御曹司が五百万払って好きに触らせてくれる。触り終えたら、もっと続けたくなった
医療法人神代会を創設した神代家の御曹司から、五百万円の契約金を提示された。仕事内容は――彼に触れること。
強い触覚過敏を抱える神代怜司は、人に不意に近づかれることさえ苦手なのに、なぜか私が触れた時だけ拒絶反応が弱い。握手も、腕への接触も、肩に短時間触れるのも、全部が仕事になった。
報酬が桁外れにいいだけのアルバイトだと思っていた。ところが、いつの間にか病院では私と怜司が付き合っているという噂が広まり、とうとう彼の母親まで金額欄が空白の小切手を持って現れた。
私はその場で母に電話をかけた。
「お母さん、荷物まとめて。手切れ金が来た。うち、ちょっと金持ちになれるかも」
「待って!」
神代夫人は顔色を変え、慌てて私の手を押さえた。
「怜司と別れてほしくて来たんじゃありません。相原さん、お願いですから――どうか、そんなに早く別れないでください」
「……はい?」
1
「相原郁、正気? 五百万円の契約金が出る仕事に遅刻するとか、あり得ないんだけど!」
水野千夏が電話の向こうで叫んでいる頃、私は弟の悠真の病室を出たところだった。十二歳の悠真は重い肝疾患を抱え、神代記念総合病院で生体肝移植に向けた治療を受けている。父も生体ドナー候補として検査を進めていて、今日は急きょ家族説明が追加されたため、私の面談は予定より大幅に遅れてしまった。
エレベーターへ走りながら時計を見る。十八時二十分。約束まで、あと十分しかない。
「私だって好きで遅れてるわけじゃないよ。悠真のほうで急に予定が入ったの」
「分かってる。でも今日、誰が来てるか知ってる? 神代怜司よ」
思わず足が止まった。
「誰?」
「三十二歳、外科医。それに医療法人神代会の理事。神代家は神代会を立ち上げた一族よ」
千夏は声を落とした。
「要するに、御曹司」
私は即座に要点だけ拾った。
「ものすごくお金持ち?」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
「……今の説明、それしか聞いてなかったの?」
「大事なところは聞いた。住所、もう一回送って」
そのまま電話を切った。千夏は大学時代からの友人で、今は神代記念総合病院のリハビリテーション科に勤めている。母親同士の縁で神代家とも昔から付き合いがあり、怜司のことも子どもの頃から知っているらしい。ただ、神代家が特殊な接触適応プログラムに協力できるリハビリ職を探している、としか聞かされていなかった。
十数分後、私は星澄グランドホテル最上階の会員制ラウンジへ駆け込んだ。エレベーターの鏡に映っているのは、白いTシャツにジーンズ、二千円台のスニーカー、髪は適当に後ろでまとめただけの女。大学院を出たばかりで、貧乏を隠す気もない新人作業療法士そのものだった。
入口で待っていた千夏が、私の腕をつかんで奥の個室へ引っ張っていく。
「怜司、予定より早く来てるから」
扉が開いた瞬間、氷みたいに冷たい目とぶつかった。上座に座る男は黒いスーツを完璧に着こなし、腕には雑誌でしか見たことのない機械式時計。顔立ちは文句なく整っているのに、視線から姿勢まで全身で「近づくな」と言っていた。
「水野さん。この人が、君の推薦した人?」
千夏が私を一歩前へ押し出した。
「相原郁。星澄医療大学保健医療学部作業療法学科卒。作業療法士の国家資格を取ったあと、大学院の修士課程も修了してる。今は神代記念総合病院で新人研修中で、研究分野も感覚処理とリハビリに近いから」
神代怜司は私を一瞥した。
「求めているのは、臨床経験五年以上の人間だ」
意味は明白だった。新人はいらない。
普通なら空気を読んで黙るところだが、ちょうど視線の先に果物皿があったせいで、余計なことを口にしてしまった。
「もし問題が、予測できない身体接触で強く出るのであれば、すべての接触を避け続けることが最善とは限りません。もちろん正式な治療方針は医療チームが決めることですが、安全な範囲で、予測できる素材や温度、距離から始めて、受け入れられる刺激を段階的に増やす方法は考えられます」
何となく果物皿のリンゴを一つ持ち上げたところで、個室全体がしんと静まり返った。千夏の顔まで引きつっている。そこでようやく、彼女は「リハビリ職を探している」としか言っておらず、怜司の状態をこの場で話していいとは一言も言っていなかったことに気づいた。
神代怜司が冷たい目で私を見る。
「出ていけ」
「はい」
私は素直にリンゴを戻し、すぐに背を向けた。ところが扉の前まで来たところで、背後から千夏の声が飛んできた。
「怜司、手、どうしたの?」
反射的に振り返ると、怜司の右手がはっきりと震えていた。指はこわばり、肩から首にかけても強く緊張し、呼吸まで速くなっている。そばにいた佐久間がスマートフォンを確認し、険しい顔になった。
「久世先生、まだ都市高速で渋滞に巻き込まれています。少なくともあと二十分はかかります」
迷ったものの、職業柄そのまま立ち去れなかった。
「無理に我慢しようとしないでください。まず突発的な刺激を減らしましょう。普段から安心できる物や慣れた触覚刺激があるなら、それを使ってください。なければ、体温に近くて、ご自身が予測できる接触を試す方法もあります。ただし、触れるかどうかは必ずご本人が決めてください」
怜司が私を見上げた。次の瞬間、彼は突然、私の手首をつかんだ。
私も固まったが、怜司自身も驚いたようだった。それでも数秒後、さっきまで乱れていた呼吸が少しずつ落ち着き、こわばっていた指もゆっくり緩んでいく。
「体温は?」
「今日の午後に測って、三十六・九度でした」
そっと手を引こうとした。
「神代先生?」
「動くな」
声が少しかすれていた。
「三分だけ」
横で見ていた千夏は、完全に言葉を失っていた。
2
翌日、私は神代記念総合病院の特別診療フロアへ呼ばれ、そこで初めて怜司の状態を詳しく聞いた。彼は幼い頃から強い触覚過敏と感覚処理の偏りがあり、とりわけ心の準備がないまま私的な身体接触を受けることが苦手だった。知らない人に素肌を突然触れられると、吐き気や動悸、筋緊張、時には呼吸困難まで起こる一方、手袋や術衣を着用し、動きが予測しやすい手術室では症状がかなり軽いらしい。
