夏ノ一月 二週目二ノ日
王宮で催される舞踏会にシャラはいない。王宮と大教会は目と鼻の先にあるとはいえ、その程度の外出もシャラには許されていないからだ。
姫神に会いたければ人の王でも大教会の門を叩くしかない……というのは建前で、王家が神秘的な権威に姫神の養育を委ねた結果だ。
相手は神の子なのだから、国を束ねる王ではなく神の第一のしもべである聖座の手の内にあるのが道理だろう。世俗で振るえる権力を持つ後ろ盾として、宮廷と大教会そのものは対等として扱われている。
きらびやかな令嬢達に囲まれて愛想を振りまきながら、ローウェンは目ざとく周囲をうかがう。少女の間の流行からどこそこの貴族の寄付事情まで、社交界は情報の宝庫だ。
「そういえば、子爵はご存知ですか? 最近、評判のいいお芝居があるんですって。国内を回る一座のようですけれど、いつ王都に来てくださるのかしら。わたくしも観てみたいわ」
流し目で誘いを待つ令嬢に笑みを返す。「それは興味深いですね」他の令嬢も色めき立ち、彼女に負けじと声を上げた。
「悲しいお話が多いそうですよ。わたくし、そういったものは好みませんの。やはりお芝居は喜劇でないと」
「あら、楽しいばかりではつまりませんわ。芸術ですもの、様々なものを経験してこそでしょう?」
「悲しい、切ない恋の物語だけのよさだってありますものよね。その一座、街によって違うお芝居をするそうですけれど……王都ではどんなお芝居になるのかしら」
まったく新しい芝居を上演しながら巡業する旅の一座。話題は十分広まったようだ。観客の心も掴んでいる。何度かやり取りしているコルネスからの手紙通り、評判は上々らしい。
遠い世界のことであれば、あるいは作られた世界のことであれば、人は不幸も娯楽にできる────その当事者として、舞台の上に引きずり込まれない限り。
オルヴェール領で暮らしている間、ローウェンはこの国の歴史書を読み漁った。書くべき脚本があったからだ。
自分の稼ぎのほとんどを費やして集めた史料でもって、ローウェンは五十二本の戯曲を完成させた。これだけの数があれば、ガゼルデア国内のすべての大領地とその中の小領地、あらゆる都市で上演できる。
喜劇も悲劇もあるが、目立つのはやはり悲劇だ。役者の負担を減らすべく登場人物はごく少数に絞り、衣装や小道具も使い回せることを前提にした。
人気を博した劇というのは、往々にして後追いが出るものだ。だからローウェンの意に沿わない模倣作が出る前に、脚本をその都市一の劇団に売却させることで、マレーン座が去った後も同じ劇を堂々と上演できるようにした。中央に意図を知られて発禁処分を受けるまで、ローウェンのプロパガンダは続くだろう。
「都市によって上演するものが違うのであれば、きっと王都での公演も観たことのない芝居なのでしょうね。もしご覧になられるのであれば、ぜひご感想を聞かせていただきたいものです」
令嬢達にも芝居への関心をさらに煽っておく。いざマレーン座が王都にやってきたとき、彼女達はきっと我先にと観に行くだろう。
流行には鮮度がある。尊敬の眼差しを得るためには、常に最先端に立たなければならない。そして彼女達は、観てきたものをさらに社交界へと広げるのだ。
ローウェンでは、少女だけの秘密の花園に加われない。
だが、輪の外から操ることはできる。それなら、あとは彼女達の好きにさせてやればいい。ローウェンの手を離れ、ローウェンも使えない情報網が使われれば、多少の撹乱にもなるだろう。
「クレル子爵!」
婚約者を連れた王太子がこちらに気づいたのが見えた。ローウェンに見えるように片手を軽く上げている。
令嬢達に断りを入れ、王子のもとに向かう。アルムスは朗らかに迎えたが、彼の婚約者であるトレイン公爵の令嬢ヴィヴィアンは、冷めた目つきでローウェンに一瞥をくれると扇子で口元を覆い隠した。
