エピローグ・サラ
高く抜ける真っ青な空を見上げ、サラは大きくシーツを打ち振るう。
山間にあるこの村では自動車を持つものも少なく、その空気は大きく息を吸っても喉に不快感を与えることはなかった。
──ここに居ついてから、もう三年にもなる。
技術者も医者もいないこの小さな山村では、エールリッヒの専門知識は非常に重宝がられている。今日も近所の老夫婦に呼ばれ、車椅子を転がして発電機の修理に出掛けていった。
今の彼は、研究所にいたものが見ても気付かないだろうと思われるほど、あの頃とは全く違う、穏やかな眼差しをするようになっていた。
ルナ、あるいは瑠衣と呼ばれていたあの少女の言うとおり、エールリッヒは、再び目を開けたときには全てを忘れ去っていた──いや、正確には、彼を駆り立てていたものは全て、だ。
自分が何ものかも、過去にどんな経験をしてきたのかということも覚えている一方で、あの研究に関わることだけはスッポリと彼の中から抜け落ちているのだ。それが消えたことは、彼にとってかなり大きな空白を生じたはずであるというのに、エールリッヒは何の違和感も抱いていないようだった。
そして何より、彼を狂信へと駆り立てた、唯一人の人に対する思慕と、彼女を失うことになった経緯に対する罪悪感も。
サラは、断片的にエールリッヒの過去について聞いていた。不意に心の蓋がズレてしまうのか、時々ポツリ、ポツリと話すのだ。それらを繋ぎ合わせて判ったのは、エールリッヒが家族を失った後に身を寄せた教会にいた、ルシアナというシスターのこと。彼女が敵兵をかくまい、それをエールリッヒが密告したことで全てを失ってしまったことだった。
時折、何かに呼ばれたように遠くを見つめることがある。しかし、それもほんの一瞬のこと。すぐに彼の心は現実に帰ってくる。
かつての、彼の心を映していた暗い瞳はもう二度と戻ってくることはない。
たとえ自分のことを忘れられていても、サラは、静かな笑い声さえ上げるようになったエールリッヒの傍で、その笑顔を見ていられることを嬉しく思う。
「あなたには辛い思いをさせることになる」
あの少女は別れるときにそう言ったが、サラは決してそうではなかった。
研究所で共有したときよりも、今このとき、そしてこれからの道を共に歩いて行けるということこそ、大事にしたい。
あまりにひた向き過ぎたエールリッヒの心が、また再び打ちのめされるようなことがないように、サラは願う。
二度と再び、闇が彼を包み込むことのないことを。