1 架空の悪魔。
「ぅわぁあああああああああ!!」
『あら壊れちゃった』
彼女は、全くヤル気の無い魂に取り憑いた悪魔。
悪魔とは、必ず身分を明かすモノ。
けれど例外が有る。
取り憑く。
そうする事で、悪魔としての正体を隠す事が出来る。
「楽しいですか」
『ええ、とっても』
この悪魔は、ソロモン72柱には列席していない悪魔。
繋ぎ、奪う悪魔。
「そうですか」
この悪魔と会話をする魂の以前の名は、〇〇 ✕✕。
生き直す機会を得ながらも、生きる事を諦めた者。
『ふふふ、早く写真が開発されて欲しいわ。あの顔を並べるの、ふふふ』
さて、悪魔とは、誰にとっての悪魔。
なのでしょうか。
《コレが政略結婚だと、分かってらっしゃるわよね》
「はい」
僕は婿にと、高位貴族の彼女と結婚した。
だが、求められたのは子種だけだった。
夜伽の5日前から、やっとマトモな食事と待遇を得られるが。
夜伽が終わると、再び粗末な扱いを受ける事になる。
残り物の冷えた食事。
入浴も着替えも無く、リネンすら替えて貰う事は無い。
そして共に食事をする事も、会話も、贈り物すら無い。
僕は単なる種馬。
貴族の血と、子種だけを求められている。
そして今月も、その夜伽の日が来た。
だが、外が騒がしい。
「一体」
『奥様がお倒れになったんです、夜伽は中止となりました』
「なんだって」
それから暫くして静かになったが。
不意に、彼女が現れた。
《ごめんなさい、私が間違っていたわ。コレからちゃんと、アナタを愛するわ》
得体の知れない何かに見えた。
思わず僕は後退り、胃液を吐き出した。
彼女の事は、殆ど知らない。
あの暗闇での感触と、幾度か顔を合わせた程度。
けれど、間違い無く彼女は、こんな事は言わない。
こんな事を言う筈が無い。
その異物感から、僕は嘔吐してしまった。
異物なる何かに、彼女が見えてしまった。
『ほらね、奥様、アナタはコレだけ虐げていたも同然。さ、気が済んだでしょう、お休みになられて下さい』
《ごめんなさい、でも本当に》
『さ、もっと吐かせては可哀想です、今日はもうお休み下さい』
何かの間違いだと思った。
《ごめんなさい、私の愛しい人》
一時の気の迷いかと思ったが、彼女は以降も、そのままだった。
『奥様がご用件が有るそうですが』
「用件は」
『直接、お話されたいそうで』
何なんだ。
何だったんだ、今までは。
僕がどんなに苦しもうとも、何もしなかった彼女が、急に掌を返したのは一体。
そうか、とうとう醜聞が漏れそうになっての事か。
それだけ、か。
「分かった」
覚悟して部屋に招き入れたが、あの香水を嗅ぐだけで嘔吐感がこみ上げる。
《あの》
『窓を、お開けしましょうか』
「あぁ、頼む。すまないが、その香水はもう止めてくれないか、吐き気がするんだ」
《ごめんなさい、もう付けないわ》
しおらしくされればされる程、吐き気がする。
外からの風が無ければ、直ぐにも吐いていた所だ。
「それで、次の夜伽の事だろうか」
《違うの、改めさせて欲しいの、今後の生活について》
何を今更。
「最低限の生活の保障で構わない」
《ごめんなさい、でもどうか償いと思って欲しいの、お願い》
そこまで醜聞が広まっているのか。
「分かりました」
《ありがとう、愛しているわ、アナタ》
寒気と同時に鳥肌が立った。
今までは、寧ろ彼女を嫌ってはいなかった。
望まぬ結婚はお互い様、世継ぎの為に夜伽をしなければならない、その貴族の責務を分かっていたからだ。
そして、家族の中で余っていた僕と婚姻を果たした。
それだけ。
僕らには芽生える何かすら無い。
なのに、何なんだ。
「償いは受け取ります、ですが、ソレは止めて頂けませんか」
《ソレ、とは》
「愛だの何だのです、醜聞を収めるお手伝いは致しますから、その気色悪い演技はお止め下さい」
悲しみの表情を浮かべられるだけで、憤りが湧く。
今まで感情を表に出さなかった彼女の表情、それを見るだけで吐き気を催す。
《気色が、悪い》
「はい、逆のお立場なら、どう思われますか。夜伽だけ、それ以外は粗末にされていた、使用人にすらです。なのに急に愛していると言われ、誰が喜んで受け入れるとでも、バカにするのもいい加減にして頂きたい」
《アナタは、実は優しい方だと》
「一体、何の事か。使用人の態度に文句を言わない事ですか、それとも今までの仕打ちを堪えていたからか、逆らわなかったからか。あぁ、社交に僕が必要になりましたか」
