紅茶を飲みたかっただけ ~離縁を選んだ私はループする~
かたり、何かを置く音がする。実際に鳴った音なのか、それとも私の幻聴か。
虚しさや悔しさ、昏い感情に支配された私には、冷静な判断ができなかった。
それでも、一つだけ分かることがある。
「離縁しましょう」
この一言が、全ての始まりだった。
「おはようございます、奥様。今日は良い天気ですよ。5年目の結婚記念日に相応しい天気です!」
木漏れ日が差し込む寝室。明るい声が耳に届くと同時に、芳しい茶葉の香りが鼻をかすめた。
晴れやかな笑顔で告げるのは、私付きの侍女だ。その声に曖昧な笑みを浮かべる。
私がその言葉を聞くのは6回目。一言一句違えることなく、同じ言葉を聞いている。
澄み渡る空の下、私は6回目の今日を迎えた。
「それで? 今日はあなたたち夫婦の結婚記念日じゃなくて?」
王都中心部にあるレストラン。日も暮れた夕刻、私は馬車に揺られ店を訪ねた。
「まぁ、そうね」
「なのに友人と食事でいいの? 私としては、嬉しいけれど」
心配そうにこちらを窺う彼女。その表情を見るのも6度目だ。始まりのあの日から、一度も変わらず私を気にかけてくれる。
「いいのよ。どうせ帰ってくるわけないもの」
「ちょっと、どういうこと? 確かに最近、騎士団は忙しいみたいだけど」
訝し気に尋ねる友人へ、苦く笑った。やはり心配させているようだ。その気持ちに感謝すると同時に、申し訳なくも思う。
彼女が私の幸せを願ってくれているのは知っている。
それでも、私は過去5回、離縁を選んでいた。
「さぁ? もう何日顔を見ていないか、忘れてしまったわ」
正確に言えば、数えられないのだ。まともに顔を合わせたのはいつだったか。
少なくとも、同じ部屋で朝を迎えたのは、5年前の一度きり。寝室は同じはずなのに、顔を合わせることすらない。
目が覚めて、真っ先に見るのは一人分空いたベッドだ。
「あのマティアス様が? 学生時代、とても仲が良かったじゃない。幼馴染よね?」
彼女の言うとおり、私とあの人は幼馴染だ。幼い頃から家ぐるみで付き合いがあり、気づけば婚約者となった。
幼い頃は友達で、年頃になり婚約者と関係を変えた。関係が変わっても、変わらず私を大切にし、愛してくれた人。
その愛は、いつの間にか消えてしまったようだけれど。もしかしたら、最初から男女の愛など無かったのではないか。そう疑いたくなるほどに、私たちの夫婦関係は冷え切っていた。
誕生日や記念日、婚約者のときは二人で過ごしていた。夫婦になってからは、一度だって共にいたことはない。
プレゼントこそ用意されていたが、渡されるのは侍女を介してだ。
不在の夫から贈られるプレゼント。どうしてそれを喜べるだろう。5年目の今となっては、封を開けることすらできずにいる。
「仕事関係、ってことかしら。何か聞いていないの?」
「何も。話す機会すらないもの」
そう言って、私は窓の外へ視線を向ける。
窓から見える大通りには、見覚えのある男の姿があった。その隣には愛らしい女性が肩を並べている。
楽しそうな笑みを浮かべ、道の先へ消えていく二人。恋人と呼ぶに相応しい姿だった。
友人の息を呑む音が聞こえる。私の視線の先、それに気づいたようだ。
私は彼女へ笑いかけると、シャンパングラスを傾けた。
この後、私は屋敷に帰り彼を待つだろう。そして、6回目の離縁を申し出るのだ。きっとまた、同じ朝を迎えることになる。
何度今日を繰り返しても、違う結論は出せなかった。
女性と肩を並べ、夜の街へ消えていく夫。行く先がどこか、彼女とどんな関係なのか、私には分からない。
もしかしたら、あの女性へお金やプレゼントを渡しているのかもしれない。私に用意するよりも、ずっと良い物を。
けれど、それは然程苦しくなかった。不快には思うけれど、それ以上に許せないことがある。
私が何より悔しく思うのは、私には決して割かれないあの人の時間、それを他の女性が手にしていることだった。
「私たちの愛って、泡みたいなものだったのよ」
シャンパンの海をきらきらと揺蕩う泡は、瞬く間に消えていった。
