Irreplaceable Heat
走った。とにかく走った。
信じられないという気持ちで、その目で実際に確認するまでは納得なんてできないで、ひたすら走った。
ショッピングモールを過ぎて、駅前を通って、その先にある馴染みのある一軒家を目指してただただただ走った。
子供の頃からよく行った2階建ての白いな家。母親が再婚して、カナがやってきたあの家。
2階には大きな部屋があって、それを姉兄弟で分けていて。
入って最初のが永次さんの部屋で、1つ目のカーテンを隔てて永歌さんの部屋、そのさらに奥にカナの部屋になっていて…。
仕分けがカーテンじゃプライバシーなんてないよねぇ、なんてカナがそんな事を言っていた。
浴室がやたらと大きいのは父親のこだわりで、水草の映えるリビングの大水槽に泳ぐ熱帯魚は母親の趣味で!
人様の家というにはあまりに愛着のある家なのだ。
…やっと、そんな家の前にやってきた。
「ぁ…はぁっ、あぁ…ぅあ、はっ!…ぁぐ」
息が切れ切れになって胸が痛い。一気に走りきったせいで、体が酸素を求めて膝が震えている。
いや、確認するのが怖いからか。
入らなければいけないと思っているのに、恐怖で足が上がらない。その一歩を踏み出してしまえばもう後戻りはできない…から。
後悔するかもしれないから。目の当たりにしてしまうかもしれないから。だから、だから怖い。
「くっそ……ぉ!」
何も考えるな。そう言い聞かせて、勢いでインターホンを鳴らす。
一度鳴らして、返事を待つ。
もしこれで出てくれたら。何もない様に顔を出してくれたら。
でも、だったらケータイにだって出るはずで。
駄目だ、考えるな。そんな最悪は予想するな!
汗で滑る指に構わず焦りのままに連打。もう、そんなのは祈りに過ぎなかった。
誰かが出てくるまで、何かが起こるまで待ち続けるための停止動作。
呼び鈴を押し続ける指をどうしても止めれない。
馴染み深いはずの電子音が壊れたように鳴り続ける。0.1秒間をリピートする動画のような有様だ。
それでも止めるができない。できないできない、できないできないできないできでできないでき――――
「いや、いやいや…幾らなんでも連打しすぎでしょ、こーちゃん」
ドアが少し開いて、その隙間から、何でもないようにカナが顔を出していた。
……こーちゃんと呼んでくれた。
カナの家のリビング。テーブルを挟んで向かい合う形で2人は座っている。
静寂と篭った空気の作り出す閉鎖的な、遮光的な空間。外界から自分の身を守れる壁がある事がこれほど安心するものだとは思わなかった。
あぁいや、ほっとしたのだろう。ここはあそこと違っていつも通りで、非日常的な一切が隔絶されているから。やっと慣れ親しんだ所に帰ってきたと実感できた故に。
とりあえずと出された麦茶を3杯ほどおかわりして、やっと俺は落ち着いた。
最初にどうしてケータイに出なかったのか訊いたところ、熟睡していてまるで気づかなかったという。呼び鈴でさっき目が覚めたらしい。
ホントに、心臓に悪い。けど…よかった。
カナが生きていた事で幾分か冷静を取り戻した俺は事情と経緯を話し始めた。
約束でよーすけの所へ行った事。ドアが開いていて中に入るとよーすけが死んでいた事。その有様がホントに酷かった事。それで、カナの事が心配になってここまで来た事…。
「…やっぱ俺の見間違い、とか?」
ここまで来て未だ信じられなかった。あれは白昼夢か何かだったんじゃないかと、今だったら思えてくる。
「うーん、幾ら何でもそんなの見間違いようがないよ。僕は見てないから何とも言えないけどさ、そこまで細部まで見たんならちょっとねぇ…、何と見間違えるのさ」
「幻覚は?ないモノが見えたっていうのならなくはないんじゃ…?」
「あのね、こーちゃん。幻覚なんてそう簡単に見えるものじゃないんだよ。2、3日一睡もしてないとか、幻覚作用のある薬物でも摂取しないとちょっと考えられない」
断定形で強い口調でカナは俺の儚い希望を切り捨てた。
けれど、これほど心強い奴もいない。俺の話を聞いて目を見開いて驚いたものの、しっかりと落ち着いて俺に道を示してくれる。
「別に強いストレスを感じてたわけでも、大麻とか覚醒剤とかやってるわけでもないんなら、残念だけど、やっぱり陽介君は死んでるっていうのは間違いないよ」
「……そうだな」
「問題はどう考えても殺されてるって所だけど……動機は…怨恨の線でいくと彼女か、あるいは仲の良くないっていう姉かな?」
「他にも考えようによっては幾らでもいるさ」
「そりゃあね。まぁ、でも別にそんなのは今重要じゃないよ。僕達のやれることなんて決まってるんだから」
「え?何かできることがあるのか!?」
予想外の台詞に思わずテーブルに乗り出し、
「うん。一一〇番すればいい」
「…………」
再びソファに腰を下ろした。
拍子抜け、というか俺の頭からは完全に抜けていた選択肢だ。
「そんなのに意味あるのかよ!」
期待外れの一言に声を荒げてしまう。カナが悪いわけではないと分かっているのだけど、この非常時に平凡極まりないその意見にどうしても反発せずにはいられなかった。
そんな醜い俺にカナはどこまでも落ち着いている。
「あのね、こーちゃん、逆に警察に通報しないのにメリットってあるの?」
「そ、それは…」
麦茶を口に含み、諭すように話し始める。
「陽介君が本当に殺されたっていうのならいずれその死体は誰かが見つける。それに現場で吐いちゃったんでしょ?交友関係から探りを入れられればこーちゃんがそこに居た事ぐらい分かるよ。何かを隠してるなんて勘繰られたくなかったらやめた方がいいね。
だいたい、死体が見つかるまでのごく僅かな猶予の間に何かができるような取っ掛かりが、僕達にはないんだよ」
痛い言葉だ。当然すぎて正しすぎる。反論の余地もなくその通りだった。
「疑われちゃったら警察から何の情報も得られなくなるよ、こーちゃん。今できる最善は被害者の死を悲哀している友人であるコト、なんだから」
「……分かったよ」
「じゃあ、僕がしてくるからちょっと待ってて」
自分が提案したのと、俺では警察相手に落ち着いた対応ができそうにないのとを考慮してかそう言って、カナはリビングから出て行った。ケータイを取りに行ったのだろう。
固定電話ならリビングにありそうなものなのだが、父親が週末に何回も掛かってくる彼の母親からの細かい心配の電話にぶち切れて叩き潰してしまったらしい。通話相手が表示できない電話の起こした悲劇だったとか。電話にとっての悲劇だなんて、そんなくだらない事を言った覚えがある。とにかくそれ以来、固定電話が家からなくなり、各々ケータイを使っている。
俺のケータイを貸せばよかった、そう思いながらソファに沈み込む。何もかもカナにやってもらっている今の俺というのはかなりヘタレに見えていることだろう。
「はぁ……」
自然に溜め息が出てしまう。何もしないというのも苦痛なので、周りを忙しなく見回してみた。
水音を響かせる水槽の中にはコバルト色をした熱帯魚が泳ぎ、壁に掛けられたホワイトボードには今日の昼食メニューが書かれていた。手元を見ればコップの表面で結露した水がテーブルを濡らしている。
見慣れたリビング、のはずなのに少し暗いし息苦しい。
あの悪夢みたいな場所から逃げ果せたというのにまだ何か正体不明の不安にどこか心がざわめいている。きっと非現実的な状況からの脱出を、未だに信じられないのだろう。ついさっきまで、カナも死んでしまったのだと気が気でなかったのだし。
「あぁ、カーテンが閉まってるからか…」
ふと気づいてガラス戸のある方に目を向ければ、早朝でもないこの時間に草色のカーテンは閉まったままだった。確認するとリビング自体明かりが点いていない。
心象ではなくホントに部屋が暗かったらしい。しかし…暗いのは落ち着かないな。
電気を使うのも悪いので空気を入れ替えるついでにカーテンを開けてしまおう。
一度はぐったりと体重を預けたソファから起き上がってフラフラしながらも歩を進める。勢いよくカーテンをスライド。
シャッという子気味いい音と共に、
血の、血のこびり付いていたガラスが現れた。
ビチリと、叩きつけるように飛沫が張り付いた様な、血跡・・・血痕。
「ぁ…ぁぅうぁ……?」
声が意味を成さない。
ここはどこだ?カナの家だ。よーすけの死んでいた非現実的な、悪夢的なあの場所じゃない。ないはずなのに、悪夢から覚めれない。醒めれて、ない。
そこにきて、やっと麻痺していた思考が正常に動き出す。
何で、気づかなかった。おか、しい。おかしいじゃないか。
俺はこの朝っぱらから、他人様の家に上がり込んでいるというのに、母親の静菜さんにも父親の永助さんにも永歌さんにも永次さんにも顔を合わせていない。
カナが寝ていたというなら、なおさらインターホンを連打している不届き者の姿を確認しにくるのは、他の誰かである可能性が高いはずなのに、だ。
今、今現在、この家に人気らしい人気は一切ない。静寂がただひたすら空気を沈殿させている。
昨日カナは、永歌さんと帰っていって、週末には永次さんもいるのだと、言っていたのだ。
午前9時過ぎ、久しぶりに集まった家族全員の休日に、カナだけが家にいる。なんて事がある、のか…?
