夏ノ一月 四週目一ノ日
「クレル子爵、ようこそお越しくださいました」
「こんにちは、ゼルマーさん。子供達の様子はどうですか?」
「ええ、みんなとても元気です。クレル子爵のような方々が慈悲を分け与えていただけるおかげですわ」
ランチェスター孤児院の院長である老婦人は朗らかな笑みを浮かべる。ローウェンは鷹揚にうなずき、手土産として持ってきた食料品を彼女に渡した。
「桃のお兄さん、こんにちは! 今日も桃を持ってきてくれたの?」
孤児達がローウェンの周りに集まってくる。まっさきにローウェンに気づいたのは花売りのニゼだった。
「なんと今日はイチゴもあります。みんなで仲良く食べてくださいね。ただし先生の言うことをよく聞いて、野菜もしっかり食べるんですよ」
楽しげにくすくす笑いながら、子供達は軽やかに返事をする。ニゼは手にしていた籠から紫の花束をひとつ取り出した。
「どうぞ、お兄さん。今日のお花はラベンダーだよ」
「ありがとう。ですがこれは売り物でしょう? 自らの手で今日の糧を得る手段は、大切にしないといけませんよ」
ローウェンは二つ目の花束を籠から選び取り、二十リンを渡した。硬貨を見たニゼは不服そうにするものの、きちんとしまってくれる。
「いい香りですね。貴方は花を摘むのが上手なようだ」
「そうでしょ!」
ニゼは得意げに胸を張った。小さく手を振り、ローウェンはゼルマーと共に孤児院の中に入った。
ゼルマーが饒舌に孤児院の運営状況を語るのを、ローウェンは微笑と共に聞いていた。どうやら、来月末に行われるチャリティーバザーで売る服や小物を募っているらしい。いくつか出品を約束しておいた。
ローウェンがランチェスター孤児院の支援者の一人となったのは、今月の初めのことだ。
突然寄付を始めても、老婦人は疑問にも抱かなかった。貴族のたしなみは、時に施す先を気まぐれによって決めさせるからだ。
ニゼを足掛かりにして孤児院の場所を突き止めるのはたやすかったし、社交界で少し耳をそばだてれば他の貴族がここにどれだけ寄付しているかもすぐにわかった。
継続的な寄付の約束を取り付け、土産を持参してちょくちょく顔を出せば、信頼はあっという間に勝ち取れる。嫌な顔一つせずに子供の相手もしておけば完璧だ。これで、この孤児院に便宜を図らせる土台は整った。
「ああ、そうでした。これをお渡ししませんと。今日もこちらのお手紙が届いていらっしゃいましたよ」
「ありがとう、助かります」
ゼルマーが差し出したのは、貴族令嬢が好みそうな愛らしい封筒だ。差出人の名前はない。
宛先はランチェスター孤児院だが、宛名にある子供はここにいなかった。この子供宛に手紙が届いたら知らせてほしいとゼルマーに頼んだところ、老婦人は快く引き受けてくれていた。
おおかた、秘密の恋人とのやり取りの隠れ蓑にしているとでも思われているのだろう。彼女はそういう刺激がことのほか好きらしい。ローウェンにとっては都合のいい勘違いなので、訂正する気はなかった。
手紙を受け取ればもう用はない。孤児の食料を奪うのは忍びないからと昼食の誘いを辞退し、ローウェンはその足で大教会に向かった。
心得た様子のリヴィエがローウェンをシャラのもとまで案内してくれる。ラベンダーの花束は二つともリヴィエに渡した。そのあとにラベンダーがどうなろうとローウェンの知ったことではない。何かに加工されてシャラの部屋に飾られようが、屑籠に入れられようが、あるいはリヴィエがこっそり持ち帰ろうが、どうでもよかった。
給仕に囲まれながら、シャラや騎士のギレッドとともに昼食を摂る。
といっても、ギレッドは生真面目にシャラの背後に佇んでいただけだったが。シャラと一緒にいないときが、彼の休憩の時間に該当するのだろうか。
ローウェンと二人きりになりたいというシャラのわがままが、今日もギレッドを応接室から遠ざける。今日はローウェンの日だ。慣れたもので、人払いはすぐに済んだ。
「今日はヴィーからの手紙があるぞ」
「お返事ですか!」
シャラは歓喜の声を上げた。手紙を渡すと、待ちきれないのかいそいそと封を切る。
期待に目を輝かせ、シャラは一生懸命文面を追い始めた。その間、暇だったのでシャラ用の便箋の用意をする。街のどこでも手に入る、安価なレターセットだ。