「ヴィヴィアン。こちらはオルヴェール侯爵のご子息、クレル子爵だ。そういう態度はいかがなものかな」
アルムスが眉をひそめると、ヴィヴィアンは貼りつけたような笑みを浮かべて淑女の礼を取った。
「ごめんあそばせ、クレル子爵。ヴィヴィアン・エーディートと申します。貴方のお噂はかねがね。人の噂などあてにはなりませんのね。どのような方かと不安だったのですが、おうかがいしていたよりずっと素敵な方のようですわ」
「はじめまして、レディ。いえ、当然のお考えですよ。私は物珍しさからもてはやされているだけの、くだらない男でございます」
微笑と共に一礼する。それで義理は果たしたと思ったのか、ヴィヴィアンはまたそっぽを向いた。
「すまない、子爵。彼女はただでさえ我が強く、最近はさらに虫の居所が悪いようでね。社交界の華の座をセレニア嬢に奪われたのが面白くないようだ」
王子は小声で囁く。シャラと一緒にいる時には見せたことのない、憔悴したような顔をしていた。
セレニア。ミーディア家の娘の名だ。彼女はシャラに祖母の形見と同じような首飾りを身に着けさせるという栄誉を得ていた。そのせいか─実際のシャラの意図はどうあれ─姫神のお友達としてたまに大教会に出入りしているらしい。
名門エーディート家の息女で、王太子の婚約者という輝かしい立場にいるヴィヴィアンからすれば、面白くないのは明白だろう。自分を差し置いて姫神と親しくなり、羨望の的になった少女がいるのだから。
「殿下、大変恐縮なのですが、少し踊り疲れてしまいまして。どこかで休もうと思うのですが、ふさわしい場所をご存知ではありませんか? お恥ずかしながら、王宮には疎く……」
「ああ、それならいい場所がある。案内しよう。ヴィヴィアン、少し待っていてくれるかい?」
ヴィヴィアンは興味なさげに応じる。アルムスは苦笑しながらローウェンをホールの外へと案内した。
「連れ出してくれて助かったよ。正直、彼女と二人きりだと息が詰まっていたところだった」
「失礼ながら、お二人の仲はあまり良好とは言えないのですか?」
「悪いわけではないんだけどね。ヴィヴィアンのことは昔から知っているが、彼女は少しばかり高慢すぎる。……もちろん可愛らしいところもあるが、最近はどうにも欠点ばかりが目について」
そう呟くアルムスの目は、倦怠に淀んでいた。
「ヴィヴィアンにも当然分別は備わっているが、時に人の感情は理性をたやすく超えてしまうものだ。トレイン公もそれを危惧して、彼女の大教会への出入りを制限しているらしい。ヴィヴィアンは自分もシャラと親しくしたいと言うが、もしふさわしくない振る舞いをしたらと思うと恐ろしくて。ほら、お前への物言いも、礼を欠いたものだっただろう?」
「私がこれまで褒められた暮らしをしてこなかったのは事実です。ヴィヴィアン嬢が警戒するのは当然ですよ。お気になさらないでください」
たとえば恋人が、愛玩動物を可愛がるのに夢中になるあまり自分を放置していたとして。
その事実に目くじらを立てる者はいても、愛玩動物を恋敵とみなして本気の嫉妬をする者はごく少数だろう。
シャラが人間の少女としてきちんと扱われていたら。ヴィヴィアンの苛立ちの理由は、セレニアなどではなかった。その矛先は、自身の婚約者を堂々と侍らす少女と、自分というものがありながら自分のことを二の次にする婚約者に向かうはずだ。
けれどもしもヴィヴィアンに、本人も気づかないまま燻る感情があれば。それに火をつけるのは、ローウェンの役目だ。
もしヴィヴィアンとシャラを引き合わせたら、シャラの心に何かいい影響をもたらしてくれないだろうか。
自分のような年の離れた男より、年の近い少女との交流のほうが響くものがあるかもしれない。アルムスとトレイン公爵の目をうまくかいくぐって、どうにか二人の仲を取り持つ手段があればいいが。