いや、いやいやいや!そんな可能性は、そんな希望はあり得ない。
おい幸平、しっかりしろ。前を見ろ、ちゃんと認識しろ。お前の目に映っているのはガラスに飛び散るほどの血飛沫の跡、なんだぞ!
篭った臭いが、また鼻を掠めた。
ああ、何て事だろう。何が慣れ親しんできた場所、だ。
こんな、こんなにも非現実が染み渡って臭っていたんじゃないか…。
篭ったような鈍く重い臭い。錆びた、鉄の臭い。
…血の臭い。
バッと振り返って、ある場所を確認しに駆ける。
リビングの一角を切り取るように、襖で囲われた和室と呼ばれる空間。今は閉まっている、畳敷きの部屋。
あるなら、あるとするなら、ここ以外ない…っ。
「………………………」
異常すぎて、声すらでない。ここに死体が、惨状があると予測してのにも関わらず、ショックで心身共に痙攣してしまっている。
ポタリと血の雫が染み込むことすらできなくなった畳上の血溜まりに落ちた。
和風らしく和紙風のプラスチックに囲まれた釣り電灯の紐に、女性の首が、括りつけてある。それは多分静菜さんのものだ。
髪と紐を括ってぶら下げて、無様に晒した顔に表情はない。
目もなく鼻もなく、耳もなく、顎も当然なく、頬もなく、顔のさらに上半分だけと形容した方がいいような有様のモノ。
下がない故に上の歯を露出している姿はもはや仮面や何かなのだと思いたいほどに、ヒトではなかった。
そしてその他のパーツは床に転がされてある。散らかされて、ある。
眼球がもがれた下あごの上に、露出した舌の上に乗せられてちゃぶ台に乗せてある。切断された両手は右手と左手で無理やり握手を交わすようにお互いに掴み合っている。足2本は×を描いて、残った胴体は捻られている。
卒なく何でもこなせて、卒なく人体を解体できて、
卒なく人も殺せる…?
こんな場所の隣で、薄い襖で仕切られただけのその隣で、平然としていられる人物なんて、もはや疑いようもなく、希望する余地もなく、切望を許されるはずもなく――――、
ガバリ。と後から枝垂れかかるようにして、顎が肩に乗っけられた。
密接した肩越しにこそばゆい振動と甘い吐息を感じる。
「駄目だよ、こーちゃん。勝手知ったる他人の家とはいえ……誰だって見られたくないモノがあるんだから」
たっぷりと皮肉を含んだ、酷く冷たい、声。
「ああァああぁあアあああァぁああああ!!」
もうそんな台詞すら聞いている余裕などなく、俺は振り向きざま腕を振るう。
しかし、
――バギリ
「おぉおうぅぅぐっ」
振り向いた瞬間、右側に恐ろしい激痛が走った。
左に吹っ飛ばされながら一瞬見えたのは、金属バッドを持ったカナの姿。
当たり前だった。リビングを出た理由なんてこれ以上もないほどに分かりきっていた。
痛がっている暇などない、そんな行為は死ぬに等しい。
無理やり起き上がって走る。リビングを出て廊下の先、悪夢からの出口、玄関へ。
右腕が二の腕のところでブラリと揺れて、右胸部が刺すように痛い。
腕は完全に折れているらしかった。もしかしたら、肋骨もイってしまってるかもしれない。
けれど、まだ俺は生きている。生きていれば傷は治る、治るのだ。
だから逃げなくてはいけない。逃げて逃げきって、生きなければいけない。
「――――ぁ?」
ひたすら前に見える玄関のドアに向けていた視界に、何かが映る。
赤黒い、何か。
ボトンと床に落ちて跳ねたソレは、さっきぶら下げてあった首だった。
「ひぁああああああ!!」
生首と目が合った。
目なんてないのに、口すらないのに、目が合った。
それだけで、もうその先に進む事なんてできなくなってしまう。
無理だ。無理なのだ。これを跨いで進むなんて事は、どうしてもできない…!
咄嗟に振り向くと既に廊下はカナが塞いでいた。逃げる場所は、階段しかない。廊下の途中に備え付けられている木製の階段だ。
2歩分引き返して、カナが来る前に段差に足をつける。死に物狂いで駆け上った。
横目にカナが上ってくるのが見える。追い詰めるように、こんな抵抗は無駄だとばかりに、ゆっくりと上ってくる。
息を切らして上った2階には部屋が2つしかない。父親である永助さんの書斎と、カナ達が使っている子供3人の大部屋。
迷わず大部屋に逃げ込んで、鍵のついていないドアの取っ手を左手だけで全力で抑えた。
「っはぁ…はぁあっんぐ…!」
口内に溜まっていた唾を飲み込んで、無理やり息を整える。
かつて3人で使っていたとはいえ、入り口は1つだけのこの部屋なら、このドアを突破されない限り部屋に侵入されることはない。万が一入られても広い部屋なら逃げ回りやすい、はずだ。
問題は…問題はここからどう脱出すればいいのかだが、最悪窓から飛び降りれば何とかなる、と思う。
2階ならそれほどの高さもないし、屋根があるから落下の体勢は整えやすい。
けど、だからといって、今この左手を離す事はできないのだ。離した瞬間、カナが入ってきたら?ドアから窓の所まで走って、鍵を開けてガラス戸をスライドさせて、外に出る。その所要時間よりカナの進入が遅いと思えない。
分の悪すぎる賭けだ。そしてかかっているのは俺の命である。
どん、と鈍い音がすぐ外で鳴った。
ドアを挟んだ向こうに、いる。
一層力を込めてノブを握って、体の全体重をドアにかける。内開きである以上、体重をかけていれば例えノブが回されても開かない。
大丈夫、大丈夫だ。あのか細い腕で高校男児の体重は押し返せない。
「……?」
力がかかってこない?いや、それどころか、ノブに触れた感触すらしない。
何だ?何を考えているんだ?まさか、俺は何かを見落としてるのか?他に、この部屋に入るルートがあるのか?・・・それはない。現にカナは今ドアの向こうにいるのだ。
じゃあなんだ、何を考えている?俺は文字通りな致命的なミスをして、いる?
