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感情を預かる郵便局。

作者: 練色。
掲載日:2026/06/12


雨の降る午後だった。

町外れの小さな郵便局には、今日も誰かが訪れる。


普通の人には見えない郵便局。

本当に困った人だけがたどり着ける場所。

看板にはこう書かれている。

「感情預かります」


私は、ここで働いている。

仕事内容は簡単だ。

人が抱えきれなくなった感情を封筒ごと受け取る。


悲しみ。

怒り。

後悔。

嫉妬。

寂しさ。


どれも捨てられないものばかりだ。

だから、少しだけ預かる。


 ♢♦♢


その日、一人の女性がやって来た。

年齢は三十代くらい。

髪は少し乱れ、目の下には薄い隈があった。

彼女は何も言わず、一通の封筒を差し出した。


ずいぶん重い。

まるで石でも入っているみたいだった。

受領印を押し、棚へしまう。

それだけのはずだった。


 ♢♦♢


夜。

閉店後。


棚から音がした。

コトン。


振り向く。


封筒が床に落ちていた。

昼間の女性のものだった。

拾い上げて棚へ戻す。


するとまた。

コトン。


落ちる。

戻す。

落ちる。

戻す。

落ちる。


♢♦♢


「局長」

奥でお茶を飲んでいた老人を呼ぶ。


「これ、戻しても戻しても落ちてくるんです。

 どういうことですか?」


局長は封筒を見るなり、

「ああ」

と言った。


「帰りたくないんだろうな」


 ♢♦♢


意味が分からなかった。

感情は必ず持ち主のもとへ返る。

それが決まりだ。

なのに。

その封筒は何度戻しても棚から落ちる。

まるで拒否しているように。


感情が戻りたくないって主張を…?


 ♢♦♢


翌朝。

気になって封筒を確認すると、宛名欄が空白になっていた。

昨日までは確かに書いてあったはずなのに。


差出人不明。

返却先不明。


前代未聞だった。


♢♦♢


局長は静かに言った。

「読んでみるか」


本来は禁止されている。

けれど返却先がない以上、例外だった。

私は封を開いた。

中には一枚の紙。

たった一行。


【母親をやめたい日があります。】


それだけだった。


 ♢♦♢


短い文章なのに。

なぜだろう。

胸が苦しくなった。


怒っているようには見えなかった。

子どもが嫌いなわけでもない。

家族を憎んでいるわけでもない。

ただ。


疲れていた。


ずっと。

ずっと。

頑張り続けて。

誰にも言えなくて。

ここに置いていった。

そんな文字だった。


「ひどい母親でしょうか」

紙の裏に小さく続きがあった。


「子どもは大好きです」

「夫も大切です」

「でも時々、一人になりたいです」

「誰にも呼ばれたくないです」

「何も決めたくないです」

「何も期待されたくないです」


最後の行。

文字が少し滲んでいた。


「それでも母親失格でしょうか」


私は何も言えなかった。


 ♢♦♢


局長が窓の外を見る。

雨はまだ降っている。

ぽつりと言った。


「違うな。」


「え?」


「その人は母親をやめたいんじゃない、」


局長は湯飲みを置いた。


「母親であることを、一日だけ休みたいんだ。」


その言葉を聞いた瞬間。

封筒がふわりと軽くなった。


 ♢♦♢


数日後。

郵便局の扉が開く。

あの日の女性だった。

少しだけ顔色がいい。

私は封筒を差し出した。

局長の言葉で、少しだけ軽くなった封筒。


「お返しします。」


彼女は震える手で受け取る。

少しだけ笑った。


「預かってもらえて助かりました。」


「楽になりましたか?」


女性は考えてから答えた。


「少しだけ。」


そして続ける。


「でも、本当は」


「誰かに許してほしかっただけなのかもしれません。」


彼女は帰っていった。

雨は止んでいた。


 ♢♦♢


翌朝。

郵便受けに一通の封筒が届いていた。

差出人はあの女性。

中を開く。

白い紙が一枚。

そこには新しい言葉が書かれていた。


『昨日は少しだけ母親を休みました。

今日はまた頑張れそうです。』


局長はそれを読んで微笑む。

そして静かに判を押した。

返却完了。


郵便局の窓の外では、雨上がりの空がゆっくりと晴れていた。



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