三年前の大きな交通事故と、その事故で妹を亡くした心的外傷が重なり、以前は何とか抑えられていた症状が一気に悪化した。それ以来、主治医とリハビリテーションチームが組んだ個別の接触適応プログラムを含め、継続的な治療を受けているという。昨日特別だったのは、私が何かを「治した」ことではなく、不意に私の手首をつかんだにもかかわらず拒絶反応が悪化しなかったことだった。
黒川院長がモニタリング記録を見ながら言った。
「神代理事は、あなたと接触している間に心拍数と筋緊張がかなり早く下がっています。現時点では、相原さんの接触に対する拒絶が非常に弱い、としか言えません」
私は自分を指さした。
「それで、私をプログラムに参加させたいんですか?」
「補助者としてです。正式な評価や治療は医療チームが担当し、あなたには決められた範囲で接触と記録をお願いする。どちらかが不快だと感じた時点で、すぐ中止できます」
私は正直に聞いた。
「でも、私は資格を取ったばかりですよ」
黒川院長は怜司を一度見た。
「これまで試した中で、同じ反応が出たのがあなただけだからです」
その理由はかなり危険な気がした。しかも次の瞬間、怜司が一枚の契約書を私の前へ滑らせる。
「三か月の専属補助契約。契約金は五百万円」
私は勢いよく姿勢を正した。
「いくらですか?」
「五百万円」
契約書を数センチ、自分のほうへ引き寄せた。五百万円には、三か月間の指定時間帯での待機、院内外への同行、リハビリ記録、臨時の呼び出し、守秘義務などが含まれている。実働分は別途で、通常の接触補助は一時間三万円、夜間や急な依頼には追加手当がつく。通常業務とは別の自費契約で、費用は怜司個人が負担し、双方にいつでも中止を申し出る権利があることも明記されていた。
私の頭はもう、家賃と生活費への換算を始めていた。
怜司がふいに聞く。
「昨日遅れたのは、十二歳の弟がここで肝移植の準備をしているからか?」
手が止まった。
「はい」
「父親が生体ドナー候補として検査を受けている?」
私はすぐに警戒した。
「それ、この契約とは関係ないですよね?」
「関係ない。君がこの仕事を受けるかどうかで、弟の治療が変わることはない」
怜司は淡々と続けた。
「必要なら、正式な手続きを通して移植チームのセカンドオピニオンを手配できる」
私は契約書を数秒見つめた。五百万円の契約金に高い時給。それでいて、断っても悠真の治療には何の影響もない。どう考えても、こちらから断る理由がなかった。
ペンを取る。
「最後のページに署名でいいですか?」
怜司は最初から分かっていたように顎を引いた。
「ああ」
迷わず名前を書いた。
稼げる時に稼がないほうがおかしい。
3
最初の正式な訓練は、特別診察室で行われた。怜司はスーツではなく濃いグレーの部屋着姿で診察台の端に腰掛け、膝の上のタブレットで神代会の書類を確認している。いつもの隙のない外見が少し崩れただけで、ずいぶん若く見えた。
「手順は?」
顔も上げない。
私は計画書を広げた。
「まず手の接触を五分。状態が安定していれば、前腕と肩への短時間接触に進みます。今日は予告なしの刺激は加えません」
「最後まで一気にやれ」
「どうしてですか?」
「九時半から理事会がある」
時計を見てから、怜司を見返した。
「ご自分の予定管理の問題で、こっちの手順を飛ばすんですか?」
ようやく彼が顔を上げた。
「追加で一万円」
私はもう一度、計画書に目を落とした。
「肩まではやります。でも手の適応を先に終えてからです」
追加の一万円は、私の職業倫理に驚くほど柔軟性を与えた。
彼の背後に立ち、中止条件をもう一度確認する。実際に肩へ触れた瞬間、私たちは同時にわずかに身を固くした。怜司の肩と首は強くこわばっていたので、すぐには動かさず、同じ位置に手を置いたまま慣れるのを待ち、それから計画通りに触れる範囲を少しずつ広げた。
数分後、ようやく力が抜けたらしく、怜司が小さく息を吐いた。その音が、やっと気持ちのいい場所を撫でてもらえた大型の猫みたいで、つい口が滑った。
「気持ちいいですか?」
怜司の耳が一瞬で赤くなる。
「続けろ。それと、喋るな」
私は笑いをこらえ、ひとまず患者の尊厳を守ることにした。
訓練は四十三分で終了したが、怜司は佐久間に一時間分で精算するよう指示した。その瞬間、この男にもちゃんと長所はあるのだと思った。
記録をまとめ終えたところで、怜司が突然言った。
「明日から、星澄ベイの法人契約マンションに移れ」
顔を上げる。
「契約書には、引っ越し必須なんて書いてません」
「朝晩の訓練時間が一定じゃない。近いほうが便利だ。家賃と管理費は法人が負担する」
一秒だけ黙った。
「何時に引っ越します?」
怜司が数秒、私をじっと見た。
「相原郁。お前に原則というものはないのか?」
「あります」
きっぱり答える。
「自腹は切らない、です」
怜司は最後に一言だけ言った。
「明日、佐久間を行かせる」
4
星澄ベイのマンションに引っ越した日、金持ちの言う「通勤に便利」と一般人の感覚はまるで違うのだと思い知った。2LDKの高層階で眺めもよく、病院まで徒歩十分。最低限の生活用品はすでに揃っていて、ベッドサイドには薄い水色のスズランの香りのハンドクリームまで置かれていた。
蓋を開けたところでスマートフォンが震える。
【8:00 朝の手部適応】
【9:30 理事会同行】
【14:00 肩・上腕の接触テスト】
続けて、もう一通届いた。
【ハンドクリームは一日三回。次にささくれを触ったら、手のプログラムは中止する】
しばらく画面を見つめた。これは何だ。人間カイロの品質管理制度か。
翌日、病院のナースステーションの前を通りかかった時、若い看護師二人の小声が耳に入った。
「神代先生って、本当に急に触られるのが苦手だったの?」
「三年前の事故からひどくなったって聞いた。妹さんが亡くなった時の……」
もう一人がすぐに止めた。
「そういうの、私たちが噂することじゃないでしょ」
