第十㭭話 天正十年 六月二日 本能寺 其の肆
上様の此度の陰謀が、如何に長く練られたものかを説明した。
「こうして儂の勢力が強まっても、美濃の権益を安泰としておったのじゃ。そして此度謀反に及んだとすれば、背後には朝廷の働きが有ったのじゃろうのう。恐らく今頃は正親町帝の勅旨を片手にほくそ笑んでおるじゃろう。ところで日向守よ。朝廷で一番大きな絵を描ける人物を知っておるかの?」
私(日向守)は、脳裏を過ぎる不安を抱きながら答えた。
「近衛先太政大臣前久卿で、御座いますか……」
うひょひょひょひょひょひょひょひょ……。
上様は独特の高笑いを一頻り上げると、穏やかな表情で言った。
「惟任日向守は、散々翻弄されて居ったからのう。儂への謀反を耳打ちされたのも一度や二度では済まねであろうからな。近衛先太政大臣前久は自らの保身のみに走り回るだけの小物よ。真に正親町帝の意向を受けていると思い込んでおるのじゃ」
「それでは一体誰が?」
思わず口に出していた。
織田先右府様は、ニャリと口元を歪めたかと思うと、一人の公卿の名を口にした。
「全ては、一条関白内基の企みよ」
「惟任日向守には、よく安土城の信長の間で、明国征伐の話を語って聞かせて居ったのう。あれは洞話じゃ。以前は本当に明国征伐は出来ると思って居ったのじゃが、大陸の書物を読み漁ると、大陸も日本も同じ様なものだと悟ったのじゃ。今でも明国のみならば、征服することも出来よう。しかし、補給船が伸びきった挙句に中央勢力を倒しても、直ぐに地方勢力がこぞって蜂起し、何れかの国が皇帝を僭称する事であろう。それで唐入りを諦めたのじゃ」
「日本が真に強国となるためには、時代遅れの公卿どもの政治は在るだけで有害じゃ。そこで誠仁親王と謀ったのじゃ。つまり正親町帝には譲位頂き、新しく誠仁帝の御代にする。そこで儂が誠仁帝の関白となるのじゃ。息子の三位中将信忠は太政大臣となり、惟任日向守は土岐家の家督を継承して、征夷大将軍となり鎌倉辺りに所領を移させたかったのじゃ。そこで先立っては近江国・丹後国の二ヶ国からの転封を予め下知したのじゃ」
「その方が首尾よく、徳川と穴山の首級を挙げて居れば、駿河国・甲斐国を与えて、駿府にて幕府を開かせたかったのに残念じゃったのぅ」
「その後は頃を見計らって、誠仁帝から三位中将信忠に譲位させる。そして、以前の南北朝の様に帝を二人建てる。実務の織田帝と祭祀の誠仁帝という形で、役割分担じゃな。隔年などとして居れば、政権に隙が生まれる。そこで役割に応じた二大天皇制を確立する予定だったのだが、肝心の帝位につくのを固辞し居った、昨日その話をしていたので、早朝の騒動の折りは、三位中将信忠の謀反かと思ったぞ」
※1 一条関白内基について
天正元年に分家の土佐一条家に下向している。
当時の土佐一条兼定は戦国大名として、
土佐國・伊予國で領土を拡大していたため、
長宗我部元親と共謀して、当主を息子に譲らせた上で、
追放している。
つまり、一条関白内基は土佐國の長宗我部元親と
伊予國の河野通直に対して《《貸し》》を作ったことになる。
しかし天正九年から織田信長の命を受けて、四国征伐が始まると、
伊予國河野氏は滅亡してしまう。
天正10年の本能寺の変は、長宗我部元親討伐の前夜と言えた。
稲葉伊予守も宗家伊予國河野氏の再興を画策していたと思われ、
一条関白内基自身が関白職を辞さねばならない事態になっており、
織田信長を本能寺で討つ筋書きが掛けて、理由もあった。
更に言えば、正親町帝自身は譲位に異論がなかったと伝わることから、
帝を代位できる一条関白内基の思惑が、
織田信長と対峙する要因になったと思われる。