「おはようございます、奥様。今日は良い天気ですよ。5年目の結婚記念日に相応しい天気です!」
侍女の明るい声に、また同じ朝が来たと知る。これで7回目の今日だ。
外は憎らしいまでの晴天で、雲一つない青空が広がっている。
本当は、この状況を脱する一手に気づいていた。繰り返しが始まったのは、1回目のあの日。マティアスへ離縁を申し出たときだ。
ならば、離縁を伝えなければいい。それだけで繰り返しが止まるかは不明だが、何かしらの変化が生まれるはず。
それに気づいていて離縁を伝え続けたのは、私が彼を愛しているからだ。
どうしようもなく愛しくて、裏切られた心が悲鳴を上げた。愛を受け取ってもらえないのなら、せめて幕引きは私の手で。小さなプライドだけが、私を突き動かしていた。
私とて、何もせず離縁を伝えたわけではない。できる限りの手は打っていた。一日という短い時間、できることは限られていたけれど。今日は早く帰ってきてと、使いを走らせたこともある。
それでも、彼は帰ってこなかった。常と変わらず、日付を跨いだ頃の帰宅。何一つ変わらない結果に、私の心は疲弊した。
結局、諦めるしかなかった。願いは届かず、自身での幕引きすら叶わない。
ならば、私は私の心を守ることだけを考えよう。
まずは、明日を取り戻す。そこからどうするかを考えても、バチは当たらないはずだ。
「ねぇ、急ぎの連絡をしてほしいのだけど」
便箋に概要を認めて、封をする。それを侍女に渡すと、彼女はにこやかに笑って引き受けた。
「それで? 今日はあなたたち夫婦の結婚記念日じゃなくて?」
ここは王都の外れにある、小さなレストラン。外は茜色に染まり、人々の影が伸びている。家路を急ぐ人の流れを眺めていると、友人がそう口火を切った。
「まぁ、そうね」
「なのに友人と食事でいいの? 私としては、嬉しいけれど。突然店を変えたいなんて連絡が着て、驚いたのよ?」
何かあったの? そう言って心配そうに私を見る彼女。友人の心遣いに、胸が温かくなるのを感じた。
彼女は何回目であっても、こうして変化を起こしても、変わらず私を心配してくれる。その姿に、少しだけ涙が出そうになった。
「いいのいいの! どうせあの人は帰ってこないもの! それに、この店ずっと気になっていたのよ。突然店を変えたいなんて言って、ごめんなさいね」
「それはいいけれど……」
からりと笑う私に、友人は眉を顰める。今は嘘でも明るく振る舞いたかった。
7回目にして、初めて起こした大きな変化。これが吉と出るか凶と出るかは分からない。
こんなことをしても、あの人の行動は変わらないだろう。今回も、あの愛らしい女性と寄り添っているに違いない。
それでもいい。私は明日を取り戻す。そのためならば、今日は口を噤むと決めたのだ。離縁も何もかも、明日を取り戻してからでも遅くはない。
せめてあの光景を見なくて済むように、私は店を変えた。今日という一日を、笑って終えたかったのだ。
今までと違う店。あの人の姿を見なくて済む場所。それは、私にとって心安らぐ空間だった。
美味しい食事に舌鼓を打ち、会話に花を咲かせる。夫のことは一切話さなかった。彼女も何か感じ取ったのか、深く聞いてくることはない。
学生時代を思わせる気楽な時間。ここ数日、こんなに笑えることはなかった。繰り返しが始まってからというもの、私はいつも怯えていた。
明日が来なかったらどうしよう、またあの人が他の女性といる姿を見るのだろうか。そんなことばかりが頭に浮かんで、心から笑えずにいた。
そんな私にとって、友人と心置きなく笑える今は、何よりありがたい時間だった。
「今日は楽しかったわ。このお店も美味しかったし! またここで食事しましょう」
「こちらこそありがとう、突然の我儘を聞いてくれて」
楽しかった時間も終わり、友人と別れの挨拶をする。彼女は私の言葉を聞くと、「気にしなくていいわよ!」と明るく笑った。
「クラウディア、帰りは気をつけてね? 最近女性を狙う不届き者がいるらしいから」
「あら、そうなの?」
「中心部では起きていないようだけれど、王都の町はずれでは被害があるそうよ。このエリアも、不届き者がいても可笑しくないわ。注意してね」