「……ふぅ。やっぱりヴィーちゃんも物知りですね。ローウェンさんと同じぐらいかも」
「手紙にはなんて?」
「舞踏会の話とか、ヴィーちゃんの好きな人とかの話です。婚約者っていう名前なんだって。あと、美味しいケーキの話もしてくれました。わたしもお返事を書かないと」
シャラは表情を緩めたままペンを取った。
「し、ん、あ、い、な、る……ヴィーちゃんへ、っと」
「字は相変わらず下手だな」
「でもヴィーちゃんは読んでくれてます!」
水を差しても、少女は気にも留めていない。次から次へと書きたいことが溢れてくるのか、シャラは口と手を同時に動かしていた。
「ローウェンさんのことも教えてあげないと。わたしには意地悪なおにいちゃんがいます。ヴィーちゃんの優しい婚約者さんと交換してほしいです。あっ、でも、これだと人のものを取っちゃうことになっちゃうかな。違います、交換じゃなくて、見習わせたいです、っと」
「君が私をどう思っているかはよくわかった。まず、君の兄になった覚えはないが」
「でも、そういう嘘があったほうがいいでしょう? ヴィーちゃんは、姫神と文通してるなんて知らないもん」
顔を上げ、シャラは悪戯っぽく笑った。元々、ローウェンをわざと苛立たせる程度には生来のずるがしこさがある少女だ。どこで覚えてきた、などという無意味な質問はやめておいた。
シャラと文通している少女は、よもや相手が姫神シャラだとは思っていない。両親に不幸があってランチェスター孤児院で暮らすことになった、中級層出身の幼い娘だと思っている。
生まれついての虚弱さゆえに満足に出歩けず、そのため外の世界に憧れている夢見がちな女の子。そこで、貴族令嬢の華やかな世界を教え、彼女を楽しませてあげてほしい────婚約者の願いを快く引き受けた少女の名がヴィヴィアン・エーディートであり、そもそも彼女の婚約者にその役を頼むよう打診したのがローウェンだということは、シャラも知らない事柄だ。
ヴィーという謎めいた貴族令嬢と、ララという薄幸の娘。虚像でできた友情は、手紙が結ぶ間は真実となる。
素性を隠しているとはいえ、ローウェン以外の人間と心からかかわれる時間はシャラにとっても得難いもののようだ。きらびやかな宝石を愛でるように、シャラは愛おしげにヴィヴィアンからの手紙を待っていた。
「そういえば、ローウェンさんには好きな人はいるんですか?」
「どうした、急に」
「ヴィーちゃんの好きな人、たまにヴィーちゃんじゃない人と一緒にいるんですって。ヴィーちゃんは気にしてないけど、一緒にいないのがさみしいって言ってます。さみしいは、いやなことみたいです。ローウェンさんも、好きな人と一緒にいないとさみしいですか?」
「別に。そもそも、私は人を好きになったことがないからな。私を心から好く人もいないだろう。外面を取り繕えばいくらでも引き寄せられるが、それは永遠に続けられるものではないんだ」
気づけば恋愛とは縁遠い生き方をしていた。それどころではなかった。やるべきことが多すぎた。
それに、何か幸せを感じようとすることがあれば、レアーナの亡霊が近づいてくる。その瞬間、すべてが遠くなってレアーナに塗りつぶされるのだ。自分のための享楽を素直に味わうには、過去の罪が重すぎた。
『ルー!』
脳裏に響く声は、本当にレアーナのものだろうか。
自分の中からレアーナが消えていくのが怖かった。本物のレアーナがどこにもいなくなり、自分の中で歪めたレアーナしか残らなくなるからだ。レアーナと過ごした、きらきらしたあの時間は、もはやローウェンを苦しめるものに過ぎなかった。
たった一年かかわっただけだ。それなのに、レアーナはローウェンに大きな爪痕を遺した。姫神のまま死なせてしまった彼女のことは、いつまでもローウェンの心に暗い影を落としている。
「そうですか。じゃあローウェンさんがわたしといても、さみしい人はいないですね! ローウェンさんもさみしいにならないですもん」
シャラは安心しきったように笑い、ローウェンに抱きついてくる。「やめろ、暑苦しい。いいからさっさと返事を書け」引きはがしても、少女の笑みは曇らなかった。




