第十玖話 天正十年 六月二日 本能寺 其の伍
私(日向守)に一通りの今回の陰謀と先右府様の先々の戦略の思惑を語り終えると、次いで言った。
「天下布武の後は律令の整備と抜かして居った、惟任日向守の申す通りであったな。儂は帝または神にならねば天下布武は成り立たぬと考えて居った」
そう言うと眼を瞑り、なにやら思いを馳せている様であった。
きっと比叡山延暦寺の臨済宗の僧兵、伊勢長島一向一揆の地侍、石山本願寺一向一揆の農民たち。
果ては南蛮がこれまで版図を広げてきた、耶蘇会の宣教師たち。
そうした宗教教義に支えられた勢力は手強い。
それを実感し続けてきたのは、上様に他ならない。
やがて諦念の様な表情に変わると穏やかに言った。
「儂はキンカ頭が作る、駿府幕府を見てみたかったのう……」
周囲から何やら叫ぶ声が聞こえてきた。
恐らくは火を放ってきたのだろう。
「上様が駿府幕府をお開き頂ければ、この日向守、身命を賭してお支えする所存。これより南に八里ほどに我が息子、明智与兵衛が兵一万を以って待機させておりまする。是非ご決断くださいませ」
私(日向守)は伏して奏上仕った。
すると上様はゆっくりと首を振ると、私に向かって言った。
「物事には機というものがある。日向守は急ぎ、本能寺を出て軍勢をまとめ上げて、稲葉の軍勢を討伐して、天下布武を成し遂げよ!ここからは『武』よりも『政』が時代を治めよう」
上様は扇子で本能寺の隠し通路を指し示しながら命じた。
「日向守も本能寺の脱出口は知っておろう。直ぐに軍を指揮せよ!このままでは全て稲葉伊予守の手柄とされてしまうぞ。おそらく出口にも兵を配しておろうが、おヌシなら抜け出せよう」
「上様は如何なさいますか?」
「儂にも秘策がある。天下の行方も見届けたいのでのう、うひょひょひょひょひょ……」
辺りからはくすんだ煙が立ち込めるようになってきた。
「さっさと行かぬか!これが最期の主命であるぞ」
「ゴメン仕る」
私は頭を畳に擦り付けるように、平伏すると立ち上がり、急ぎ本能寺の抜け道にひた走った。
背後からは能の一節、『敦盛』が聞こえてきた。
「人間五十年、下天のうちに比ぶれば、夢幻の如くなり……」
(思いの外、火の廻りが早いようだ)
恐らくは四方八方から火矢を射かけているのだろう。
背後からは熱風が押し掛けるようになっていた。
何とか脱出口に辿り着くと、そこには斎藤内蔵佐が兵百ばかりで待ち構えていた。
「誰に刃を向けておるか!惟任日向守はたった今、織田先右府を討ち取ったぞ。お主が火を放たねば、首級も手に出てこれたものを台無しにしてくれたな」
斎藤内蔵佐をその場で咎めると、軍の指揮権を取り戻した。
どうやら織田三位中将は在所の妙覚寺から、二条新御所に移ったとの情報を得ていた。
(よもや誠仁親王に対して、談判しに向かったのではあるまいな?)
上様の情報から、朝廷に対して融和策を持ち掛けていてもおかしくは無い。
急ぎ二条新御所に向かったが、既に火の手が上がり始めていた。
直ぐに兵に対して、織田三位中将の生害を確認させたが、遅きに失してしまった。
既に二条新御所は、業火に包まれていた。
そして、洛内に翻っていた夥しい数の『角折敷に三文字の紋』の白地の旗印は、いつの間にか消え失せていた。
(稲葉伊予守は上様を上意討ちとはせずに、私の謀反に見せかけた芝居で在ったか……)
急ぎ、手勢三千の軍を率いて、大垣城占拠に向かった。
稲葉伊予守の軍の追撃と、反撃の防衛線を構築する必要に迫られたからであった。
また息子の明智十五郎光慶が率いる本軍一万は下鳥羽の南殿寺に本陣を構える様に下知した。
何とかこの仕組まれた謀反を、自らの手で行ったように振舞い、天下をこの手にするより他に手立てを失っていた。