と、澄ました耳に奇妙な音が混じり始めた。
――ぐじゅり、ちゅく…ぐじゅぐじゅ……じゅちゅ…
何の音だ?
……その疑問はすぐさま解消される。
感触が、あった。手ではなく、足に。靴下越しに、生温く。
びちゃ…びちゃ、びちゃ、びちゃ、
びちゅり、びち、ぁ…びた、びちゅびちゅ…、
びちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃ……!
「ぁひ、はぁっ、あ、あ、あっ・・・」
血が、血が血が血が!ドアの隙間から溢れてきている…っ!
咄嗟に、手が離れた。
それが、それこそが致命的すぎるミスだと分かったところで遅い。
難なく、何の力もなく、俺が必死に守っていた防壁はいとも簡単に打ち破られた。
ノブが回され、ドアが開けられ、カナが入ってくる。
血だらけの服を着た、右手に血雫滴らせるバッドを握った、逢川要。
進入して一歩も進むことなく立ち止まり、俺を見つめている。
別に楽しそうに笑っているわけでもなく、ただいつも通りのぼうっとして見えるような、何を考えているのか分からないような、表情。
その唇が僅かばかり吊り上った。
「ねぇ、こーちゃん。ここをどこだと思ってるの?」
「え?」
意味が分からない。分からないという事がここまで怖いとは思わなかった。が、そんな感想を抱いている場合でもない。
…カナは何が言いたいんだ?
「母様を和室で殺したのはね、例外として母様に自室というものがなかったからなんだよ、こーちゃん」
必要限でしかないカナの言葉。それに含まれた意味。
和室、例外、母様、自室、ない……、あぁ、そうだ。そうだった。
あそこに死体があると予測していたというに、俺はすっかりその数を数え忘れていた。そもそもあそこまでぐちゃぐちゃになっていた死体を見て何人分なんて事を考えられるわけもないけれど、あそこにあったのが1人分の死体だったとしたのなら…?
アパート暮らしのよーすけは言うまでもなく、自室のない静菜さんは代わりに和室で、そしてもし、ここの隣にある書斎で永助さんが殺されているとしたら…?
カナがすっと左手を上げてぴたりとの背後を指差す。
無言で、物理的に何の強制もないのに、それはもう呪いだった。抗う事のできない絶対の指示。
カナの声が頭に響いてくるという幻聴。
『ほら、後を向いてみなよ、こーちゃん』
振り向いたら、何があるのかなんて分かりきっているのに。そんな隙を作る事がどんなにまずい事だとは気づいているのに。
何よりもまず前提として、それをしなければ始まらないとばかりに、俺は振り向いてしまった。
その先には当然のように、窓のある壁に寄りかかるように、永次さんの死体が…いや、残骸が、
胸部を、肋骨を無理やりこじ開けられて、その中には何もない。肺は、心臓はきっちりぶっつり切りとられて、机の上に並べてある。
もう背中の皮と骨しかない胸部を晒したその下半身は、さらに酷い。
何も穿いていない局部を何度も何度も突き刺し抉り尽くした電気ドリルが最終的に、その中央部に突っ込んであったのだ。
頭部がないのは当然で、なくなったその行方は分からない。
しかしそんな事はどうでもよかった。
再び振り向いた時、視界に映っていたのは左横からバッドを振り被るカナの姿。
利き手でもない左振りだというのに、恐ろしく綺麗なフォームの一撃は命を奪うものではない。急所をわざと外した一撃で今度は左腕を折るつもりらしい。
だけどどの道、その殴打によって左腕まで失えば、もはや死んだも同然だ。
腕の上の方を狙ったそれをとにかく低く屈んで避けようとするが、本人が思うほど不恰好で愚かしい避け方だった。
一打目を回避しても二打目が避けれない……!
そこで、正真正銘の偶然で、
「あ」
カナの手からバットがすっぽ抜けた。
全く容赦のなかった力を加えられたままの金属バットは、俺の頭上を通り、後の窓を盛大に割る。
ガラスの破砕される劈く音と共に、凶器は持ち主の手を離れて家の外に放り出される形になった。
その、予想外すぎる出来事に、しかしカナはさほど驚いてはいない。
武器を失ったというのに、自分の有利性が失われたというのに、その顔には何の焦りもない。その妙に余裕のある様子を見て、むしろ焦る羽目になるのは俺だった。
「あぁ、ドアを開けるために父様の足を潰した時の血が、手元にまで伝ってきちゃったみたいだね」
何でもないように滑った原因である手にべったりと付いた血を見て、言う。切断して潰して滲ませた父親の血を見て、言う。
「滑り止めのグリップを兄様が剥がしちゃってたのも理由の1つかな?もう、本当に兄様は…モノは大切に使わないとっていつも言ってるのに…」
愛おしそうな嘆息。その兄様を、殺した本人だというのに、そんな言葉が自然に出てくる不自然。
分からない。分からなすぎる。
何でお前はよーすけを、家族を殺したんだ?
