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trinity  作者: トウリン
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「あーちゃん、あーちゃん?起きて」

 春眠暁を覚えず、の言葉どおりに、麗らかな春の陽射しに誘われて、中庭の芝生の上で過去の思い出に浸りきっていた抄樹あつきは、夢の中の少女の十年後の姿を突然目にし、一瞬、混乱した。

「ああ……瑠衣るいか」

 眩しさに目をこする。腕時計は、午後四時四十五分を指していた。昼食を摂ってからずっと寝ていたから、昼寝には充分すぎるほどだ。

「最近、よく寝るね」

 少女がクスクスと笑いながら、少し腰を屈めて手を差し出した。

「だめだよ、あーちゃん。授業サボって、こんなところでお昼寝なんかして。数学の大田先生に泣きつかれちゃったよ。あと、担任の杉山先生にも」

 そう言って、瑠衣は軽く抄樹を睨む。大きなその目は、いつでも楽しそうに輝いている。

 瑠衣は、身内の欲目──というより、惚れた弱みを除いても、充分な美少女だ。美女ではない。そう評するにはあまりに子供っぽい。

 瑠衣と信彦親子のもとに引き取られたのは抄樹が四歳の時で、以来多くの女子を見てきたし、告白もされてきたが、彼はこの血のつながらない姉一筋だった。――残念なことに、その気持ちは、瑠衣にはサッパリ伝わっていないが。

 中学三年生にして身長が百八十センチ弱あり、全体的にがっしりしている抄樹と並ぶと、瑠衣の華奢な身体と童顔がより強調される。そのためか、実際には二年と半年ほど年上の瑠衣のほうが妹に見られることが殆どだった。

「あーちゃんを迎えに行ったら、大田先生があーちゃんの鞄持って待ってるんだもん」

 軽いね、と言いながら、抄樹に鞄を渡す。それもそのはず、彼の鞄の中身は殆ど入っていない。毎日持ち帰っているのは、弁当箱ぐらいだ。

「大田、ロリコン入ってるんじゃねえの?」

 明後日の方を向いて、ボソリと呟く。瑠衣がきょとんとしたが、わざわざ教えてやる気は無い。

 鈍い瑠衣は気付いていないが、器量良しの気立て良し、成績優秀、(少々運動神経は鈍いが)申し分無し、のお買い得品である彼女を射止めようと狙っている男は腐るほどいる。高等部と中等部という壁を物ともせずに睨みを利かせている抄樹が巨大な障壁となっているから、直接攻撃ができないだけなのだ。

 解ってないよなぁ、と溜め息を吐いている抄樹の心など、瑠衣には知る由も無い。小首を傾げてきょとんと義弟を見つめる。

「なあに?」

「別に、お前っていっつも幸せそうだよなぁって思っただけだよ」

「それって、何だか、莫迦にされてるような気がする。まあ、いいけど、本当に幸せだから!」

 ぷうっと頬が膨らんだ。

 あまりにも似合いすぎる、その表情。

 抄樹は思わずクラクラしてしまう。並の女がやったのでは鼻に付くような仕草でも、彼女は何気に可愛すぎるのだ。こういう仕草を、日々高等部の野郎共に見せているのかと思うと、頭が痛くなってくる。

 額を押さえた抄樹の反応をどういう意味に取ったのか、瑠衣はますます頬を膨らませると、もうっと言って、背を向けた。

「昔はあんなに可愛かったのに。背だって私よりずっと小ちゃくて、女の子みたいだったのよね。いつの間にか、こんなに大きくなっちゃったけど」

 こういう状況になると、いつもこれが始まる。抄樹が瑠衣よりも背が低かったのは、もう五年も前の話なのだが、彼女の頭の中には、まだ昨日のことのように残っているらしい。  

 今では抄樹の方が頭一つ分は高いのだが、その頃の話を出されると、流石にバツが悪い。

 別の話を振ろうと抄樹が口を開きかけたが、それより早く、瑠衣が本題を思い出した。

「ま、いいわ。それより、早く帰ろ。今日は、ほら、アメリカから来るんだよ」

 くるりと機嫌が変わる。

 根に持たないのは瑠衣の良いところだが、話運びが唐突過ぎることも否めない。

「ほらぁ、早く!」

 抄樹が思い出したくなかったことを思い出して瑠衣が上機嫌になっていることが、彼には面白くなかった。非常に嬉しそうな瑠衣の様子を、抄樹はズボンに付いた芝を叩き落しながら、横目で眺める。

