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紅茶を飲みたかっただけ ~離縁を選んだ私はループする~

作者: 宮苑翼


 かたり、何かを置く音がする。実際に鳴った音なのか、それとも私の幻聴か。

 虚しさや悔しさ、昏い感情に支配された私には、冷静な判断ができなかった。

 それでも、一つだけ分かることがある。


 「離縁しましょう」


 この一言が、全ての始まりだった。




 「おはようございます、奥様。今日は良い天気ですよ。5年目の結婚記念日に相応しい天気です!」

 

 木漏れ日が差し込む寝室。明るい声が耳に届くと同時に、芳しい茶葉の香りが鼻をかすめた。


 晴れやかな笑顔で告げるのは、私付きの侍女だ。その声に曖昧な笑みを浮かべる。

 私がその言葉を聞くのは6回目。一言一句違えることなく、同じ言葉を聞いている。

 澄み渡る空の下、私は6回目の今日を迎えた。



 「それで? 今日はあなたたち夫婦の結婚記念日じゃなくて?」


 王都中心部にあるレストラン。日も暮れた夕刻、私は馬車に揺られ店を訪ねた。


 「まぁ、そうね」

 「なのに友人と食事でいいの? 私としては、嬉しいけれど」


 心配そうにこちらを窺う彼女。その表情を見るのも6度目だ。始まりのあの日から、一度も変わらず私を気にかけてくれる。


 「いいのよ。どうせ帰ってくるわけないもの」

 「ちょっと、どういうこと? 確かに最近、騎士団は忙しいみたいだけど」

 

 訝し気に尋ねる友人へ、苦く笑った。やはり心配させているようだ。その気持ちに感謝すると同時に、申し訳なくも思う。

 彼女が私の幸せを願ってくれているのは知っている。

 それでも、私は過去5回、離縁を選んでいた。


 「さぁ? もう何日顔を見ていないか、忘れてしまったわ」


 正確に言えば、数えられないのだ。まともに顔を合わせたのはいつだったか。

 少なくとも、同じ部屋で朝を迎えたのは、5年前の一度きり。寝室は同じはずなのに、顔を合わせることすらない。

 目が覚めて、真っ先に見るのは一人分空いたベッドだ。


 「あのマティアス様が? 学生時代、とても仲が良かったじゃない。幼馴染よね?」


 彼女の言うとおり、私とあの人は幼馴染だ。幼い頃から家ぐるみで付き合いがあり、気づけば婚約者となった。

 幼い頃は友達で、年頃になり婚約者と関係を変えた。関係が変わっても、変わらず私を大切にし、愛してくれた人。

 

 その愛は、いつの間にか消えてしまったようだけれど。もしかしたら、最初から男女の愛など無かったのではないか。そう疑いたくなるほどに、私たちの夫婦関係は冷え切っていた。


 誕生日や記念日、婚約者のときは二人で過ごしていた。夫婦になってからは、一度だって共にいたことはない。

 プレゼントこそ用意されていたが、渡されるのは侍女を介してだ。

 不在の夫から贈られるプレゼント。どうしてそれを喜べるだろう。5年目の今となっては、封を開けることすらできずにいる。


 「仕事関係、ってことかしら。何か聞いていないの?」

 「何も。話す機会すらないもの」

 

 そう言って、私は窓の外へ視線を向ける。

 窓から見える大通りには、見覚えのある男の姿があった。その隣には愛らしい女性が肩を並べている。

 楽しそうな笑みを浮かべ、道の先へ消えていく二人。恋人と呼ぶに相応しい姿だった。

 