その質問が口から出かかって、
「まぁ、別にバットなんてなくても、素手で十分人体が破壊可能なコトは確認済みだし」
ぞっとする言葉にかき消された。
「あ…ぁあ」
軽く、あくまでも軽く放たれた台詞だというのに、そこには確固たる自信がある。
手負いの、右手の使えない俺ぐらい…いや、元より辰田幸平という人間ぐらいを殺害するのに解体するのに、分解するのに武器など要らないと、事実として告げている声だった。
逃げる事を止めていた足をもたつきながら動かす。けれど、そんな不安定な歩行が成立するはずもなく、体は傾いて部屋を仕切っている1枚目カーテンを巻き込んで絨毯の床に転げた。
それによって幕が取り除かれて閉ざされていた第二の部屋が現れる。…そこは、永歌さんの部屋だった。
転げた体勢、目線の先。切られた自分の首を腕に抱え込んでいる初恋の相手がいた。
よーすけと同じくしてベッドに横たわっている彼女の体は他の死体に比べて損壊が少ない代わりに、胴体の至る所にナイフやフォークが突き刺してある。唯一傷つけられていない顔は瞳を閉じて涼しげに眠っているようにすら、見える。
何の皮肉だ、コレは。
が、そんな感想なのか感傷なのかよく分からないぐちゃぐちゃな思考は頭部の打撃によって脳外に飛ばされた。
頭を蹴られたらしい。靴下も履いていない素足だというのにその甲は信じられないほど硬かった。蹴り方を、心得ている。
頭どころか胴体も一緒に転がるほどの衝撃にゴロゴロと床を滑り、2つ目のカーテンの裾を手で掴んでやっと制止した。
当然の犠牲として、握ったカーテンが今度は真下に落ちてくる。
突っ立て棒が頭に直撃して、2度の衝撃に酷く脳が揺さぶられ、体に力が入らないまま仰向けになった。
白い天井がぼやけて目に入る。随分と視界が狭く感じられた。
人というのは焦れば焦るほど周りが見えなくなる。そんなくだらなすぎる事柄を実体験させられている、それも皮肉。
ホントに、ここがいつも生きている世界かと思うぐらいに視野が狭い。モノを認識することができない。
「ぅ、ぅぅう…」
動悸がぶり返して、体中気持ち悪い汗を掻いている。うまく息ができず、まるで生きた心地がしない。
何とか立ち上がろうとして、腕に力を込めたが、その手に何かが張り付いてずるり滑った。
背中を打って、ただでさえ少ない空気を吐き出す羽目になる。
「な…ん」
床に何かが散らばっている。
…紙だった。ぴったりと手の平にくっ付く光沢溶液を表面に施した分厚い紙。
世界を切り取るなどと、魂を抜かれるなどと言われる小さな窓。
写真、と呼ばれる四角い思い出。
それに、
カナと永歌さんと永次さんが裸で写っている。
永歌さんの唇とカナの唇が重なっていて。詠歌さんの手がカナの胸を撫でていて。
永次さんの腕がカナの下半身へと消えていて。永次さんが横になるカナに覆い被さっていて。
どう見てもそれは情事のワンカットで。
そこら中に気が狂うほど広がっている写真のどれも中心にいるのはカナだった。
姉弟なのに、兄弟なのに。
「何だよ、コレ……何で、こんな事…」
意味が分からない。今度こそ頭が破裂しそうだ。
血が繋がっていないとはいえ、家族なはずなのに。カナは、男のはずなのに。
…写真の中にいるカナは女として存在していて。
「あははっ…こーちゃんは鈍すぎるんだよ」
写真から離した視線の先、カナが俺を見下ろしていた。
哀れんでいるわけではない、ただ今の状況を楽しんでいるような顔。
それはホントにカナ、なのか?ずっと一緒に過ごしてきたカナなのだろうか?
殴る事もなく蹴る事もなく、そこに立っているだけなのに、まるで異質なモノに見えてしかたない。
圧迫されているような、ざわめくような感覚がぎちぎちと体内を暴れ回る。
カナが右腕を肩の高さまで持ち上げた。
俺が知る限り怪我などしていないはずの、いつも服に隠れていたその腕には包帯が巻かれている。
するすると白い殺菌布を解いた向こうに見える白い肌に、
無数の注射痕――――、
「高校生にもなってここまで女っぽいのは異常だよ、普通はさ」
異常に青紫に赤の斑点を浮かび上がらせた腕、異常に女性みを帯びた体。
「兄様がネットで買った物らしいんだけどね。錠剤を含めて色々と」
まともであるわけがない。何の医療的監督の行われていない中での、薬物投与。その結果。
「お陰で結構ガタがきてるんだ、この体。頭痛がするのはしょっちゅうだし、吐き気もよくあるなぁ…あと体の節々が痛いのも、ね。
思春期にこんな事しちゃったもんだから、最近性自認も結構めちゃくちゃ…。実は自分が男か女かよくわかってない。
まぁ、一番困ったのは胸かな。さらしを巻いてたんだけど、どんどん成長しちゃうしさ。…隠すのが大変だった」
今や隠す意味をなくして膨らみのある胸はあるがままにされて、細い体つきは丸いカーブを描いている。
あぁ……、
今更ながら、今更ながらカナの服装に目が留まる。
赤い血飛沫が目立つ白地のその服は、昨日買った女物の白いワンピース。
「…でも、どう?似合ってるでしょ?」
そう言って裾を持ち上げてみせるカナ。
気づかなかったが、薄くルージュも引いている、ようだった。
…そういうことか。
『僕は姉様兄様から買って貰ったりするのがほとんどだけど』
なのにいつも見栄えに無頓着な服装をしていた理由は、貰う服の尽くが女物、だったから。
外に着ていく事なんてできるわけになく…。
けれど、今ならこの服装こそが正しいのだと身に染みて理解できる。
昔からずっと女っぽい男子と思っていたカナが今では生来の女にしか見えない。
「姉様は同性しか愛せなかった。兄様はあれで要領が悪い。その欲求不満を解消するのが逢川要の役目である以上、この体が見ての通りになるもの当然でしょ?
私を女にするという点において姉様と兄様の利害は一致してた」
一致してたから?一致してたらその思惑通りに扱われるのが、当然?
そんな事があるわけないのに。そんな役目を担う必要なんてないはずなのに。
…突とカナが口を開いた。
「私はさぁ、鏡なんだよ。他人の望みを映す鏡。
人が私を見る時、そこに映るのは鏡に映った別の何かであって私本来じゃない。光を反射してしまうが故に本来の姿を見られるコトはない…なんて感傷的な比喩だけど、まぁ、これが結構的を射ていてね?
簡単に言ってしまえば、自分に対する他人の印象のズレかな。こーちゃんだってあるでしょ?第一印象と違ったとか、全くそうでもないのに偏見を持たれたりとか、さ。
私の場合それがちょっとキツイ…というか特殊なんだ。尽くの人間に違う印象を持たれて、ずっと変わるコトなくそのままと言えばいいのか・・・。
問題だったのは、私自身は自然体でいるのに関わらずそんな誤認しか生まれないコトだ。猫を被ってるわけでもないのにさ。
何時の間にかそんな印象で周りが固まっちゃってて、物心ついた時にはもうどうしようもなかった。無茶にそれを振り払おうとすれば、私の世界が容易く壊れてしまうなんて分かりきった話だものね。
こーちゃんは私の…僕の事を何でもこなす頼りになる人物だと見てるようだけど、姉様は私を甘えん坊だと思っていたし、兄様は自分の言うコトを何でも聞いてくれる弟分と扱ってたんだよ。
どう全然違うでしょ?これが、全部両立してた。別に故意にそうしたわけでもないのに、私自身は確固たる唯一であるはずなのに、相容れない印象が複数生まれてしまっている。
何故か、何時の間に、何の理由も見当たらず、ただソレが逢川要の役割だと言わんばかりに私のいる世界はそうなっていた」
抗いようのないイメージがそこにはあって、まるで行き止まりの袋小路で行き詰まった感覚が身にを絡める。
「でも、そんなまるで違う印象を持っていても、1つだけ共通点があるんだけど…こーちゃん分かる?」
「分かん、ねぇよ」
「そのどの印象にしたところで、私という…逢川要という人物はその人にとって都合のいい人間なんだ。
こーちゃんは頼りになる人間として、姉様は愛玩の対象として、兄様はそのまま何でもしてくれる人材として、実際には身近にいなかった、そしてどうしても欲しかった誰かを僕に見てる。だから、望みを映す鏡ってわけ。
皆の中には私じゃない私がいて、ホントウの私は一度たりとも日の目を見る事はないと分かっているけど、嘘しかなくて嘘だけしか見てもらえないとしてもさ、私は結構満足してる。
兄様や姉様に異常と思えるほどに求められても、辛い事もたくさんあったけど、それはそれでよかったんだ」
閉じた瞳の向こうに夢を見ているような表情。胸を満たして、心を穏やかに、カナは告白した。
『それでもよかった』から、
「…そんな毎日が続くのなら幸せだと思ってたよ」
少し哀しげな声色を混ぜて、溜め息のような言葉を吐く。
過去形。今は変わってしまった過去の想い。
『幸せだと思っていた』けど、
「けど結局、そんなモノですらなくて、私は代替物だった。
鏡の映すものは虚像であり、虚像は偽物で幻で…比喩した通りの皮肉が待ち構えてたよ。
望みを映そうと代替物は代替物で、代わりでしかない。
