春ノ一月 三週目四ノ日
「えへへ。会いたかったです、ローウェンさん。来てくれてありがとうございます」
ふぬけきった顔で自分を迎える少女を見下ろし、盛大にため息をつきそうになるのを理性で抑える。けれどローウェンの努力は、シャラの次の言葉で無に帰した。
「今日はローウェンさんしか誘ってないんです。二人きりで会いたかったから」
「私などと過ごしたいとは、つくづく物好きな方ですね」
室内の様子をうかがう。応接室には確かに人の気配はなかった。使用人すらいない。その隙に、腕を取られて中に引っ張り込まれてしまった。
「このっ……!」
「誰もいないから大丈夫ですってぇ。ほらほら、見てください! わたし、頑張って用意したんです! 全部一人で!」
自慢げな様子のシャラが言うのは、きっとこのアフタヌーンティーの支度のことだろう。シャラの勢いに飲まれ、ローウェンは椅子に座らされてしまう。シャラもローウェンの向かいに座った。
確かにテーブルコーディネートには精を出したようだ。茶器も優美なもので揃えられているし、花瓶には今が見ごろのダファディルが飾られている。淡い黄色の、春を象徴する愛らしい花だ。庭園で咲いていたものを切花にしたのだろう。
凝ったテーブルセットは、年頃の少女が好みそうな華美で愛らしいお茶会の時間を演出していた。ローウェンにとっては少しばかり居心地が悪いが。
問題は、ケーキスタンドに載っているものだ。ティーポットの中身にも不安がある。
「どうです? このお菓子、全部わたしの手作りなんですよ」
「この豚の餌が?」
皿の上に散らばっているぐちゃぐちゃの小さな塊はスコーンの残骸だろうか。その一段下に鎮座している、見慣れない具材が堂々とはみ出たサンドイッチはいっそ威風すら感じられた。一番上の段には、果物の切り方が適当過ぎてフルーツタルトと言い張るのも恥ずかしい何かと、見るからにパサパサのパウンドケーキがある。
ローウェンは一縷の望みを込めてシャラを見た。シャラは両手で頬杖をつき、期待のこもった眼差しでローウェンを見つめている。
「食べてくれないんですか? 他の人なら喜んで食べてくれるのに」
「全員心と目玉が腐っているからな。誰もが君の機嫌を損ねまいと必死なのさ。“姫神”の手料理でなければ、皿ごと捨ててもおかしくないぞ」
「ふふ。じゃあ、ローウェンさんはどうするんですか?」
挑発するようなその言い草が気に喰わない。ローウェンは食事の邪魔にならないように長い銀髪を耳にかけ、顔をしかめながらサンドイッチを掴み取った。
幸運なことに、見た目ほどまずくはない。ぎりぎり食べられる味だ。これで本当に毒物まがいの未知の物体であったなら、さすがに捨てるところだった。
「豚の餌だと言ったのは訂正しよう。これを日常的に食わされるなんて豚があまりにも哀れだ。たとえ家畜でも、もっと上等なものを食べている」
「“姫神”みたいに?」
シャラは笑った。毒気も何もない、甘やかな声音だった。
「自覚があるのか」
「自覚って? 大教会のごはん、とっても美味しいんです」
きょとんと首をかしげるシャラを見て、思わず舌打ちしてしまった。十六年間学んだ作法と教養をもう一度呼び覚ますのはたやすかったが、それはそれとして新たに身に着いた振る舞いはこうしてたまに顔を出す。
「わたし、ちゃんと味見もしたんですから」
「その美味しい食事とやらで肥えた舌も、大した役には立っていないようだな」
「わたしが手料理を振る舞うと、美味しいってみんな言ってくれるんですよ?」
不思議そうに言いながら、シャラもカトラリーに手を伸ばした。「なぁんだ、やっぱりうまくできてるじゃないですか」「その馬鹿舌だと何を食べても同じだろう」何がおかしいのか、シャラは緩みきった顔を晒している。
「いいか、私が言ったほとんどは罵倒の言葉だ。人の食べるものではない、と君の料理の腕をけなしている。君だけではなく、君に料理を教えた者や、君が使った食材すらも貶めたことになるんだ」
「ばとう。罵倒はたくさんありますね。この前の罵倒は違ったのに」
「同じことばかりあげつらっても芸がないからな。……ほら、私にそんなことを言われてどう思った?」
「んー……?」
スプーンをくわえ、シャラは眉根を寄せる。答えは中々返ってこなかった。
「……待て。まさか、わざとまずく作ってはいないよな?」
「味見はちゃんとしたって言ったもん。食べれないことはないでしょう? まずいってはっきり言ってくれるのはローウェンさんだけだったけど」
