sideⅡ
新宿ゴールデン街、様々な色の明かりの灯る店が並ぶこの一画に、深い霧の夜にだけ現れる一軒のバーがある。
ーAbysussー
奈落とも深淵とも呼ばれるそこでは、ふたりの男が、所在無げに座っている。眼の前でグラスを磨くマスターが時折、ドアのほうにチラリと視線を走らせる。
「誰もおいでになりませんね……」
「いいことじゃないか」
ひとりの男が、煙草の灰を無雑作に灰皿に落としながら、呟いた。
「こんなところには、誰も来ないほうがいい……」
「それは聞き捨てなりませんね……いや、その通りではあるんですがね」
店の奥、暗く静まったあたりから、低い、滑るような声が漏れてきた。
痩せた白蝋のような指が長く顔を覆い尽くすような髪を少しばかり掻き上げた。
「いたのかよ……。世の中は俺のようなワルはそうそういないってことだろう?」
男はそちらを見もせずにフン……と鼻を鳴らした。硬いクセの強い髪の間から皮肉めいた笑みが覗く。
彼の名前は三上圭介といった。ゴシップ雑誌専門のライターで、巷で「ヤバい」と言われる事には大概、足を突っ込んできた。
挙句……あの霧の深い夜に、花園神社の野外芝居に出向いて、そして囚われた。
自分が殺した親友だった男に、多賀浩太郎に誘われて、臓物のような真っ赤なテントの中で過去の過ちのアレコレを見せつけられ……かつて自分が火を放った店の中に、その時に焼け死んだはずの浩太郎とマスターとともに閉じ込められた。
「悪いのは、君ばかりじゃないさ」
死人のくせに、やけに涼やかな微笑みを湛えて、親友が彼を見た。
「僕だって、立派な悪人だ」
エリート銀行員で頭取の娘と婚約、海外赴任が決まって、幸せの絶頂にいた親友を、浩太郎を圭介はつまらない嫉妬で焼き殺した。
ーーあの時は俺も追い詰められていたから……ーー
そんなことはなんの言い訳にもならない。
人生の一番華やかな瞬間に、無惨に生を断ち切られたのだ。 どれほど深い恨みも憎悪も抱いて当然だと、圭介はこの店に閉じ込められた時に、諦めた。
だが、力なく床に倒れ伏した圭介を助け起こして、ソファに横たえた親友の口から溢れ落ちたのは、思いもよらない言葉だった。
『僕は感謝さえしていたんだよ……君が一緒に死んでくれていたなら、幸せだったのに。……それだけが恨めしくて、許せなくて……こんなことをしてしまった』
冷たい、氷よりもなお冷たい唇が、彼のそれに触れた。
『もう何処にも行かせない……ずっと待っていたんだから』
その時ほど、圭介は背筋が凍る……という思いをしたこててはなかった。
が、同時に腹の底からホッとしたことも事実だった。
ーー俺はもう、どこにも逃げなくていいのか……ーーと。
しかし……。
「何を言っているんだ?浩太郎、お前が悪人なわけないだろう?学生の時だって真面目一辺倒だったじゃないか」
訝しげに見上げる圭介に浩太郎が淋し気に微笑んだ。
「僕はね、人を殺しているんだ……何人も……」
ギョッとして眼を見開く圭介を見下ろしたまま、親友は静かに語り始めた。
「僕が初めて人を手に掛けたのは八歳の時だった……」
当時、浩太郎の父親には愛人が、不倫相手がいた。会社経営も波に乗っていて羽振りも良かった父親は、十歳も年下の秘書と懇ろになっていた。
その女性が妊娠した。
そしてお腹の子を盾に浩太郎の母親との離婚を迫った。が、父親は浩太郎の存在を理由にそれを拒否した。
実際の理由は浩太郎の母親の実家が大層な資産家で、政財界にも顔の効く家柄だったからだ。
愛人の女性は当然、口実にされた浩太郎を憎んだ。
結果……浩太郎さえいなければ、と凶行に及んだ。
両親とともに出掛けたレセプションの会場で、浩太郎を窓から突き落とそうとした。
辛うじて避けた浩太郎は、勢い余ったその女性を逆に突き落とした。
「当然、彼女は死んだ。お腹の子も……ね。でも誰も僕を責めなかった」
「だってそれは不可抗力だろ?正当防衛じゃないか」
口を尖らせる圭介に、浩太郎は小さく頭を振った。
「明確に殺意はあったんだよ……。この女さえいなければ、僕たちは幸せでいられる、僕はそう思っていた。けど……それは僕の幻想でしかなかった」
「……浩太郎?」
「母にもね、恋人がいたんだ。ふたりとも、僕を裏切っていたんだ……。だから……」
浩太郎の目元が僅かに歪んだ。
「ふたりが避暑に出かける日にね、車に細工したんだ。父のコーヒーポットにも睡眠薬を入れて……ね。僕は受験生だったから留守番してたけど」
両親の車は、避暑地に向かう途中の高速道路でハンドルを切り損ねて壁に激突、炎上した。
