孤独霊 五
半透明のカーテンが、風になびいたようだった。明が刀を抜いた瞬間解けた霊体の腕達は、彼女を取り囲もうとするかのように、勢い良く迫って行く。
渚が身を硬くし、今の今まで激昂していた明も、驚いたように目を見開いた。先ほどまでとは比べものにならない速度で掴みかかろうとする腕に舌打ちし、芹香は硬直する明の首根っこを掴んで、その場から退かす。
よろけた明はそれでやっと我に返り、慌てて体の前に刀を構えた。うねりながら更に次々と伸びてくる腕を身を屈めて避け、淡いグレーに変色した部分に狙いを定める。
明はそのまま両手で柄を握って力一杯振り抜いたが、腕達はバラバラに避けて行った。掠める事さえ出来ず、彼女は悔しげに歯噛みして一旦距離を取る。
腕達が明の間合いから出るのを待って、芹香が迫る腕の間を縫って本体に近付く。露出した濃いグレーの手を掴もうと手を伸ばすが、半透明の腕に阻まれた。それでも芹香は手を引っ込めず、行く手を阻んだ腕を掴む。他の霊体に邪魔される前に掴んだ腕を引っ張ると、存外簡単に抜けた。
芹香は引っこ抜いた青白い腕を掴んだまま、明同様、一旦距離を取った。力なく開閉する掌を怪訝な面持ちで見つめた後、腕を離す。
青白い腕は、芹香の目の前で手招きするように手首を動かした。それを見た芹香が、苦々しく表情を歪める。腕はしばらくそのまま揺れていたが、やがて思い出したかのように塊の方へ戻って行った。
「何コレ突然、何?」
塊になっていたもの以外の霊達も同様に、離れた場所で見守る三人に向かって来る。しかし渚が手にした札のお陰か、一定の距離まで近付くと、弾かれたように指先を引っ込めた。
「敵意を向けたから、反応したんですわね。メイさんたら、いつもこうなんだから……じいや」
三人の身が守れるよう三枚貼り合わされた除霊の札をゆなに渡し、渚はバッグを探って新たに札を取り出した。流石にいつかの祐子のように、胸の谷間から出しはしないようだ。そもそも札を挟めるような谷間がない。
渚が朱と黒の墨で緻密な紋様と文字の描かれたその札を振ると、浅黒い腕が、紙切れから這い出してくる。姿を現した霊は、渚の元執事だ。
ロマンスグレーに燕尾服という格好は、じいやという呼び名に相応しいものだが、狼のように鋭い目も、破れた袖から覗く筋肉で張り詰めた腕も、凡そ似つかわしくない。執事というより覇王のような風体の霊は既に状況を把握していたのか、即座に飛び出して明と芹香に加勢した。
血管の浮いた太い腕は、絡み合った青白い腕と比べると、霊のものとは到底思えない。しかし透けているから、それと分かる。
敵が増えたと見なしたのか、一塊になって動いていた腕が、バラバラに散った。芹香は反射的に目の前に迫った腕を跳ねのけたが、明は一瞬反応が遅れ、三つの手に肩を掴まれる。
執事が咄嗟に腕を伸ばし、自分が掴まれるのも構わず、明の肩を掴んだ手を引き剥がした。実体化してはいるが、彼も霊だから、生身よりは丈夫なのだろう。
「本体がどれだか分かるか?」
芹香の問い掛けに、周囲を取り囲む腕を振り払っていた明と執事は、同時に首を横に振った。どちらも苦い表情を浮かべている。
分からないのだろうと、藤堂は思う。これだけいたら、分からなくとも無理はない。それよりも腕を引き抜いた時の芹香の表情が、気になっていた。
「藤堂!」
唐突に呼ばれ、藤堂は弾かれたように顔を上げた。
「撃て。その破魔銃ぐらいの威力なら、消える事はない」
ふうんと鼻を鳴らして、藤堂はジーンズの尻ポケットから黒い銃を取り出した。大した威力はないが、護身用として持っていろと言われていたので、現場へ行く際は持ち歩くようにしている。
