フリュクティドールのクーデター2
同じころ、イタリアではボナパルトが、モローと同じく王党派のスパイを捕まえていた。
スパイは、王弟プロヴァンス伯の陰謀を証明する書類を運んでいた。
ボナパルトは、モローのようにためらうことはしなかった。
すぐに証拠の書類を、パリの総裁バラスに送った。
バラスは、議会の中で増えつつある王党派に危機感を募らせていた。
彼はボナパルトが送ってきた書類を、最も効果的な時に使った。
ピシュグリュが五百人議会の議長となり、議会で王党派が有利になった時に、彼らを掃討する為に利用したのだ。
王党派とはいえ、正当な選挙で選ばれた議員たちを追い落とすのだ。バラスのやり方は、クーデターそのものだった。
彼は、剣の力を必要とした。
彼が軍の派遣を要請したのはボナパルトだった。
バラスがトゥーロンから目をつけていた彼は、2年前のヴァンデミエールでも、王党派排除に活躍してもらっている。
何かきな臭いものを感じたのだろうか。
イタリアにいたボナパルトは、今回は、自分の代わりにオージュローを差し向けた。
オージュローは、ピシュグリュ他、王党派議員の逮捕弾圧に成功した。
ピシュグリュは、王党派の総裁とともに、遠くギアナへ流された。
南アメリカの気候の違う風土は、ともすると囚人にとって、致命的となりうる。
ギアナ流刑は、だから緩慢な死刑といえた。
◇
そうとは知らないモローは、限界を感じていた。
かつての上官は裏切りたくない。
けれど、それは祖国への裏切りになるのではないか。ライン軍の総司令官だったピシュグリュと亡命貴族軍、そしてオーストリア軍との密通を知りながら口を噤んでいるのは。
当時ライン軍は、東の国境を拡大しようとしていた。オーストリア軍の支配を受ける地域を解放する為に戦っていた。
ピシュグリュを裏切りたくははないが、ライン軍の総司令官だった彼の裏切りは、祖国にとって、許しがたいものといえる。
ためらった末、モローは、総裁の一人であるバルテルミーに報告することにした。
バルテルミーは王党派の総裁だ。彼なら、ピシュグリュにいいように、穏便に取り計らってくれるに違いない。
「……ピシュグリュ将軍は、私の恩人とも呼ぶべき人です。ですから、総裁にご報告申し上げるには、ためらいがありました。なお、この秘密は、ドゼ将軍、レイニエ将軍、及び軍の秘密部門を担当する将校にしか、打ち明けていません」
生真面目なモローは、サン=シルの名前は記さなかった。関わりたくないという意志を、彼がはっきりと表明したからだ。
一方で、政府への忠誠の証として、ドゼとレイニエの名は記した。
ピシュグリュの秘密を知ったからといっても、自分たちに非はない。
名前を出しても平気だろうと判断した。
モローがバルテルミーに手紙を書いたのは、まさにオージュローによるフリュクティドールのクーデター前日だった。
バルテルミーは王党派寄りの総裁で、バラスの排斥の対象だった。彼はピシュグリュと共に、オージュローに逮捕されている。
クーデターの前に、ピシュグリュの裏切りを告発する手紙を書き送ったのだというモローの主張は、受け容れられなかった。
彼は、前任者ピシュグリュの罪を知りながら隠匿した罪で、ライン・モーゼル軍総司令官の職を解かれた。
あおりを食らって、ドゼとレイニエも軍を追われた。
しかし、ドゼはすぐに復職した。
亡命貴族クランジャン将軍の有蓋馬車が捕獲された当時、彼は太腿を狙撃されて戦場を離脱していた。そのため、無実とみなされたのだろう。
ドゼはモローの後任の地位につけられたが、すぐにボナパルトの対英軍に組み入れられた。
ドゼは、失職中のレイニエをボナパルトに紹介し、そろってエジプト遠征に赴くことになった。
モローは、有能な二人の部下を、その信頼を失った。
◇
ボナパルトの遠征隊が出発してすぐ、束の間の平和は終わった。
イギリスが中心となって、再びフランスに対する大同盟が組まれた[第2回対仏大同盟]。
熟練の将軍が必要となった。モローはイタリア軍の総司令官に着任、軍に復帰した。
ボナパルトのスパイ捕獲について
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モローのスパイ捕獲について
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