足が少し遅くなる。三年前、交通事故。その時期に妙な覚えがあった。大学四年の臨床実習中、実習先から帰る途中で大きな交通事故に遭遇したことがある。ただ、当時は授業と実習に追われる毎日で、助けた人の顔や名前まで覚えてはいなかった。
考え込む暇もなく、千夏から一気に十数件のメッセージが飛んできた。
【郁! 有名人になってる! 医療従事者向けの匿名掲示板見て!】
送られてきたスクリーンショットを開く。そこにはスーツ姿の怜司が私の手首をつかみ、外来ロビーを歩いている写真が載っていた。私はゆったりしたパーカー姿で後ろからついていっているせいで、どう見ても普通の患者とリハビリ職には見えない。
タイトルはさらにひどかった。
【他人に触られるのが大嫌いな神代先生が、若い女の手を自分からつかんでる件】
腹が立って返信する。
【正式なリハビリ補助です】
千夏から即座に返ってきた。
【正式なリハビリで耳の後ろに赤い跡がつくの?】
慌ててインカメラを開くと、本当に耳の後ろが少し赤い。しばらく考えて、昨日、記録を書くのが遅いと怜司にボールペンの端でつつかれた場所だと思い出した。
なるほど、神代怜司。この借りはしっかり覚えておこう。
5
翌日、私はわざとハイネックを着ていった。怜司は私を見るなり、はっきりと眉を上げた。
「首、どうした?」
「ボールペンアレルギーです」
無表情で記録用紙を机に置く。怜司は意外にも言い返さず、左手を差し出した。
「今日は項目を一つ追加する。手のひらを完全に合わせて五分」
私は疑いの目を向けた。
「医療チームの承認は?」
怜司はタブレットをこちらへ押した。確かに昨夜更新された計画書だった。記録項目と中止基準を確認してから、私は彼の手のひらへ自分の手を重ねた。
怜司の指がゆっくり閉じる。手のひら同士がぴたりと重なった瞬間、なぜか心臓が一拍だけ跳ねた。ただの訓練のはずなのに、隙間なく触れ合う感覚が妙に仕事らしくなくて、意識を逸らすため彼の手元を見る。
そこで、薬指に薄い指輪の跡があることに気づいた。
「指輪は?」
怜司の目が少しだけ曇る。
「結婚指輪じゃない」
「そんなこと言ってませんけど」
「顔に書いてある」
どうしてこの人は、こんなところだけ妙に鋭いのだろう。
「妹にもらった指輪だ。サイズが少し大きくて、薬指にしか入らなかった。最近は訓練が多いから外してる」
少し気まずくなった。
「すみません」
「別に」
私は記録へ視線を戻したが、胸の奥ではなぜか少しだけ力が抜けていた。婚約者はいないらしい。
九時半、予定通り神代会の理事会に同行した。これは通常の会議参加ではなく、人の多い環境で一定の距離を保つための医療補助として事前に同席許可を得ており、守秘義務も契約に含まれている。いわゆる「公共環境での適応」は腕を組んで見せびらかすようなものではなく、必要な時だけ、すでに慣れた手への接触を提供するものだった。
会議が始まってしばらくすると、怜司の右手が机の下でわずかにこわばった。モニターを確認し、私は彼の手のそばに自分の手を置く。怜司はほとんど迷わず、こちらの手を握った。
しかも報告を聞きながら、親指で無意識に私の親指の付け根を撫でている。しばらく我慢したが、机の下で彼の靴を軽く踏んだ。振り向いた怜司へ、口の動きだけで伝える。
「仕事」
ようやく大人しくなった。
会議の途中、佐久間が慌ただしく入ってきた。
「神代理事、久世先生がお見えです。法人のコンプライアンス室も一緒です」
怜司は扉を見てから、私を見た。
「相原郁。口喧嘩は得意か?」
一瞬きょとんとする。
「相手によります」
怜司は二秒ほど本気で考えた。
「やっぱりいい。言い負かされそうになったら、泣け」
危うく聞き返すところだった。
「……ここ、理事会ですよね? 舞台じゃないですよね?」
6
扉が開くと、細いフレームの眼鏡をかけた男が入ってきた。久世遼。以前、怜司の治療を担当していた医師で、父親は神代会の常務理事の一人として長年理事会で大きな発言力を持っている。
久世は入ってくるなり、まだ完全には離れていなかった私たちの手を見た。
「神代先生。大学院を出たばかりの新人を接触適応プログラムに入れたと聞きましたが、本当だったんですね」
怜司はすぐには手を離さなかった。
「国家資格は取得済みだ。医療チームが決めた範囲で、補助と記録だけを担当している」
佐久間が契約書と評価資料をコンプライアンス室の職員へ渡す。久世はざっと目を通しただけで、薄く笑った。
「接触適応、ですか。神代、いつからそこまで人を近づけられるようになった?」
どう聞いても感じのいい言い方ではない。
私はさっきの「言い負かされそうになったら泣け」を思い出し、うつむいて顔を覆った。肩もそれらしく震わせてみる。
「私はただ、きちんと仕事をしたいだけです。弟はまだ十二歳で、長期入院と移植の準備だけでも家族の負担は大きいんです。久世先生ほど臨床経験はありませんが、国家資格は持っていますし、医療チームの計画に沿って仕事をしています。問題があるなら具体的に指摘していただければいいのに、新人だからというだけで最初から専門性まで否定されるのは困ります」
会議室がしんと静まり返った。演技に入り込みすぎたのか、本当に目まで潤んできたところで、怜司が低い声で呼ぶ。
「相原郁。もういい」
私は涙目のまま顔を上げた。
「どうしてですか?」
怜司は机の下へ視線を落とした。
「つねってるの、俺の脚だから」
私も下を見る。いつの間にか、もう片方の手で怜司の太ももの外側のスラックスを思い切りつかみ、布にしわが寄るほど握り込んでいた。
なるほど。涙が妙に本物っぽかったのは、痛いのが私じゃなかったからだ。
そっと手を離す。久世遼の顔は、見事なまでに曇っていた。
7
コンプライアンス室は、現在の手続きと契約に大きな問題がないことを確認してほどなく退室した。久世も神代会の職員に呼ばれ、別室へ移っていった。
人がいなくなるなり、怜司は私を自分の執務室へ連れていった。
「さっきの泣き方、誰に教わった?」
ネクタイを緩めながら聞かれ、私は 何も知らないような顔をした。
「泣けって言ったの、神代先生ですよね? しかもちゃんと効いたじゃないですか」