ローウェンの心中など露知らず、アルムスは重いため息をついた。
「……最近、ヴィヴィアンがシャラの半分でも素直だったら、と考えるようになってしまってね。もしもシャラが人間だったら……僕は、ヴィヴィアンではなくシャラを選んでしまうかもしれない。シャラと一緒にいると、心が安らいで疲れが吹き飛ぶんだ。どんな悩みも忘れさせてくれる」
「お言葉ですが、殿下。選ぶ立場にいらっしゃるのは殿下だけではございませんよ」
「なんだと?」
「たとえヴィヴィアン嬢の手を振り払ってシャラ様をお選びになっても、シャラ様がどうお答えするかはわからないでしょう?」
「はは、確かに。シャラが人間だったら、お前達も恋敵になりかねなかったな」
わざと悪戯っぽく笑うと、アルムスはようやく屈託のない笑みを見せた。ローウェンの言葉は完全に冗談として受け取られたらしい。
それは、シャラを熱心に可愛がる彼でさえ、実際のところシャラという個人をまったく見ていないことの証明のようにも思えた。
可愛がっている猫がよそ見をするなら、よそ見をした先にいる人間に嫉妬することもあるだろう。あるいはただ単に、猫の愛らしさを共有するよき理解者とするかもしれない。
いずれにせよ、自分以外の誰かに懐く猫を見て、自分を選ばない猫に本気の憤りをぶつける者はいない。それどころか、より猫の注目を集めようと、美味しい餌や新しいおもちゃで猫を釣ろうとするだけだ。
「殿下のそれは、一時の気の迷いに過ぎません。ヴィヴィアン嬢とは昔から交流がおありなのでしょう? ヴィヴィアン嬢のことは、殿下がよくご存知のはずです」
アルムスに限った話ではない。
取り巻き達がシャラの歓心を買おうとするのも、しょせんは侵せざるその神聖さに魅了されているだけのことだ。姫神を通じて神の輝きに触れたいという、浅ましさの発露でしかなかった。
他人の飼い猫を、そうと知りながら可愛がり、無責任に餌をやる者は多い。
しかし、勝手に首輪を外して野生に返したり、あるいは人知れず自分の家に連れ帰ったりするような真似は、まっとうな人間ならば決してしないことだった。
理性ではなく感情を。道理ではなく我欲を。
それらを優先し、恥知らずな罪を犯した異端者だけが、姫神の真実に気づくことができる。まったくよくできた皮肉だ。
「……美しく儚い、神秘的なものへの憧憬と、生涯を共にする伴侶への想いを同一視してはなりませんよ。特に殿下の場合、お迎えすべきは支え合って国を導く妃となる方なのですから」
「それもそうだったな。ヴィヴィアンが高慢なのは、もとをただせば自分に自信があったからだ。確かに彼女は聡明で美しい。彼女に妃の素質があるのは僕も認めるところだ。ヴィヴィアンが傍にいるのが当たり前になっていたせいで、忘れてしまっていたが……」
「進言と呼ぶには無礼な言葉の数々を、快く収めてくださったことに感謝いたします。恐れながら重ねて申し上げますと、一度お二人だけで歓談の席をもうけられてはいかがでしょうか。ヴィヴィアン嬢のお心を確かめ、殿下のお気持ちを伝えるよい機会になるかと」
「ああ。きっと彼女も、自分の今の立場に慣れすぎたせいで目に余る振る舞いを見せるんだろう。現状に甘えていた僕と同じだ。……互いに浮ついているのはよくない。婚約者として、きちんと話し合ってみるよ」
晴れやかな、すっきりした顔でアルムスはホールへと戻っていった。一人残ったローウェンは、ソファに深く腰掛ける。
「……ただでさえシャラを人間だとみなせていないのに、これ以上自分の理想を押しつけてやるな。シャラは、誰かの心を癒すための都合のいい妄想などではないんだ」
荒れる心を鎮めたくて、ローウェンは静かに目を閉じる。
胸に渦巻くこの感情を、直接シャラに移すことができればよかったのに。
 