 友人の息を呑む音が聞こえる。私の視線の先、それに気づいたようだ。

 私は彼女へ笑いかけると、シャンパングラスを傾けた。


 この後、私は屋敷に帰り彼を待つだろう。そして、6回目の離縁を申し出るのだ。きっとまた、同じ朝を迎えることになる。


 何度今日を繰り返しても、違う結論は出せなかった。

 女性と肩を並べ、夜の街へ消えていく夫。行く先がどこか、彼女とどんな関係なのか、私には分からない。


 もしかしたら、あの女性へお金やプレゼントを渡しているのかもしれない。私に用意するよりも、ずっと良い物を。

 けれど、それは然程苦しくなかった。不快には思うけれど、それ以上に許せないことがある。


 私が何より悔しく思うのは、私には決して割かれないあの人の()()、それを他の女性が手にしていることだった。


 「私たちの愛って、泡みたいなものだったのよ」


 シャンパンの海をきらきらと揺蕩う泡は、瞬く間に消えていった。



 



 「おはようございます、奥様。今日は良い天気ですよ。5年目の結婚記念日に相応しい天気です!」


 侍女の明るい声に、また同じ朝が来たと知る。これで7回目の今日だ。

 外は憎らしいまでの晴天で、雲一つない青空が広がっている。


 本当は、この状況を脱する一手に気づいていた。繰り返しが始まったのは、1回目のあの日。マティアスへ離縁を申し出たときだ。


 ならば、離縁を伝えなければいい。それだけで繰り返しが止まるかは不明だが、何かしらの変化が生まれるはず。

 それに気づいていて離縁を伝え続けたのは、私が彼を愛しているからだ。


 どうしようもなく愛しくて、裏切られた心が悲鳴を上げた。愛を受け取ってもらえないのなら、せめて幕引きは私の手で。小さなプライドだけが、私を突き動かしていた。


 私とて、何もせず離縁を伝えたわけではない。できる限りの手は打っていた。一日という短い時間、できることは限られていたけれど。今日は早く帰ってきてと、使いを走らせたこともある。


 それでも、彼は帰ってこなかった。常と変わらず、日付を跨いだ頃の帰宅。何一つ変わらない結果に、私の心は疲弊した。


 結局、諦めるしかなかった。願いは届かず、自身での幕引きすら叶わない。

 ならば、私は私の心を守ることだけを考えよう。


 まずは、明日を取り戻す。そこからどうするかを考えても、バチは当たらないはずだ。


 「ねぇ、急ぎの連絡をしてほしいのだけど」


 便箋に概要を認めて、封をする。それを侍女に渡すと、彼女はにこやかに笑って引き受けた。


 


 「それで? 今日はあなたたち夫婦の結婚記念日じゃなくて?」


 ここは王都の外れにある、小さなレストラン。外は茜色に染まり、人々の影が伸びている。家路を急ぐ人の流れを眺めていると、友人がそう口火を切った。


 「まぁ、そうね」

 「なのに友人と食事でいいの? 私としては、嬉しいけれど。突然店を変えたいなんて連絡が着て、驚いたのよ?」


 何かあったの? そう言って心配そうに私を見る彼女。友人の心遣いに、胸が温かくなるのを感じた。

 彼女は何回目であっても、こうして変化を起こしても、変わらず私を心配してくれる。その姿に、少しだけ涙が出そうになった。


 「いいのいいの! どうせあの人は帰ってこないもの! それに、この店ずっと気になっていたのよ。突然店を変えたいなんて言って、ごめんなさいね」

 「それはいいけれど……」


 からりと笑う私に、友人は眉を顰める。今は嘘でも明るく振る舞いたかった。


 7回目にして、初めて起こした大きな変化。これが吉と出るか凶と出るかは分からない。

 こんなことをしても、あの人の行動は変わらないだろう。今回も、あの愛らしい女性と寄り添っているに違いない。


 それでもいい。私は明日を取り戻す。そのためならば、今日は口を噤むと決めたのだ。離縁も何もかも、明日を取り戻してからでも遅くはない。

 せめてあの光景を見なくて済むように、私は店を変えた。今日という一日を、笑って終えたかったのだ。


 今までと違う店。あの人の姿を見なくて済む場所。それは、私にとって心安らぐ空間だった。

 美味しい食事に舌鼓を打ち、会話に花を咲かせる。夫のことは一切話さなかった。彼女も何か感じ取ったのか、深く聞いてくることはない。

 