 彼の心境は、複雑だった。

「お前、さ。ガキが一人増えるのが、そんなに嬉しい?」

 抄樹の捻くれた言い方に、瑠衣はすっぱりと切り返す。その質問自体が解らない、というふうに。

「もちろん。家族って、多ければ多いほど良いと思わない?お父さんとあーちゃんだけじゃ、ちょっと寂しいかなって、思ってたんだ。十四歳ってお父さん言ってたから、あーちゃんと同じ中等部だよね。ちょっと残念」

 私も二人と一緒に学校に通いたかったなどと言いながらスキップしそうな勢いで前を歩く瑠衣の背中を見ながら、抄樹はボソリと呟く。

「俺にとっちゃ、不幸中の幸いだよな」

 え?と訝しげに振り向く瑠衣に、別に、と手を振る。

 実際、学校まで一緒にされては、堪ったものではない。女なら、構わなかった。いや、瑠衣のよい話し相手になってくれるだろうから、女なら歓迎すらしたであろう。

 しかし、本日アメリカからやって来るのは、男である。十四歳では『男の子』とは言えない。立派な男だ。

 悶々と物思いに耽る抄樹を現実に引き戻したのは、妙にはしゃいだ瑠衣の声であった。

「ねえ、あれ、お父さんじゃない?誰かと一緒だよ」

 指差されたほうへと目をやると、確かに、見慣れた義父の背中と、その隣を歩くブロンドが見えた。抄樹も瑠衣もそう多くの白色人種にお目にかかったわけではないが、新しい家族となる少年のその金髪が並外れたものであることは二人にも判る。遠目には、純金の冠を被っているようだ。

 早く行こう、と呼び掛けると同時にガードレールに両手を掛けて乗り越えようとする瑠衣を、抄樹は彼女の腰に腕を回して抱き上げた。

「あーちゃん?」

 持ち上げられたまま心外そうな目を向ける瑠衣に、抄樹は顎をしゃくって答える。

「向こうに歩道橋があるだろ」

 日頃『規則は破るためにある』という有名な格言を自ら実践している奴の言葉に、当然説得力など欠片もありはしない。

「いつもはあーちゃんがやってるじゃない」

 当然返ってくる不平に一瞬返事に詰まるが、何とか尤もらしい理由を見つける。

「今日はいつもより車の量が多いだろ。それに、俺はいつでも避けられるから、いいんだよ」

「あーちゃんならほんとに車ぐらい簡単に避けちゃうだろうけど、車の量はいつもと同じだよ。それに、今、車来てなかったのに」

 確かにスポーツ特待生の抄樹に対して、瑠衣は、小中高を通して通知票でお目にかかった体育の成績は、十段階評価の四までである。が、それでも、制限時速四十キロの、非常に見通しの良い道路では、いくら彼女でも車にぶつかるわけが無かろう。

 抄樹が理屈で瑠衣を負かすことは滅多に無く、結局、いつもの通りごまかしの一手となる。といっても、ほんの少し気を逸らせればいいだけなのだが──あまりにもベタな言い逃れでも通用してしまうので、抄樹は時々、瑠衣は引っかかる振りをしてくれているだけなのではないかと勘繰ることもある。

 今回も、瑠衣の思考は抄樹によってコロッと方向転換させられることとなった。

「……親父たち、行っちまったぞ」

「あっ、ほんとだ。あーちゃん、急ごっ!」

「へいへい」

 走り出した瑠衣の後をボテボテと追いながら、内心苦笑する。

 結局、家に着いてしまえば、二人が会うことが避けられないのは解りきっていることだ。それでも無駄な抵抗をしてしまうのは、アメリカからの少年の写真を見た時の瑠衣の反応が、心の底に引っかかっているからなのだろうか。