「俺をつねれとは言ってない」
「事故です」
怜司は数秒じっと私を見たが、結局追及せず、水を一杯注いで差し出した。受け取る時、指先が偶然彼の手の甲に触れる。
怜司は反射的に引きかけた手を、途中で止めた。
私は思わず目を見開く。
「今の、急な接触だったのに。完全には避けませんでしたね。進歩してます」
怜司は自分の手を見下ろした。
「お前だから」
思わず固まる。
彼も言い方に気づいたらしく、すぐに付け足した。
「接触の仕方に慣れただけだ」
なるほど、医学的な説明らしい。なのに、なぜか少しだけがっかりした。
私はそのまま久世のことを聞いてみた。
「久世先生のこと、嫌いなんですか?」
「別に」
「二人とも、隙があれば相手をICU送りにしそうな顔してますけど」
怜司は椅子にもたれた。
「久世先生の腕自体は悪くない。以前から治療に関わっていた。ただ、父親が理事会で久世家の影響力を広げたがっている。俺があのチームに依存し続ければ、それだけ俺の状態に関する情報を相手側が持つことになる」
私は彼を見る。
「分かってたんですか?」
「分かってた」
「それでも治療を受けてた?」
怜司は少し考えた。
「腕はいいからな」
私は黙った。金持ちのリスク管理は、やっぱりよく分からない。
翌日、医療従事者向け匿名掲示板にまた新しいスレッドが立った。
【神代会理事、新人作業療法士を理事会でかばう】
写真の中で私は目を真っ赤にして泣いている。机の下で雇い主の太ももをつねっていたことは、もちろん誰にも分からない。
面白がって眺めていたら、突然スマートフォンを取り上げられた。振り向くと怜司が立っている。
「そんなに面白いか?」
「評判をチェックしてただけです」
「暇なのか?」
「今日の予定待ちです」
怜司はスマートフォンを返し、そのまま白衣を羽織った。
「病棟に行く。今日はリハビリ科の合同回診があるから、見学していい」
反射的に聞いてしまう。
「契約に入ってます?」
「一万円上乗せする」
私は即座に立ち上がった。
「行きます、神代先生」
8
怜司について合同回診に参加するのは、なかなか不思議な体験だった。病棟ではかなり威厳があるらしく、若い医師は彼を見ると少し背筋を伸ばし、看護師の報告も気のせいか速くなる。私は記録ボードを抱えてリハビリチームの後ろを歩き、どう見ても小間使いのようだった。
いや、新人なのだから実際そんなものかもしれない。
最後の病室で、高齢の女性患者にそっと袖を引かれた。
「あなた、神代先生の彼女?」
危うく記録ボードを落としかけた。
「違います。私は――」
前を歩いていた怜司が振り返りもせず答えた。
「リハビリプログラムの補助者です」
患者は意味ありげに「まあ」と笑った。その反応のほうが、むしろ嫌な予感しかしない。
病室を出たところで、怜司が急に足を止めた。
「手を出せ」
訳も分からず手のひらを出すと、白衣のポケットからミントキャンディーを一つ取り出し、そこへ置いた。
「ご褒美」
飴と怜司を見比べる。
「これだけ?」
「不満か?」
小声でつぶやいた。
「腹黒御曹司」
怜司の眉が上がる。
「今夜、近接適応を追加する。夜間手当もつける」
なぜか耳が熱くなった。
「神代先生、まともなリハビリを違法な取引みたいに言うのやめてもらえます?」
「勝手に変な想像をしてるのはお前だ」
この人、本当に腹が立つ。
夜、予定どおり特別診察室へ向かった。この日のプログラムには近接適応が追加されていたが、内容は至って真面目だった。同じ治療用ソファに三十センチほど間隔を空けて座り、心拍数と緊張度を見ながら、自然に肩や腕が触れる距離まで少しずつ近づいていく。
私は計画書を確認する。
「どちらかが嫌だと思ったら、いつでも止めていいんですよね?」
「ああ」
それを聞いてから隣に座った。
距離が縮まり、私の肩が軽く彼の腕に触れる。怜司は避けなかった。そのまま記録へ目を落とした瞬間、足元のフットレストが少しずれていて、私はバランスを崩し、反射的に怜司の胸へ手をついた。
ほぼ同時に、怜司の手が私の腰を支えた。けれど一秒ほどで、すぐに離れる。
今度は二人そろって固まった。私の手のひらはまだ彼の胸に触れていて、その下の心臓が強く速く鳴っているのがはっきり分かる。
「心拍数、上がってます」
職業病で、真っ先にモニターを見てしまった。
「気分悪いですか?」
怜司が私を見下ろす。
「自分で分からないのか?」
二秒ほど固まってから顔を上げると、彼の耳まで真っ赤だった。
急に元気が出た。
「神代先生、もしかして照れてます?」
怜司が目を細めた。
「相原郁。これ以上からかったら、今夜の追加手当はなしだ」
私は即座に姿勢を正した。
「何も言ってません」
9
訓練を重ねるうちに、私と怜司の関係はだんだん説明しにくいものになっていった。相変わらず口は悪いし細かいし、仕事中は一言で追加料金を要求したくなるようなことを言う。それなのに、明らかに普通の雇用関係ではない気遣いが少しずつ増えていった。
私がロイヤルミルクティーに紅茶ゼリーを入れるのが好きで、タピオカは苦手だと覚えている。執務室の引き出しには、いつも同じスズランのハンドクリームが入っている。風邪を引いた時など、険しい顔で体温を測ったあと、自分の上着を私の頭から乱暴にかぶせてきた。
「着ろ。お前が寝込んだら訓練に支障が出るし、周りにもうつす」
私は上着を頭から引き下ろした。
「最後の一言、絶対いりませんでしたよね?」
千夏に話したところ、「神代式・素直じゃない気遣い」と命名された。私もその呼び方には大いに納得した。
そんなある日の午後、病院の廊下で久世遼に呼び止められた。
「相原さん、二分だけ話せますか?」
相変わらず物腰は柔らかい。私は距離を取り、警戒したまま答えた。
「神代先生の診療情報の話なら、何もお答えしません」
「緊張しなくていい。ただ、どうして神代先生があなたにだけ触れられるのか、知っておいたほうがいいと思って」
久世は封筒を差し出したが、私は受け取らなかった。すると彼は自分で一枚の古い写真を取り出した。
三年前の交通事故現場だった。血まみれの怜司が地面に膝をつき、若い女性を抱きしめている。
