第1話 幼児と異世界、そして魔法
さて、結論から言うと俺はどうやら赤子になってしまったようだ。
正直すごく頭が痛い。精神的に。
あまり認めたくは無いのだが、認めざるを得ないのが現実。
少なくとも非科学的だとか狂気の沙汰だとか叫ぶ事に意味は無い。まあ叫べ無いのだが、物理的に。
ただ今目の前の鏡に映る元赤子、現幼児は間違いなく俺で、この部屋には俺以外は今誰も居ない。
その幼児の姿がさらに俺を悩ませる。
俺が右手を上げれば鏡に映る幼児もこちらから見て右側の手を上げるし、両手を拍手するように動かせばすぐさま鏡の中の幼児も同じ動きをする。
それを見れば鏡に映る幼児は自分自身である事に疑いの余地は無いのだが、問題はその容姿。
別にイケメンだとかブサイクだとか、そういう容姿の話ではないのだ。
鏡に映るのは紅の髪に蒼色の眼。
どう考えても日本人の容姿ではない。
百歩譲ってハーフかクォーターだとしても、少なくとも俺の記憶にある“俺”の容姿とは天と地ほどにかけ離れていた。
別に良い悪いの話じゃなく、それだけ違うって意味なんだがそれは別にいい。
問題は、“何故俺が幼児になっていて、紅の髪に蒼色の眼という容姿をしているか”だ。
浮かぶ答えはさほど多くない。
そしてその多くない答えの中で、今一番可能性が高いものの目星は付いていた。
転生。生まれ変わり。
恐らく“元の世界の”現代でそんな事を口走れば、悪くて嘲笑の的になるか、良くても誰もマトモには取り合ってはくれないだろう。
それはそうだ。今の所、その確証は何も無いし俺自身も未だに半信半疑だ。
しかし鏡に映る自分が、見知らぬ容姿の幼児でありながら“前世の”俺の記憶と意識を持っているという現実。
そして転生なんて非科学的で“非現実的”なものを答えとして考えるに至ったもう一つの理由。
それが――
「あれー? エレンちゃんは何をしてるのかなぁ? あ、鏡を見てたのねー。だめでちゅよー、ナルシストになるのはまだエレンちゃんには早いでしゅ!」
振り返った俺の目には、開いたドアの前に立つ一人の女性が映った。
――この人が俺の“母親”。
金色の長い髪に蒼い眼をした24歳の女性。
目の切れが長く、肌は白い上に絹のように肌理細かい事が、数メートル離れたこの場所からも伺える。
鼻も“元”日本人の基準からすればかなり高い方だが、その小ぶりな唇と顔の小ささにミスマッチしない程度で、前世でもその美貌に比肩出来るのは一部のモデルか舞台女優ぐらいしか居なかっただろう。
しかも表情一つでうら若い無垢な少女に見えたり、妙に大人びたりするのだからタチが悪……むしろ良いのか?
たぶん元の世界のイギリス人かフランス人あたりの顔立ちだと思うが、正直外国人と積極的に関わった事の無い大多数の日本人からすれば、ゲルマン系だとか何だとか言う分類は難しい。
とにかく美人。それがまだ2歳になったばかりの息子から見た正直な感想だった。
「……」
そんな事を考えている最中、俺はずっと母親の事を見つめ続けていたらしい。
その母親も微笑みながらこちらを見つめている。
「あらあら。少し離れただけなのに、そんなに寂しかったのかしら」
「……」
俺は何も言わない。俺が2歳の幼児として話せる言葉は少なくないが、“今の俺がこの母親の息子として”言える言葉は一つしかない。
それをしないのは、言えば返ってくる反応が分かっているからだ。
あ、なんかプルプル震えだした。すごく我慢してる。
しかも若干涙目。
心の中で溜め息を吐いたが、これ以上焦らすのも可哀想なので待ちに待っているであろう言葉を口に出す。
「……お母さん」
「いやぁあん! お母さんって呼んでくれたぁあ! お母さん寂しかったぁぁあ!」
凄い勢いで飛びついて来るが、それを避ける術は俺には無い。というか選択肢が無い。
避けたところで拘束時間が伸びるだけだ。
そしてそれが出来なかった俺は今、とんでもなく美人な母親の腕の中で強烈な愛情表現に晒されていた。
ぶっちゃけ飛びかかられた時に少し体を打った。痛い。
しかしそれを言うともの凄く悲しそうな顔をして謝ってきそうなので黙っておく。
「もーエレンちゃんったら何でそんなに意地悪なのかしらー。すぐに名前を読んでくれないとお母さん寂しいわ」
そんな事を言う母親の顔は弛みきっている。しかし顔が崩れても相変わらず美人だったりする。
世界が嫉妬するなんとやら。