「避けさせりゃいいの?」
「中の悪霊化した部分だけを引っ張り出して、浄化する。メイ、頼むぞ」
明が頷くのを見てから、藤堂は目を眇めて腕の塊に狙いを定める。止めようとするかに横から霊体の腕が伸びてきたが、藤堂の肩に触れる寸前で弾かれた。ふと見ると、除霊の札を握り締めたゆなが、藤堂の服の裾を掴んで熱い眼差しを送っている。
藤堂は一瞬嫌な顔をしたが、ゆなは無視して腕の塊に向かって撃ち込んだ。破魔の念が込められた弾が当たる度に骨ばった指が戦き、塊の外側へ避けて行く。
避けた腕を塊から離れた位置でまとめて掴み、芹香は明に目配せした。反対側から執事の手が伸び、同様に青白い腕をまとめて抱え込む。
刀の切っ先が、濃いグレーに変色した部分へ向かって繰り出される。藤堂は明に当たらないよう気を配りながら、続けて弾を撃ち込んだ。対幽体用に改造されたエアガンだが、人に当たれば怪我は免れない。
青白い腕の合間を縫って、鋭い切っ先が悪霊化した部分へ迫る。濃いグレーに変色した腕は、刃が触れる寸前でようやく動いた。
大きく開いた指と指の間を、切っ先がすり抜ける。明はすかさず刀を横へ振ったが、腕は塊ごと後ろへ退いた。青白い腕達がそれに従うように芹香と執事の腕から逃れ、逃げて行く。
明は一歩踏み込んで、青白い腕が悪霊化した腕に追い付く前に、再び突く。霊体の塊はすぐさま横へ逃げ、芹香に迫った。彼女が慌てて身を屈めて避けると、腕を追い掛けた鋭い刃が、うなじを掠める。一瞬の間の後、明が先に悲鳴を上げた。
切っ先が、ホルターネックの結び目を引き裂いた。芹香が一気に目を見開く。破魔刀とは言うが、実際に切れるものなのだ。
そして一瞬、時が止まった。
頼りない布地で支えるには、やはり重すぎたのだろう。水着の生地が芹香の首から離れ、重力に従って捲れて行く。その瞬間が、藤堂の目にはスローに見えた。
白い首筋と浮き出た鎖骨が露わになり、滑らかな素肌が、沈みかけた夕陽に照らされて輝く。葡萄の皮を剥くと瑞々しい果肉が現れるのと同じように、黒い水着の下からは、豊かな胸が零れる。しかし藤堂がそのたわわに実った果実を目にする前に、守護霊達が飛び出した。同時に、渚が両手で藤堂の目を塞ぐ。
芹香の悲鳴が、微かに聞こえた。藤堂の視界は渚に塞がれた上、守護霊の庇護を失ったせいで、暗転する。お宝を拝めなかった事を残念がっていられる余裕は、彼にはなかった。
ブラックアウトした視界に、ノイズが走る。頭が割れるように痛み、藤堂は持っていた銃を取り落とした。その場に膝を着き、頭を抱える。
真っ先に感じたのは、痛みだった。今までにこんな事があっただろうかと、薄れ行く意識の隅で考えながら、藤堂は頭の中に流れ込んでくる他人の記憶に身を委ねる。
それは濁流のようだった。体中の痛みだけが支配する意識の中を、あらゆる記憶が凄まじい速さで流れて行く。喧嘩する親子の姿であったり、仲睦まじい老夫婦の姿であったり、様々だったが、藤堂は確信を抱く。これらは、バスの転落事故で死んだ人々の記憶なのだと。
やがて記憶の奔流が緩やかになり、全てが色を失くして収束して行く。丸めた紙屑のようになった記憶達は、豆粒大にまで小さくなって消えた。それから暗い海の奥底から浮かび上がるように、セピア色の記憶が遮られた筈の網膜に映る。モノクロに変わった視界に、暗い顔の男が入った。