写真を見たまま、私は動けなくなった。写っている女性の顔立ちが、どことなく私に似ている。しかも耳の後ろには、私とほぼ同じ位置に小さなほくろがあるように見えた。
「神代怜花。怜司さんの妹です」
指先が冷えていく。
「何が言いたいんですか?」
久世は眼鏡を軽く押し上げた。
「三年間、私的な接触をほとんど受け入れられなかった人が、あなたが現れた途端に変わった。顔が似ている。ほくろの位置も似ている。それに事故当日の記録も三十六・九度だった」
まっすぐ私を見る。
「相原さん。本当に全部、偶然だと思いますか?」
私は答えられなかった。
久世は静かに最後の一言を落とした。
「あなたは特別なんじゃない」
「ただ、彼の記憶に都合よく重なる人なんです」
10
久世遼は明らかに揺さぶりをかけている。信じるな、と何度も自分に言い聞かせた。それでも一度刺さった疑いは抜けなかった。顔立ち、耳の後ろのほくろ、三十六・九度、そして怜司がずっと使わせていたスズランのハンドクリームまで、全部が急に怪しく見えてくる。
しかも久世は去り際に、怜花がスズランを好んでいたとわざわざ言い残した。
これまでの出来事が頭の中で何度も再生された。初対面で、どうして私の手首をつかんだのか。どうして病院の近くへ引っ越させたのか。どうして肌の状態や体温をあれほど気にして、同じ香りのハンドクリームまで使わせ続けたのか。
私は、自分が少しは特別なのだと思っていた。けれど本当に特別だったのは、とうに亡くなった別の人だったのかもしれない。
帰りにコンビニへ寄り、「お酒が苦手でも飲みやすい」と書かれた小瓶の梅酒を買った。ひと口目で思い切りむせて涙が出たので、広告はどこの国でも全面的に信用してはいけないと学んだ。
マンションへ戻り、ベッドに腰掛けたままスズランのハンドクリームを長いこと見つめていると、スマートフォンが震えた。
【今夜の訓練は中止。臨時の理事会が入った】
【待たなくていい】
以前なら、わざわざ説明してくれたことに少し嬉しくなったかもしれない。今はただ、皮肉にしか見えなかった。
翌日、私はわざと一時間遅れて診察室へ行った。怜司は窓際に立っていて、私を見るなり眉をひそめる。
「説明」
「寝坊です」
「酒を飲んだのか?」
「少しだけ」
肩をすくめ、ハンドクリームを机に置く。
「どうせ私は人間カイロなんでしょう。お酒を飲んだって、そんなに変わらないんじゃないですか?」
怜司の目が一気に冷えた。
「誰に何を言われた?」
「大事ですか?」
私はまっすぐ彼を見る。
「神代先生。妹さん、スズランが好きだったんですよね?」
怜司の瞳孔が明らかに縮んだ。
その反応だけで十分だった。胸の奥が、ゆっくり沈んでいった。
11
診察室に数秒の沈黙が落ちた。先に口を開いたのは怜司だった。
「久世遼に会ったな」
質問ではなかった。
私は彼を見つめ、昨夜から押し込めていた感情をとうとう抑えきれなくなった。
「じゃあ、本当なんですか? 写真も、耳の後ろのほくろも、三十六・九度も、このハンドクリームも。全部どういうことなんですか? この匂いを嗅ぐたびに、妹さんを思い出してるんですか?」
怜司の顔色はどんどん悪くなった。それでもすぐにすべてを説明しようとはしない。
余計に腹が立った。
「せめて否定してくださいよ」
「違うとは言った」
「じゃあ理由を教えてください」
「まだ確認が取れていないことがある。それに今のお前は、何を言ってもまともに聞けない」
怒りを通り越して笑いそうになった。
「分かりました。じゃあ、もっと単純なことを聞きます」
私は机の上の契約書を指した。
「私たちって、結局どういう関係なんですか?」
怜司は長いこと黙っていた。やがて、いつもの冷静で距離のある表情をかぶり直すように答えた。
「雇用関係だ」
胸の中が一瞬で空っぽになった。
「相原郁。俺たちが結んだのは仕事の契約で、交際の約束じゃない」
その一言は、久世に見せられた写真より痛かった。これまでの接触も、曖昧な距離感も、私が勝手に意味を見いだしていた細かな出来事も、全部こちらの思い込みだったのかもしれない。
私は契約書をつかんだ。
「分かりました。仕事なら契約通りにします。今ここで終了を申し出ます。精算は条項どおりでいいので、別の人を探してください」
怜司の表情が初めて変わった。
「今、辞めるのか?」
「はい」
扉を開けて出ようとした時、背後から声がした。
「郁」
彼が私を名字ではなく名前で呼んだのは、初めてだった。
それでも私は振り返らなかった。
12
マンションで荷物をまとめていると、千夏から電話がかかってきた。
「郁、X見た? 久世の周りの誰かが怜花さんの昔の動画を出してて、今みんなあなたのことを……」
「身代わりって言ってる?」
電話の向こうが黙り込む。
私はスーツケースのファスナーを閉め、できるだけ軽い声を出した。
「知ってるよ。もともとお金のために始めた仕事だし、契約金も受け取った。悠真の入院や生活費も少し楽になったし、ここで終わるならちょうどいい」
千夏は何か言いたそうだったが、最後にはため息をついただけだった。
電話を切り、数か月暮らした部屋を最後に見回す。ベッドサイドにはスズランのハンドクリームが残り、まだ薄く香っていた。私はそれをつかみ、そのままごみ箱へ放り込んだ。
タクシーに乗ると、運転手に行き先を聞かれた。口を開いたのに、すぐ答えられない。両親は普段は県外で働いており、父は悠真の生体ドナーになるため何度も病院へ検査に通い、母も病院と家族用宿泊施設の間を行き来している。そこへ大きなスーツケースを抱えて転がり込む気にはなれなかった。
「とりあえず、星澄川沿いを走ってください」
運転手はバックミラー越しに一度こちらを見たが、何も聞かなかった。
スマートフォンはずっと震えていた。全部、怜司からだ。私はとうとう電源を切った。
星澄川の近くまで来た頃には、もう暗くなっていた。車を降り、スーツケースを引きながら川沿いを歩いていると、後ろから名前を呼ばれる。
「相原郁!」
足を止めて振り返り、一瞬、見間違いかと思った。怜司は夜風の中に立っていた。スーツの上着すら着ておらず、白いシャツが風で体に張りつき、髪も乱れ、額には汗まで浮かんでいる。
