幕間 天正十年 四月 富士山見物と浜松城饗応と半生の足跡
天正十年 四月十日。
織田前右府様は安土帰陣のため、躑躅ヶ崎館仮屋敷を出立した。
甲府からは、迦葉坂の山道を抜ける。
丁度、迦葉峠に差し掛かると、近衛太政大臣卿直々に近習の供回りを引き連れて、織田の行軍を待ち受けていた、
迦葉峠は北には甲府、西には信濃、南には駿河國の吉原に抜ける間道である。
近衛太政大臣卿は、帰洛に際して同行の申し出をした。
「ここは未だ戦地で在る故、礼賛の儀は京にて賜る」
織田前右府様は近衛太政大臣卿一行の同伴を拒否して、そのまま木曽路を引き返すように命じた。
近衛太政大臣卿は同行を諦めて、馬首を信濃路に向けて京へと帰って行った。
駿河國に入国すると、案内役として徳川蔵人佐が先導した。
(徳川殿も幼少の折は質として、駿府に在してたとの由、さぞや懐かしく思い出されているのだろう)
私(日向守)は上様の供を仰せつかって、先導する徳川蔵人佐の後姿を見遣るのであった。
四月十二日。
富士山麓の名所を巡り、富士山本宮浅間大社に参拝した。
浅間大社には既に陣所が設けられており、取り分け豪奢な金銀に彩られた宿所に上様が入られた。
四月十三日。
三保の松原からの富士山の絶景に興じる。
徳川蔵人佐は事前に、行く先々に休憩の茶屋を設けて、遊山気分を満喫させた。
その日は江尻城に着陣した。
四月十四日。
駿府に到着すると、先導する徳川蔵人佐の説明を受けながら、駿府の街並みや市を視察して廻った。
特に駿府は思い出深い地からか、微に入り細を穿つ様に説明を加えていた。
そうして藤枝にある、要害田中城に着陣する。
四月十五日。
本日は大井川を途河して、掛川城に着陣する。
大軍の渡河は思いの外、時間を要した。
織田前右府様は、同じく供回りを命じた、細川与一郎侍従にフッと漏らすのを聞いた。
「此度の甲州討伐は、早々に落着したのう。正直に申して、我ながら驚き入るばかりであった」
四月十六日。
曰く付きの高天神城を経由して、浜松城に入った。
そこで徳川蔵人佐は、戦勝の祝いとして饗宴を開いた。
(うーむ。質より量と云った風情であるな……)
私(日向守)は内心独り言ちていると、上様がこちらを見遣りながら、徳川蔵人佐に声を掛けた。
「盛大なる饗応といい、道中の手配といい、善き案内ご苦労じゃった。返礼として来月にでも、安土にて徳川蔵人佐を饗す故、楽しみにしておれ。うひょひょひょひょ……」
上様は、機嫌良さ気に言い渡した。
四月十七日。
浜名湖の橋を渡り、吉田城に入った。
四月十八日。
そしていよいよ岡崎城に入った。
上様はこの間の宿所には、常に私(日向守)に一番近くの宿所を与えた。
「惟任日向守も大分年寄り故、無理はさせられぬからのう」
漏れ聞いた上様の言葉であった。
翌、四月十九日には、ついに領国に戻り、清洲城に帰城した。
上様もさすがに幼少からの家督争いを思い出してか?感慨に耽っていた。
「明日は岐阜城に入るか」
四月廿日。
岐阜城に入城した。
「ここから天下布武が始まったのであったな。懐かしくもあるな、惟任日向守よ」
私(日向守)は恭しく、頭を下げた。
四月廿一日。
佐和山城に入ると、此度の本陣を解散させた。
織田前右府様は、安土城付けの軍を率いて帰城した。
甲斐國から、安土城まで十一日の行軍であった。
※ほぼ時系列を詳細に記すだけで、1000字に達してしまいました。
地の文が多いのですが、幕間と言う事でご容赦下さい。
今回の行軍自体が、織田前右府の人生の足跡を辿っています。
本能寺の変で、死の間際に走馬灯の光景として思い浮かべたと考えております。
描写が十分に行き届かないと思いつつ、幕間として挿入させて頂きました。