 学生時代を思わせる気楽な時間。ここ数日、こんなに笑えることはなかった。繰り返しが始まってからというもの、私はいつも怯えていた。


 明日が来なかったらどうしよう、またあの人が他の女性といる姿を見るのだろうか。そんなことばかりが頭に浮かんで、心から笑えずにいた。

 

 そんな私にとって、友人と心置きなく笑える今は、何よりありがたい時間だった。


 「今日は楽しかったわ。このお店も美味しかったし! またここで食事しましょう」

 「こちらこそありがとう、突然の我儘を聞いてくれて」

 

 楽しかった時間も終わり、友人と別れの挨拶をする。彼女は私の言葉を聞くと、「気にしなくていいわよ!」と明るく笑った。


 「クラウディア、帰りは気をつけてね? 最近女性を狙う不届き者がいるらしいから」

 「あら、そうなの?」

 「中心部では起きていないようだけれど、王都の町はずれでは被害があるそうよ。このエリアも、不届き者がいても可笑しくないわ。注意してね」

 「ありがとう。あなたも気をつけて。

 さぁ早く馬車に乗ってちょうだい。ここを選んだのは私だもの、見送りくらいはさせてもらうわ」

 

 先に友人を馬車に乗せて、帰りを見送った。不届き者がいるという情報に、見送らなければ心配だった。

 同じことを彼女も考えているだろうが、ここは譲れない。いつも優しい彼女に、私も友人としてできることをしたかった。

 

 友人の馬車が見えなくなった頃、我が家の御者へ声をかける。優しく微笑んで扉を開けてくれた。


 馬車へ乗り込もうとしたときのことだ。ぽつりと私の名を呼ぶ声が耳に届いた。


 「……クラウディア……?」


 その声に、私は足を止める。視線を向けると、そこには仲睦まじく肩を並べる二人の姿があった。可愛らしい女性と、私の夫であるはずの男。


 なぜか驚いたような瞳でこちらを見る彼に、私はくすりと笑みをこぼした。なぜ彼が驚いているのか。その顔をすべきは、私だろうに。


 「お久しぶりですね、お元気そうで何より」


 私はそう言って微笑んだ。

 そうしなければ、涙がこぼれそうだった。この光景を見たくなくて、店を変えたというのに。どうあがいても、この現実からは逃れられないのか。


 それならばせめて、みっともない真似は見せずにいよう。泣いて縋ることもしない。本当は、泣いて、縋って、詰ってやりたいけれど。

 私にもわずかばかりのプライドがある。傷つけられたまま、何もなさずには終われない。

 だからこそ、笑うのだ。涙などくれてやるものか。


 「クラウディア……、俺は、」

 「ごきげんよう、お二方。美しい夜ね」


 自分に出来得るかぎりの笑みをのせる。口の端までも完璧に。引きつり一つない美しい笑みを見せた。


 馬車に乗り込み、御者へ出すように命じる。幾ばくか迷う素振りを見せたものの、私の表情に察するものがあったのだろう。彼は静かに馬車を走らせた。


 馬車の中、私の名を呼ぶ声は聞こえない。


 



