第十弐話 天正十年 五月十五日 安土遠景山摠見寺
五月十五日に徳川蔵人佐と穴山玄蕃は安土城に到着した。
謁見の儀は安土城々内の登城途中にある、安土遠景山摠見寺にて執り行われた。
徳川蔵人佐と穴山玄蕃は、上様の前に恭しく進み出ると、甲州征伐のお祝いを改めて奏上した。
織田前右府様も、此度の徳川蔵人佐と穴山玄蕃の功績を讃えて、その働きぶりを労うとともに予てから約していた、安土にての饗応する旨を改めて下知された。
昼には、先ず『おちつき膳』が振舞われた。
御膳の台となる亀足には金箔が施され、皿も瀬戸の逸品から、漆器には金銀で図案をあしらったものが用意された。
膳は本膳を始めとして、六膳三十二品が饗された。
また晩には、『晩御膳』が振舞われた。
こちらは夜半の饗とのことで、軽く三膳十四品が振舞われた。
その晩、私(日向守)は上様に呼びつけられた。
「日向守よ!いったい何時に成ったら、徳川蔵人佐と穴山玄蕃の膳に毒を盛るのじゃ?」
私(日向守)は謹んで申し上げた。
「此度の両名の登城は供回りも少なく、上様に恭順の意を示しております。このような場で…」
上様は話の途中で席を立ち、言い放った。
「明日の饗応で必ず、誅せよ!毒にて始末出来ぬ折には、坂本に戻り軍で以て徳川蔵人佐と穴山玄蕃を逆賊として討伐を命ずる。毒なら病死として面目も保たれようが、逆賊討伐ともなれば、両家一族共々処刑する故、どちらに温情あるか?確と考えて事を成せ。これは上意と心得よ」
私(日向守)は言葉を発することも出来ずに、唯々平伏していた。
翌十六日の饗応は、午前の『御あさめし膳』と名して五膳三十二品が饗された。
その食事にも毒は入らなかった。
そして夕膳は八膳四十二品が饗された。
八膳目にもなると、酒も饗され灘の澄み酒が振舞われた。
『お添え肴』には、前日饗された“鯛のあつ物”が再び出された。
上様は終始不機嫌であったが、この膳を見るや日向守を座敷に呼びつけた。
私(日向守)が饗応の御座敷に入ると、膳に乗せられた“鯛のあつ物”を指さすと大声で怒鳴りつけた。
「日向守は昨日出した物を再び出すとは、儂に恥をかかせる気か!こんなものは腐っておるに違いない」
鯛は腐りにくく、味噌漬けにしたものを煮付けていて、早々腐るものではない。
そもそも饗応の膳なのだから、再度作り直したものを饗している…が、本旨はそこでは無いのであろう。
上様は膳ごと蹴とばすと続けて申し付けた。
「日向守の饗応役を解任致す。直ぐに坂本に戻り、中国攻めの支度を致せ!」
「ははっ」
私(日向守)は深々とお辞儀をした上で、徳川蔵人佐と穴山玄蕃には饗応の不始末を深く詫びると、座敷を退出して、急ぎ坂本城に向けて馬を走らせていた。
最後の二人への詫びは、今後逆賊として打ち取らねばならない、自らの中の矜持であった。
※1 その後は新たに近衛太政大臣卿を呼びつけ、徳川蔵人佐と穴山玄蕃と共に能楽に興じた。
五月十八日には、京四座の幸若八郎九郎大夫に舞を演じさせた。
五月十九日には、日向守が手配した地元丹波の猿楽師、梅若大夫に舞を演じさせたが、
織田前右府は演舞の所作が不出来と、悪し様に罵った。
ここで饗応役を堀久太郎(秀政)に命じている。
しかし日向守の家臣横尾茂朝を残して、饗応を続けていたため、
何らかの陰謀を指示されていたかも知れない。