《違うの、もしアナタに帳簿を任せても》
「種馬だけでは困る様になりましたか、良いですよ、但しソレだけは本当に止めて下さい。このままでは種馬としても機能しなくなるでしょう」
《ごめんなさい》
「いつまで続ける気ですか、このままだと本当に。それが狙いですか、ならさっさと離縁して下さい」
《ごめんなさい、違うの、本当にごめんなさい》
そうか、熱で頭がおかしくなったのか。
そして補佐が必要となった。
成程。
「分かりました、ではどうすれば宜しいですか」
《私の、愛を》
「はいはい、分かりました、何をすれば宜しいんですか」
『奥様、また機会を改めてみては。例え改心なさったとしても、それらを押し付ける行為は、愛では無いかと』
《分かったわ、ごめんなさい》
『では、失礼させて頂きます』
アレ以来、待遇は改善され、贈り物も届けられる様になった。
けれど、添えられた手紙を読みたくないが為に、全て拒否した。
そうして結局は会う事も、帳簿も任される事も無く。
夜伽だけの関わりとなった。
けれど以前とは違い、向こうが素面なせいか。
酒と時間が掛かる様になった。
《ごめんなさい》
「いえ、コチラの不出来でご負担をお掛けし、大変申し訳御座いません。いつでも離縁を受け入れますので、どうぞお好きになさって下さい」
そして夜伽は無くなり。
僕は離縁される事となった。
《本当に、ごめんなさい》
「いえ、ココでの事は一切漏らしませんのでご心配無く、では」
彼女は、最後まで悲しそうな顔をしていたが。
一体、何がしたかったのか、結局は分からないままだった。
『アナタと同じく、本当に愛してらっしゃっただけ、なのですけどね』
今回も、非常に不愉快な結末に終わった。
「ぅわぁあああああああああ!!」
男は門を通り過ぎ、以前の記憶を取り戻したと同時に、絶叫した。
今までの行いを後悔し、打ちひしがれ、絶望した。
『あら、直ぐには壊れないのね』
「違う、僕は」
『貴族らしい彼女を、従順だった彼女を、以前のアナタは手酷く扱った』
「違う、違う、こんなのは」
『逆の立場では愛せない、でも彼女は愛してくれるから、今は愛しているのかしら?』
「違う!!」
『あら、じゃあ何処を、愛しているのかしら?』
「それは、それは。彼女は、優し」
『人として最低限、当たり前の対応をしていた、だけ。それがアナタの言う、優しさ、なのね』
「違う、違う、違うんだ」
逆の立場になり、男は愛を拒絶した。
だが以前は、女は受け入れた。
当たり前だ、帰る家が有るのと無いのとでは違う。
男と女では、何もかも違うのだから。
『受け入れるしか、彼女に道は無かった。その妥協の産物に情愛が混じったからと言って、本当に愛になるのだろうか』
しまった。
また、やられた。
「なら、一体」
『さぁ、アナタが愛だと言うのなら愛なのでしょうね、アナタの中では』
そうして男は膝から崩れ落ち、壊れた。
いや、最初から壊れてはいたけれど、もう動かなくなってしまった。
《あら、この方は一体》
『気になさらないで、きっと失恋してしまったのでしょう』
《お可哀想に》
『それは、どうかしらね、昨今の破談理由の殆どは自業自得ですもの』
《まぁ、そうなんですね》
『ですから、可哀想な方に手を差し伸べてはいけませんよ、吸い付くされ利用し尽くされてしまいますから』
《はい、気を付けます》
『では、さようなら、どうぞお元気で』
《あ、アナタは。私、どうしてココに》
「お嬢様、どうなさいましたか?」
《いえ、何でも無いわ》
「あら、また捨てられ令息ですか、何処かに捨ててきましょうね」
《そうね、お願いね》
私の中に居る悪魔の名は。
ラプラスの悪魔。
彼、若しくは彼女は。
演算、シミュレートが好きだ。
そして何より、実践する事を好む。
『そうなの、だって未来は不確定だもの、ふふふ』
人が新しく生み出した悪魔。
こんな悪魔に、私は身を委ねている。
もう、私にやり直す気力は無い、なのに機会を得てしまった。
惰性から手放そうとした。
この体を、この命を。
コレは、有効活用したいから貸してくれ、と言った。
私はもう、どうでも良かったので貸した。
だが、それが失敗だった。
悪魔貴族は、基本的には人に害を成さないが。
コレは別だ。
私に不愉快ばかりを与える。
しかも、それが楽しいらしい。
実に不愉快だけれど。
どうするつもりも無い。
本当に、どうでも良い。
人は所詮、こんなものなのだから。