九
「おい……?レイ?何やってんだ、こんな夜中に」
バスルームのドアを開けた抄樹は、そこで鏡と顔を突き合わせているレイに、潜めた声でもっともな疑問を投げかけた。時計の針はとうに三を回っており、夜の遅い瑠衣でさえ静かな寝息を立てている。
しかし、鏡を見つめたままのレイから返るものは無く、抄樹は眉を顰めた。
「おい、レイ?」
重ねた呼びかけでようやくレイは振り向いたが、それでもその視線はどこかぼんやりとした、焦点の定まらないものである。
「……寝惚けてんのか?」
試しに抄樹は彼の目の前で手をひらひらと振ってみる。全く反応が無い。よく見ると、その口元が何かを呟くように小刻みに動いていた。
尋常ではないレイの様子を持て余し、その肩を揺すろうと両手を上げた抄樹の背後から、唐突に声が被さる。
「あーちゃん?」
「瑠衣!起こしちまったか」
「どうしたの?」
不安そうな響きが一瞬滲んで、すぐに拭い去られる。ほんのわずかなものであったそれを、抄樹の耳は取り逃がさなかった。
こんなとき、抄樹は自分の無力を痛感する。
──俺にもっと頼りがいがあれば、瑠衣にこんな顔をさせずに済むのに。
呟きを心の中で噛み殺し、なんでもないように、努めて明るい声を出した。肩越しに親指でレイを指す。
「いや、こいつが寝惚けたみたいで……気にしないで寝てろよ」
「え……?」
しょうも無いやつだよな、と笑う抄樹を半ば押し退けるように、瑠衣が身を乗り出した。
「レイ君……?大丈夫、レイ君?」
そっと頬に手を伸ばし、静かに瑠衣が呼び掛ける。
だが。
「はい?あれ……瑠衣さん?どうかしましたか」
あれほど抄樹が呼んでも何の反応も無かったというのに、けろりとした顔でレイが首を傾げた。
「おい……そこまでやるか?」
こめかみを引き攣らせた抄樹に、レイが眉を顰める。
「何のことだ?」
まるで思い当たることが無いような、心底からの疑問符である。
「何のことだって、お前、あんなに俺が声を掛けたのに聞こえねぇ訳が無いだろう。実に見事なシカトだったぜ」
「ああ……そうだったか?それは悪かった」
抄樹に対するものにしてはすんなり出て来はしたが、その謝罪には全く誠意というものを感じることが出来なかった。
謝られて一層腹が立つというのは、いったいどういうことだろう。
「ほぉう……俺はまた、君が自分の美貌に見惚れているのかと思ってしまったよ」
瑠衣のためにも早々に話を切り上げようと思っていたのだが、ついいつもの如く始めてしまう。
しかし、それに対するレイの切り返しもまた、速やかなものだった。
「まあ、確かに僕の外見は鑑賞に堪え得るものですけどね、そういう趣味はありませんから。抄樹こそ、その素晴らしい肉体美に惚れ惚れしちゃったりしていないでしょうね」
沈黙数秒。
「あの、ね……レイ君大丈夫みたいだし、もう寝ない?明日もあるんだし……」
笑いを堪えてピク付く頬で、瑠衣が険悪になりかけた空気を取り持った。三人が詰め込んでいささか窮屈なバスルームから、二人の背中に手を添えて押し出す。
この段階で、レイの態度がおかしかったということは、抄樹と瑠衣の頭の片隅へと押しやられていた。
あれが何であったのか二人が知るのは、かなり後になってからである。
*
翌朝、レイの姿はどこにも無かった。
*
レイクウッド。
名前が表すとおり、その町は豊かな森と広大な湖を有する──ただ、森はあまりに豊かすぎ、湖は沼と呼ぶほうがふさわしいものであるがために、風光明媚とは言いがたいものとはなっていたが。
瑠衣と抄樹は、今その町にいた。
いなくなる前に──エールリッヒたちに連れ去られたということは明白だが、レイの名誉のために敢えてそれに言及することは避けておこう──レイが地図に印を付けておいたので、何とかこの町までは辿り着くことが出来たのだが、それもここまでだった。