「ありがとう。あなたも気をつけて。
さぁ早く馬車に乗ってちょうだい。ここを選んだのは私だもの、見送りくらいはさせてもらうわ」
先に友人を馬車に乗せて、帰りを見送った。不届き者がいるという情報に、見送らなければ心配だった。
同じことを彼女も考えているだろうが、ここは譲れない。いつも優しい彼女に、私も友人としてできることをしたかった。
友人の馬車が見えなくなった頃、我が家の御者へ声をかける。優しく微笑んで扉を開けてくれた。
馬車へ乗り込もうとしたときのことだ。ぽつりと私の名を呼ぶ声が耳に届いた。
「……クラウディア……?」
その声に、私は足を止める。視線を向けると、そこには仲睦まじく肩を並べる二人の姿があった。可愛らしい女性と、私の夫であるはずの男。
なぜか驚いたような瞳でこちらを見る彼に、私はくすりと笑みをこぼした。なぜ彼が驚いているのか。その顔をすべきは、私だろうに。
「お久しぶりですね、お元気そうで何より」
私はそう言って微笑んだ。
そうしなければ、涙がこぼれそうだった。この光景を見たくなくて、店を変えたというのに。どうあがいても、この現実からは逃れられないのか。
それならばせめて、みっともない真似は見せずにいよう。泣いて縋ることもしない。本当は、泣いて、縋って、詰ってやりたいけれど。
私にもわずかばかりのプライドがある。傷つけられたまま、何もなさずには終われない。
だからこそ、笑うのだ。涙などくれてやるものか。
「クラウディア……、俺は、」
「ごきげんよう、お二方。美しい夜ね」
自分に出来得るかぎりの笑みをのせる。口の端までも完璧に。引きつり一つない美しい笑みを見せた。
馬車に乗り込み、御者へ出すように命じる。幾ばくか迷う素振りを見せたものの、私の表情に察するものがあったのだろう。彼は静かに馬車を走らせた。
馬車の中、私の名を呼ぶ声は聞こえない。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ありがとう。少し疲れてしまったの。寝る準備を整えてもらえるかしら」
「かしこまりました。湯浴みの支度をしてまいります」
侍女は私の言葉に従い、速やかに支度を始める。
もう今日は寝てしまおう。6回目までは離縁を申し出るために、あの人が帰ってくるのを待っていた。
けれど、今回は離縁を申し出るつもりはない。少なくとも、今日の内は。先のことは明日を取り戻してから考えよう。
侍女に助けられ、就寝準備が終わる。そのまま寝る旨を伝えると、彼女は静かに部屋を後にした。
一人きりの寝室。これにももう、慣れたものだ。冷えきったベッドに入ることも、一人分空いたベッドで目を覚ますのも。あの人のいない寝室が、当たり前になっていた。
これだけの思いをしても、あの人を思い出すことはやめられないのか。そんな自分に気づいて苦く笑った。
この繰り返しさえ終われば、一つの問題は片がつく。離縁をするにせよ、仮面夫婦を続けるにせよ、まずは明日を迎えなければ。
ソファーから立ち上がり、ベッドへ向かう。さぁ、もう眠ってしまおう。ベッドに片足を乗せたところで、勢いよく寝室の扉が開いた。
「クラウディア!」
その勢いに、驚きのあまり私の動きが止まる。扉へ視線を向けると、あがる息を懸命に抑える夫の姿があった。
片足をベッドから下ろし、彼のいる方へ身体を向ける。
一瞬、頭の中によぎる。このまま、無視して寝てしまえばいいと。彼が何を言うつもりかは知らないが、私が付き合う必要はあるのだろうか、と。
話がしたい、早く帰ってきてほしい。そんな私の願いに、彼が答えることはなかったのに。
それでも、無視はできなくて。これほど苦しんでいてもなお、彼を愛しているのだと実感する。
本当に、諦めの悪い女だ。もっと早く割り切れたのなら、きっと、ここまで苦しくはなかったのに。
「どうかなさいまして? 急ぎでないのなら明日でいいかしら。私、もう寝たいのよ」
薄く笑みを浮かべて告げる私に、彼は目を見開いた。はくはくと口を開くも、声が出てこないようだ。