こんなに余裕のない彼を見たのは初めてだった。
「尾行したんですか?」
「ずっと探してた。どうして電源を切った?」
「私たち、まだ何か関係ありましたっけ?」
背を向けて歩き出す。怜司が追いかけ、反射的に私の手首へ手を伸ばした。
私はさっと避けた。
「触らないで」
怜司の手が空中で止まる。
その一瞬、初めて彼の目に傷ついたような色が見えた。それでも本当に、もう触れてはこなかった。
「悠真の生体肝移植は来週の月曜に決まった。お父さんも生体ドナーとしての最終評価を通った。手術は神代記念総合病院の移植チームが担当する」
声が少し低くなる。
「俺に怒るのは構わない。でも、俺のせいで病院からの連絡まで無視するな」
私は勢いよく振り向いた。
「神代怜司、あなたってお金と病院以外に何ができるんですか?」
一秒だけ沈黙した。
「謝れる」
少し間を置き、さらに言う。
「説明もできる」
怜司は一歩だけ近づいたが、自分から半メートルほど距離を残して止まった。
「郁。今、キスしたい」
頭の中が真っ白になる。
「でも、さっき『触るな』と言われた。だから先に聞く」
まっすぐ見つめられた。
「いいか?」
私は奥歯をかみしめた。
「先に説明してください」
怜司は目を閉じ、短く息を吐いた。
「分かった」
13
怜司はスマートフォンを取り出し、まず事故当日の元画像を見せた。私は言葉を失った。
神代怜花は私にまったく似ていなかった。耳の後ろに同じほくろもない。久世に見せられた写真は加工されており、ネットに出回った動画にも手が加えられていた。事故当日の記録に「三十六・九度」とあったことさえ、後から作られた情報だった。
私はしばらく画面を見つめた。
「ハンドクリームは?」
「怜花は花の匂いが嫌いだった。無香料しか使わない」
「じゃあ、どうして私にスズランを買ったんですか?」
怜司は数秒黙った。
「最初にお前に触れた時、その匂いがした。その後、別の香りに変えた時に落ち着かなかったから、同じものを買い続けただけだ」
心臓が強く一度鳴った。あの香りは、最初から妹のものではなかった。
私の匂いだった。
「久世先生は、どうしてここまでするんですか?」
「父親は、理事会で久世家の影響力をもっと強くしたい。俺は長い間、あの家が関わる治療チームに頼っていたから、向こうは俺の診療情報をかなり握っていた。お前が来てから、その依存が下がり始めた」
「それで『身代わり』の話を作って、私を追い出そうとした?」
「少なくとも理由の一つだろう」
私はじっと彼を見る。
「じゃあ、昼間はどうして説明してくれなかったんですか?」
珍しく怜司が視線を外した。
「診療情報の漏えい、画像や動画の改ざん、不正閲覧や目的外利用について、コンプライアンス室に調べさせていた。証拠が固まる前に、中途半端なことは言いたくなかった」
私は冷たく笑った。
「そのわりに、『ただの雇用関係』とはずいぶん簡単に言えましたよね」
怜司は黙った。
腕を組む。
「続きは? 神代理事、話すの得意なんでしょう?」
長い沈黙のあと、彼は降参したように口を開いた。
「あれは、言い方を間違えた」
それだけで怒りが半分くらい抜けた。でも、一番知りたいことはまだ残っている。
「私が妹さんに似てないなら、どうして私なんですか?」
怜司は私を見た。
「ホテルで初めて見た時、振り返った背中に少しだけ見覚えがある気がした。お前に触れると妙に安心する。それも、昔どこかで同じ感覚を知っていた気がした。最近になって、やっと理由を確認できた」
「いつの話ですか?」
「あとで話す」
夜風が二人の間を抜けていく。しばらくして、怜司がもう一度聞いた。
「今は、触ってもいいか?」
私は意地を張った。
「有料です」
「いい」
「五百万円?」
「調子に乗るな」
思わず笑ってしまった。怜司の表情もようやく緩む。
彼は私の前まで来たが、それでも勝手には距離を詰めなかった。
「じゃあ今、キスしてもいい?」
わざと数秒黙ると、本当に一歩下がろうとする。
「嫌ならやめる」
私は慌てて彼の襟をつかんだ。
「誰が嫌だって言いました?」
次の瞬間、怜司が顔を寄せた。
想像していたより、ずっと軽いキスだった。最初に触れたあと一度止まり、私が避けないことを確かめてから、もう一度近づいてくる。
まだ少し腹が立っていた私は、最後に彼の唇を軽く噛んだ。
怜司が眉を寄せる。
「犬か、お前は」
「慰謝料です」
口元に触れた怜司が、珍しく笑った。
「それなら認める」
14
星澄ベイのマンションへ戻るまで、私たちはほとんど話さなかった。玄関で靴を脱ごうとしたところ、怜司が背後から突然抱きしめてくる。
三秒だけだった。すぐ自分から離れる。
私は振り返った。
「今の、何ですか?」
「テスト」
「仕事の契約、もう終わってますけど」
怜司が分かりやすく固まった。
「じゃあ、練習」
「何の練習?」
冷蔵庫へ向き直ったまま黙り込む。急に日本語を忘れたようだ。
笑いをこらえて追及した。
「何の練習ですか?」
数秒して、ようやく小さな声が返ってきた。
「恋愛」
今度は私が固まる。
「今、何て言いました?」
「何も言ってない」
「聞こえました」
「聞き間違いだ」
笑いそうになった。手術室でも理事会でも久世遼の前でも平然としているくせに、恋愛の話になった途端、耳だけは誰より早く赤くなる。
私はわざと条件を出してみた。
「仕事の契約を結び直すのは別にいいですけど、仕事は仕事、恋愛は恋愛です。今後、急な依頼は料金を上げます。それと、私がやめるって言ったら必ず止めてください」
怜司が目を細める。
「その場で値上げか?」
「妥当な見直しです」
「元の契約にも、いつでも中止できると書いてある」
「それなら問題なし」
怜司が一歩近づき、私の背中が冷蔵庫の扉に触れた。それでも彼は体を押しつけず、手前で止まる。
「じゃあ今は、仕事か。恋愛か」
少し考えた。
「恋愛」
「キスしていい?」
わざと二秒待ってから、最後は頷いた。
今度は川辺の時より少し慣れていた。それでも私が避けないことを確かめてから、初めて手を首の後ろへ添える。