詳細は全てレイの頭の中にあり、最終目的地まであとどのくらいの距離があるのかということすら、見当も付かない。
レイを連れ去ったこと以外、エールリッヒたちからの干渉はなく、道中、子供の二人連れと見た強盗との喧嘩沙汰が三度という、この旅行の目的の割には、平和なドライブだった。
向こうが手を出してきてくれたほうが、抄樹と瑠衣にも何らかの打つ手を見つけられるというものなのだが。
「あのバカ、口だけは達者なくせに」
この台詞を、三日の間に何度繰り返したことだろう。
内心、抄樹も我ながら未練がましいとは思っているのだ。
少なくとも、車の中では両手の指でも余るほど、レイクウッドに着いてこの宿を取ってからでも五回は、口にした。
だが、ここに腰を落ち着けて丸一日、何の進展も見られていないのだ。否応なしに削られていく時の中で、焦れる心は限界に近づきつつあった。
──もっと、レイが詳しいことを話してくれていたら、いや、そもそもあいつがエールリッヒに捕まったりしなければ……。
心の中で舌打ちをしそうになって、抄樹は首を振る。
そうではない、一番腹立たしいのは、レイが連れて行かれるときにも呑気に眠りこけていた自分だった。
「間抜けなのは、俺だな……」
殴りつけた壁から、パラパラと破片が零れ落ちる。その拳の力よりも強く、抑えた声が己の身を打ち据えた。
「あーちゃん……」
瑠衣は名を呼び、そっと、両手で抄樹の拳を包む。漆喰を零れさせても掠り傷一つ付くことの無いそれとは裏腹に、己の失態に彼の自尊心が深く傷つけられたということは、痛いほどに判った。
「あーちゃんのせいだけじゃないでしょう?私だって、全然気が付かなかったのよ?」
そんなに自分だけを責めたりしないで、と囁く声が、優しく耳朶を打つ。
ふわりと甘い香りが漂い、次の瞬間、抄樹は腕の中に義姉を引き込んでいた。柔らかな髪に、頬を埋める。
力を入れ過ぎて壊してしまわないように、だが、しっかりと、その華奢な身体を抱きしめた。瑠衣の細い肩は、スッポリと抄樹の身体に包み込まれてしまう。
「あーちゃん……?どうしたの……?」
ちょっと痛いかな、と思いながらも何とか腕を引き抜き、抄樹の背中に回す。ぐずる子供を宥めるように、優しく叩いた。
この身体の大きな弟がこんなにも頼りなく思えたのは、十年前の飯島魁の葬式のとき以来だった。
「……」
「何……?今、何て言ったの?」
抄樹の低い呟きを聞き取れなくて、瑠衣は問い返す。だが、その答えを得ることは、ついにできなかった。
短くて永いそのときを、唐突な女性の声が断ち切る。
「ちょっと失礼してよろしいかしら?」
思いも寄らなかったそれに、抄樹は真っ赤に焼けた鋼をその腕に抱いていたかのように、身を引き離した。
咄嗟に瑠衣を背中に回し、声のしたほうへ振り返る。厳しい誰何と共に。
「あんたは……?」
それまでの気弱な姿が嘘のように、油断無く身構えた彼には、これ以上のしくじりを自分に許さない気迫に満ちていた。
「初めまして、私はサラ・オドンネル。あなた方を迎えに来ました。レイも私たちのところにいます。……来ていただけますね」
依頼の形は取っていたが、それは紛れも無く強制である。
「行かなきゃどうなる?」
「構いません。あなたを排してルナだけを連れて行きます」
「あんたが……?俺のことは聞いているんだろ?出来ると思うのか?」
鼻で笑う抄樹に、サラは氷の如き姿勢を溶かすことなく、平坦な口調で答える。
「私に出来なくとも、研究所にはまだまだ有能な人間がいます。いずれルナは私たちの手に落ちるでしょう」
力に任せた脅しは全く功を成すことが出来ない相手であることは明白だった。