話すことがないのなら、本当に寝てしまおうか。そんな気持ちでベッドに視線を向けると、右腕が勢いよく引っ張られた。
受けたことのない手荒な振る舞いに、私は驚いて硬直する。彼は何も言わず、私をその腕の中へ抱き込んだ。
「っ、一体何を……!」
「すまない」
私の文句は、彼の一言で封じられる。言葉の意味が理解できず、反論の声が止まる。
一体、何のための謝罪なのか。手荒に扱ったことか。それとも、先ほど私に目撃された件か。
喉が震える。今までだって、謝られたことはなかった。「離縁しましょう」その一言を告げたあと、意識が戻るのは朝だったからだ。
私が申し出たことに、彼は何と返すつもりだったのだろう。あっさりと離縁を受け入れたのだろうか。それとも、今のように謝罪してくれたのか。
「君が俺に怒るのも無理はない。けれど、どうかいなくならないでほしい。俺を、捨てないでくれ」
震える声が耳に届く。私を捨てたのは、あなたなのに。一人家に放置され、外で楽しく過ごしていたあなた。あなたこそが、私を捨てたのではないのか。
「クラウディア、君が俺を嫌いになったならそれでもいい。一生憎んで、許さなくてもいい。
ただ一つだけ、君の夫という立場、これだけは俺から奪わないでくれ」
抱きしめる腕が震えている。それを指摘することもできず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。何を返せばいいのか。それすら分からなくて。
「愛しているんだ。俺は君にとって決して良い夫ではなかっただろう。本当ならば、こんな男からは解放するべきなのかもしれない。
仕事ばかりで家に帰れず、帰っても君の顔が見られなかった。そんな男に、愛想をつかすのは当然だ。
それでも、それでもどうか、離縁だけはしないでくれ。君の夫でいさせてほしい」
震える声で紡ぐのは、彼の懺悔だ。痛いほどに込められた感情が、私の心を強く揺さぶる。
ならばどうして、もっと早く家庭を顧みてくれなかったのか。なぜ、私はあなたのいない家に置いて行かれたのか。なぜ、記念日の夜、あの女性と並んで歩いていたのか。
その全てが私には分からない。
「……分かりません。あなたの言うことが、私には何一つ」
呟く声は平坦だ。震えを抑え、感情すらも抑え込む。ここで縋れたなら可愛げもあっただろうか。そう頭に浮かんで、自嘲した。
そんなこと、できやしないのに。プライドが邪魔をして、彼の手を掴むことすらできなかったではないか。
「クラウディア、」
「あなたが仕事で忙しくしていたこと、それは分かっています。けれど、それと今日のこと。一体何の関係が?」
顔にうっすらと笑みを乗せる。きっと美しさとは無縁だろう。不恰好な笑みを浮かべているに違いない。
今日はもう伝えない。そう思っていたことが、口から滑り出てくる。明日を迎える、それを優先したはずなのにこのザマだ。この人の言葉一つで、こうも心が揺さぶられるなんて。
「可愛らしい女性でしたね。楽しく過ごされていたのに、屋敷に帰ってきて良かったんですか?」
まだ日付けが変わっていませんよ? そう微笑んで問いかける。
いつもより早い帰宅。なぜ、今日に限って。いつも通りの帰宅なら、私は何も言うことなく明日を迎えられただろう。
あぁ、何もかもが上手くいかない。自分の心なのに、なぜ思うようにできないのか。
「あなたを待つのも、我慢するのも疲れました。
……もっと早く、諦められたら楽だったのに」
帰らない夜を、数えるのは疲れてしまった。いつ会えるのかと、待ち続けることも。
同じ家に住んでいるはずなのに、私はずっと一人だった。侍女に気遣われるのも、もうたくさんだ。
「マティアス、あなたに伝えたいことがあるのです」
本当は、言うべきではないのだろう。それでも、口は閉じてくれない。また同じ今日を迎えるのだとしても、その可能性を理解していても、言葉は止まらなかった。
「離縁し、」
「離縁はしない。絶対にだ」
強い否定の言葉と共に、身体が強く押し出される。ベッドのスプリングがきしむ。突然の暴挙に苛立ちが募り、文句を言おうと彼を見上げた。
瞬間、出すべき言葉は宙に消えた。彼の瞳から落ちる雫に、目を奪われたのだ。
