夏ノ二月 二週目七ノ日・三週目五ノ日
「ルーさん、あれはなんですか?」
初めて見る“外”に、シャラは興味津々だった。
「パン屋だ」
「美味しそうですね。いい匂いがします」
はぐれてしまわないように、そして歩調を合わせるためにローウェンと手を繋いでいたシャラが足を止めると、必然的にローウェンも立ち止まざるを得なくなる。
「わたしの恋人ですよね? 買ってください!」
「あんなもの、方便に決まっているだろうが。妙な言葉を盾にしてねだるな。大体、どこで意味を覚えてきた?」
「ヴィーちゃんですっ」
「文通は失敗だったな……」
ため息交じりに店内へと入る。微笑ましげに見てくる店主に愛想笑いを返し、シャラにパンをいくつか選ばせる。こういうものは自分で選んだほうがいいだろう。
「ルーさんは何がいいですか?」
「……キドニーパイ。癖が強いから君はやめておけ」
指し示すと、トングを手にしたシャラは喜び勇んでパイをトレイに載せた。
「じゃあ、ひとくちだけください! わたしのも、ひとくち食べていいですから」
「はいはい。後悔しても知らないからな」
なんでも美味しそうに見えるらしく、シャラはあれもこれもと選び取っていく。めぼしいものを集めて満足したのか、彼女はそのままレジスターに向かった。
店主がパンを紙袋に詰める。シャラは目を輝かせ、財布からお金を取り出した。硬貨を探す手つきは少しおぼつかないが、数え間違いはない。
シャラの反応が嬉しいのか、店主はどこかむずがゆそうだ。差し出された袋を、ローウェンは空いている手で受け取った。
「はい、十五リンのお釣りだよ」
「ありが……あっ! ごめんなさい!」
店主がお釣りを返した時、シャラはそれを受け取り損ねた。慌ててしゃがみ込んで拾い上げる。その時、右目を隠していた前髪がはらりと揺れてしまい、虹の瞳があらわになった。
「行くぞ」
すかさずローウェンはシャラの手を引き、足早に店を出る。店主の驚く声が響く中、二人は静かに路地裏へと消えた。
「あんな感じでよかったですか?」
「上出来だ」
隠しておくべき瞳の色を見られたのは、何もシャラがへまをやらかしたからではない。そういうしぐさをするように、あらかじめローウェンが言っていたからだ。
シャラを大教会から連れ出した後、ローウェンは乗合馬車を利用して早々に王都を後にした。
このまま行けるところまで行くつもりだ。だが、それは路銀が尽きるまでという意味でも、国境をなんとか越えてみせるという意味でもない。追っ手に追いつかれるまで、という意味だ。
姫神誘拐事件はすでに知れ渡っているだろう。いまやローウェンは国中のお尋ね者だ。
ローウェンが最後に大教会に顔を出した日、シャラが聖域に一度戻ったのは事実だが、彼女はすぐに聖域を出たと衛兵なら証言できる。
最後にシャラを見た可能性の高いローウェンがその足で向かった孤児院も、捜査の対象になるだろう。ゼルマーには口止めしてあるが、黙秘はいつまでも続けられるものではない。善良な市民ならばなおさらだ。
宰相夫妻がローウェンとマレーン座の関係を暴露するか、あるいは勘のいい者が関係性を察するか。トーリあたりなら気づくかもしれない。ローウェンがシャラの傍にいた理由も、連鎖的に判明することだろう。
姫神が消えた日に姿を消した貴公子を、疑うなというほうが難しい。
虹の瞳の少女の隣には銀髪紫眼の青年がいた、とでも目撃情報があればなおさらだ。
この誘拐を実行するために踏み台にした人々のことを考えると、シャラを連れて長く逃げ続けるわけにはいかない。どれだけ地味な装いを心掛けたところで、自分達がいつまでも人の目から逃れられるなどとも思っていなかった。
この誘拐の目的は、正確にはシャラを逃がすことではない────自由を謳歌するシャラの姿を、人々に見せるためだ。
大教会の奥で祀られる虚像としてではなく。血の通った、生身の女の子としてのシャラを記憶してもらう。そのために、ローウェンはシャラを大教会の外に連れ出した。
「パン屋の人、追いかけてきませんね」
「今はまだ、な。……そろそろ乗合馬車が来る時間だ。次の街に行くぞ」
呼吸を整え、シャラは大真面目な顔で頷いた。
* * *
ずっと大教会の敷地外に出たことがなかったシャラは、同世代の少女と比べても体力がない。日常生活には支障をきたさずとも、旅の空では話が別だ。
滞在場所も交通手段もシャラの負担にならないように心がけ、瞳を晒した直後以外はゆっくりしたペースを保って移動した。観光もさせられると思えば、むしろ都合がいいくらいだ。