「運悪く後続のトラックにも追突されてね……ふたりとも即死だった」
激しく焼け焦げた車体から引きずり出された遺体の損傷は激しく、死因はなかなか特定されなかった。が、普段から夫婦が不仲なのはよく知られており、事故か無理心中だろう……と決着された。
そして十五歳の浩太郎は母方の祖父母に引き取られて養育された。
「あの時、燃え盛る火に巻かれながら……両親を焼き殺した罰かもしれないと思ってた」
圭介の頬にポタリ……と冷たいものが落ちた。
「まぁ母方の祖父母はまともな人たちでね……。きちんと進学させてくれた。ただ……高校に入った途端に縁談なんてもんを持ち込まれてね……うんざりした。まぁ結局は先方から断ってきたけど」
断わざるをえないようにしたけど……と呟くその言葉の詳細は、訊くのは止めた。
圭介の目に映った親友の顔が、見たこともない冷酷な笑みを湛えていたからだ。
「でも……大学に入ってからのお前は至極真っ当だったじゃないか……女子にもモテてたし……」
「あぁアイツらか……」
浩太郎がらしくもなく、吐き捨てるように言った。
「化粧臭い、強欲な牝なんかに興味なんか沸くもんか」
無理もないか……と圭介は小さく息を吐いた。
ーーあれだけ裏切られてくりゃあなぁ……ーー
圭介にも憶えが無いこともなかった。圭介の家は、浩太郎の家ほど裕福ではない。ひどい田舎で、旧弊な風習がまかり通る土地で、圭介の母は夫の暴力と舅姑の仕打ちに耐えかねて、逃げた。妹だけを連れて、ある日忽然といなくなった。
長男だった圭介は祖父母から虐待されることは無かったが、父親には事あるごとに殴られた。
再び、ひんやりとした感触が頬に触れた。
「僕が執着したのは、圭介、君だけなんだ」
まっすぐに、だがとてつもなく暗い洞のような瞳に見据えられて、圭介は身を震わせた。
「なんで、俺……?」
「さぁ……。僕に少し似ていたからかもしれない」
ーー似てねぇよ……ーー
圭介は口の中で小さく呟いた。田舎からやっとの思いで逃げ出して、父親の鼻を明かしてやりたくて……もっと深い闇に落ち込んだ自分と生まれながらのエリートの親友には、そもそも埋め難い溝があった。
ーーだからあんなことを……ーー
それも虚しい言い訳でしかないことは圭介自身がよく知っていた。
「けど、お前……婚約してたろ?一緒に海外に……」
圭介には見ることすら考えつかない夢だ。
が、親友はそれまで以上に冷ややかに笑った。
「体のいい口封じさ」
「口封じ?」
「祖父の人脈も目当てだったろうが、あいつら組織ぐるみで横領してた。政界のお偉いさんに賄賂を贈るために、な……。気づいた俺を抱き込むための餌だよ、あの女は」
「あの女って……名家の令嬢だろ?」
「表向きはな」
浩太郎はフンっと鼻を鳴らした。
「実態はとんでもないビッチで、ホスト狂い。……まぁふたりまとめて海外に厄介払いって算段だったんだろうな……」
「厄介払いって……」
「海外じゃ、強盗やら犯罪なんか珍しくもないからな」
圭介は改めて目を見開いた。
ーーどこにいたって、そんなおキレイな社会は無い……ーー
ベテランの同業が吐き捨てるように言っていたのを思い出した。
と同時に少しばかり腹がたった。ムクリと起き上がり、こんどは正面から浩太郎を見据えた。
「そんな話……生きてるうちに教えてくれよ。一大スクープじゃないか!」
「消されてたよ……? アイツら反社ともドップリだから……」
「反社が怖くて、ライターなんかやってらんねぇよ!」
「そんなことを言っているから、寿命を縮めるんですよ……」
息巻く圭介の背後から、あの低い声音が、ふいに漂ってきた。
「寿命を縮めるって……何だよ?!」
なおも突っかかる圭介に声が冷ややかに応える。
「あの夜……花園神社に向かう間に何か感じませんでしたか?……従けられているとか……」
「つけられる……?」
言いかけて、圭介は、あ…と小さく呟いた。地下鉄を出て神社に向かう間に感じた小さな違和感。コンビニのガラス越しに視界に写った外国人らしき人影……。
「あなた、だいぶヤバいネタを追っていたみたいですねぇ……」
影が一層深い声音で囁く。
「トーヨコ辺りで新しく出回り始めたドラッグがあるって話か?チャイニーズ・ドラゴンが噛んでるらしいって……」
圭介はせんだって会った家出少女の顔を思い浮かべた。まだ幼さの残る面差しに不釣り合いな濃い化粧をして、父親ほどの年頃の男とホテルに消えていった。
「あちらさんは、相当、あなたが目障りだったようですね……私どもの領域に入るまで、ずっとあなたをつけてました」