「すまない、クラウディア」
ぽたり、頬に雨が落ちる。彼の瞳から零されるそれは、私の頬を濡らしていく。
彼の涙だと気づき愕然とした。彼が泣くのは、幼少期親に怒られた以来だろうか。私はそれ以外に、この人の涙を知らない。
「俺がもっと器用なら、君を一人にしなかった。俺にもっと勇気があれば、君の顔を見ることができた」
言葉が雨のように降り注ぐ。この人がこんなに喋るのは、何年ぶりだろうか。
普通に考えれば、大した会話量ではない。そんな言葉数にすら驚くほどに、私と彼の間に会話はなかった。
「騎士になったばかりの頃、要領が悪く、帰りはいつも日を跨ぐようになった。君は俺を気遣って、我儘一つ言わなかったな。それに、俺は甘えていた」
私と彼の結婚は、学園を卒業してすぐに行われた。卒業後すぐ騎士になった彼からすれば、大きなイベントが二つ起こったことになる。
だからこそ、私も文句は言わなかった。いつかきっと、落ち着いて顔を合わすことができる。一年経てば慣れるだろう、来年になれば仕事も落ち着くだろう、そんな風に自分を慰めていた。
結果はご覧の通りだ。5年経った今でも、まともな会話はできずにいた。
仕事にも慣れたはず、それでも増やされない夫婦の時間に、私の心は悲鳴を上げた。いつまで待てばいいのか。いつになれば、また笑い合いながら話ができるのか。不安ばかりが胸を突いた。
「やっと周囲を見渡せるようになったとき、愕然としたんだ。同じ家に住んでいたはずなのに、君の顔をまともに見ていなかったことに気づいた。そのときに謝って、話ができればよかった。
でも、できなかった。怖くて顔が見られなかった。君の瞳に、俺はもう映っていないのではないかと。
嫌われているのならまだいい。もう何とも思っていないのかもしれない。ただの他人としか見られていないかもしれない。
……それを突き付けられるのが、何より怖かった」
彼の瞳からこぼれる涙を、静かに見つめる。眉は寄せられ、瞳は揺れていた。美しい顔も、今ではくしゃりと歪んでいる。
それを見て、胸の中に温かさが広がっていく。自分だけではなかった。この関係に苦しんでいたのは、彼も同じだったのだと。
「結婚すれば、幸せになれると思っていた。当然のように、幸せな日常が待っているのだと。
けれど、それは違った。俺の未熟さが幸せな生活を壊してしまった。踏み出す勇気さえあれば、変えられたかもしれないのに。
それでも怖かった。君の瞳に、君の心の中に俺がいないこと。それを知るのが、何より怖かった」
言葉を紡ぐごとに、大粒の涙がこぼれ落ちる。それをそっと、指で拭った。彼へ手を伸ばしたのは、何年ぶりだろうか。
伸ばした手は、弾かれることなく頬へ届く。彼は一瞬目を丸めると、私の手に擦り寄った。目を細め、唇を噛み締めている。その瞳からは、またぽろりと涙がこぼれた。
「馬鹿ね……本当に、大馬鹿だわ。あなたも、私も」
手を伸ばせばこんなに近くにあって。口を開けば聞こえる距離にいて。お互いに、ただ怯えているだけだった。嫌われたくなくて、決定的な最後を知りたくなくて。
それがここまで状況を可笑しくさせたなんて、笑い話にもなりはしない。
「ならマティアス、あの女性は……?」
そう問いかける私に、彼はぱちりと目を瞬かせる。不思議そうな顔でこちらを見たあと、やっと思い至ったのか、「あぁ!」と口を開いた。
「彼女は騎士団に相談に来ていたんだ。君は知っているかな? 今、王都の外れで女性を狙う不届き者がいてね。騎士団はその対応に追われているんだ。犯人の確保だけでなく、女性を守るために巡回もしている」
彼の言葉に、友人の話を思い出した。騎士団が最近忙しそうなこと、町はずれで不届き者が出ること、そのどちらも話題に上がっていた。
つまり、彼があの女性と共に歩いていたのは、
「あぁ……もう嫌になる」
結局のところ、私の勘違いということか。すれ違ってばかりの夫婦生活に、全てが疑わしく見えていた。
夫と会話することがなく、騎士団の動向も知らなかった。夫に関連するもの、それを避けていたからだ。彼が帰らない理由、それを知るのが怖かった。