シャラ用の鞄や着替え、視線と日差しを避けるための帽子。必要なものは逃避行の最中に買いそろえた。
シャラが興味を示すものも、できる限り買い与えた。誰かが押し付けたものではなく、シャラが自分で欲したものなのだから。
そのために用意した資金だ。幸せそうに礼を言ってそれを手にする姿が、今一番ローウェンの求めているものだった。
姫神という先入観がなくても、元々が愛らしい少女だ。可憐な少女の無邪気な笑みは、方々で好印象を残したらしい。
そうやってはしゃぐ少女の姿を印象づける中、偶然を装っては虹の瞳を見せる。
人々の驚愕を背に街を後にしていくうちに、包囲網がどんどん狭まっている実感がわいてきた。警官があちこちに立ち、乗り合い馬車の停車場はおろかちょっとした川の渡し場ですら、監視の目が厳しくなってきたからだ。
それでもローウェンは、このつかの間の逃避行での散財を惜しまないし、シャラを人の目から隠さない。
王都の様子はどうなっているか、日に日に焦燥が募る。リヴィエもランチェスター孤児院も、ローウェンに利用されただけで何も知らないのだ。犯してもいない罪の片棒を背負わされてはいないだろうか。
(こうなる覚悟で利用したんだ。他人を巻き込んでおいて今さら清廉ぶるなよ、ローウェン)
喫茶店でパンケーキを美味しそうに頬張るシャラを見ながら、ローウェンはそう自分に言い聞かせて紅茶を口に運ぶ。少し冷めていて、苦かった。
「ルーさん」
「ん?」
唐突に差し出されたフォークに理解が追いつかない。どんどん迫ってくるパンケーキをとっさに口で受け止める。シャラは得意げに口元を綻ばせた。
「美味しいでしょう?」
目を丸くしたローウェンは、咀嚼しながらも小さく頷いた。
蜂蜜たっぷりのパンケーキの甘みに思考が飛ぶ。この暴力的な甘さを、彼女は喜んで食べていたのか。
いや、自分が甘味に疎いだけなのかもしれない。果実の自然な甘さは好きだが、お菓子となると勝手が違った。なんとか飲み込み、紅茶で口直しをはかる。
「もっと食べますか?」
「……君が食べろ。ララ、それは君のためのものだ」
「でも、一緒に食べたほうが美味しいですよ。わたしがルーさんに食べてほしいって思ったんです」
シャラは構いもせずにパンケーキを切り分けだす。「せめてもう少し小さく……」要望は届かず、また問答無用で口に突っ込まれてしまった。
「外はとっても楽しいですね。わたしと同い年ぐらいの人もたくさんいて、美味しいものも可愛いものもあります。外はこんなにいいところなのに、どうしてわたしは外に出てはいけなかったんでしょう」
「……」
「ルーさんが外に連れてくれなかったら、きっとわからないまま死んでいました。ありがとう、ルーさん。わたしに自由を教えてくれて」
やめろ。そんな目で微笑むな。聞き分けのいいふりなんてしなくていい。
こっちが口を開けないと思って、勝手なことばかりを言うな。
「勘違いするな。この旅は、君の最後の思い出作りなどというくだらないものではない」
パンケーキを紅茶で流し込む。また切り分けようとするシャラを制し、ローウェンは彼女を睨みつけた。
「君はこれから先も、もっとたくさんのことを経験する。この夏のわずかな間のことよりも楽しいことも、あるいは大教会にいたころには想像もできなかったような苦しいこともだ。これは、ただの練習だとでも思っておけ」
今日は夏ノ二月、三週目の五ノ日だ。シャラの誕生日は夏ノ三月の一週目六ノ日。もうすぐそこまで迫っていた。
「練習……」
頬を緩ませてパンケーキに視線を落とすシャラは、今何を考えてくれているのだろう。
それが、誕生日を越えた後にやりたいことについてであればいいのだが。たとえばヴィヴィアンに直接会うだとか、両親を探し出すだとか。きらきらした夢は、いくつあっても困らなかった。
花開いてすぐに散る行き止まりの人生などではなく、輝く未来こそを歩んでほしかった。誰しもその権利があるのだ。シャラだけが理不尽な目に遭ういわれはない。
「そんなことより、もうすぐ君の誕生日だ。誕生日には何がほしいか考えておけ。物好きな連中が用意してくれるだろう」
そう言いながらローウェンはメニューを開く。自分の気を紛らわせたいなどという余計な気遣いのせいで、これ以上シャラのパンケーキが小さくなっていくのが見ていられなかったからだ。
「分け合えばもっと美味しいんだろう? ただし、何を頼むかは私が決めるからな。文句は言うなよ」
「はぁい!」
メニューに羅列された名前を見ただけなのに、もう口の中が甘く感じる。胸焼けまでしてきそうだ。
ローウェンはわずかに眉根を寄せる。追加の紅茶も必要そうだ。