 「お帰りなさいませ、奥様」

 「ありがとう。少し疲れてしまったの。寝る準備を整えてもらえるかしら」

 「かしこまりました。湯浴みの支度をしてまいります」


 侍女は私の言葉に従い、速やかに支度を始める。

 もう今日は寝てしまおう。6回目までは離縁を申し出るために、あの人が帰ってくるのを待っていた。

 けれど、今回は離縁を申し出るつもりはない。少なくとも、今日の内は。先のことは明日を取り戻してから考えよう。


 侍女に助けられ、就寝準備が終わる。そのまま寝る旨を伝えると、彼女は静かに部屋を後にした。


 一人きりの寝室。これにももう、慣れたものだ。冷えきったベッドに入ることも、一人分空いたベッドで目を覚ますのも。あの人のいない寝室が、当たり前になっていた。


 これだけの思いをしても、あの人を思い出すことはやめられないのか。そんな自分に気づいて苦く笑った。

 この繰り返しさえ終われば、一つの問題は片がつく。離縁をするにせよ、仮面夫婦を続けるにせよ、まずは明日を迎えなければ。


 ソファーから立ち上がり、ベッドへ向かう。さぁ、もう眠ってしまおう。ベッドに片足を乗せたところで、勢いよく寝室の扉が開いた。


 「クラウディア!」


 その勢いに、驚きのあまり私の動きが止まる。扉へ視線を向けると、あがる息を懸命に抑える夫の姿があった。


 片足をベッドから下ろし、彼のいる方へ身体を向ける。

 一瞬、頭の中によぎる。このまま、無視して寝てしまえばいいと。彼が何を言うつもりかは知らないが、私が付き合う必要はあるのだろうか、と。


 話がしたい、早く帰ってきてほしい。そんな私の願いに、彼が答えることはなかったのに。


 それでも、無視はできなくて。これほど苦しんでいてもなお、彼を愛しているのだと実感する。

 本当に、諦めの悪い女だ。もっと早く割り切れたのなら、きっと、ここまで苦しくはなかったのに。


 「どうかなさいまして? 急ぎでないのなら明日でいいかしら。私、もう寝たいのよ」


 薄く笑みを浮かべて告げる私に、彼は目を見開いた。はくはくと口を開くも、声が出てこないようだ。

 話すことがないのなら、本当に寝てしまおうか。そんな気持ちでベッドに視線を向けると、右腕が勢いよく引っ張られた。

 受けたことのない手荒な振る舞いに、私は驚いて硬直する。彼は何も言わず、私をその腕の中へ抱き込んだ。


 「っ、一体何を……!」

 「すまない」


 私の文句は、彼の一言で封じられる。言葉の意味が理解できず、反論の声が止まる。

 一体、何のための謝罪なのか。手荒に扱ったことか。それとも、先ほど私に目撃された件か。

 

 喉が震える。今までだって、謝られたことはなかった。「離縁しましょう」その一言を告げたあと、意識が戻るのは朝だったからだ。

 私が申し出たことに、彼は何と返すつもりだったのだろう。あっさりと離縁を受け入れたのだろうか。それとも、今のように謝罪してくれたのか。


 「君が俺に怒るのも無理はない。けれど、どうかいなくならないでほしい。俺を、捨てないでくれ」


 震える声が耳に届く。私を捨てたのは、あなたなのに。一人家に放置され、外で楽しく過ごしていたあなた。あなたこそが、私を捨てたのではないのか。


 「クラウディア、君が俺を嫌いになったならそれでもいい。一生憎んで、許さなくてもいい。

 ただ一つだけ、君の夫という立場、これだけは俺から奪わないでくれ」


 抱きしめる腕が震えている。それを指摘することもできず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。何を返せばいいのか。それすら分からなくて。


