第3話 アトカーシャ家
アトカーシャ家の食堂。
壁は白・黄・黒の三色を基調としたシック調の壁紙で覆われており、その南側には三箇所の窓が取り付けられている。
しかし日も暮れた今は採光の役目を果たせずにいて、その代わりに光を発する大きな水晶のようなものが、壁に十個ほど取り付けられている。
中央の縦長のダイニングテーブルは角が丸く削られており、その周りにある椅子の数は六席。
その内の三席は既に埋まっており、俺と母親の二人が座ることで合計五席が埋まる計算になる。
「おう、ようやく来たか。さて、皆揃ったようじゃな」
そう言ってぐるりとテーブルに座る面々を見渡す、扉から一番遠い上座に座る初老の男性。
今年で50歳になるらしい彼のその紅い髪には白い部分が見えてきているが、精力溢れる金の眼は鋭く、年齢相応の衰えを感じさせない。体は筋肉質で無駄な脂肪が一切ついておらず、顔つきも引き締まっている。本当に50歳かと疑いたくなるほど若々しい。
俺の父親の父親、祖父にあたる人物。
名をダリウス・アトカーシャと言う。
どうやらこの人、過去に戦争で功を立てて、アトカーシャ家を騎士から貴族の位にまで押し上げたその人らしい。
実際どんなことをやったのかは聞いていないが、一騎士から貴族になるという事がどれほど難しい事なのか。はっきりとは想像出来ないが、何となくは分かる。
相当優秀な人物なのだろう。
ただ何というか、領地経営だとかそういうのは苦手らしく、爵位も息子、つまり俺の父親に早々に引き渡し、自分は騎士団の調練に精を出しているようだが。
その爵位を引き渡された俺の父親は、祖父の座る上座から一番近い右側の席に座っていた。
現在アトカーシャ家の当主である、マルクス・アトカーシャ。
紅くやや長い髪を少し右側で分けており、前髪はその金色の瞳を隠さない程度に切り整えられている。
その引き締まった顔立ちは祖父の息子であることを思い知らしてくるが、恐らく母方からの遺伝であろう垂れ気味の目尻が、父親の性格をよく表している。
少々締まりの足りない体つきからも分かるように、父親はそれほど軍務に励んでいる様子は無く、もっぱら領内の政務に追われているようだ。
父親の向かいに母親が席に着き、その隣に俺が座る。
そして父親の隣、つまり俺の正面には兄のリオネル・アトカーシャが座っていた。母親は普段『リオンちゃん』なんて呼んでいる。
俺と同じ紅い髪と蒼い瞳。しかしその顔は疲れたような表情で、どこか覇気が無かった。
俺とは3歳違いで、彼は今年5歳になった。
彼はとても落ち着いていて、文句の一つも漏らさず俺と母親を待っていたようだ。
この5歳児らしからぬ、もの静かな性格は彼の虚弱な体質によるものかも知れない。
例えば俺が生まれてからの2年と少しの期間で、彼がすでに4回ほど病気に罹ってしまっていたのを俺は知っている。
いずれも深刻な事態には至らなかったが、その度に彼が少し痩せているのを感じていた。
その為か外で遊ぶのは苦手らしく、もっぱら室内で本を読んだり、時たま俺の遊びの相手をしていた。
ただ俺の感覚からしてみれば、“5歳の兄に遊んでもらっている”のは少し気恥ずかしい。まあ向こうからしてみれば、こっちはたった2歳の弟に見えているのだから仕方ない。特に悪い気はしないし。
そんなことを考えているうちに、既に夕食が目の前に並べられていた。
まずレムナの実と言う酸味の効いた木の実の搾り汁と香り良いハーブを絡ませたサラダ。
焼きたての黒いパンからは仄かに甘い香りが漂う。
皆の目の前にはメインディッシュであるブルーベアのステーキ。ブルーベアとは魔獣の一種なのだが、その肉は焼くと肉汁も多く、歯ごたえがあって美味なのだとか。
ただし2歳児である俺だけは別メニューで、少量のサラダ、小さく切り分けられられたパン、ミンチにされたブルーベアの肉がハンバーグとして置かれていた。しかも大きさは俺の握り拳以下。
悔しい。
ブルーベアの肉の特徴だという歯ごたえを感じる事が出来ないのは甚だ遺憾であるが、あと三年もすれば普通に食える様になるだろう。我慢我慢。
「行き渡ったようだな。それでは精霊神様に祈りを捧げる」
祖父はそう言うと俯き加減になり、組んだ両手を額に当て、そっと目を閉じる。
それに続いて父親や母親、兄が祖父と同じように俯き、組んだ両手を額に当てて目を閉じる。俺もそれに倣って同様の動作をする。
これはこの世界での“いただきます”の意味を持つらしい。正確には、精霊や精霊神に祈りを捧げる意味を持つのがこの動作だ。
食事の際にこれをするのは、世界を創り今なお地上を見守っていると言う精霊神様に、今日も食事にありつける事を感謝する、と言う意味があるらしい。
日本での“いただきます”も似たような感じだったが、世界が違っても考えることは似通っているらしい。
「皆祈ったか? それでは頂こう」
祖父がまず一口。そして父親、母親、兄、俺の順に食事を始める。貴族の決まり事と言うのは至極面倒だが、郷に入っては郷に従えと言うやつだ。
もっとも2歳の子供がここまでキッチリする必要はあるのかと思うが、普段から素直な子として通っているし、あんまり変な事をしなければ大丈夫だろう。
まずはサラダに手をつける。地球のドレッシングのような味の濃い物は無いが、野菜そのものが仄かに甘かったりするので問題はない。