 父からその写真を手渡されたとき、彼女は、まるで長年探していた生き別れの弟でもあるかのようにそれを見つめ、それから、強く胸に押し付けたのである。

 どうかしたのか、と抄樹が問うと、瑠衣は笑みを浮かべたまま一言呟き、不意に意識を手放した。そして再び目を覚ましたとき、彼女は、写真を手にしてからのことは、何も覚えていなかったのだ。

「ただの貧血だろう」、とやけにアッサリ言い切った父親にも納得がいかなかったし、何よりも、彼女の呟いた、言葉。それが抄樹の心にはずっと引っかかっていた。

 あの時、瑠衣は、確かに『三人が揃う』と言った。抄樹には、訳が解らなかった。『三人』のことも、目を覚ました彼女がまるでそのことを覚えていなかったことも。

 先を急ぐ彼女の背中を、やりきれないような心持ちで見やる。

 四歳のときに親と死に別れ、今の養父である九条信彦に引き取られて以来、瑠衣とはいつでも一緒にいた。

 彼女よりも背が低かった頃から、初めて会ったときに言われた言葉を、そして彼自身の中に刻まれた誓いを、守ろうとしてきたのだ。十年間は、短い時間ではない。

「ポッと出に負けて堪るか」

 ぐっと手を握って呟いた独白は、何よりも自分自身に言い聞かせるためのものだった。

   *

 結局、問題の少年と二人が初顔合わせすることになったのは、十分後、自宅の居間で、であった。

「やあ、お帰り。レイ、これが瑠衣と抄樹だ。二人とも、レイに挨拶をしなさい」

 信彦の紹介を聞いていたのかいないのか、目の中にキラキラと星を浮かべた瑠衣の視線はその少年に釘付けとなる。

「わあっ、レイ君て、すごく綺麗。写真よりもずっと美人!」

 両手を胸の前でしっかりと組んで、金髪の少年──レイに見惚れる瑠衣に、信彦は、軽く呆れたような言葉を返した。

「瑠衣……お前な、初対面の男に対して、美人はないだろう」

「えっ、あ、そうよね。ごめんね。私、瑠衣よ。よろしくね。……あーちゃん、ほら」

「…………抄樹だ。よろしく」

 瑠衣に促され、全くそんな気もなく、抄樹は友好を契る言葉を口にする。心がこもっていないことに気が付いたのは、それを向けられた本人のみのようだ。

 レイは片方の眉をほんの一瞬持ち上げ、それからすぐに微笑を浮かべて返事をする。

 悔しいけれども完璧な、天使の微笑だった。

「こちらこそ、これからお世話になります。よろしくお願いします」

 きっちり四十五度上体を前に倒し、文句のつけようのない優等生ぶりは、あたかもホームステイにでも来たかのようだ。

 そんなレイの様子を見て、瑠衣は何かを言いたそうな素振りを見せる。数瞬口籠り、結局その台詞は外に出されることなく彼女の胸の内に留められることになった。

「うん、よろしくね。でも『お世話になる』わけじゃ、ないのよ。忘れないでね」

 真直ぐに彼の紺碧の瞳を見つめながら、両手でレイの右手を握る。

「それじゃあ、レイ。部屋を用意してあるから、荷物を置いておいで。階段を上がって左に三列並んだうちの、真ん中の部屋だよ」

「はい、ありがとうございます」

 非常に礼儀正しい態度なのだが、その様子はどこか捉え所が無く、まるで分厚い氷を隔てて相対しているような感じである。

 そのレイは、抄樹の横を通り抜けるとき、ボソリと何事かを呟いた。

 並よりも聴覚の優れている抄樹の耳は、その呟きを逃すことなく聞きつける。

「頭が弱いんじゃないのか、あの女」

 あの少年は、確かに、そう言った。澄ました顔で。

 ──あの野郎!