「器用な真似を……」
「だって食べ物をそまつにしちゃダメって、ローウェンさんが教えてくれたから」
シャラは悪びれずに言い放ち、スプーンでスコーンの屑を掬い取った。道理で暴言に対する感想がないわけだ。自作自演なのだから。
呆れてものも言えないローウェンをよそに、シャラはスプーンごと小皿の中のクロテッドクリームに突っ込もうとした。
「行儀が悪い。クリームは自分の分を取り分けて使え」
咎めると、シャラはまた嬉しそうにはにかむ。結局シャラはクロテッドクリームをつけずにスコーンの成れの果てをぱくりと飲み込み、口の端をぺろりと舐めた。
「食事のマナーは料理人と食材に敬意を払うために必要なことであり、同席者に不快な思いをさせないために重要なものだ。まず自分が楽しむのは大事だが、他人と同じ時間を共有しようと思うなら、その相手のことも考えてやらないとな」
「それは叱っていますか? それとも罵倒ですか?」
「叱った。いいか、罵倒というのはこういうものを言うんだ。……大教会は食事の作法すら教えなかったのか? それとも君が無能なだけか? 学んだ知識を一体どこに置いてきた?」
「なるほど! 叱ることと罵倒することがたくさんできて、ローウェンさんはすごいです!」
「喜ぶなと何度言ったらわかるんだ。それでは意味がないだろう?」
だからこの少女のことが嫌いなのだ。いつだって彼女はローウェンを試す。嫌がらせまがいの手の込んだ仕掛けを用意して、ローウェンの反応を待っている。苛立つローウェンを見たいという、ただそれだけのことのために。
「ところでローウェンさん、何かわたしに渡すものがあるんじゃないですか? 姫神と二人きりなんですよ? プレゼントがあって当然ですよね?」
色彩の定まらない右目と、愛らしいピンク色の左目。少女の双眸がきらきらと輝く。
一方のローウェンは、それだけで人を殺せるような眼差しを向けた。紫の瞳はどこまでも凍てついている。
「媚を売ってほしいなら君の取り巻きを呼びつければいいだろう。私は君の下僕に成り下がる気はない」
「下僕って? みんな、大切なお友達ですよ?」
こうしてシャラが瞳を潤ませれば、大抵の男は大慌てで懺悔するだろう。跪いて己の失態を悔い、許しを請うのだ。しかしローウェンはそれに当てはまらない。
「ふざけたことを言うのはいい加減にしろ。君のために時間を割いてやっているのは私のほうだ。呼び出しておいて手土産をねだるな、図々しい」
何を言えばこの少女は傷つくのか。何をすればこの少女はローウェンを嫌うのか。何をすれば、この少女は己を閉じ込める幻想の檻の外にひそむ敵の存在に気づいてくれるのか。それをシャラは教えてくれない。
怒りでも憎しみでも、悲しみでもいい。ローウェンを通じて、知ってほしい感情がある。大嫌いなこの少女が絶望する顔を見るためなら、ローウェンは己の考えられる限りの非道な役を演じるつもりだ。
シャラは己の取り巻きがいかに自分のために心を砕いてくれたか自慢する。ローウェンはそれを下らないと切り捨てる。
シャラはローウェンにも取り巻き同様の誠意を求める。ローウェンはそれを足蹴にするように拒絶する。
シャラは懲りずにローウェンの気を引こうとする。ローウェンはそれに形だけ構い、すぐに突き落とす。
シャラはローウェンに甘えようとすり寄ってくる。ローウェンはそれを冷たくあしらい、押しのけて遠ざける。
一週間ほど前、初めて会った時からこの調子だ。今日のお茶会も、いつもとなんら変わらなかった。
「今日はとっても楽しかったです、ローウェンさん。また来てくださいね! 待ってますから!」
「君の頭の中に詰まった藁と花がすべて掻き出されれば考えてやる」
それでもシャラはローウェンを招くし、ローウェンもそれに応じるだろう。
そもそもローウェンが『クレル子爵』になれたのは、きっとシャラがそう願ったからだ。“姫神”シャラの取り巻きに加わるには、宰相の子息クレル子爵ローウェン・レクスターというきちんとした身分が必要だった。
「ひどぉい。わたし、ローウェンさんのこと大好きなのに」
「その口を今すぐ閉じろ、虫唾が走る。私は君のことが大嫌いだ」
自分より八つも年上の男にここまでの暴言を吐かれて、それでもなおシャラはへらへらと笑っている。まともな神経をしていればこうはならないだろう。
ローウェンは、シャラのことが大嫌いだ。
けれど本当に嫌っているのは、憎んでいるのは、一人の少女をここまで歪ませたこの国だった。