が額に触れたその瞬間、体中の血が逆流したかのように、レイの心臓が悲鳴を上げる。
どきん、どきん、という激しい動悸に加え、息も苦しくなってきた。
──な、何だ、これは?不整脈か!?
堪り兼ねて、彼女の手を、そっと振り払う。
「何でも、ないです。大丈夫」
真っ直ぐに覗き込んでくる瑠衣の眼差しから目を逸らし、レイは辛うじてそう答える。
混乱しきったその様子に、抄樹が目を光らせた。彼には、判る。
「瑠衣、俺着替えるぞ」
だから出てろよ。
抄樹に促され、瑠衣はなおも心配そうにレイを見ながらも、退出する。
「うん、じゃあ、あーちゃんが下りて来たらご飯にしようね。早くしないと、遅刻しちゃうよ。せっかくのレイ君の初登校なんだから」
絶対遅刻なんて駄目だからね、と念を押しつつ扉を閉めようとした彼女だったが、再びヒョコッと顔をのぞかせる。
「あ、それから、レイ君の制服、下にあるからそれに着替えてね。お父さんが頼んでおいたのですって」
それだけ言うと、今度こそ軽い足音を響かせ、瑠衣は階下に戻っていった。
「じゃあ、僕も、行くから」
レイは顔の火照りの引けないまま彼女に続こうとしたが、思いもかけない言葉によって、抄樹に引き止められる。
「…………は?今、何て?」
一度目は、脳までその台詞が到達することが出来なかった。間抜けにも、聞き返してしまう。
「だから、お前、瑠衣に惚れただろう」
「……は?」
あまりにも突拍子も無い──と言われた本人は感じた──言葉に、一瞬思考は停止し、口だけが自動的に理性に満ちた返答をする。
「そんなことは無い、筈だ。彼女は……彼女は、年上だし、第一、もう家族だ。それに、まだ会ったばかりじゃないか。僕は彼女のことは、何も知らない」
「でも、一番肝心なことは知ってるだろ」
抄樹の言葉が指しているものはレイにも判った。
瑠衣の温かさ。
うなずく代わりに俯いたレイだったが、続いた抄樹の台詞に思わず顔を上げる。
「大体、家族ったって、この家の人間は、誰一人血の繋がってる奴はいないし」
「え?アツキたちは……?」
「一応、俺は名実共に赤の他人。七年前に本当の親父が死んで、その親友だって言う、今の親父に引き取られたってわけ。実の親父に親戚いなかったから。遺産なんかの関係で俺の苗字は飯島のままだけど、瑠衣は親父の養女かな、戸籍上は」
澄ましてハンガーから制服を外す。
「だから、俺は瑠衣と結婚できるんだぜ?しようと思えば。お前もそうだろ?」
確かに、レイの姓もジョンソンのままだが、それにしても……。
今まで右脳で殆どの判断を下してきたレイにとって、自分の感情の動きを認めるのはかなり難しいことであった。
惚れている、とは、すなわちlikeではなくloveということで、それは……。
どうにも素直に受け入れがたく、パジャマを脱ぎ始めた抄樹を、ただ呆然と見ているだけである。そんなレイには目を向けることもせず、抄樹は言い放った。
「そのうち、お前のその優秀な脳味噌も解ってくれるさ」
着替えが終わると、未だに必死にその『優秀な脳味噌』を動かそうとしているレイを置き去りにして、抄樹は瑠衣の待つ朝食の関へと向かう。こんなにも簡単なことにこれほど頭を悩ますレイが、いい気味ですらあった。
心も軽く、抄樹は鼻歌混じりに階下へと去っていく。
そして重大な問題を提起されたまま一人残された少年が取った次の行動は次のようなものである。
まずおもむろに頭を振って、それから短い言葉を心の底から吐き出す。現在の心境を、最も忠実に、最も端的に表している言葉を。
すなわち……
「馬鹿な」
*
深く暗い森の中、陰鬱な空気を滲み出させている建物がある。
時折、その中からは、得体の知れないものの声が響いてきた。
近くの村──とはいってもそこに出るまで自動車でも半日はかかるが──の人間はおろか、森の中に住む獣でさえも、近づくものはいない。
「ようやく、時が訪れたな」
抑揚の無い、どこか狂信的な響きを含んだ声が、換気装置や計測を続ける様々な機器──無機物だけがたてている静かな音の上に重なった。
それを発したのはアルベルト・エールリッヒ──自分の研究に対する興味があまりに強過ぎて、あるいはあまりに他人とは異なり過ぎて、各々の学会から摘み出されたものたちで構成されたこの研究所のリーダー格である。
決して安上がりとは言えない上に、直接金銭的な利益を上げることもできないと思われるここの研究費をいったいどこから手に入れてくるのか、あまりに異端な研究者ばかりをどうやって探し出してくるのか、それらを知るのは彼だけだった。だが、ここに集まった十人あまりの研究員たちにとって、そんな世俗的な事情は自分に関係の無い話である。
彼らにとって、何の制約を受けることも無く自分の好きな研究が好きなだけ出来る、というこの環境さえ保たれれば、おおよそのことは無視できた。
そんな彼らの前で、エールリッヒが口を開く。
「機は熟した。いささか時間はかかったが、あれらの成長を待っていたと思えば、さほど苦にもならんだろう」
暗いこの部屋を、一層鬱々たるものにしているその声もさることながら、軽く伏せられた瞼の奥にある目を正面から覗き込むことが出来たなら、更に、この男の正気を疑うであろう。
「貴重な成功体が、ようやくこの手に戻る。唯一の、そして、最高の、成功体だ。他の実験体はことごとく失敗だったからな。この日が来るのを、どんなに待ちわびたことか」
クックックッと、喉の奥で笑いを堪える。
「ルナも十六歳だろう。そろそろテストをしてもいい頃だ。あれは……?」
「はい、完成しています。しかし、無機質の転送には成功しましたが、まだ生物では実験したことがありません」
「丁度いい。十七号を送ってみろ。ルナの能力はある程度の知能が無ければ効かないからな。まあ、転送にしくじったとしても、少々惜しい気はするが、なに、また作ればいい」
呼ばれたのを聞き止め、並んだ檻の中の一体が、ムクリと、身体を起こす。
猫科特有の目が、陰の奥でわずかな明かりを反射して鋭い光を放った。
「コレも、良識派という奴らが馬鹿にした研究の成果だな」
言いながら、鉄格子の前に膝を突く。
「あの三人の裏切り者どもがルナたちと共に姿を晦ましてから、十年か。……あと少しで、理想郷が完成する。唯一つの名の下に、全ての人間が同じ道を歩む世界が……」
その場の誰に語りかけるでもなく、男は呟く。
自身の信じる世界を、夢見る世界を、ただそれだけを見つめて。
その目が映しているものは、その場には存在しない何かであった。