「あーちゃん?」

 カッとして振り向いた抄樹を、瑠衣が驚いたように見上げたが、まさか本当のことを言うわけにもいくまい。

 なんでもない、とムスッとした顔で言う。瑠衣は首を傾げて彼を見たが、それ以上追及しなかった。

 レイの足音が階段を上りきったのを確認してから、信彦は、瑠衣と抄樹に向き直る。

「この間も言ったとおり、彼のIQは通常のテストでは結果を出すことができないほどの、まあ、いわゆる天才というやつだ。しかし、十四歳であるということには変わりが無い」

 これを聞いて抄樹は、何が天才様だよ、と思ったが、辛うじてそれを心の呟きに止める。

 抄樹が内心で毒づいているとは露知らず、信彦は沈んだ声で先を続けた。

「彼の母親の葬儀のときにしても、非常に落ち着いていた、と近所の人たちは言っていたが、悲しんでいないはずがない。亡くなりかたも酷かったしな」

 信彦は眼鏡を取って両目の間を揉んだ。

 非常に親しい友人だったと言い張り、無理を言って遺体を見せてもらったのだ。美しい人だったのに、確認を歯形で取らなければならないほど、それは損傷していた。

 彼は眼鏡を掛け直す。

「まあ、必要以上に気を使うことは無いが、心には置いておいてくれ」

 そう言う信彦の瞳にも、友人を亡くした悲しみが残っている。

 しかし、それだけでは無いようにも見えた。

 悲しみの陰に、チラチラと不安──あるいはそれに類似したものが見え隠れする。

 二人の子供はそれに気付いたが、その不安の素の正体を尋ねようと口を開きかけたところで、耳に届いたレイが階段を下りてくる足音がそれを凍らせる。

 一瞬そちらに気を取られた二人が信彦に目を戻したときには、彼の不安はまるきり姿を消しており、彼らは尋ねる時期を逸してしまう。

 まあ、いいや。

 瑠衣と抄樹は互いに視線を交わすと、何も気付かなかったふりをすることを決め込んだ。

 信彦が言いたがらないときには、絶対口を割りはしないのだ。

 血の繋がりも無いのに、そういうところは瑠衣と信彦はよく似ている。

 何となく笑みを漏らした抄樹を、瑠衣は不思議そうに見た。

「どうしたの?」

「別に、何でもないよ。それより、飯は?」

「ああ、そうだな。そろそろ六時になるぞ」

 育ち盛りの十四歳と、成長は終わったがスマートな割にはよく食べる五十二歳に促され、一家の健全な生活を預かる瑠衣は、時間を思い出す。

「大変、早く仕度しなきゃ。レイ君、今日はご馳走たくさん作るからね。あーちゃんもレイ君も育ち盛りだから、いっぱい食べなくちゃ。二人ともどんどん大きくなるんだから」

 丁度居間の戸口に現れたレイの横を小走りで通り過ぎながら、瑠衣は彼に笑いかけた。

 その後に抄樹も続く。

 擦れ違いざまにレイの腕を掴んだ。

「俺も手伝う。レイ、お前も来い」

 九条家の台所はかなり広く、野郎の一人や二人増えたところで行動に支障は出ない。

 子供たち三人が姿を消すと、微笑を浮かべながらそれを見送っていた信彦の目に、再び、先ほどよりも更に色濃く、不安が浮かび上がってきた。泥沼に潜るようにソファに身を沈め、両手で顔を覆う。

 今はすでにこの世を離れてしまった抄樹の養父とレイの養母──友人であった二人を思い起こす。

「魁、マリア。三人が集まってしまった。これは本当に偶然なのか?……そうであって欲しい。そうであることを願いたいが、可能性は低い」

 目を閉じて天を仰ぎ、大きく息を吐く。

「私は、どうしたらいい?あの子達を護りきるには、どうしたらいいんだ……?」

 苦しそうなその言葉に、答えてくれるものはいなかった。

 二人の友人が生きていたとしても、やはり、確かな答えは得られなかっただろう。彼らに尋ねられても、信彦には答えられないのと同じように。

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