「……さっきから気になってたんだけどよ、こいつは瑠衣だ──ルナじゃねぇ」
どうもこの手の人間とは合わないらしく、抄樹は鼻の頭に皺を寄せる。その彼に庇われて、瑠衣は、一見冷ややかなだけのように思える目の前の女性が漂わせている何か物悲しい香りを肌に感じていた。
切なさと諦めと、そして、微かな嫉妬。
──このひとも、私たちのことに関わっていたのかしら。
今ではなく、過去において。
確かに、サラはエールリッヒとよく似た、どこか機械じみた話し方をする。だが、あの男とは違い、彼女のそれは、何故か、借りてきた鎧のように感じられるのだ。
瑠衣には、サラを囲む壁の向こうに、意図して作ったものでは隠しきれない優しさが見えていた。
「二人は、無事なんですよね?」
念を押す瑠衣の目を真っ直ぐに見返し、サラは自己紹介と何ら変わらぬ口調で答える。
「肉体的には、ということなら」
嘘や阿りの無いその返事。
抄樹は思わずサラの胸倉を掴みそうになったが、瑠衣の手がそれを止める。
何でだ、と目を剥く弟を抑えて、瑠衣は更に問いを重ねた。
「肉体的にはって、どういうことですか?」
「……鳥野氏は私たちの元に来てから、数度自殺を図りました。我々の研究所には、一日中彼を見張っていられるような余分な人員はおりません。積極的な意志を奪うため、薬を使用しています。肉体的依存は比較的少ないものなので、常用を止めれば本人の意思次第で完全に身体から抜くことが出来るでしょう」
「親父が自殺……何だって、また……」
抄樹は呟いたが、瑠衣には何となく判った。父は、足手まといにはなりたくなかったのだ、と。
自ら子供たちとの繋がりを切ろうとまでに思い詰めた信彦の心が、痛かった。
次に瑠衣の口から出てきたのは、場違いな、とさえ言えるほど穏やかな声だった。
「……レイ君は?」
「彼はそのままで置いておくと非常に扱いに困ります──あの頭脳のために。よって、今、彼は洗脳状態に置かれ、アルベルトの言うことには全て無条件に従うようになっています。彼は、あなたたちに対する、鳥野氏以上の切り札となるでしょう」
「あんた……喋りすぎじゃないのか?俺たちにそこまで言っちまっていいのかよ」
筋違いとは思ったが、抄樹は眉を顰めながらそう言ってしまう。エールリッヒたちの仲間だったら、何食わぬ顔をして調子のいい事を並べておけばいいのではなかろうか──そうすべきではないのか。
抄樹はサラの真意を掴み損ねて、隣に立つ瑠衣を見下ろした。彼に疑問に思われたことが、瑠衣にそう聞こえないはずがあるまい。
しかし、更に奇妙なことに、サラをじっと見つめている義姉には、何ら不思議に感じられることは無いようだった。
「二人は治せるの?」
「はい」
小さく首を傾げて尋ねた瑠衣に、サラは短く頷いた。
「そう……それなら、いいわ。二人を取り戻してから、元に戻せばいいのですもの」
それがどうということでもないかのように、瑠衣はにこりと笑って言い退ける。抄樹はあまりにあっけらかんとした笑顔に呆れ、ついで、何だかホッとした。ここで彼女が悲壮な顔をちらりとでも見せたら、抄樹の気は情けなくも萎えていただろう。
この一種間の抜けた強さがあってこそ、瑠衣なのである。
「じゃあ、連れて行ってもらおうか、エールリッヒのところに」
俄然やる気の出てきた抄樹が、意欲満々で指を鳴らす。これから敵地に乗り込むのだという緊張も気負いも、そこには無かった。
二人の子供を無言で交互に見やり、サラは仕草だけで部屋から出ることを促す。
「無愛想な女だよな?」
同意を求めて抄樹は瑠衣を見るが、それに対して、彼女からは曖昧な笑みが返されただけであった。
「行こう」
荷物を手に、瑠衣が言う。
