あなたの子を産みたかっただけなのに。
スマホが震えたのは、深夜二時だった。
画面に表示された名前を見て、私は一瞬だけ躊躇した。
『瑠奈』
夫のスマホに、女の名前。
それだけなら、まだ偶然だと思えたかもしれない。
でも。
『今日も会えて嬉しかった』
『次はいつ泊まれる?』
『赤ちゃん、絶対幸せにしようね』
ロック画面に表示された通知は、偶然では済まなかった。
私──佐倉萌は、その場で手が震えた。
三年付き合って結婚した夫の颯斗は、優しくて、仕事もできて、周囲から羨ましがられるような男だった。
少なくとも、私はそう信じていた。
「……なに、これ」
隣で眠る颯斗は、呑気に寝息を立てている。
私は震える指でスマホを開いた。
ロック番号は、私の誕生日。
皮肉だった。
中には、数え切れないほどのメッセージ。
ホテル。
愛してる。
会いたい。
キスしたい。
子どもの名前どうする?
そして最後に。
『ちゃんと離婚してくれるよね?』
頭が真っ白になった。
呼吸がうまくできない。
胃の奥がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるみたいだった。
「颯斗」
揺さぶると、夫は眠そうに目を開けた。
「……なに?」
「これ、なに?」
スマホを突きつける。
一瞬で、颯斗の顔色が変わった。
「あー……見たんだ」
「見たんだ、じゃないよね?」
「落ち着けって」
「落ち着けるわけないでしょ!」
叫んだ瞬間、涙が溢れた。
颯斗は面倒そうにため息をつく。
「遊びだよ」
「遊びで妊娠させるの?」
「……は?」
「赤ちゃんって書いてある」
颯斗は数秒黙ったあと、舌打ちした。
「あいつ、勝手に言ってるだけ」
「嘘」
「マジで」
でも、私は知っていた。
颯斗は昔から女癖が悪かった。
付き合っていた頃も、何度か怪しいことはあった。
それでも結婚したのは、私だけは違うと思いたかったから。
自分だけは特別だと、信じたかった。
「離婚する?」
私が聞くと、颯斗は即答した。
「するわけないだろ」
「じゃあ、その女は?」
「適当に別れる」
あまりにも軽かった。
人の人生を、なんだと思ってるんだろう。
その時、またスマホが震えた。
『ねえ、病院どうする?』
私はそのメッセージを見つめた。
颯斗は慌ててスマホを奪い取る。
「返して」
「……妊娠、本当なんだ」
「だから違うって!」
「DNA検査すれば?」
その瞬間。
颯斗の表情が固まった。
答えだった。
私は静かに笑った。
「最低」
「萌、聞けって」
「聞きたくない」
涙が止まらなかった。
でも、それ以上に悔しかった。
私は仕事を辞めて、子どもも我慢して、颯斗を支えてきた。
なのに。
夫は別の女を妊娠させていた。
数日後。
私はその女──瑠奈に会った。
23歳。
細くて、ふわふわした可愛い子だった。
喫茶店で向かい合うと、瑠奈は震えながら頭を下げた。
「すみません……」
「妊娠、してるの?」
瑠奈は小さく頷いた。
「颯斗さん、離婚するって……」
私は笑ってしまった。
あの男、本当に同じことを言ってる。
「しないよ」
「え……?」
「離婚する気なんか、最初からない」
瑠奈の顔が真っ白になる。
「でも……愛してるって……」
「全員に言ってるよ」
沈黙。
そして、瑠奈はぽろぽろ泣き始めた。
「私、どうしたら……」
知らない。
そう思った。
でも同時に、この子も被害者なんだと理解してしまった。
颯斗は、こういう女を壊してきたんだ。
期待させて。
依存させて。
捨てる。
その後、颯斗は案の定、瑠奈を切り捨てた。
『勝手に産めば?』
『俺、認知しないから』
LINEを見せられた時、瑠奈は壊れたみたいに泣いていた。
そして一週間後。
彼女はマンションから飛び降りた。
ニュースアプリに表示された速報を見た瞬間、私は吐いた。
亡くなった。
23歳。
妊娠中。
遺書には、颯斗の名前が書かれていた。
『愛してるって言ったのに』
その一文が、ネットに拡散された。
終わった。
颯斗の人生が。
会社には不倫と妊娠トラブルが知れ渡り、左遷。
義両親は土下座。
慰謝料請求。
SNSでは特定。
友人も離れた。
毎日酒を飲んで、壁を殴って、叫んで。
それでも、一度壊した命は戻らない。
「なんで俺ばっか責められるんだよ!」
ある夜、颯斗は泣きながら叫んだ。
「あんたがやったことだろ!」
私は冷たく答えた。
「あんたのせいで2人の命が無くなった」
颯斗は黙った。
目の下には濃い隈。
かつて自信満々だった男は、もういない。
「離婚届、置いとくね」
「……萌」
「さよなら」
私は最後まで、振り返らなかった。
三ヶ月後。
私は小さなカフェで働き始めた。
窓際の席でコーヒーを飲みながら、ふとスマホを見る。
ニュース記事。
『元会社員の男性、自宅で死亡』
酒。
睡眠薬。
孤独死。
名前を見ることはなかった。
見る必要もなかった。
私は静かにスマホを閉じる。
そして、春の光が差し込む窓の外を見た。
もう、涙は出なかった。
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