レイニエの軽口2
クレベールは、ライン河方面のサンブル=エ=ムーズ軍にいた。レイニエやデルマが所属していたライン・モーゼル軍とは、連携を取り合って戦っていた。いわば、戦友だ。
クレベールは、エジプト遠征で初めてボナパルトの下に入った。
ボナパルトにとって、16歳年長のクレベールは、言いたいことを臆面もなく言う、煙たい存在だった。
だが、一端戦闘になるや、その実力は確かで、実のところ頼りになる存在だった。
それで、エジプトを離れるに当たり、彼に遠征軍の総指揮を委ねた。
なにしろ、軍に内緒で帰国するのだ、クレベールの反論と拒絶を恐れ、口頭で申し渡すことはせず、手紙に書き残した。
当時、トルコとの間で戦況は膠着していた。その上、イギリスの経済封鎖のおかげで本国から物資も届かず、武器弾薬を始めとするありとあらゆるものの不足に悩んでいた。
案の定、ボナパルトからの手紙(その時には既に、彼はエジプトを離れていた)を受け取ったクレベールは激怒した。
……「ボナパルトは俺に、クソの詰まったズボンを残していきやがった!」
このままエジプトにいても、いずれ行き詰まる。そう判断したクレベールは、即座に軍を帰国させるべく、イギリス海軍に、トルコとの仲裁を頼んだ。
中立の場としてのイギリス戦艦の上で、クレベールの遠征軍はトルコと講和を結び、軍は帰国の準備に入った。
しかし、トルコはすぐに講和条約を破り、戦闘準備を始めた。
イギリスも再び、海上封鎖を固めた。
ただ、講和の仲立ちをしてくれたイギリスの代将が、トルコが奇襲の準備をしていると警告してくれた。
知らせが間に合い、ヘリオポリスでクレベールはトルコ軍を撃退した。
ヘリオポリスの戦い
「眠れる獅子が目覚めた」
レイニエが引用する。
「知らせを聞いた皇帝は、そんな風にクレベールを褒めたそうだ。ヘリオポリスの戦いで目覚ましい活躍をしたのは、主として、上エジプトから引き揚げてきた連中だった。ドゼの部下達だ」
「そうだったのか」
「トルコ軍に勝利してすぐ、クレベールはトルコの神学生に刺殺された。我らが皇帝がエジプトに残っていたら、殺されるのは彼の役目だったろう。クレベールは皇帝の代わりに死んだのだ」
苦い物でも吐き出すかのようだった。
「本国からの補給もないままで、いつまでも砂漠のど真ん中に留まっていられるわけがない。将校から一般の兵士に至るまで、遠征軍の大半がクレベールに賛成だった。撤退反対派は、ムヌー、デスタンを含むごく一部に過ぎなかった。なにしろムヌーは、現地の女を嫁に貰っていたからな。象形文字を刻んだ、なんとかいう大きな石も大事に隠し持っていたし。あれは、金になるそうだ。イギリスの指揮官が欲しがっていた。そんなムヌーが、クレベールの後任になるなんてな」
「他の有能な将校がみんな死んじまったからだろ?」
大方そんなことだろうと思い、デルマが尋ねると、レイニエは頷いた。
「その通りだ。シリア遠征で、俺たちは地獄を見た。カファレリもボンも、アッコで死んだ。クレベールの副官もな」
「ロシア遠征と同じだ。ボナパルトは全く変わっていない。進歩というものがない」
レイニエは肩を竦めただけだった。
「エジプトでは、亡くなったクレベールを擁護して、俺はムヌーと激しくやり合った。デスタンはムヌーの意を迎える為に、武装した一団を率いて俺の自宅まで乗り込んできたもんだ」
「それで、帰国してから決闘を申し込んだのか?」
「まあな。デスタンの野郎、俺が出版した本をけちょんけちょんにけなしやがって。ムヌーの政策の誤りを指摘し、クレベールを擁護した書籍を、帰国早々に俺は上梓したのだ」
「第一執政になったばかりのボナパルトは、遠征軍の帰国に反対だったのを、君は知らなかったのか?」
「知っていたさ。なにしろクレベールは、一刻も早く国へ帰って、軍に内緒で持ち場を放棄し戦場離脱した前総司令官を訴えてやると息巻いていたからな」
くすりとレイニエは笑った。すぐに真顔になった。
「第一執政……皇帝は、とっくに帰国していて、トルコが講和条約を破ったこともイギリスが裏切ったこともご存じなかった。この件に関し、彼に何か言う資格はないと、当時も今も、俺は考えている」
最後の一言は、骨の髄まで響くほどの冷たい声だった。
「だが、デスタンを殺すことはなかったろう? そもそもボナパルトは決闘を禁じているんだぞ」
「仕方ないだろう? 弾が当たっちまったんだから。撃たれた場所が悪かったのさ。デスタンは運の悪い野郎だ」
結果、レイニエはパリから追放された。
「君は……君は知っていたのか?」
デルマは口籠った。
彼は腰に大怪我を負っていて、ここは、ロシア軍の野戦病院だ。今聞いておかなければ、この先、聞く機会はないかもしれない。
思い切って続けた。
「君がデスタンと決闘する少し前、この俺も、あいつと決闘していたことを」
ヘリオポリスの戦い
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-219.html