母様父様にとっての兄様の受験失敗時のスペアというのは言うに及ばず、
姉様にとっては代えの利く彼女であり、兄様にとっては代えの利く玩具であり、
――――こーちゃんにとっては代えの利く親友、だった。
兄様はめでたく大学に合格して彼女を作り、姉様は同性愛者に巡り合い結婚式を挙げ、…こーちゃんは親友を作った。
ははっ、ホンモノが現れたんだものニセモノじゃあ敵わないや。
望みのモノが手に入った以上は、鏡に映る虚像など興味すらなくなるものなんだね」
自分が代えの利く人間であるなんて、誰でも思うような安っぽい葛藤であるはずなのに。
カナの場合は特殊、だった。
代えられるはずもない、親友という役回りですら、実際に代えられていく様を傍観する事になってカナは確信した。
あぁ、自分は偽物どころか代替物なのだ、と。
『全く、ここ最近は色々あって目が回るよ』
そんな言葉が、今になって思い出される。
それはそういう意味、だったのだろう。
今まで自分を必要としていた人々が、離れていって、ホントを見つけていって。
望んだモノを映していても、そのモノ自身ではないカナは、ホンモノには勝れない。
実物があるのにレプリカを選ぶ人間は、いないから。ニセモノはホンモノが現れた時点で意味をなくす。
価値をなくした代理品は捨てられる、だけ。
「兄様が危うくも国公立に合格した後、母様も父様も私に受験について言わなくなった。もういいと思ったんだろうね。誇れる息子は1人でいいって。
裕福だったとはいえ生活費を削っての学習費は、ただの重りになって…前に2人が話してるところを聞いちゃったんだ。
私は大学に行かなくてもいい。将来に何の目標も立てられない奴を行かせる必要はない。モラトリアムなんて無駄だから、だってさ」
大学。通うのに何の目標も掲げない人間が数多くいるキャンパス。
カナの進路なんて、将来なんて聞いた事もなかったが、そもそもそんなものなかったん、だろう。
自分がそう望まれているからという理由で、それに身を委ねたにすぎなかったはずだ。
望まれる事を望むしかない、望みに依存する事しかできない以上、自身の将来など破綻しきっている。
望まれている事以外をしようのないカナが、他人の逢川要の虚像に縛られるしかないカナが自分の夢など実現できるわけもない…。
いや、ただ望まれている事が夢だったのかもしれないのに、その結末はあまりにも悲惨だ。
既にもう行き詰まって、どうしようもない話であるにも関わらず、まだカナの話は続く。
「兄様は出て行って、それの後彼女を作っちゃった。
いくら要領が悪くても、人付き合いが苦手でも、ちゃんと中身を見てくれる女っているんだね。
そうなると私って存在はむしろ邪魔でしょ?弟を女に仕立て上げて抱いてたなんて異常な経歴はマイナスにしかならない」
邪魔で、異常で…だから、そうしたのは自分の癖に、捨てた。
取り返しのつかない事をしておいて、そこまでしてカナを求めておいて、なかった事にしようとした…?
「姉様も、本当に奇跡のような偶然で、いい人を見つけたの。
可愛い可愛い、女の子って形容していいような小柄の子。私から見てもお世辞抜きで純粋無垢って感じでさ。家を出ていって、東京で2人で暮らしてるんだって。
戸籍上は無理でも、式はちゃんと挙げて幸せになった。だから、私も幸せになってって」
そんな台詞がカナの幸せを奪っているとは、なんて皮肉。
心あろうとなかろうと、その言葉はカナにとって死刑宣告だったに違いないのに。
カナの役割はこうして次々に消滅していって……いや、分かってる。分かってるんだ。
もう1人、カナを捨てた人物がいるなんて事は。
「そして、こーちゃんは」
あぁ、分かっているとも…。
救いのないほど、俺も加害者だという事ぐらいはさ。
「陽介君と親睦を深めていった。
陽介君は今年クラス替えをしてだから、ほんの2、3ヶ月かな?その間に私の立場を持ってっちゃうし…あれは結構ショックだったなー」
そういう割りには淡々と言葉を紡ぐカナ。
ここでもし叫んでくれたなら、泣いてくれたなら、俺は何かかける台詞があるはずなのに。
諦観しきったカナを見て、俺の方が追い込まれていく気がした。胸が圧迫される感覚に、息苦しさを覚える。
「昔から遊びに誘うのはこーちゃんの方だったのに、ここ最近はゴールデンウィークも音沙汰なしだしさ」
でも、とカナはさらに、さらに続ける。これ以上いらないほどの不遇が、まだ続いている。
「極めつけはあれだよね。相談、聞いてくれなかったってコト。覚えてるよね?昨日の話ぐらいは。
あれが無視できないほどには異常だったって、今なら分かるんじゃない?陽介君が死んで、親友という役割が私に戻ってきた今ならさ。
こーちゃんの言うところの何でも卒なくこなす何でも1人でできる僕こと逢川要が、相談があるっていったんだ。
今まで一度もそんな事は言わなかったし、言うようには思われてなかったからこそ、目に留まる程度の事態ではあったんじゃないかな?
それだけじゃあ足りないかなって思って、先にある約束を破棄させようとしたけど…駄目だったね」
カナが、他人の頼み事を断れないと俺が思っていて、実際鏡である以上はその通りであるはずのカナが、他人より自分を優先させようとした言葉に、俺は気づけなかった。
珍しい、程度の話ではない。今まであり得なかった事をやったというのに、そんな事すら俺は気づけなかった。事の重大さを見逃していた。…見えていなかった。
「だから、あの相談はわざと約束と被せたんだ」
「ど、どうやって?」
あの時店内にいて、俺達と離れていたはずのカナに、話の内容を知る事ができるはずないのに。
「…子供の頃ってさ、何か特別なモノに憧れたじゃない。見よう見まねで色んな"しゅぎょう"をしたよね。
こーちゃんじゃない、読唇術の練習やろうだなんて言い出したのは」
ずるりと、脳の記憶を無理やり引き出されるような感覚。
思い出されたのは、ひたすら唇の動きを見つめて、何を言ってるのか当てあった日々の名残。
ほらやっぱりこーちゃんに懐古の情はないよ。そう皮肉交じりに笑うカナ。
「だから…だから殺したのか?」
勝手な思い込みで逢川要を壊して、あるはずの要本来を殺しておきながら、無価値だと捨てた家族に復讐するために。…俺に復讐するために。
それはどうしようもなく正当に思える動機だ。その対象になっている俺さえが、カナの立場であれば、同じ事をしたであろうと思うほどに、当然だ。
恨ンデうらんでウラんで怨んでウランデ恨んで恨ンデ……これ以上ない理由だった。
けれど、違うと首を振った。
「それは違うよ。
どんな風に扱われようが、それは私が必要とされている証で、役割を終えて見向きもされなくなってもさ、それが代替物ってものなんだから。
どうしてかしらないけれど、私がそういう役回りである以上、そういう星の下に生まれてきた以上、世界においての私の立ち位置がそうである以上、その当然の結果に対して憤っても仕方ないじゃない。
無意識に私への依存性が薄れていく、なんていう理に従っているだけのこーちゃん達を何で恨まないといけないのさ」
少し拗ねたような声。そんな勘違いはしないでよという副声音。
逢川要を勘違いしてきたという俺にするにはあまりにも似つかわしくない仕草だった。
カナは、言う。酷い事をされたけど、惨い仕打ちではあったけど、けれどけれどけれど結局のところ――――、
「私は姉様を愛してるし、兄様も愛してる。母様も父様も好きだし、もちろんこーちゃんも大好きっ!」
心底愛おしそうに。真底狂おしそうに。
はにかむ姿にこっちが狂ってしまいそうなほどに。
「皆が遠のいていくのを見てるのってさ、祭が終わる時みたいな気分なんだ。
去年の学園祭覚えてる?夕暮れが過ぎた辺りから人気が段々なくなって、次に出店を皆で閉めて、あっという間に物で埋め尽くされていた場所が空き地になるの。あんな感じ。
母様父様の教育熱が冷めて、姉様は幸せになって、兄様も彼女を作って、こーちゃんが親友を得て、私の演じていた役割が徐々に消滅していって、身支度が整ったというかね…ふと気づいたの。
あぁ、これで私のやる事は全て終わったんだから、もうがんばらなくていいんだって。お仕舞いにしていいんだって
……死んでもいいんだって。
皆が幸せのままで、私も開放されたんだから、休んでしまいたい。
皆の幻想を守って、私の頑張りも報われたんだから、眠ってしまいたい。そう思ったから。
本当は自分だけ死ぬつもりだったんだよ」
他人が見ている逢川要が私じゃなくてもよかったけど、虚像しか偽者しか見えていなくたって構わなかったけど、けど…やっぱり疲れたから。
疲れる、モノだから。疲弊しきっているのに、これからもただ何もしないまま行き続ければならないなんて、できないと思った故に。
幼い頃に遊んだ玩具が押入れの箱の中、ひたすら取り出されるのを待つようになんて、生きられない。
だから、死のうと思った。…そうしてカナは精神的に死んだ。
でも。でもでもでもでもでも…!