 「愛しているんだ。俺は君にとって決して良い夫ではなかっただろう。本当ならば、こんな男からは解放するべきなのかもしれない。

 仕事ばかりで家に帰れず、帰っても君の顔が見られなかった。そんな男に、愛想をつかすのは当然だ。


 それでも、それでもどうか、離縁だけはしないでくれ。君の夫でいさせてほしい」


 震える声で紡ぐのは、彼の懺悔だ。痛いほどに込められた感情が、私の心を強く揺さぶる。


 ならばどうして、もっと早く家庭を顧みてくれなかったのか。なぜ、私はあなたのいない家に置いて行かれたのか。なぜ、記念日の夜、あの女性と並んで歩いていたのか。

 その全てが私には分からない。


 「……分かりません。あなたの言うことが、私には何一つ」


 呟く声は平坦だ。震えを抑え、感情すらも抑え込む。ここで縋れたなら可愛げもあっただろうか。そう頭に浮かんで、自嘲した。

 そんなこと、できやしないのに。プライドが邪魔をして、彼の手を掴むことすらできなかったではないか。


 「クラウディア、」

 「あなたが仕事で忙しくしていたこと、それは分かっています。けれど、それと今日のこと。一体何の関係が?」


 顔にうっすらと笑みを乗せる。きっと美しさとは無縁だろう。不恰好な笑みを浮かべているに違いない。


 今日はもう伝えない。そう思っていたことが、口から滑り出てくる。明日を迎える、それを優先したはずなのにこのザマだ。この人の言葉一つで、こうも心が揺さぶられるなんて。


 「可愛らしい女性でしたね。楽しく過ごされていたのに、屋敷に帰ってきて良かったんですか?」


 まだ日付けが変わっていませんよ? そう微笑んで問いかける。

 いつもより早い帰宅。なぜ、今日に限って。いつも通りの帰宅なら、私は何も言うことなく明日を迎えられただろう。


 あぁ、何もかもが上手くいかない。自分の心なのに、なぜ思うようにできないのか。

 

 「あなたを待つのも、我慢するのも疲れました。

 ……もっと早く、諦められたら楽だったのに」


 帰らない夜を、数えるのは疲れてしまった。いつ会えるのかと、待ち続けることも。

 同じ家に住んでいるはずなのに、私はずっと一人だった。侍女に気遣われるのも、もうたくさんだ。


 「マティアス、あなたに伝えたいことがあるのです」


 本当は、言うべきではないのだろう。それでも、口は閉じてくれない。また同じ今日を迎えるのだとしても、その可能性を理解していても、言葉は止まらなかった。


 「離縁し、」

 「離縁はしない。絶対にだ」


 強い否定の言葉と共に、身体が強く押し出される。ベッドのスプリングがきしむ。突然の暴挙に苛立ちが募り、文句を言おうと彼を見上げた。

 瞬間、出すべき言葉は宙に消えた。彼の瞳から落ちる雫に、目を奪われたのだ。


 「すまない、クラウディア」

 

 ぽたり、頬に雨が落ちる。彼の瞳から零されるそれは、私の頬を濡らしていく。

 彼の涙だと気づき愕然とした。彼が泣くのは、幼少期親に怒られた以来だろうか。私はそれ以外に、この人の涙を知らない。


 「俺がもっと器用なら、君を一人にしなかった。俺にもっと勇気があれば、君の顔を見ることができた」


 言葉が雨のように降り注ぐ。この人がこんなに喋るのは、何年ぶりだろうか。

 普通に考えれば、大した会話量ではない。そんな言葉数にすら驚くほどに、私と彼の間に会話はなかった。


 「騎士になったばかりの頃、要領が悪く、帰りはいつも日を跨ぐようになった。君は俺を気遣って、我儘一つ言わなかったな。それに、俺は甘えていた」


 私と彼の結婚は、学園を卒業してすぐに行われた。卒業後すぐ騎士になった彼からすれば、大きなイベントが二つ起こったことになる。


 だからこそ、私も文句は言わなかった。いつかきっと、落ち着いて顔を合わすことができる。一年経てば慣れるだろう、来年になれば仕事も落ち着くだろう、そんな風に自分を慰めていた。

 

 結果はご覧の通りだ。5年経った今でも、まともな会話はできずにいた。

 仕事にも慣れたはず、それでも増やされない夫婦の時間に、私の心は悲鳴を上げた。いつまで待てばいいのか。いつになれば、また笑い合いながら話ができるのか。不安ばかりが胸を突いた。


 「やっと周囲を見渡せるようになったとき、愕然としたんだ。同じ家に住んでいたはずなのに、君の顔をまともに見ていなかったことに気づいた。そのときに謝って、話ができればよかった。