いつもの甘い声ではなく、かといって、緊張感で引き攣っているものでもなかった。
*
時を数日遡る。
「随分と急なご招待でしたね」
知らずの内に萎縮しそうになる心をきれいに覆い隠し、レイは薄笑いと共に、目の前に立つ仇敵に向かってそう言った。
だが、子供の虚勢を知ってか知らずか、対するエールリッヒはそこに含まれる皮肉の響きを全く意に介せずに肩を竦める。
「招待状を送ったほうが良かったかね?」
その台詞は、裏を返せばレイたちの居場所は常に追跡されていたということである。
食えない男だ。
口の中だけでそう呟き、レイはにっこりと笑みを返す。
「ぜひとも、そうしていただきたかったですね。お陰で、瑠衣さんたちに何も残してくることが出来ませんでした。今頃、二人とも困ってますよ」
レイに負けず劣らずにこやかに、エールリッヒがそれを受ける。
「だが、レイクウッドまでは道標を残してきているのだろう?ルナたちがそこまで辿り着いたら、こちらから迎えに出てあげよう」
「その、ルナ、という呼び名は止めていただけませんか。彼女はルナさんではなく、瑠衣さんです」
時を違えて抄樹が同様の苦情を申し立てることになろうとは、神ならぬ身のレイは夢にも思わず、エールリッヒの言葉の一部に眉を顰める。
「そんなことを気にするのかね?名前など、ただの記号に過ぎない。何と名づけても、薔薇の香りは変わるまい。ルナと呼ぼうがルイと呼ぼうが、同じではないか」
「随分、割り切った考え方をしますね──そんなあなたが、どうしてこれほどまでに瑠衣さんに執着するのです?消息の掴めなくなった彼女のことはすぐに諦め、次を作るという行動のほうが、よほどあなた方らしいというものではないですか?」
そう言って笑ったレイだったが、ついで目を上げた彼は、エールリッヒの顔にある微妙な表情のこわばりに気付く。
それは、この厚顔な男には似つかわしくないものだった。
だが、不釣合いなその顔を揶揄する間をレイに与えることなく、微熱の肌の上に落ちた淡雪のようにそれは一瞬にして消え失せ、元のポーカーフェイスが戻る。
再び、底の知れない笑みを浮かべて弁明を口に乗せる。
「我々もそれを試みたのだがな、ルナ以外に成功したものが無かったのだ──同じように作ったはずだったのだが、あれ以外はただの肉塊になってしまった。どれも、人の形すら取ることの出来ない失敗作ばかりだったのだよ」
ルナ、という単語にピクリと眉を動かし、レイは口中で、案外学習能力が無いんだなと呟く。
「失敗作、ね……あなたたちが僕たちに対してどういう態度で臨むのか、その言葉からも明らかですよね。まあ、瑠衣さんの誕生はまぐれだったということでしょう」
所詮、あなたたちには無理だったのですよという含みが、彼の声には滲み出ていた。
「ふ……ん、そうかもしれないな。十年経った今でも、何が両者を分けたのか判っていないことは確かだ。だからこそ、尚更、ルナを手放すわけにはいかないのだよ」
柔らかい声の下、確かに、言葉の中には入っていなかったものが──エールリッヒの真意が他にもあることは判った。だが、人の表情を読むことに長けたレイにも、その正体を見極めることが出来なかった。
「君はおとなしくしておいで。直に二人が来る。君たちはここで何不自由無く暮らすことが出来る──やるべきことをすればね」
「何不自由なく、ですか。その代償に支払わなければならないものが大きすぎます」
「代償?そんなものは要求しないよ」
物分りの良い父親のような眼差しでそう言う。その言葉は、物理的には真実かもしれない。
だが……。
「我々が払うものは『自由』ですよ。個々の価値観にも因りますが、少なくとも僕と抄樹、そして瑠衣さんにとっては物質的な裕福さよりも優先されるものです」
