感情を預かる郵便局。
雨の降る午後だった。
町外れの小さな郵便局には、今日も誰かが訪れる。
普通の人には見えない郵便局。
本当に困った人だけがたどり着ける場所。
看板にはこう書かれている。
「感情預かります」
私は、ここで働いている。
仕事内容は簡単だ。
人が抱えきれなくなった感情を封筒ごと受け取る。
悲しみ。
怒り。
後悔。
嫉妬。
寂しさ。
どれも捨てられないものばかりだ。
だから、少しだけ預かる。
♢♦♢
その日、一人の女性がやって来た。
年齢は三十代くらい。
髪は少し乱れ、目の下には薄い隈があった。
彼女は何も言わず、一通の封筒を差し出した。
ずいぶん重い。
まるで石でも入っているみたいだった。
受領印を押し、棚へしまう。
それだけのはずだった。
♢♦♢
夜。
閉店後。
棚から音がした。
コトン。
振り向く。
封筒が床に落ちていた。
昼間の女性のものだった。
拾い上げて棚へ戻す。
するとまた。
コトン。
落ちる。
戻す。
落ちる。
戻す。
落ちる。
♢♦♢
「局長」
奥でお茶を飲んでいた老人を呼ぶ。
「これ、戻しても戻しても落ちてくるんです。
どういうことですか?」
局長は封筒を見るなり、
「ああ」
と言った。
「帰りたくないんだろうな」
♢♦♢
意味が分からなかった。
感情は必ず持ち主のもとへ返る。
それが決まりだ。
なのに。
その封筒は何度戻しても棚から落ちる。
まるで拒否しているように。
感情が戻りたくないって主張を…?
♢♦♢
翌朝。
気になって封筒を確認すると、宛名欄が空白になっていた。
昨日までは確かに書いてあったはずなのに。
差出人不明。
返却先不明。
前代未聞だった。
♢♦♢
局長は静かに言った。
「読んでみるか」
本来は禁止されている。
けれど返却先がない以上、例外だった。
私は封を開いた。
中には一枚の紙。
たった一行。
【母親をやめたい日があります。】
それだけだった。
♢♦♢
短い文章なのに。
なぜだろう。
胸が苦しくなった。
怒っているようには見えなかった。
子どもが嫌いなわけでもない。
家族を憎んでいるわけでもない。
ただ。
疲れていた。
ずっと。
ずっと。
頑張り続けて。
誰にも言えなくて。
ここに置いていった。
そんな文字だった。
「ひどい母親でしょうか」
紙の裏に小さく続きがあった。
「子どもは大好きです」
「夫も大切です」
「でも時々、一人になりたいです」
「誰にも呼ばれたくないです」
「何も決めたくないです」
「何も期待されたくないです」
最後の行。
文字が少し滲んでいた。
「それでも母親失格でしょうか」
私は何も言えなかった。
♢♦♢
局長が窓の外を見る。
雨はまだ降っている。
ぽつりと言った。
「違うな。」
「え?」
「その人は母親をやめたいんじゃない、」
局長は湯飲みを置いた。
「母親であることを、一日だけ休みたいんだ。」
その言葉を聞いた瞬間。
封筒がふわりと軽くなった。
♢♦♢
数日後。
郵便局の扉が開く。
あの日の女性だった。
少しだけ顔色がいい。
私は封筒を差し出した。
局長の言葉で、少しだけ軽くなった封筒。
「お返しします。」
彼女は震える手で受け取る。
少しだけ笑った。
「預かってもらえて助かりました。」
「楽になりましたか?」
女性は考えてから答えた。
「少しだけ。」
そして続ける。
「でも、本当は」
「誰かに許してほしかっただけなのかもしれません。」
彼女は帰っていった。
雨は止んでいた。
♢♦♢
翌朝。
郵便受けに一通の封筒が届いていた。
差出人はあの女性。
中を開く。
白い紙が一枚。
そこには新しい言葉が書かれていた。
『昨日は少しだけ母親を休みました。
今日はまた頑張れそうです。』
局長はそれを読んで微笑む。
そして静かに判を押した。
返却完了。
郵便局の窓の外では、雨上がりの空がゆっくりと晴れていた。