焼けるように、喉が痛かった。何も聞こえないが、記憶の持ち主が泣き叫んでいるのは分かる。鈍く痛み熱を持った腕に波飛沫が当たり、冷えて行く。岩で切れた素足が塩水に浸かり、じんじんと痛む。見下ろしてくる男の顔は、暗い愉悦に歪んでいた。痛む喉が、更に震える。叫んだのだろう。しかし助けてもらえるはずはなく、腹に痛みが走った。感じた事のない、内臓を鋭い刃物で引っ掻き回されているかのような痛みと共に、腹の底から酸っぱくも生臭いものが込み上げ、激しく咳き込む。吐き出したものが血なのか胃液なのかさえ分からないまま、憎々しげに顔をしかめた男に、怯える。自分が目を見開いたのが分かった。男が拳を振りかぶり、勢いよく下ろす。眼前に大きな拳が迫ったと思った瞬間、ぷっつりと記憶が途絶えた。
ようやく開けた藤堂の視界に、目を見開いたまま凍りついたように動かない渚が入った。心配そうな表情を浮かべる透けた子ども達が、ゆなと一緒に顔を覗き込んでいる。こちらが現実だと認識すると共に、腹が鈍く痛んだ。知らず知らず、腹筋に力が籠もっていたのだろう。
小さな守護霊達の口が、一斉に動いた。彼らの声は、藤堂には聞こえない。しかしその表情と仕草から、心配しているのであろう事は分かった。よほどひどい顔をしていたのだろう。
「藤堂さん、大丈夫ですか?」
への字に曲がった眉を更に下げて問いかけたゆなに頷いて見せ、藤堂は大きく息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。背中にびっしりとかいた汗がシャツを湿らせ、体を冷やしている。痛みまで感じたのは、これが初めてだった。
「何見たの……藤堂さん」
緊張しきった明の声にやっと我に返り、藤堂は彼女へ視線を移した。立ち尽くす明の足下に、少年の霊が二人、うずくまっている。片方は見慣れたコウの姿だったが、もう片方は、知らない子供だった。
二人の周囲には、青白い腕が漂っていた。少年の霊を宥めるように、頭や背中を撫でている。藤堂が自失している内に、浄霊は済んだのだろう。それとも最初から、あの腕達が守っていたのが、少年の霊だったのか。
「いや……アレ、多分そいつ、殺されてる」
事細かに説明するのも酷だろうと曖昧に伝えると、芹香が悲痛な面持ちで俯いた。気付けば破れた筈の水着の生地は、また首の後ろで結ばれている。
渚が痛ましげに眉をひそめて、納得したように頷いた。
「だから守ろうとしてらしたんですのね」
「その子に対する霊達の哀れみの念が、この世に繋ぎ止めたんだろう。悲しみで変質したんだな」
芹香は、腕を引っこ抜いた時に気付いたのだろう。だから、あんな顔をしたのだ。
明が少年の傍らにしゃがみ、微笑んで見せた。怯えたような表情を浮かべ、少年は明を見上げる。そんな彼の頭を、コウが撫でた。
少年の表情が、僅かに和らぐ。浄化された青白い腕が一つ、彼の手を取った。不思議そうに首を捻り、少年は宙に浮かんだ腕を見上げる。
少年の背中を撫でていた腕が離れ、忽然と消えた。周囲に漂っていた腕達が、次々と浮かび上がっては消える。不思議そうな表情でそれを見つめていた少年の肩を叩いて自分の方を向かせ、コウが気の抜けた笑みを浮かべた。傍目に見ていてもなんとなく笑ってしまうような、温かな笑顔。
つられて少年が笑みを返すと、コウは彼に顔を近付けて、何事か耳打ちした。少年は首を傾げたまま空を見上げ、瞬きをする。
空いていた方の少年の手を、霊体の腕が取る。両手を繋がれ、彼は嬉しそうに笑った。そしてゆっくりと、浮かび上がる。
両の足が地を離れると、コウが手を振った。少年はそのまま、腕達と共に、煙のようにかき消えた。
「……行ったね」
明が呟くと、執事が頷いた。見送るように空を見上げていたコウが、ふと藤堂を見て、慌てて戻ってくる。腰に抱きついて笑うコウが、褒めてもらいたがっているように見えたので、藤堂は労うように彼の頭を撫でてやった。
