夏ノ一月 一週目四ノ日
「これはなんて読むんですか?」
「『太陽』だ。太陽はわかるな? 空の上にあって、朝と昼の間に地上を照らしているものだ」
「むっ。それぐらいはわかりますよぉ! 直接見てはいけないと、たくさん教わりましたから!」
上級層の子供向けの教本から顔を上げ、シャラは唇を尖らせた。それを適当にあしらい、続きを促す。
「他にわからない単語はないか? 大丈夫そうなら、ここの文章を通して読んでみろ」
「えーっと……『弟が……祈りを捧げる……と、太陽のごとき光を、は……放ち、神が現れた』? 『それを見た……姉は、ひ、跪き、虹の瞳……を、静かに閉じた。姉は……神とともに天に還り、弟はこの地を国とした』!」
「そうだ。よくできたな」
「えへへ。すごいでしょう」
シャラは得意げな様子で、軽く頭を傾ける。まるでローウェンに撫でてほしいと言うように。ローウェンは顔をしかめ、雑な手つきで要望に応えた。
ローウェンが教えるまで、シャラは読み書きがまったくできなかった。それでも地頭は悪くないようで、教師役のローウェンが驚くペースで学習を重ねていっている。
「いつもはギレッドさんに読んでもらっていましたけど、自分で本を読むのは楽しいですね」
「勉強に意欲的なのはいいことだが……私と二人でいるとき以外には、文字が読めるような素振りは見せるなよ」
「わかってまぁす」
大教会が姫神に施す教育は非常に偏っている。王侯貴族とかかわることから人の世のしきたりとして礼儀作法は教えるが、余計な知恵をつけさせないように一般的な教養は与えない。騎士のギレッドが読み聞かせる本とやらも、検閲済みで毒にも薬にもならないものばかりに決まっている。
教える学問があるとすれば、この国がいかに神に愛されたことで栄えてきたか、そしていかに姫神が美しく天に還ったか、その歴史だけだ。寝物語に語って聞かせられるのだと、昔レアーナが言っていた。シャラもきっとそうだろう。
「国語はそろそろ終わりにするか。おやつにしよう」
「わたしはまだ勉強ができますよ?」
シャラは無邪気に胸を張る。ローウェンは持参していた紙袋に手を伸ばした。
「なら、これはいらないか?」
紙袋からツバキモモを取り出す。甘い香りに興味を引かれたのか「なんですか、それ!」シャラが手を伸ばしてきたので、簡単に取れないように腕を高く上げた。
「と、届かないです」
「こういう行為を意地悪、あるいは嫌がらせというんだ。覚えておけよ。してくる相手のことは意地悪とでも呼んでおけ、行為と同じ呼び名なら多少は覚えやすいだろう」
「いじわる。ローウェンさんはいじわるですね。いじわる」
「意地悪をするのはよくないことだ。こういうことをされると、嫌な気持ちになるだろう?」
「わたしにいじわるをするのはローウェンさんだけです。ふふふ。他の人にいじわるしちゃダメですよ」
「どうして嬉しそうにするんだ」
シャラの琴線はよくわからない。これだから彼女のことは嫌いなのだ。
「おやつといっても、上等なものが食べられると思うな。君なんて、庶民のようにツバキモモを丸かじりしているのがお似合いだ」
「ツバキモモ? これがですか? わたしの知ってるツバキモモじゃないですけど」
「まさかコンポートしか見たことがないのか? いいか、あれは切り分けられたものだ。これがツバキモモの本来の形なんだぞ」
手にしていたツバキモモをテーブルに置き、紙袋の中からそれをもう一つ取り出す。二つの果実をシャラはしげしげと眺めた。
「シャラ、これを私と君でまるごと分け合おう。君はツバキモモを何個食べられると思う?」
「んん? こう、ですよね? こっちがわたしので、それがローウェンさんのです。だから一個ですよ。分け合うんですから」
「そうだな。じゃあ、欲張らなかった褒美にもう一つくれてやろう。君は何個食べられることになった?」
三個目のツバキモモをシャラの手前に置く。「二個です!」「正解」答えながらローウェンは空になった紙袋を逆さにして軽く振った。
「紙袋にはもう何もない。さて、私はいくつツバキモモを持ってきたと思う?」
「三個です。ここに二個あって、そっちにローウェンさんの一個がありますから」