「私はこんなに大好きなのにー! むふー! むふふー!」
しかし凄い勢いで頭を撫でてきたり、俺の顔を自分の胸に押し付けたり、誰も見てないとは言えど流石に恥ずかしい。
見た目は幼児でも精神は大学生なんだから。
まあ恥ずかしさで言うなら乳幼児期の記憶に勝るものは無いのだが、それはそっと胸に仕舞っておく。
「お、お母さん。苦しいよ……」
「え? ……あらあら、ごめんねエレンちゃん。夢中で気が付かなかったわ……」
そう言ってようやく5分ほど俺を拘束していた手を離す。
母親は若干物足りなさそうにしているが、こちらとしてはもう十分お腹いっぱいだった。色々と。
しかし母親と言うのは皆が皆こうなのだろうか。
このスキンシップは少し過剰だと思うのだが。
「本当にごめんねー。昔はエレンちゃんにはあまり構えられなかったから、つい」
てへっ、と舌を出す彼女はとても“三児の母親”には見えない。ちくしょう可愛い。
しかし実際このスキンシップは過剰なのだろう。
こうなってしまった原因は二つある。
一つは、単純に母親が子供好きで親バカだったから。
そしてもう一つは、俺が前世の大学生の精神と記憶を持っていたこと。
まだ一人では何も出来なかった頃、俺はやることも無くひたすらに考え事をしていた。その為に未発達な赤子の脳に負担が掛かったらしく、睡眠時間が平均的な赤子より長かったらしい。
そしてある程度動けるようになってからは、何かで遊ぶよりも様々な物の地球との違いを観察したり、人の会話を盗み聞いて情報を集めたりしていたからだ。
普通の赤子ならばひたすら泣き喚いて、落ち着くまで母親がずっとあやしているだろう。
普通の幼児ならば母親に一緒に遊ぶように言ったり、泣きついたりしただろう。
それが俺には無かった。
勿論多少は泣いたりする事はあった。どうやら泣くと言う行為は赤子にとっては本能的な行動らしく、泣くのを抑えられない事が多々あった。
それはそうだろう。赤子にとって泣くと言う行為は、命を繋ぐことと同義なのだから。
しかし泣いたり我が儘を言う回数は、やはり平均的な赤子より著しく少ないらしかった。
母親はそれが随分と不満だったらしく、その分が今になって爆発していると言う訳だ。
まあ、気恥ずかしいが気分は悪くない。むしろ良い気分だ。
前世では家族の愛情と言うものを覚えていなかったから。
「……エレンちゃん、どうしたの?」
その言葉にハッとした俺は、いつの間にか俯いていた顔を母親の方へ向ける。そこにはとても心配そうにこちらを見る母親がいた。
どうやら前世を思い出していたせいで、暗い顔になっていたようだ。仕方ない、誤魔化そう。
「ううん、何もないよ! お母さん大好き!」
「……そう、ならいいの! 私も大好きよエレンちゃん!」
さっきの心配そうな顔は嘘だったのかと思うほど、今の顔は笑みで満ちていた。正確にはニヤけていた。
恐らく「大好き!」がこれほど効果的な人は五人と居ないだろう。親バカ万歳。
そして俺はまた母親に拘束されて、頬摺りされていた。チョー気持ちいい。親バカ万歳。
しかしこのままだと埒が開かないので、とある頼み事をしてみる事にする。
「ねえお母さん」
「んー? どうしたのエレンちゃん?」
「あのね、また“アレ”して欲しいの」
「あらあら。エレンちゃんは本当に“アレ”が好きなのねー」
母親は少し離れて微笑みかけてくる。
そして徐に、両手を水を受けるような形にして合わせる。
「光よ、玉となりて我が道を照らせ。『光玉』」
母親がそう唱えると、なんと合わせた手のひらから光の玉が飛び出してきた。
飛び出してきた直後はただ浮いていた光の玉が、母親の手の動きに従って部屋の中を飛び回り始める。
「わー、すごいすごい!」
歓喜して叫ぶ俺を見て、母親はクスクスと楽しそうに笑う。
歓喜しているのは演技ではない。
多少過剰気味にしてはいるが、実際“魔法”を見るのはとても楽しい。
何せ夢の中の空想事でしか無かったモノが、今目の前にあるのだから。
そう、今母親が使ったのは魔法。
素晴らしくファンタジックで“非現実的”だが、どうやらこの世界では魔法と言うのは日常に必要不可欠な程に浸透しており、むしろ元の世界の魔法に対する常識こそ非常識でしかなかった。
とどのつまり、俺の身に起こった出来事の答えが“転生”に行き着いた理由。それは魔法の存在だった。