レイはエールリッヒの目を、曇りの無い碧眼で見据えて断言する。この場にいない二人を同とすることに、一切迷いは無かった。
しかし、純粋すぎる彼の主張に、エールリッヒが常に浮かべていた『暖かな微笑』が次第に姿を消し、代わって、嘲るように唇が歪みを帯び始める。
「……なかなか立派な考えだな。だが、君はいったいどれほどの事を知っている?──書物の中だけではなく、現実というものを、だ。パンの代わりに靴の革をしゃぶる生活は?耳元を銃弾が飛び交い、常に這うようにして移動し、空を見上げることも無い……そんな余裕も無い。片付けても片付けても、毎日新しい死体が生まれる。血塗れの、まだ暖かさの残る死体を抱いたことは?」
重ねた問いかけに答えを求めることなく、エールリッヒは続ける。
「自由が売れるものなら、いくらでも売ろうと思えるものだよ──そんな生活ではね……それぐらいしか、持っているものが無いのだから」
淡々と並べられた『現実』は、どれもレイの日常の中では知り得ようの無いものばかりだった。
応える術を失い、レイは口を噤んで立ち竦む。頭の中だけでこなされたものでは、どんな反論も、エールリッヒの経てきたものの前では空虚にしか響かないだろう。
レイの沈黙をどう取ったのか、エールリッヒの表情が再び偽りの温もりを帯びる。
「少々口に油を差し過ぎたようだ。君ももう眠いだろう。部屋に案内させるから、もう休みなさい」
内線を回して二言三言指示すると、もうそれ以上何も話すつもりはないという意思表示をするかのように、レイに背を向けた。
所在無くその後姿を見つめ、レイは男が聞いているという確信は持てないまま弱く呟く。
「確かに、ぬくぬくと暮らしてきた僕は現実を知ってはいないかもしれません。しかし、想像力は持っています。あなたの描く世界が果たして好ましいものといえるかどうかは、疑問です」
無言という応答。
だが、その沈黙を持て余すほどの間を与えずに、ドアがノックされる。
突然のその音に、目の前の背中にだけ意識を集中させていたレイははっとし、思わず肩をビクリと震わせた。
「入れ」
短い台詞と共に、エールリッヒは机の上のスイッチでドアを開ける。
硬い靴音を響かせながら姿を見せたのは、豊かな栗色の髪を後ろで一つに束ねた一人の女性だった。
「サラ・オドンネルです」
簡潔に名乗った声は、微かにハスキーで、落ち着いた雰囲気を漂わせる。
「彼女が、君の──君たちの世話をする。何かあったら、サラに言いなさい」
「こちらへ」
一歩下がったサラは、エールリッヒに一礼すると、手を翻してレイを促した。
逆らってみても栓の無いこと。言葉の少ないこの女性に付き従って、レイは部屋から出る。ドア口で一度エールリッヒを振り返ったが、彼にとってレイはもうその場にいないものも同然だった。目の前にいても、視界には入っていない。
この男が何を思ってルナという存在を作ったのか、もう一度考え直す必要があることを、レイは感じていた。
*
あちらこちらにビデオカメラが設置された廊下を無言で歩きながら、レイはこれからのことを模索していた。
当然のことながら、ここの警備システムはかなり優れている。ビデオカメラの配置は死角を作らないように綿密に考えられており、この研究所内を誰にも気付かれずに動き回ることは不可能だった。
果たして無事にここから逃げ出すことが出来るのか、いざ敵の力を目の当たりにしてみると、甚だ疑問だった。その弱気さが自分らしくないことはよく判っていたが、己を過信することは出来ない。それはすなわち失敗に通ずる。