離れたあと、息を整えながら、私は結局一番気になることを口にした。
「それで、時給は上がるんですか?」
怜司が目を閉じた。
「相原郁。金の話になると本当に容赦ないな」
「褒め言葉として受け取ります」
15
翌日、医療従事者向け匿名掲示板は予想通りまた騒ぎになった。
【神代会理事、深夜に謎の女性と星澄ベイのマンションへ】
無断撮影された写真は顔すら判別できないほどぼやけているのに、コメント欄ではすでに何十通りもの物語が作られていた。例の作業療法士だという人もいれば、リハビリプログラムはとっくに別の関係へ変わったという人もいる。しまいには、私が神代家の隠し子ではないかと真面目に分析する書き込みまであった。
最後の説を見たところで、危うくコーヒーを吹き出しかけた。人間の想像力に国境はないらしい。
執務室の扉が開き、怜司が入ってきた。タブレットを目の前へ置く。
「見ろ」
画面には偽造されたチャットのスクリーンショットが表示されていた。私が怜司の治療データを久世遼へ送っていることになっている。
読み終えて顔を上げた。
「私を疑ってます?」
「疑ってない」
「じゃあ、その怖い顔は誰に見せてるんですか?」
怜司は妙に素直に答えた。
「慰めてもらおうと思って」
一瞬、返事に困る。この人は症状が和らぐのと一緒に、厚かましさまで回復しているのではないだろうか。
怜司はタブレットを引き戻した。
「久世による画像やチャットの捏造、診療情報の不正閲覧と目的外利用については、コンプライアンス室が一部を確認した。今は俺の治療から外されている。院内で繰り返されていた無断撮影も含めて、他の問題も調査中だ。しばらく一人で久世に会うな」
私は拳を握った。
「私が殴られるのが心配?」
怜司は私の手を一度見た。
「お前が相手を壊すほうが心配だ。後処理が面倒だからな」
16
悠真の手術を二日後に控えた頃、怜司の母、神代美佐子から突然電話がかかってきた。神代家の顔として経済誌や医療業界誌にもたびたび登場する人で、写真ではいつも表情が厳しく、服装にも隙がない。午後のお茶で砂糖を一粒こぼすことさえなさそうな女性だった。
指定されたのは、星澄グランドホテル。窓際の席には、きれいすぎて絶対にお腹いっぱいにはならない菓子が並び、その向こうに頭のてっぺんから靴の先まで「名家の奥様」という雰囲気の女性が座っていた。
席につくと、美佐子はバッグから封筒を取り出し、私の前へ差し出した。中に入っていたのは、金額欄が空白の小切手だった。
心拍数が一気に上がる。
来た。
今どき本当にあるのか、こんな昭和ドラマみたいな展開。三千万円では安すぎるだろうか、五千万円だと欲張りに見えるだろうか、と本気で考えた末、私は慎重にスマートフォンを取り出した。
美佐子が不思議そうに見る。
「何をなさるの?」
「母に電話します」
電話がつながるなり、すぐに言った。
「お母さん、荷物まとめて。大金を払うから男と別れろって話が来た。うち、ちょっと人生変わるかも」
向かいの美佐子が一瞬で顔色を変え、慌てて私の手を押さえた。
「違います! 相原さん、私は怜司と別れてほしくて来たんじゃありません」
私は訳が分からず顔を上げる。
「じゃあ、この小切手は?」
「私個人からのお礼です」
余計に分からなくなった。
美佐子は一度深く息を吸い、少しだけ表情を和らげた。
「怜司は子どもの頃から、人に突然触れられるのが本当に苦手でした。ひどい時は、母親の私が近づいても反射的に避けてしまうほどです。怜花を亡くしてからは、さらに自分を閉ざしました」
そこで言葉を切る。
「この三年間、あの子が自分から誰かを抱きしめるところなんて、ほとんど見たことがありません。あなたが現れるまでは」
美佐子は小切手をもう一度こちらへ押した。
「これは手切れ金ではありません。これから二人がどうなるかは、あなたと怜司が決めることです。私は母親として、ずっとそばにいてくれたことにお礼を言いたいだけなんです」
私は手を伸ばさなかった。
美佐子は少し迷ったあと、かなり真剣な顔で付け足した。
「もちろん、私個人の希望を言うなら……このままずっと一緒にいてほしいと思っています」
危うく紅茶を吹き出すところだった。
「ずいぶん率直ですね」
彼女は涼しい顔でカップを持ち上げた。
「千夏さんに教わりました。若い人の恋愛は、家族が応援する姿勢を見せたほうがいいそうです」
なるほど。仕掛け人は千夏だったらしい。
結局、私は小切手に金額を書かなかったし、美佐子も無理に受け取らせようとはしなかった。
17
悠真の手術前夜、私は病室前のベンチに一人で座っていた。父は生体ドナーとしての最終評価を終え、ドナー側の病棟へ入院している。母は父と悠真の間を何度も行き来し、ついさっき看護師に休むよう説得されてようやく離れたところだった。
午前三時、怜司がホットココアを一杯持って現れた。
「ほら。コーヒーはやめろ。もう十分不安定だ」
受け取った時、指先が彼の手の甲に触れた。怜司が小さく息を吸ったので、すぐその手をつかむ。関節の近くに新しい傷があった。
「どうしたんですか、これ」
「ガラスで切った」
「久世家と殴り合いでもしたんですか?」
「してない。今日の理事会が少し荒れただけだ。グラスを割ったのも俺じゃない」
傷を消毒しながら聞く。
「久世先生は?」
「関連業務を外されて、調査中だ。父親の内部管理上の問題も、弁護士とコンプライアンス室に回した」
手が一瞬止まる。
「それって、私のために久世家と完全に対立したってことですか?」
怜司はまず、いかにも仕事の話だという顔をした。
「第一に、神代会自身の管理問題だ」
「そうですか」
二秒ほどして、彼はもう一つ付け足した。
「第二に、あいつらはお前を傷つけた」
口元が勝手に緩んだ。
少し静かになってから、ずっと引っかかっていたことをもう一度聞いた。
「神代怜司。どうして私だけ平気なんですか?」
怜司が目を上げる。
「まだ考えてたのか?」
「当たり前です。三年間、他の人に急に触られるのは無理だったのに、初対面の私の手は自分からつかんで離さなかった。普通に考えて変ですよ」
怜司は長いこと黙っていた。
