春ノ二月 二週目七ノ日
毎週七ノ日の早朝に行われる大教会での礼拝は、罪を悔いて改心したことを示す格好の機会だ。そのためローウェンは毎回参加し、終わればすぐに屋敷に戻っていた。
「クレル子爵、少々時間をいただいてもよろしいかね?」
「珍しいこともあるものですね。神官長が私に用事とは。何かお話でも?」
しかし今日は運が悪かった。まさか神官長トーリに声をかけられるとは。
内心の警戒を悟られないよう、ローウェンは務めてにこやかに微笑んだ。
トーリもシャラの取り巻きの一人だ。ローウェンより二つばかり年上で、取り巻きの中では一番年が近いのだが、お互い常に一定の距離感を保っていた。
彼はローウェンの罪を直接知らないはずだが、聞いていてもおかしくない立場にいる。なにせ、先代の姫神の時代から姫神の傍に侍り、今では新たに神官長の位を得たのだ。早くも次期聖座、すなわち次代の大教会のトップと目されている人物でもある。
「シャラ様のことだ。たった一月で、貴殿はずいぶんとシャラ様に気に入られたようだな」
「恐縮です。私などがシャラ様のお役に立てるのであれば、これほど光栄なことはございません。シャラ様の御心が安らかであるよう、これからも努めてまいります」
様子見をやめたトーリは一体何を仕掛けてくるのか。この場で打てる迎撃の策を思考の中からいくつかさらう。トーリ一人をごまかすだけではだめだ。大教会の目も欺かなければ。
「思えば貴殿がレアーナ様と親しくなったのも、九年前の社交期でのことだったな。この私を差し置いてレアーナ様の寵愛を奪った貴殿のことが、たまらなく憎かったものだ。ふふ、少年の日の嫉妬がまたこうして再来しようとは。このざまでは、あの頃は青かっただけだと言い訳すらもできぬな」
「……私とレアーナ様は、貴方に嫉妬されるような間柄ではございませんでした。ご覧になっていたのですからご存知でしょう?」
「そう簡単に割り切れるものではない。側に仕える神官として、私こそもっともレアーナ様に近しいと自負があったからこそな。貴殿とレアーナ様の間に、私では決して手に入らない絆があるのが妬ましかったのだよ」
レアーナ。それはシャラの前の“姫神”であり、ローウェンの罪を象徴する少女の名前だった。
ルーとリィ、二人だけの特別な呼び名で呼び合うローウェン達を、当時の彼女の側近達はどんな目で見ていたのだろう。
あの頃のローウェンは、レアーナのことしか見えていなかった。大教会には確かに二人だけの世界があった。すっかりローウェンに夢中になって他のすべてを捨ててしまったレアーナに比べると、シャラのほうがまだお気に入りの動かし方が上手なのかもしれない。
「貴殿は姫神様に取り入るのが実にうまい。レアーナ様の時とは事情が違うにもかかわらず、シャラ様にもこうもあっさり気に入られるとはな。貴殿の手腕、ぜひ我々にも教授いただきたいものだ。姫神様を楽しませることができるのなら、それを学ばない手はないだろう?」
「私とレアーナ様のような例は、誰にでも再現できることではございません。神の奇跡が導いただけでございます。シャラ様も、もしかするとレアーナ様から私のことをお聞きになっていただけかもしれませんよ」
それでは、と頭を下げて足早にその場を去る。屋敷に戻るまでの道中のことはあまり覚えていなかった。
レアーナとの出逢いは社交界デビューの日、奇しくもシャラと出逢ったのと同じ催しでのことだった。
違うのは場所だ。レアーナと初めて逢ったのはホールではなく、謁見の間だった。
“姫神”がどういうものかを教え込まれ、人間とはまったく違ういきものだと信じて疑わず、その教えに反するような行動を取らない程度には分別のつく年齢。十五歳になって社交界デビューを果たしたローウェンは、その代の姫神だった同い年の少女との謁見の機会を得ていた。当時のローウェンも、“姫神”の正体が人間だなんて知らなかった。
跪き、姫神の訪れを待っていた。姫神と挨拶しようと面を上げた瞬間、ローウェンは運命にも似た強い何かを感じた。きっとレアーナもそうだったのだろう。
以降、レアーナはローウェンを傍に置き、それは彼女が十六歳を迎える日の前日まで続いた。
レアーナを喜ばせるため、舞い上がったローウェンは掟をいくつも破った。レアーナにすごいすごいと言われるのが嬉しかった。
ローウェンは外の世界のことを迂闊に教え、レアーナに知恵と好奇心を与えてしまった。自尊心をくすぐってほしい、ただそれだけのために。
信仰を軸に置いたガゼルデアに生きる人間ならば絶対にしない愚行に手を染めたのは、特別感に酔いしれるあまり目を曇らせていたからだ────だって姫神たるその少女は、自分と同じ顔をしていたのだから。