抑揚の無い影の言葉にフッ……と吐息が混じった気がした。
同時に圭介はある事に気づいた。
「俺の……俺の身体は?……まさか肉体ごとここにいるわけじゃないよな?」
「そんなはず無いよ」
傍らで浩太郎が小さく笑った。
「あなたの身体は……現し世では、あの夜、この店の跡地で倒れていたんですよ。見た目はまあ……心筋梗塞ですよね。だから、発見者が良ければ助かったかもしれませんね、身体は……」
「じゃあここから出られたかも……」
「出さないよ」
微かな希望を孕んだ圭介の声を浩太郎の氷点下の響きがねじ伏せた。
まあまあ……と取ってつけたように浩太郎をいなして、影が続けた。
「生憎、あなたの身体を見つけたのは、あなたを従けていた連中でしてね……。あなたの身体は彼らに回収されました。……おそらく今は……」
「今は?」
「どこかの海の底のようですよ?」
「海の……底?」
す……と影が、圭介の前に鏡を差し出した。
「浄玻璃の鏡です。よくご覧なさい」
「ひ……」
覗き込んだ圭介の口から小さな悲鳴が漏れた。
映っていたのは、半ば崩れ骨が覗く腐肉とそこにまつわりつく海藻……頼りなく揺れているのは潮のせいだろうか。
「まぁ生前の行いの報いというものでしょうかねぇ……」
影はそう嘯くと鏡を再び懐にしまった。
「分かってるさ……」
圭介はよろよろと立ち上がり、カウンターに置かれたウイスキーのグラスを鷲掴み、一気に飲み干した。
ーー俺みたいな悪人に、奇跡なんか起きるわけがないーー
「いずれにせよ、あなたはあの晩、死ぬ運命だった……てことです」
強面のマスターがグラスを拭くクロスをキュキュッと鳴らしながら静かに笑った。
「あなたがここに来たのは……あなたを他の誰にも獲られたくない、という浩太郎さんの切なる願いの賜物です」
「願い……執念だろ?」
「そうだよ、僕は執念深い男なんだ」
再び、親友の幽霊が傍らに腰を降ろす。
「君の魂が完全に僕を受け入れるまで、僕は君を離さない」
うへえ……とあからさまに口元を曲げて、圭介は親友の顔を見た。
「そいつはまた時間がかかりそうだ……延々とここでダベるのも退屈過ぎるんだが」
十五年前のあの時に、アブサンを乾いた鍋に注ぎ込む前の、ふたりで語らっていたあの時に留まり続けるのも悪くはない。 悪くはないが、時間の流れの止まったここでの永遠は都会の忙しなさに染まった身には辛すぎる。
「そう仰ると思ってましたよ……マスター、あれを」
影がゆらゆらと近づき黒い塊になり、その塊から青白い指が伸びる。
「かしこまりました……」
マスターはふと表情を引き締め、シェイカーを手に取る。最初にウィスキーが、次にジンが、ウォッカが注がれ、鮮やかな手捌きでシェイクされる。
3つの円錐のカクテルグラスが淡い琥珀色に染まり、そこにはらはらと白い粒が均等に落とされる。
「どうぞ……」
つぃ……と差し出された酒は蠱惑的な、昏い光を揺らめかせ、彼らの視線を奪う。
「これは……?」
「ケルベロスの誓い……。『地獄の犬』の誓約の盃です」
「地獄の犬?」
「私どもも人手不足でしてね……」
闇よりも深い洞がニマリと笑う。
「罪深き魂に引き寄せられてくる彷徨える方々を行くべき場所に導くお手伝いをお願いしようかな……と」
「どうせ否は無いんだろ?」
圭介はグラスを掲げ、一時じっと見つめて、一気に飲み干した。三種の濃厚な酒精が強烈に喉を焼く。
思わず滲んできた涙の向こうで浩太郎が優雅にそれを飲み干すのが見えた。
そして眼前ではマスターが淡々と酒精を喉に流し込む。
「マスター、なんでアンタまで?」
「ここは私の店ですよ」
目元の傷が小さく歪む。
「それに、私は元はヤクザ者でしてね……。随分と敵を地獄に送ってきたものです」
「だからって……」
「あなた方にカクテルは作れませんでしょう?」
「違いない……」
浩太郎の喉がクックッと笑った。
「マスターがナビゲーションしてくれるわけだ」
「えぇ、おふたりの邪魔はしませんけどね」
「邪魔って……」
強すぎる酒のせいか、一気に頬に血が昇る。
その背後で影が、ゆらりとドアノブに手を掛けた。カラン……とドアベルがか細い音を立てる。
「では、よろしくお願いしますね……」
「おい!」
去り際の影に圭介が声を投げかける。
「せめて名前くらい名乗ってけよ。正体も分からねぇんじゃ気味が悪い」
「カイロン……」
影が背中越しに小さく呟いた。
「あの世とこの世の間の『時』の支配人……にございます」
……そして今夜も圭介は浩太郎とAbysussに、永劫の夜にいる。