直に瑠衣たちもここに連れてこられることになるのだろうが、それまでに脱出方法を考えておかねばならない。仮に二人がここに来ることを断念したとしても──正直言って、最後まで逃げおおせることが出来るものなら、瑠衣たちがそちらの選択をすることのほうが、レイには望ましくさえあった──レイと同じように、例の転移装置で結局は捕まることになってしまうだろう。先ほどのエールリッヒとの対面を経た後では、彼が最初に電話で言っていたようにすんなりと諦めるようなことがあるとは思えなかった。
内心、溜め息を禁じ得ない。
差し当たってレイに出来ることといえば──情報収集ぐらいしか思い当たらなかった。
「ここはどこら辺ですか?」
サラから口火を切る気配は無いようだったので、まずは当たり障りのなさそうな質問から始める。
彼女からの答えは、やはりあまり装飾の無いものだった。
「レイクウッド市です」
その都市の名は、彼が瑠衣の持って来た情報を元に導き出したものと同じである。
数秒待ってそれ以上の説明が無いことを確かめた上で、レイは次の言葉を継いだ。
「南東のほうですか?」
「そうです」
「スネイキルと呼ばれるところですね?」
「はい」
一言。
積極的な会話は望めそうも無いらしい。
質問を変える。
「僕はここで何をしたらよいのでしょうか?」
「何も。残りの二人が来るまでおとなしくしていてもらえれば、それで結構です」
多少長めの返答か。
「しかし、それではあまりに暇なのですが」
「……図書館には入れるように手配しておきます」
「それよりも、ここの研究を見せていただけませんか?とても興味があるのです……転移装置とか。理論的には納得できるのですが、実際に動くところを見てみたいのです。僕がここに移されたときには、まだ夢の中にいたものですから」
今度は、答えがあるまでにいくらか間があった。
いささか無理があったか、と取り消しの言葉をレイが口にしようとしたところで、サラが口を開く。
「指示を仰いでみます。その結論はまた後で」
先の質問をしたのは確かにレイであったが、この返答はいささか以外でもあった。
考慮の余地はあるということか。
あるいは、彼女はあまり事情を理解していないのかもしれないが。
「……お願いします」
サラはそれには応えずに、カッカッと一瞬もそのリズムが乱れることの無かった足を止める。
「こちらがあなたの部屋です」
──当然のことながら──外掛けになっている鍵をはずし、サラは扉を開いた。電子機器に強いレイを警戒してか、その鍵は電子ロックではなく、シンプルで古典的なものである。
素直に部屋に入ると、レイはグルリと部屋を一瞥した。
備え付けられてあるものは、ベッドと書き物机、そして個室にトイレと洗面台だけである。
「愛想も素っ気も無いとはこのことだな」
呟いてベッドに腰を下ろす。
「枕元に短編集の一冊も置いておくというのが、招待主の心遣いというものでしょう」
やることが無く時間だけが有り余っているという状況は、かなり辛いものがある。
だが、逆に言えば、それだけ考える時間を与えられたということでもあった。そしてそれは、彼の最も得意とするものだ。
しかし、いざ思考を巡らせてみると、それはいつの間にか残してきた二人のところへ行き当たってしまう。これではいけないと軌道修正してみても、無自覚のうちにまたそこに還ってきている自分に気付く。
今まで計算し尽くされた理性のみで行動してきたレイにとって、それは不満でもあり、また、嬉しくもあった。瑠衣や抄樹、信彦と会ってから、ようやく自分が人間なのだという実感が持てるようになった気がする。
そう考えると自分すら何だか愉快で、レイは一人笑みを漏らした。
彼らと一緒なら、自分は『人間』でいられる。
「そのためにも、ここを何とかしなくては、ね……」
呟いたレイの目は不敵に輝く。彼の頭の中ではすでに雑念は取り払われ、計画がパズルのように着実に組み立てられ始めていた。