「ク、クラウディア? 大丈夫か?」
遠い目をする私を、彼が心配げに見下ろす。眉を下げてこちらを見る姿は、5年前と何ら変わりない。臆病過ぎた私たちは、ただすれ違ってしまっただけなのだ。
「ごめんなさい、マティアス」
謝るべきは、彼だけではない。勝手に不安になって、手を伸ばさなかったこと。それは、私の過ちだ。
互いに臆病だった私たちは、声をかけることも、手を伸ばすこともできなくなっていたのだ。
私の目尻から涙がこぼれ落ちる。彼はそれに声を詰まらせた。
「好きよ、今でも。あなたを愛しているの。……ただ一言、伝えるだけで良かったのね」
ぽろぽろと、私の目から涙がこぼれる。答えはとてもシンプルで、複雑にしてたのは自分自身だったのだ。
もっと勇気があったなら、彼に向き合えただろう。変に遠慮して、嫌われたくなくて、いい女でいようとした。私たちは同じだけで臆病で、同じだけ互いを愛していた。
私の一言に、彼の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。震える声で、何度も私の名を呼んだ。彼につられるように、私の目にも涙が浮かぶ。
久しく泣いていなかったためか、涙腺は壊れてしまったようだ。壊れた蛇口のように、絶え間なく涙が滑り落ちていく。私の苦しみも、彼の苦しみも、何もかもを吐き出すかのように。
私たちは、二人で手を握りながら、夜が明けるまで泣き続けた。何度も何度も名前を呼んで、互いに謝りあって。幼い子どものように、二人で泣きじゃくったのだ。
鳥の囀りが聞こえる。それに、私はゆっくりと目を開けた。
寝室には木漏れ日が差し込んでおり、夜が明けたことを知らせている。
ベッドの中は温かく、いつもより狭い。それに気づいて、私は慌てて起き上がった。
隣へ視線を向けると、5年ぶりの夫の姿がある。顔にはいくつもの涙の跡が残っていた。
その姿に、昨夜を思い出す。泣き疲れて、二人とも寝てしまったのだろう。まるで子どもそのものではないかと、笑いが込み上げてきた。
「……クラウディア?」
私の笑い声に気づいたのだろうか。彼は目を擦りながらこちらを見上げる。泣き疲れた目が重いようだ。可愛らしい仕草に、くすりと笑みをこぼす。
「おはよう、マティアス」
この言葉を告げるのも、5年ぶりだ。一人分空いていたベッドには、今は二人揃って並んでいる。それがどうしようもなく愛しくて、私の目尻に一筋の涙が流れた。
「おはよう、クラウディア」
嬉しそうな笑みを浮かべ、彼は私に手を伸ばす。節くれだった指が、そっと涙を拭ってくれた。お互いに赤くなった目を見て、なんだか笑いが込み上げてくる。
昨夜、子どものように泣きじゃくった私たちは、笑い合いながら朝を迎えた。
「おはようございます、旦那様、奥様。仲がよろしいようでほっといたしました」
侍女が室内へ入ってくると、そう挨拶を述べる。その言葉に、やっと明日を取り戻したのだと実感した。
「あら、旦那様。こちらの砂時計は壊れているようですね。処分しても?」
「砂時計が? ......あぁ、そうか。済まないが片付けてもらえるか」
「かしこまりました」
速やかに拾い上げると、カートの下段に置いていく。高価そうな作りのそれに、私はマティアスへ問いかけた。修理に出さなくて良いのか、そう尋ねると、彼は何も言わず笑った。
朝のお茶を淹れ終わると、侍女は静かに退出した。ベッド・ティー。私たちの手元には、温かなティーカップが握られている。
「クラウディア、昨日のことだけれど」
侍女の退出を見届け、マティアスが口を開く。視線を向けると、どこか緊張した面持ちの彼の姿があった。
「俺は、君と離縁をするつもりはない。君も同じ気持ちだと、思っても良いだろうか」
真剣な瞳で見つめる彼に、私は微笑みを浮かべた。離縁、それをする意味はもうなくなったのだ。
「えぇ、もちろんよ。だって、私の願いは叶ったもの」
私の言葉を聞き、一瞬不思議そうにするも、彼は嬉しそうにはにかんだ。きらきらとした瞳を見て、私も自然と笑みがこぼれる。
ティーカップの中、温かな水面には、笑い合う私たちの姿が映っている。