 でも、できなかった。怖くて顔が見られなかった。君の瞳に、俺はもう映っていないのではないかと。


 嫌われているのならまだいい。もう何とも思っていないのかもしれない。ただの他人としか見られていないかもしれない。

 ……それを突き付けられるのが、何より怖かった」


 彼の瞳からこぼれる涙を、静かに見つめる。眉は寄せられ、瞳は揺れていた。美しい顔も、今ではくしゃりと歪んでいる。

 それを見て、胸の中に温かさが広がっていく。自分だけではなかった。この関係に苦しんでいたのは、彼も同じだったのだと。


 「結婚すれば、幸せになれると思っていた。当然のように、幸せな日常が待っているのだと。

 けれど、それは違った。俺の未熟さが幸せな生活を壊してしまった。踏み出す勇気さえあれば、変えられたかもしれないのに。

 それでも怖かった。君の瞳に、君の心の中に俺がいないこと。それを知るのが、何より怖かった」


 言葉を紡ぐごとに、大粒の涙がこぼれ落ちる。それをそっと、指で拭った。彼へ手を伸ばしたのは、何年ぶりだろうか。

 伸ばした手は、弾かれることなく頬へ届く。彼は一瞬目を丸めると、私の手に擦り寄った。目を細め、唇を噛み締めている。その瞳からは、またぽろりと涙がこぼれた。


 「馬鹿ね……本当に、大馬鹿だわ。あなたも、私も」


 手を伸ばせばこんなに近くにあって。口を開けば聞こえる距離にいて。お互いに、ただ怯えているだけだった。嫌われたくなくて、決定的な最後を知りたくなくて。

 それがここまで状況を可笑しくさせたなんて、笑い話にもなりはしない。


 「ならマティアス、あの女性は……?」


 そう問いかける私に、彼はぱちりと目を瞬かせる。不思議そうな顔でこちらを見たあと、やっと思い至ったのか、「あぁ!」と口を開いた。


 「彼女は騎士団に相談に来ていたんだ。君は知っているかな? 今、王都の外れで女性を狙う不届き者がいてね。騎士団はその対応に追われているんだ。犯人の確保だけでなく、女性を守るために巡回もしている」


 彼の言葉に、友人の話を思い出した。騎士団が最近忙しそうなこと、町はずれで不届き者が出ること、そのどちらも話題に上がっていた。

 つまり、彼があの女性と共に歩いていたのは、


 「あぁ……もう嫌になる」


 結局のところ、私の勘違いということか。すれ違ってばかりの夫婦生活に、全てが疑わしく見えていた。

 夫と会話することがなく、騎士団の動向も知らなかった。夫に関連するもの、それを避けていたからだ。彼が帰らない理由、それを知るのが怖かった。


 「ク、クラウディア? 大丈夫か?」


 遠い目をする私を、彼が心配げに見下ろす。眉を下げてこちらを見る姿は、5年前と何ら変わりない。臆病過ぎた私たちは、ただすれ違ってしまっただけなのだ。


 「ごめんなさい、マティアス」


 謝るべきは、彼だけではない。勝手に不安になって、手を伸ばさなかったこと。それは、私の過ちだ。

 互いに臆病だった私たちは、声をかけることも、手を伸ばすこともできなくなっていたのだ。


 私の目尻から涙がこぼれ落ちる。彼はそれに声を詰まらせた。


 「好きよ、今でも。あなたを愛しているの。……ただ一言、伝えるだけで良かったのね」


 ぽろぽろと、私の目から涙がこぼれる。答えはとてもシンプルで、複雑にしてたのは自分自身だったのだ。


 もっと勇気があったなら、彼に向き合えただろう。変に遠慮して、嫌われたくなくて、いい女でいようとした。私たちは同じだけで臆病で、同じだけ互いを愛していた。


 私の一言に、彼の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。震える声で、何度も私の名を呼んだ。彼につられるように、私の目にも涙が浮かぶ。


