春ノ三月 三週目三ノ日
賑わいを見せる街並みは、宮廷にいるよりかは幾分居心地がよかった。余計な気を張らなくて済むからだ。
領都で暮らしていた時に着ていたような、質素な服は王都にも持ち込んでいる。平民に混じった格好をするのはたやすかった。つやのある長い銀髪もシニョンにして帽子を被り、地味な装いを心掛けている。
すれ違いざまに視線を向けられたり、声をかけられそうになったりすることはあるが、どうせ赤の他人なので初めから意識の外だ。オルヴェール領にいた時も、その程度のことは日常茶飯事だった。
朝の王都散策に関して、別に何か目的があったわけではない。ただの気晴らしだ。
貴族の子息として暮らしていた時間のほうが長いとはいえ、それは少年時代のことだった。大人のそれとは勝手が違う。宮廷でクレル子爵ローウェン・レクスターとして振る舞うために、たまの息抜きは必要だった。
通りかかった市場で、美味しそうなツバキモモが売っていた。四個ほど買い、大時計塔の広場のベンチで早速かじる。みずみずしい。
「お兄さん、お花はいかがですか? 一束十リンです」
暇そうだと思われたのだろう、花売りの少女が声をかけてくる。七、八歳ぐらいの少女は緊張した様子で籠いっぱいのブルーベルを差し出した。
二十リン渡して二束掴む。ツバキモモを入れてもらっていた小さな紙袋にその青い花束をしまい、ついでに「食べますか?」ツバキモモを取り出した。少女はぱぁっと顔を輝かせ、ぺこりと頭を下げて大切そうにツバキモモをしまう。
「この辺りの子供ですか?」
「はい。ランチェスター孤児院で暮らしています」
少女のワンピースは少しばかりくたびれてはいるが、ひどくみすぼらしいというわけでもない。元の仕立てが上等なのも見て取れる。きっと富裕層から寄付されたものなのだろう。
彼女は肉付きもよく、目も生き生きとしていた。生活に困っている様子はない。むしろそういう下級層のほうがガゼルデアではありふれていた。
ガゼルデアにおいて下級層という言葉は、生産手段を持たない世帯だというだけで、それ以上の意味を持たない。彼らは労働やらなにやらを対価にして食い扶持を稼ぎ、それでも足りない金があるなら、別の誰かが補填する。
ガゼルデアは楽園のような国だ。神の愛を受けた国なのだから、誰もが豊かで幸福でなければいけない。ガゼルデアの民であれば、等しく神の愛に包まれている。そうあるように、生きている。
恵まれない者には救いの手を差し伸べ、不幸にも神の愛に気づけなかった者にはチャンスを与える。その使命こそ、ガゼルデアの王侯貴族がその高貴な身分を戴く理由だった。
すべては、神の愛とやらの正当性を保つためだ。神の愛によって人々は生かされているはずなのに、人々が生きる目的こそが神の愛になっていた。
人は結局、自分達の力で神を作り上げている。神の愛を証明するために、おのずから働きかけている。それなら“姫神”なんていう犠牲に頼らなくたって、この国は────
(どうしようもない現実に直面すると、人は夢物語に縋りたくなる。……神を妄信するガゼルデアも、理想だけで動く私も、根は変わらないのかもしれないな。結局私もこの国の人間であることに変わりはない、か)
もう一口ツバキモモをかじる。口の中で果汁がじゅわりと広がった。
*
特にあてもなく大通りを歩く。ふと、仕立て屋が目に留まった。軽やかなドアベルの音と共に母娘らしい二人が出てくる。店構えからして、中級層ぐらいの若い娘に人気がありそうだ。
「……」
シャラの服は、大教会の認可を受けた特別な店で仕立てられるか、贈り物として誰かから贈られるものばかりらしい。
シャラはいつも華美で豪奢な服を着ていた。あの服で外を出歩くのは難しいだろう。
せめて、お忍びの令嬢だと言い張れる程度の服装がいい。彼女は外出慣れしていないだろうからなおさらだ。動きやすいものがいいだろう。
(服の寸法もそのうち調べておかないとな)
金に物を言わせて一番シャラに貢いでいる男と言えば、豪商の息子のユーディオだ。
食べ物から服飾品まで、色々と買い与えていると聞く。どうやって知ったかは知らないが、彼ならシャラにちょうどいい服の大きさも把握しているだろう。
ユーディオは、取り巻き達の中で唯一の中級層の家の出だ。生産手段を持ち、下級層を雇用する立場ではあるが、上級層とは違って高貴な血筋を持たない。
そのため、他の男達と比べればどうしてもシャラとの逢瀬の機会は限られる。その差を埋めるかのように、ユーディオは自身が大教会に招かれていないときでもプレゼントだけシャラの元に贈りつけているらしい。
もっとも、そういったものを友情の証だとか恵みを分けるだとかの名目でメイドに下げ渡したり、売った金をどこかに寄付したりすることは珍しくないようだが。
それはシャラが自主的にやっているというよりも、シャラの意向を推察した大教会側の人間が勝手にしていると言ったほうが正しいだろう。それでも懲りずに高価なものが贈られてくるのだから、姫神からの施しにかかわることで善行を積んだ気になっているのかもしれない。
ローウェンは少し考え込んでから踵を返した。
屋敷に戻って貴族らしい洒落た服に着替え、改めて向かう先は大通りにある菓子店だ。ここのプロフィトロールが、貴族令嬢の間で最近流行しているらしい。
むせ返りそうな甘い香りの漂う店に入ると、一瞬店内が静まり返る。
頬を赤らめて自分を見つめる令嬢達に微笑を返し、目当ての菓子を包んでもらう。中のプロフィトロールが潰れてクリームがこぼれてしまわないように、ローウェンは小箱を慎重に受け取った。
(花束……は、いらないな。いきなり渡すには重すぎる。余計な勘違いもされたくない)
ローウェンも、伊達に大教会に出入りしているわけではない。少なくともシャラの周辺の人材については多少調べていた。見かければ挨拶程度はするし、顔見知りと呼べるぐらいの関係性はある。
シャラの側仕えの女神官の名を何人かそらんじる。メルマ、キニー、リヴィエ……リヴィエがいい。実務を取り仕切っているのは彼女のはずだ。シャラがどこに何を下げ渡すか、実質的に決めているのも彼女だろう。
「クレル子爵? 申し訳ございません、本日姫神様はアルムス殿下と過ごされていて……」
「ご機嫌うるわしゅう、リヴィエ嬢。今日はシャラ様にお会いしたかったわけではないのです。日ごろシャラ様のお世話をなさっている側仕えの方々にこれをお渡ししたくて。よければ皆さんでお召し上がりください」
小箱に刻印された印章を見て、リヴィエは表情を緩めて礼を言った。貴族令嬢御用達の甘味は、固い神官の心も溶かしてくれるらしい。
「シャラ様のお世話ができるのは非常に名誉あることですが、そのぶん大変でしょう? ですが、その重責をものともしない貴方の尽力のおかげでシャラ様は今日も心安らかに過ごされていらっしゃいます。これはそのことに対するほんの感謝のしるしです」
「わたくしのような者にまで気を回していただけるだなんて。光栄です、クレル子爵」
「当然のことですよ。リヴィエ嬢がいなければ、きっとシャラ様も悲しまれます。シャラ様を陰ながら支えるその功績は、報われてしかるべきでしょう?」
ローウェンの甘やかな微笑は、これまで多くの観客を虜にしてきた。真面目な神官を魅了するなど造作もないことだ。