「その通り。その桃は一個三十リンで買ってきた。リンというのはこの国の通貨……何かが欲しい時、それと引き換えに渡すものだ。大教会にいる間はいらないが、そのうち君も使うようになる。さて、桃が一個ほしいなら、三十リンが必要だ。それなら三個の桃がほしいとき、どれくらいのリンが必要かわかるか?」
「えっ、えっと、三十リン? が、三個? です」
「……これは私が悪かった。いくつか段階を飛ばしすぎたな」
少ない数で、実物を前にしたものであれば、シャラは問題なく数えられるらしい。それがわかっただけでも収穫だろう。
「ちなみに必要なのは九十リンだ。三十と三十を合わせると六十になって、六十にもう一度三十を足すと九十になるからな」
「???」
ローウェンは三つのツバキモモを並べ、金額を言いながらまとめていく。シャラはぴんときていなかったようなので、そのまま二個のツバキモモを彼女の手前に置き直した。
「ところでローウェンさん、これはどうやって食べるんですか?」
「言っただろう、丸かじりだ。別に珍しい食べ方でもない。こうやって掴んで……いや、君の場合は両手で持ったほうがいいな」
「こうですか?」
「そう。そのまま噛みつけ。慣れないうちは果汁が垂れないように気をつけろよ」
姫神の衣装を汚したと神官にいぶかしがられるのもよくない。タオルを用意してやると、シャラは素直にそれで服を覆った。
「甘くて美味しいです。ツバキモモにはこういう食べ方もあるんですね」
両手でツバキモモを支え、シャラは一生懸命ツバキモモにかじりついている。
「一心不乱に頬張って……まるで卑しいネズミだな」
「いやしいねずみってなんですか?」
「……今の罵倒は失敗した、忘れろ」
ローウェンは苛立ちをぶつけるようにツバキモモを噛みちぎった。シャラに不快という感情を教えたいための罵倒でも、そもそもシャラに意味が伝わらなければ意味がない。
「罵倒したんですか? ローウェンさんが教えてくれたのと同じ食べ方をしたのに?」
すると、シャラは不思議そうに首をかしげた。
それは当然の指摘だ。少女にとってはささやかな疑問にすぎなかったのかもしれない。
彼女は怒りも不満も抱いていなかった。ただ純粋に、わからないことを尋ねているだけだ。それでも、ローウェンを驚かせる大きな進歩には違いなかった。
「それを疑問に思えたのか?」
「だって、わたしは言われた通りにしただけだもん」
「いいか、シャラ。それを人は“理不尽”と呼ぶんだ。理不尽なことがあった時は、迷わず声を上げろ」
「りふじん。理不尽も、たくさん種類がありますか? 罵倒と同じように?」
「数え切れないぐらいある。君にとって一番身近にある理不尽なことは、まっとうな教育を受ける機会を奪われたことと──姫神として、殺されることだ」
殺す、死ぬという概念については、改めて説明していた。
シャラはよく飲み込めていないようだったが、その先には何もないということだけは理解したようだ。天還りの儀を行ったって、父なる神の御許には辿り着けない。
「……天還りの儀は、当然のことだと思っていました。レアーナおねえちゃんもやったし、エリフィーちゃんもやることです。わたしもそのために生まれたんです」
だけど、とシャラは言葉を区切る。食べかけのツバキモモをじっと見つめ、シャラはゆっくりと声を紡いだ。
「天還りの儀が終わったら、もうローウェンさんに会えなくなっちゃうから……やりたくないって、思ってます。言ったらきっといろんな人が心配をするから、言えないけど」
「今、誰も心配しないようなやり方で君の本音を届かせる準備をしているんだ。だから、時が来たら聞かせてやれ。君の意見を聞けば、みんな考えを改めてくれるかもしれない」
「……」
シャラが言う“心配”には、色々な種類がある。
困惑、苦悩、あるいは怒り。シャラは自身が持ち合わせていない感情や、自身では説明できない相手の様子のことも含めて、まとめて“心配”と呼ぶことにしているのだ。彼女がそう言ったわけではないが、そういう風に覚えているのだと、ローウェンは察していた。
「……わたしには、全部の理不尽がわかりません。わたしの知らない理不尽は、きっとたくさんあると思います。それで……もしわたしが声を上げられなかったら──助けてくれますか、ローウェンさん」
「そんなことをいちいち聞いて、私の手を煩わせるな。助けるつもりがないように見えるのか」
じとりと睨みつけると、シャラは安心したようにツバキモモにかじりついた。