「実は、一つだけ最近になって確認できたことがある」
「何ですか?」
答えかけたその時、病室内のモニターが鋭い警報音を鳴らした。看護師が勢いよく扉を開ける。
「相原さん、悠真くんの状態が急に悪化しました。移植チームが予定していた手術を前倒しします。今すぐ緊急の術前準備に入ります。ドナー側も確認済みで、お父さまの手術準備も同時に前倒しします」
私は反射的に立ち上がった。
悠真はすぐに手術エリアへ運ばれていき、私は入口までついていく。怜司は手術着に着替えず、移植チームにも加わらなかった。ただ家族待機室まで一緒に来て、USBメモリを私の手へ押し込んだ。
「執刀医も移植チームも準備できている。お父さんのほうは別のドナーチームが担当する。俺はこの手術には入らない」
私は彼の袖をつかんだ。
「悠真、大丈夫ですよね?」
怜司は安易に「大丈夫」とは言わなかった。
「どんな手術にもリスクはある。でも、チームはできる準備を全部している」
それからUSBメモリへ視線を落とす。
「少し落ち着いたら、これを見ろ」
「ずっと聞いていた答えが入ってる」
18
悠真の手術は予定より六時間早く始まった。母は父のいるドナー側へ行き、私は悠真のほうに残った。手術室の前に座っていても不安が収まらず、結局家族用の休憩室へ行き、USBメモリをパソコンに差し込んだ。
中にはフォルダが一つだけ入っていた。日付は三年前。
映像を再生する。
激しい雨で道路がにじんで見える。制御を失った車がガードレールへ衝突し、窓ガラスが砕けた。数分後、車体から煙が上がり始め、ドライブレコーダーの端に何人かの人影が映り込む。
そのうちの一人は、作業療法学科の臨床実習で使っていた白い実習着を着た女の子だった。片方の靴を失くし、服はすぐに血で汚れていく。彼女はほかの通行人二人と一緒に変形したドアを開け、車両に火が回る危険があると判断して、運転席の若い男を安全な場所まで移動させた。
女の子は地面に膝をつき、そばの人に119番通報を続けてもらいながら、男の呼吸と意識を確認している。
「聞こえますか? 救急車、もうすぐ来ますから。寝ないでください。聞こえてるなら、手を握ってください」
男からははっきりした反応がない。
それでも女の子は、ずっとその手を握っていた。
「寝ないで。もう少しだけ頑張って」
私の手が震え始めた。
映像に映っているのは、私だった。
三年前、私はまだ星澄医療大学の作業療法学科四年生で、近くの病院へ臨床実習に通っていた。あの日、実習帰りに偶然事故に遭遇し、ほかの通行人と一緒に救助を手伝った。救急隊へ引き継いだあと、病院で簡単な事情説明をしたことまでは覚えている。
ただ、当時は実習と症例のことで毎日頭がいっぱいで、助けた運転手の名前までは覚えていなかった。まさか、その男が神代怜司だったなんて考えもしなかった。
映像の後には、当時の記録も残っていた。
【救助協力者:星澄医療大学 保健医療学部 作業療法学科4年 相原郁】
画面を見つめていると、スマートフォンに事前録音された音声が届いた。送信者は怜司だった。
「ホテルで最初に見た時、すぐにはお前だと分からなかった。ただ、振り返った後ろ姿を見た瞬間、どこかで見た気がした。初めてお前の手首をつかんだ時も、いつもの拒絶反応が出なかった。それで三年前の事故を調べ直した」
声が少し途切れる。
「事故の日、救急隊が来る前に一度だけ短く意識が戻った。顔は見えなかった。ただ、誰かがずっと手を握って、『寝るな』って言ってた」
目の前の画面がにじんだ。
音声は続く。
「だから三十六・九度は、特別な医学上の数字でも何でもない。残っていたのは、あの時の声と、手の握り方と、極度の恐怖の中で体が覚えた安心感だ」
「お前にもう一度触れた時、たぶん頭より先に体がその感覚を思い出した」
最後に数秒の沈黙が入った。
「お前だけに触れられるから、そばに置きたかったんじゃない」
「あの日の人がお前だったと分かって、余計に手放したくなくなった」
声が低くなる。
「郁。俺が好きなのは、お前だ」
口元を手で覆ったが、涙は止められなかった。
三年前、先に彼の手をつかんだのは、私だった。
19
手術は十時間近く続いた。最終的に、父のドナー手術も悠真の移植手術も無事に終わった。移植チームが説明に出てきた瞬間、全身から力が抜け、私はその場に座り込みそうになった。
怜司がすぐに支えてくれた。
何も考えず、そのまま彼に抱きつく。怜司の体は一瞬だけ固くなったが、やがてゆっくり腕が回ってきた。
「ありがとう」
「今回は俺に礼を言うな」
低い声が返ってくる。
「執刀したのは俺じゃない」
私は顔を彼の胸に埋めた。
「そっちじゃないです。ずっといてくれて、ありがとう」
怜司は二秒ほど黙り、それから抱く腕に少しだけ力を込めた。
20
悠真が退院する日、怜司は弟に妙なプレゼントを用意していた。箱の中に入っていたのは、厚手でもこもこのルームウェアと、手首まで覆う長い手袋のセットだった。
私はしばらく箱を見つめた。
「何ですか、これ」
「予備の対策。こいつが家に来て、いきなり飛びついてきても多少はましだ」
悠真は二秒ほど黙り、私を見た。
「姉ちゃん。俺、嫌われてない?」
私は弟の肩を軽く叩いた。
「その感覚、かなり正しい」
横で千夏が笑いすぎて体を折っている。
「お姉ちゃんを好きになっても、弟まで自動的に可愛くなるわけじゃないんだ。神代先生、普段のキャラ崩壊してますよ」
怜司は表情一つ変えなかった。
「追加の付き添いが必要なら、時間単位で予約しろ」
千夏はすぐに箱を抱えた。
「結構です。私たちだけで帰ります」
悠真を連れてさっさと出ていき、病室には私たち二人だけが残った。
私は怜司の胸を指先で軽くつつく。
「神代理事。職員のみなさん、あなたがプライベートだとこんなにくっつきたがるって知ってます?」
「知らない」
怜司は後ろから私を抱きしめた。今度は三秒の制限もなく、顎を私の頭にそっと乗せる。
私はわざと聞いた。
「これ、何のサービスですか? 有料?」
「有料」
「いくら?」
怜司は私の手を取り、その手のひらを自分の胸へ重ねた。
「終身契約」