「でも、考えてみれば、私が死ぬ以上、こーちゃん達が生きてる必要なんてないって事に気づいたんだ」
そこにきて、狂ってしまった。
なまじ生きていたから、死んだ分、狂ってしまった。
「私にとってこれで物語が終わるのに、その後になっても舞台で役者が何かしらを演じているというのはおかしな話でしょ?」
心で死んで、体を殺すその狭間になら、鏡を辞める事ができた。
心が体を離れたことによって、行き詰まった状態から脱出できた。
自分の存在を蔑ろにできるその間だけ、なりふり構わず何でもできた。
「観客である私がいないんだからそんなモノに意味はない。別に殺す理由もなかったけど、殺さないでいる理由もなかった。
だから、必要ないなら殺しちゃおうと思っただけ」
ふと、ならばと思ってしまった。
全てが終わるのだから、ならば周りの皆だって生きている必要性はないなどと…。
もちろんカナにとってはの話であって、あまりに身勝手な理屈だろうけど、
これまで我を出せずにいたカナの場合はむしろ、我が侭だからこそ意味がある――――。
「あはっ、こんなの理由にすらならないよね?言っちゃえば単なる気まぐれ」
確かに理由にならない。確かに気まぐれだ。
そんな何でもない何もない圧倒的に意味のない動機にならない動機で殺されるぐらいなら、
恨まれて、憎まれて殺された方がマシだった。
ああ、何を考えてるんだ俺は。殺されたい、わけではないのに。
それでも、それでもそう思わずにはいられないほど、救いがない。
酷い事をされたから…恨んで、惨い仕打ちを受けたから…憎んで。
復讐で逆襲で、煮えたぎるほどの熱い感情に任せて、殺される方がよかった。
死ぬのなら、死んでしまうのなら、意味がある方が…いいから。
なのに。それなのに。
『そうだ皆殺してしまおう、あぁそれならいっそ、せっかくだから、これを機に、自分勝手なコトをやってみよう…』
気まぐれで。ふと思いついた程度の"ついで"で。
そんな最低な理由で死ぬのなんて、嫌だ。そんな最悪な動機で殺されるなんて、嫌だ。
無意味に無価値に無機質に無感情に…!
そんな無為で殺されるなんて、嫌だ。
それでも、皆殺された。
殺すだけでは役足らず、ぐちゃぐちゃにされた。
目を取られて、鼻を潰されて、耳を削がれて、顔を落とされて、胸を開かれて、腹を抉られて、手足を切られて…損壊し尽くされた。
その理由が今なら分かる。
あれは俺を驚かせるためだ。…怖がらせるためなのだ。
鏡を割った証明として、予想外の、予測不能の、俺の持つ逢川要像を逸脱するための不可避な動作。
それ以外に何もない。無意味で無価値な理由からさらに派生した無機質で無感情な理由による行動。
くだらない、話だった。くだらなすぎて、許容できない。
皆を恨むあったはずの正当な理由は放棄しておきながら、どっちでもよかった程度の理由を採るなんて許せるわけがない。
人を殺すという、人の人生を壊すという非道を軽く行える、俺の知らないカナの存在が怖くて仕方なくて、
「ふざ、けるな…」
我慢できずに、
「ふっざけんな!んな事で人を殺すんじゃねぇ!…お前どうにかしちまったんだよ!!」
叫んでいた。
「……俺の知ってるカナはあんな事しねぇっ!!!」
それが、どうしようもないくらいの失言であるかなんて分かっているのに。
それに対するカナの答えなんて分かりきっているのに。
滑稽なくらい、俺は愚かにも未だ虚像に縋っている。
「"俺の知ってる"ね…。だからさぁ、それは、
こーちゃんがそう思いたい逢川要を見ていたにすぎないから
じゃない」
冷たい、突き放した声。相手を凍りつかせて麻痺させて、心臓を抉り出すような、声。
…分かっていたんだ。カナの話を聞いていた時から、遠まわしにしか言われていなかっただけで、そういう事だとは分かっていたはずだった。
それでも、はっきりと、直接的に言われてしまう事がこれほど身を突き刺すとは知らなかった。
そんな言葉がカナの口から出てくると信じたくなかったけど。けど、そんなちっぽけな希望は虚像と一緒に砕かれた。
……ああ、そうか。
カナは…俺の知っているカナは、人を傷つけるような事を言わなかったから、俺にとっての逢川要がニセモノだと思い知らされたから、だからこんなに胸が痛いのか。
「カナはさ…」
カナは、
「何でも卒なくこなして…」
「私は不器用で」
「強くて…」
「打たれ弱くて」
「いつも笑っていて…」
「泣き虫で泣き虫で」
「お人好しで…」
「怒るコトすらできない臆病者で」
「何事にも動じないで…」
「暗い所にも水中にも1人では居られないような怖がりで」
「頼りになって…」
「依存してるのは私の方だった。
…誰かに求められなければ生きてすらいけないんだから」
あぁ……、
ホントに…ホントウに……ずっとすれ違って、最初から間違って、カナじゃないカナを見ていたんだ。
何もかもが一方通行で、相手の想いは伝わっても、自分の意思は表せない。
それは、一体どんな気分だったのだろう?
全てがチグハグで、生きている限りどう足掻いても齟齬を生んでしまう自分の様を見て何を思っていたのだろう?