野菜の甘みとレムナの汁の酸味が合わさって食欲を刺激してくる。前菜にはぴったりだな。
続いてまだ温かい黒パン。特にこれといって何も入っていないが、薄く砂糖のような味が舌の上に落ちる。砂糖なんかはまだ調味料としては希少らしいので、この味は麦自体の甘みだろうか。良い物を使ってるんだろうなあ。
そしてメインの肉。
むしゃりと目の前のハンバーグに食らいつく。ミンチにしても肉汁はたっぷり出てくるので味は濃い。牛とも豚とも違う濃厚な肉汁が口の中いっぱいに広がり、その香りはさらに食欲を刺激してくる。
二度、三度と口にするが、その度に早く次の一口が欲しくなる。
文化レベルとしては前の世界より遥かに劣るが、食に関しては、レパートリーとしてはいざ知らず、味自体は負けず劣らず、むしろ物に依っては勝っているような気もする。
いやあ、異世界って良いな。
◆ ◆ ◆
「早くステーキ食べれるようになりたいなあ……」
ごろんとベッドに転がり、ぼそりと呟く。食べてすぐ寝っ転がるのは太りやすくなって良くないらしいが、この頃は少しポッチャリしているくらいが良いのだ。
食事の後、使用人の皆さんに体を濡らした布で擦って貰い、お湯で流して貰った。
人に体を洗って貰うのは今だに恥ずかしいし、本当は湯船に浸かってのんびりしたいところだったが、この世界には風呂は無いのだろうか。なんだかなあ。
そのままシーツの上でゴロゴロしていたが、何にもすることが無くて暇になってきた。
本でも読めれば良いのだが、当然こっちの世界の字は日本語ではない。
会話だけなら出来るようになったが、まだ文字は習っていない。この家では5歳になってから文字の勉強を始めるらしいのだが、それまでまだ2、3年近くある。
兄が今日の夕食の時、顔に覇気が無かったのはそれが原因かもしれない。そんなに難しいのだろうか。
あんまりにも暇なので観音開きの窓を開け、空を眺めてみる。
日が落ちて、黒く塗りつぶされた夜空には数えられないほどの星々が煌めいている。
この世界には車や工場など、排気ガスのような物を出す事は少ないのだろう。日本では決して見られないほど小さな小さな星までがハッキリと見える。
その星達が無数に踊る夜空の中で一際目立つ、二つの月。
片方は前の世界の物の二周りほど大きく、もう片方は前の世界の物と同程度の大きさ。
未だに慣れない月が二つあるという光景に、暫しの間、目を奪われていた。
「あら、エレンちゃんはまだ寝て無かったのね。夜更かしするとおっきくなれないぞー」
その声に振りかえると、寝間着に着替えたレイラ・アトカーシャ――もとい、母親がドアを開けて部屋に入ってきていた。
「んー? エレンちゃんは何見てるのかなー?」
「あれー」
空に浮かぶ二つの月を指差すと、母親が隣にやってきて窓からヒョイと顔を出す。
「あら、“ディアス”と“フィアーノ”ね。そういえばエレンちゃんにはまだ教えて無かったかしら?」
聞き慣れない名前に首を傾げると、母親はふふっと笑みを漏らす。
「あの少し大きい方のお月様を“ディアス”、小さい方のお月様を“フィアーノ”って呼ぶのよ。それぞれが司る意味があってね、ディアスは“破壊”、フィアーノが“再生”を意味するの」
なんだか物騒な単語が聞こえてきた。ていうか破壊の方が大きいって大丈夫なんだろうか。
そんな事を考えていたのが顔に出ていたのか、母親は俺の頭に手を置くと、そのまま何度か撫でてくれる。
「これにはね、世界のどこでも知られている物語があるの。ある男と女の儚い恋物語。破壊って言うと少し怖いかも知れないけど、その物語に出てくるディアスは良い人なのよ。だから大丈夫」
そう言って、そっと俺の体を包むように抱きしめてくれる。
元々怖がったりはしていないのだが、母親の体が暖かくて、その気遣いが温かくて、自然と身を預けてしまう。
母親の腕に抱かれたままベッドに連れて行かれると、壁側にゆっくりと寝ころばされる。
隣に母親が入ってきて、金の長い髪がふわりと鼻のすぐ傍に落ちてくる。この世界にはシャンプーなどは無いはずだけど、その髪からは心地良い匂いがする。
「ね、エレンちゃん。少し耳をお母さんのお腹に当ててごらん」
言う通りに母親の少し膨らんだお腹に顔を近づける。
耳をくっつけると、微かに水が動くような音や、お腹の中で何か叩くような音が聞こえる。
「最近ね、赤ちゃんが頻繁に動くようになってきたの。……ホラ、また動いた」
胎児が動く度に母親は嬉しそうに微笑む。
アトカーシャ家には五人しか居ないにも関わらず、食堂に椅子が六席あったのはこのため。
レイラ・アトカーシャが“三児の母”となり、アトカーシャ家が六人家族になるため。
「ねえお母さん」
「エレンちゃん、どうしたの?」
「男の子? 女の子?」
それを聞いてパチクリと一度瞬くと、母親はクスリと笑う。
「んー、エレンちゃんはどっちが良いと思う?」
「……分かんない」
「フフッ、そう。私としては、次は女の子が欲しいわ。……あ、別にエレンちゃんやリオンちゃんがダメって訳じゃないわよ。――ただ、一人くらい女の子が居たら、楽しいと思わない?」
母親はそう言って、再び俺の頭を撫で始める。
お腹の中のまだ見ぬ子供の事を話す母親の顔はとても嬉しそうで、『ああ、この人は本当に自分の子供を愛しているんだなあ』と思える。
その愛する子供の中に自分が含まれている事に幸せを感じながら、すっと深く優しい微睡みに飲まれていった。