これまで存在すら知らなかった妹がいて、しかも彼女は偉大なる神の愛し子だった。
双子であるにもかかわらず自分とは違って神の血を引く姫神への嫉妬より、畏れ多くも姫神の片割れとして生まれたことを誇らしく思う気持ちが勝った。
その数奇な運命は、自分までもが何かに選ばれた存在であるかのように感じさせた。
無知で無垢だったはずの少女をたぶらかした狡猾な悪魔の正体なんて、ふたを開ければそんなものだ。
そんな少年の自己満足のせいで、少女は死んだ。
事故だった。天に還る前に外をこの目で見てみたいと、願わせてしまったのが誤りだった。
彼女はこっそり部屋を抜け出して、一人で見晴らしのいいテラスに来ていた。きっと、彼方に広がる都の様子を見たかったのだろう。ローウェンと出逢う前の彼女は、そんなものに興味など示しもしなかったのに。
手すりに寄りかかって景色を見ていた彼女は、偶然そのテラスの下を歩いていたローウェンに気づいた。気づいてしまった。
「ルー!」頭上から降ってきたその声に、ローウェンは自然と顔を上げる。“危険”が理解できないレアーナは、そのまま大きく身を乗り出した。
姫神が地上に墜ちた時、彼女にはまだ息があった。ぴくぴくと震えていて、手足が変な方向に折れていて、血まみれだった。飛び散った血は赤くて、生ぬるくて、まるでふつうの人間のようだった。
わけがわからない。姫神はこんな風にならないはずなのに。「リィ?」呼びかけて揺さぶっても、レアーナは起き上がらなかった。
息も絶え絶えになったレアーナが、最期に言おうとした言葉。彼女はその概念を知らないから、きっとちゃんと言えなかったのだろう。だけど、もしもローウェンの言葉で直すのなら────それはきっと、「死にたくない」だ。
レアーナが死ぬまで、ローウェンはその傍にいた。時間にすると三十秒にも満たなかったかもしれない。けれどその短い時間に、“姫神”が自分達と同じように生きているものであることがはっきりわかった。
歴代の姫神は、純粋に育てられすぎたせいで死への恐怖を持たなかった。だからきっと彼女達は、何も思わず天還りの儀に臨んできた。それを見守る人々も、自分達が人間を殺しているという実感を得られなかった。
無垢の殻を自ら破り、知恵を獲得したレアーナだけが、死という終わりを本能で理解した。それを語る言葉も、それから逃れる術も持たない彼女は、困惑しながら死んでいった。彼女の死にざまを見守っていたローウェンだけが、たった今人間が死んだことを実感した。
レアーナの不在に気づいた当時の神官長が駆けつけてきて、姫神の死は即座に隠蔽された。事実を知る者はごく少数の、権力の頂点に立つ者やそれに近しい者に限られた。
レアーナがすでに死んでいると他の者に気づかれないよう、ローウェンがレアーナの役をやらされることになった。資質ではなく外見という意味で、レアーナの代役ができるのはローウェンしかいなかった。
天還りの儀を待たずに天に還った姫神などいてはならない。その代の天還りの儀は例年よりもぎこちなく進行し、前髪で右目を隠した人形を見せてごまかされた。
天還りの儀では、姫神は昇る煙とともに空に向かうとされている。儀式で実際に燃やされたのは人形だった。人間を生贄にしてはならないと、本当は誰もがわかっていたからなのかもしれない。
従順な姫神が突飛な行動を取ったことについて、それを知る大人達はすぐにその原因に気づいた。ローウェンだ。ローウェンが掟を破り、無垢な姫神を穢してしまったのだと。
これまで姫神を天に還すという名目で人間を殺してきた罪を、ローウェンは糾弾した。それに対する理解は誰からも得られなかった。尊敬していた両親ですら、失望した目でローウェンを見ていた。
「まさかローウェンのせいでレアーナ様が天還りの儀を行えないだなんて……! ローウェン、貴方に人の心はないのですか!?」
「お言葉ですが母上、その言葉はそのままお返しいたします。レアーナをみすみす死なせようとしていたなんて、貴方に人の心はないのですか?」
「我が子が姫神だというなら、神にお返しするのは当然のこと。それこそが、仮初の親が示せる最大の愛だ。何故お前にはその摂理がわからない?」
「そのような戯れ言、一生理解したくありません。どれだけ美しい言葉で飾っても、その醜悪さはごまかせない。……本当に無知なのは姫神じゃない。神に縋るあまり盲目になった人間だ!」
この国の人間は全員狂っている。
けれど彼らを説得するための手段も言葉も持たなかったローウェンは、天還りの儀を終えたその日────十六歳の誕生日に、王都からの追放とオルヴェール領での蟄居を言い渡された。