自分が表せないという事は世界と断絶されてるようなもので。自分の思い通りにならない自分なんてものは他人と同じで。
生きていないようなもので。
…それでも自分の存在を偽りに求めて生を得た。
ニセモノがあるのならホンモノがあって。レプリカがあるのならオリジナルがあって。
自分がいなければニセモノもレプリカも生まれなかったはずだから、自分は生きているのだと思えていた。
けれど、それも終わり。
ニセモノでレプリカである前に代替物だった逢川要の役割はもう果たされて、虚像にすらなれなくなった。
そこで、もう、疲れてしまったのだ。疲弊しきって何もできなくなっていた。
目的のない停滞ほど疲労するものはなく、在るだけで辛かった。
だから、死のうと思った。
皆が思わせた。…俺が思わせた。
もしも、俺達の誰か1人でもカナの異変に感づけば。
何故か前よりカナとの距離が開いてるという程度の事でも気づいていたら。
俺が、相談を持ちかけられたあの時に、分かっていれば。分かっていれば?
――――まさか、その姿が俺がカナを見る最後の機会になるとは思ってもみなかった。
もしもあの時、カナの相談を聞いていればあんな事にはならなかったかもしれない。
あは。あははははははははははっ!くくっ、ぁはははははは…はっっぁあ!!
…なんだ。結局、あのモノローグは冗談にもならない伏線そのものだったじゃないか。
俺は相談に乗る事なく、今はカナじゃない逢川要を見て――――、俺の知っているカナはもう見えてない。
今目の前で薄く笑っているカナは、今まで決して表に出てこれなかったホントウなのだから。
よーすけを殺して、永歌さんを殺して永次さんを殺して永助さんを殺して静菜さんを殺して、そのグロテスクな内側を曝けさせても平気な顔でいられる誰か。
俺をここまでまんまと誘き寄せて追い詰めた誰か。
血だらけのワンピースを着こなして血に濡れた手を気に止めもしず物静かにカナの本心を語る誰か。
皮肉にも皮肉すぎて皮肉しかないくらいに、それがカナの本来であるというのに、それを見て聞いて触れる度に俺のカナ像から遠ざかっていった。
何の意味もない理由と気まぐれで殺人を行えるほどに無機質で、自分の身に降りかかった事象に無感情なカナがホントウを吐露している。
……………………、……………………?
………………、………………っ?
…………。…あれ…?
…本心を…ホントウを?
語って、吐いている…?
「――――っぁ」
ああ、なんだ、そうなんだ。
…そう、なんだ。
何で、気づかなかったんだろう…。
あれが本心なら、アレはホントウじゃない。
ここにきて尚、カナは本心を隠している。最後の最後まで嘘を吐いている。
全く、お人好しもいいとこだ。
あぁ、それだけは、お人好しという点だけは俺はホントウを見れていたのかもしれない。
それはあまりにも俺の都合のいい解釈だけど、それでもやっと、1つだけ確かなモノをこの手に掴んだ気がしたから。
だから、こんな瀬戸際に遅すぎるけれど、本心を俺が言わせてやる。
出会ってずっと、嘘を吐かせてきた俺なんかではおこがましすぎるけど…それでも、
これは俺のちっぽけな償いだ。
「カナ…」
「ん?」
浅く、息を吸い込む。
「嘘…吐いてるだろ?」
失敗できない、後戻りできない台詞を覚悟と共に吐き出した。
「何を?」
「あんなくだらない気まぐれでお前は人殺しなんかしない」
その言葉を聞いたところでカナは表情1つ変えはしない。
「それはこーちゃんの思ってる逢川要の話だよ」
分かりきっていた返答。事前に用意された回答。
けれど、それは、
「嘘だ」
「嘘なんて吐いてない」
「吐いてる」
「吐いてない」
「吐いてる」「吐いてない」
「吐いてる」「吐いてない」
「吐いてる」「吐いてない」「吐いてる」「吐いてない」
「吐いてる」「吐いてない」「吐いてる」「吐いてない」「吐いてる」
「吐いてな――「吐いてる!!!」
びくりと。
びくりとカナの体が僅かに跳ね上がった。
「胸を張って愛してると誇れる永歌さんや永次さんをそんな理由で殺せるか!
殺す殺さないはどっちでもよかった?敬愛してたんだろう!?殺せない理由はあっても殺す理由はないじゃねぇか!」
どっちでもよかったなんてあり得ない。
今目の前にしているカナが言ったんだ。俺の知らない、鏡の向こうにいた逢川要が。
『私は姉様を愛してるし、兄様も愛してる。母様も父様も好きだし、もちろんこーちゃんも大好きっ!』
それだけは、偽ってほしくはなかった。隠してほしくなかった。
偽りしか見ていなかった俺なんかのちっぽけな、切望…。
馬鹿馬鹿しいほど身の程知らずのおこがましい願望だ。
愛する人間を殺すには、殺せない方に傾いているはずの天秤を反対側に傾けるには、それ以上の想いがなければいけないから。
理由がないなんて、気まぐれなんて嘘なのだ。
「殺す必要のまるでなかった皆を殺したのはっ!カナにそうしたい理由があったからだ!!」
ぎりりっと歯を噛み締める音がカナから響いた。
俯いた陰りで表情が見えない。
垂れた前髪が揺れて、華奢な体が震えている。脆い身が壊れそうなほど震えている。
「…昨日の晩」
ぽつりと口から声が漏れた。
「こーちゃんが私をもう必要としてないってはっきりと分かって、だからかな?」
嘆息。息が抜けていく時間が随分と長く感じられる。
「その夜ベッドに入って、……何故か、すごく哀しくなった。寂しくなった。切なくなった。怖くて怖くてどうしようもなくなったんだよ。
それまでは何ともなかったのに、こーちゃんの無関心ぶりにさ、身に染みて気づかされた。このまま死んだら、私は完全に忘れ去られるって。
嘘の私しか知られずに死ぬ事になるって分かっていたけど、けど、そんな私すら数年後には忘却されていくんだって、思い知らされた。
私の役割がホントウに上書きされるってコトはね、こーちゃん…つまり思い出も塗り潰されるってコトなんだよ。
もしも10年後、こーちゃんが何かのきっかけで親友を思い出す時、その脳裏に浮かぶのは私じゃなくて陽介君だ。姉様の思い出す彼女はホントウであるあの娘で、兄様もホントウの彼女を思い浮かべるんだろうね。
そこに私はいない。記憶の中にすら、思い出の中にすらいなくなる。思い出されるコトもなくなってしまう。
1人で死んで、何もなかったかのように消えてしまう。私の存在が本当の本当になくなってしまう。ホントウは、そんなコト分かってた、はずなのに…。
…それが急に、怖くなった。どうしても嫌になってたんだよ」
怖いに決まってるとその顔が語っている。
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌と悲鳴を漏らしている。
「だから…皆一緒に…」
一緒に、心中。
忘れられるのが、酷く怖くて。
皆が自分を完全に忘却する前に、生命を止めてしまおうと。
自分を覚えている内に、永久に保存してしまおうと。
彼岸まで一緒に持って行こうとした。
と、いきなり、
「姉様、兄様、父様母様、こーちゃん、兄様母様こーちゃん、姉様姉様父様兄様、こーちゃんこーちゃんこーちゃん、こーちゃん……っ!!!」
カナが叫んだ。
大声で、悲痛の混じったか細い声で、訴えるように、自分の存在を誇示するように、叫んだ。
泣きそうな、顔、だった。
「……この声も、いずれ聞こえなくなるん、だよ…?」
消え入りそうな、呟き。精一杯の、嘆き。
それすらあまりに儚すぎて。
初めて聞くカナの待遇。
初めて聞くカナの悩み。
初めて聞くカナの弱音。
初めて聞くカナの本音。
虐待されていたなんて初めて知った。
あんなに苦しんでいる姿を初めて見た。
哀しいなんて、寂しいなんて、切ないなんて初めて聞いた。
狂おしい本音に初めて触れた。
――――初めてが、多すぎて。
あんなに近かったのに、こんなにも遠かった。
「…だから、もう終わり。終幕、終演、終焉、終点、終着、最終回」
波打っていた感情は静まり、体の震えはぴたりと止んだ。表情は何を考えているのか分からない、無機質で無表情に戻った。
ゆっくりと足を踏み出す。
これでお話も終わりだからと。
これで物語も終わりだからと。
『私も死ぬからこーちゃんも死んで?』
そんな声が聞こえる。
でも、
ごめん、カナ。
俺、死にたくないんだ。
生きて、いたいんだ。
まだ上半身を立てて座っているような状態だった俺は、使える左腕と両足に力を入れて、地面についていた尻を持ち上げた。
今度こそ失敗せずに立ち上り、そのまま不意を突く形で近づいてきたカナに全体重をかけて体当たりする。カナの細い体は渾身の一撃に耐えられず床に転がった。
間髪入れず、そのままカナの上に馬乗りになり、躊躇しそうになる手を無理やり伸ばして首を絞める。
細い、喉仏もまるで出ていない首を、折れそうなほど力を込めて絞める。
殺すために。カナを殺すために。
カナを止めるために。
…自分は生き残りたいという劣情で以ってして、殺人を犯す。
「…ぁ……」
嗚咽のように、カナの口から音が漏れた。
息ができないせいで、言葉すら満足に発せない。
そんな状況なのに、自分が殺されそうだという瀬戸際なのに、カナは興味なさ気に俺を見ている。
「……ぅ」
その唇が微かに動いた。
嗚咽ではなく、何か台詞を言おうとしている…?