 久しく泣いていなかったためか、涙腺は壊れてしまったようだ。壊れた蛇口のように、絶え間なく涙が滑り落ちていく。私の苦しみも、彼の苦しみも、何もかもを吐き出すかのように。


 私たちは、二人で手を握りながら、夜が明けるまで泣き続けた。何度も何度も名前を呼んで、互いに謝りあって。幼い子どものように、二人で泣きじゃくったのだ。


 


 鳥の囀りが聞こえる。それに、私はゆっくりと目を開けた。

 寝室には木漏れ日が差し込んでおり、夜が明けたことを知らせている。


 ベッドの中は温かく、いつもより狭い。それに気づいて、私は慌てて起き上がった。

 隣へ視線を向けると、5年ぶりの夫の姿がある。顔にはいくつもの涙の跡が残っていた。


 その姿に、昨夜を思い出す。泣き疲れて、二人とも寝てしまったのだろう。まるで子どもそのものではないかと、笑いが込み上げてきた。


 「……クラウディア?」


 私の笑い声に気づいたのだろうか。彼は目を擦りながらこちらを見上げる。泣き疲れた目が重いようだ。可愛らしい仕草に、くすりと笑みをこぼす。


 「おはよう、マティアス」


 この言葉を告げるのも、5年ぶりだ。一人分空いていたベッドには、今は二人揃って並んでいる。それがどうしようもなく愛しくて、私の目尻に一筋の涙が流れた。


 「おはよう、クラウディア」


 嬉しそうな笑みを浮かべ、彼は私に手を伸ばす。節くれだった指が、そっと涙を拭ってくれた。お互いに赤くなった目を見て、なんだか笑いが込み上げてくる。

 昨夜、子どものように泣きじゃくった私たちは、笑い合いながら朝を迎えた。


 「おはようございます、旦那様、奥様。仲がよろしいようでほっといたしました」


 侍女が室内へ入ってくると、そう挨拶を述べる。その言葉に、やっと明日を取り戻したのだと実感した。


 「あら、旦那様。こちらの砂時計は壊れているようですね。処分しても?」

 「砂時計が? ......あぁ、そうか。済まないが片付けてもらえるか」

 「かしこまりました」


 速やかに拾い上げると、カートの下段に置いていく。高価そうな作りのそれに、私はマティアスへ問いかけた。修理に出さなくて良いのか、そう尋ねると、彼は何も言わず笑った。


 朝のお茶を淹れ終わると、侍女は静かに退出した。ベッド・ティー。私たちの手元には、温かなティーカップが握られている。


 「クラウディア、昨日のことだけれど」


 侍女の退出を見届け、マティアスが口を開く。視線を向けると、どこか緊張した面持ちの彼の姿があった。


 「俺は、君と離縁をするつもりはない。君も同じ気持ちだと、思っても良いだろうか」


 真剣な瞳で見つめる彼に、私は微笑みを浮かべた。離縁、それをする意味はもうなくなったのだ。


 「えぇ、もちろんよ。だって、私の願いは叶ったもの」


 私の言葉を聞き、一瞬不思議そうにするも、彼は嬉しそうにはにかんだ。きらきらとした瞳を見て、私も自然と笑みがこぼれる。


 ティーカップの中、温かな水面には、笑い合う私たちの姿が映っている。





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― 新着の感想 ―
[良い点] もう遅い、ではなくきちんと会話してやり直しができたのは良かったなと思います。 [気になる点] 自分が傷つきたくないから相手を傷つける系の男って大の苦手なんですが、マティアスにそれを凌駕する…
[気になる点] 最後の描写から夫が砂時計でループしていた?のだと仮定するとあまりにクズ そもそも仕事が忙しくて妻に会えない→嫌われてるかも〜怖いようベソベソがみっともない 自分の感情しか慮ることがで…
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