「さ、報告は明日にして、早く帰りましょう。警察にも、明日の朝連絡しないと」
渚は両手を頭上まで挙げて伸びをしてから、ゆなから札を受け取った。ゆなはヘルメットを押さえて、小さなくしゃみをする。日が暮れたばかりだが、ずっと水着でいたせいだろう。
くしゃみしたゆなを笑って、渚は着ていた芹香のパーカーを肩に掛けてやった。刀を鞘に納めながら明が近付いてきて、ゆなの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「ノープロブレム、です。体は丈夫に出来ております。さあ藤堂さん」
パーカーの襟元を掴んで、ゆなは藤堂に向かって手を伸ばした。藤堂は怪訝に片眉を寄せ、首を捻る。
期待に満ちた目で藤堂を見つめるゆなの後ろで、明が渚と顔を見合わせて笑った。首を傾けたまま意見を求めるように芹香を見ると、彼女も苦笑している。渚の傍らに立った執事も、笑っていた。
「ゆな達も、みんなで手を繋いで帰るのです」
目を丸くする藤堂を声を上げて笑い、明が渚の手を取った。渚は困ったような笑みを浮かべながらも、明と繋いだ方と逆の手を、執事に差し出す。彼はうやうやしくその手を握り、動かない藤堂を振り返った。
藤堂を見上げていたゆなが、ふと振り返って執事の手を掴む。手を繋いだ四人に揃って視線を向けられ、藤堂は渋々ゆなの手を取った。小さな手は、少し冷たくなっている。
「芹香さんも」
渚に促され、藤堂の隣で見守っていた芹香が、困ったように眉根を寄せる。藤堂が嫌がっていると思っているのか、戸惑っているだけなのか、その反応だけでは判断出来ない。
彼女は孤独な子供だったのだと、藤堂は今日初めて、祐子から聞いた。友達と手を繋いだ事があるのかどうかさえ、疑わしい。だから、戸惑いもするだろう。
あの少年も、寂しかったに違いない。こんな淋しい所で殺害され、たった一人で、浮かばれずに漂っていたのだ。だから孤独の念に引き寄せられた霊達が、ああして守っていたのだろう。彼らが腕の形で残っていたのは、少年の遺体を見つけて欲しかったからではなく、彼に救いの手を差し伸べてやりたかったからなのではないかと、藤堂は考えている。
一人ではいられないのは、霊も人も同じ事だ。救い出してくれる手がすぐ傍にある事、それがどんなに嬉しい事か、藤堂は知っている。胸の内で知らず知らず孤独を飼い慣らしていた藤堂にも、救いの手は現れた。
だから今度は、自分が埋めてやりたい。今の芹香に居るのは自分だけではないし、きっと、寂しいとは思わせない。
「堤」
きつく握り締めてくるゆなの手が徐々に温くなって行くのを感じながら、藤堂は空いた手を芹香に差し出す。彼女はまだ困ったように眉尻を下げていたが、藤堂が笑うと、頬を赤らめて表情を緩めた。
はめたままだった手袋を外し、芹香は藤堂の手をそっと握る。すらりとした白い手は、思いの外熱かった。力こそ弱いものの、容赦なく握り締めてくるゆなとは対照的に、彼女はずいぶんと遠慮がちだ。握力が強いのを、自覚しているのだろう。
それとも、どのぐらい力を込めたらいいか、分からないのか。
「……あれ」
藤堂が声を上げると、芹香が振り返った。彼女の後ろで、コウがじっと見上げている。
振り向いてからしばらく目を丸くしていた芹香は、手を伸ばすコウに笑みを浮かべて、手袋をはめたまま彼の手を握る。嬉しそうに破顔したコウは、ぎゅっと芹香の手を握って、その場で飛び跳ねた。
「帰ろ!」
言いながら明が歩き出すと、全員それに続いた。ぞろぞろと手を繋いで歩く姿は、はたから見れば滑稽だっただろう。けれど藤堂は、これもいいかと少し笑って、両手に緩く力をこめた。