「え?」
何を言ってるのだと疑問を口にした瞬間、ただでさえ痛かった右腕に更なる激痛が走った。
「ぐうぅぉおぉぉおおおおおっ!」
目をやると、カナの左手が折れた二の腕を握り潰し、折れた箇所をぐきぐきと揉むようにして骨を苛めている。
酷く、冷静な対処。
手元が緩んだ所で、カナは言い損ねた台詞を淡々と放つ。
「そういうプレイはさ、兄様とやり飽きてるの」
『玩具』――――『モノは大切に使わないとっていつも言ってるのに』
あぁ、畜生!そういうことか!
そういう…役割だったのか!
首を絞める事すらできない以上、俺にはもう逃げる以外の選択肢は残されていない。
まだ床に伏せているカナを思い切り横に転がし、その隙に全速力で走る。向かう先は割れたガラス窓だ。あそこなら窓の鍵を開ける必要も、スライドさせる必要もない。
サッシに手をかけた時、残っていた破片でいくらか手の平が切れたが、そんな事を気にしている余裕はなかった。
偶然にも大幅に時間を短縮する事ができた逃亡動作。
けれど、屋根に足が着いた、と思った瞬間、その屋根がずるりと滑った。
「あっ…?」
バランスを崩して、前めりにこける。
ごろんとでんぐり返しのように、斜めに傾いた屋根を意に背いて転げ落ちていく際、窓の方に向いた視界が、その原因を捉えた。
行方不明だった永次さんの首。
ここに来て…ここまで来てっ!
文字通り潰されて厚みが半分ほどなくなった目なし鼻なし耳なしの顔が窓の下、屋根の上に置かれていた。
俺が大部屋に入ってそのまますぐ窓から逃げれないようにするために、一番確立の高いドアから一直線のあの位置に置いていた…?
しかし、そんな事を悠々と考え続けていられる状況ではない。
踏ん張って何とか勢い殺すそうとするものの、まるでうまくいかないまま屋根の終わりはもうそこまで迫っていた。努力虚しく空中に放り出される。
「っ…っっ!!」
運動神経が良くもない俺は猫のようにとはいかず、それでも何とか足の方から落ちる事だけには成功した。
無様に芝生を転がって、あちらこちらぶつけて擦り剥いて、やっと止まる。
草が口に入って、芝生を抉った顎が土に塗れていた。
それでも、生きている。
それでも、あの悪夢の家から出れる事ができた。
…脱出、できた!
ここは閉鎖的な壁の外なのだ。後はとにかく走れば、逃げ切るのは容易い!
足に力を入れて、立ち、
…………。
………………、…。
「…ぅ………ぁ……」
…………、…………。
……………………、……。
「ぅうぁ…ぁ……あぁ………」
………………、…………、……。
……………………。……、…………嘘、だろ。
「うわぁあああああああぁぁああぁああぁぁぁぁああああああ!!!」
足に力が入らない。
いや、両足がぐにりと曲がって体を支える意義を成していない。
つまり、
完全に、折れている。
こんな時に、こんな時にこんな時にこんな時に!
…ボフンと後で音がした。
振り向けば、そこには難なく卒なく2階から飛び降りてきたカナが――――いる。
「ふぅっんぐ!ふぅう、んんぐぅ!!」
手を使って前に進もうとするけれど、左腕だけでは足掻きにもならない。
爪の間に土が挟まるその不快さなど、今や気にする時間すら与えられていない。
悪足掻きにしかならない左腕と胴体と顎を使った匍匐前進は悲しいほど進まない。
そうこうしている内に、カナは俺と同じく芝生に転がっていた物を拾い上げていた。
血だらけの、金属バット。
何の迷いもなく、何の躊躇いもなく、カナが俺に向かってくる。
俺が選らんで今は血飛沫を浴びた白いワンピースを着て。
姉か兄にプレゼントされたのであろう薄いピンクのルージュをして。
肩口までの髪をそよそよとなびかせて。
もはや女にしか見えないその姿を以ってして、
――――哀しそうな、寂しそうな、切なそうな顔をして。
ゴン。
標的を確かめるように軽く一打後頭部にバットをぶつけた。
「ごめんね……こーちゃん」
――――初めての我が侭です。
お願いこーちゃん、一緒に死んで。
■□
「平成21年5月9日…本件、以後称して涙川連続殺人事件は起こりました。
えー、被害者は聖林高校2年生の辰田幸平と同じく大塚陽介、及び容疑者の家族である逢川永助・静菜夫妻、姉の永歌に兄の永次。容疑者は逢川家の次男で、再婚した静菜の連れ子です。
動機は、容疑者への性的虐待への復讐……物的証拠として兄・永次の使っていたと思われる机の引き出しから、女性ホルモン剤が複数発見され、購入の明細も残っていました。注射痕がある事からそれが容疑者に使用されていた事は間違いありません。
また、現場2階の容疑者・被害者ら自室に虐待時に撮られたと思われる写真が多数見つかっており、姉・兄の虐待関与は決定的です。両親はそれを黙認、あるいは隠匿していたと考えられ、幸平と陽介も性的虐待に参加していたのではないかと思われます。
陽介は借りアパート内ベッドの上で殺され、幸平は逢川家の庭で殺された後、2階容疑者自室に運ばれたと思われます。永助は2階書斎、静菜は1階和室、姉・兄は幸平と同様の自室にて殺害され、幸平を除く全員が死後体を酷く損傷していました。
6人を殺害後容疑者は2階自室に戻って、自らのベッドにて手首を切り自殺を図っており、事件発覚後に警官が発見した時には既に数時間が経過した後で――――」