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春ノ一月 三週目二ノ日

「ローウェンさん!」


 輝かんばかりの笑顔を振りまきながら駆けてくるその少女が、たまらなく煩わしかった。


「こんにちはっ。どうかしたんですかぁ?」


 ああ、この目だ。

 抱きついたままローウェンを見上げる、きらきらした無垢な眼。その無邪気さにはいっそ鳥肌が立つ。


「殿下。今日の夜会の件で、国王陛下がお呼びです」


 だからローウェンはそれを視界から消す。彼の視線は少女を飛び越えた先、少女を追ってこちらにやってくる男達のうちの一人に向けられた。


「僕は今、姫神様との交流で忙しい。クレル子爵、お前からうまく取りなしておいてくれ」


 だが、それもあまり意味はなかった。ぬけぬけとそう言い放った少年がこの国の王太子であるという事実も、ローウェンにとっては目をそらしたいことだったのだから。


「ダメですよ、アルムス様。王様のところに行ってあげて。急ぎの用事だったらどうするんです?」

「だが、君と過ごす時間以上に大事なものなんてどこにもないさ」

「わたしのことは気にしないでください。それに、お仕事はちゃんとしないと」


 少女はアルムスに一瞥だけくれる。「ローウェンさんもそう思いますよね?」ローウェンは微笑で応じた。

 一体何が楽しいのか、ローウェンを見上げる少女の笑みは曇らない。これがアルムスや、他の取り巻き達の前でなかったら、舌打ちのひとつでもしていたところだ。


「シャラは優しすぎる。もっと自分を優先してくれてもいいんだよ?」


 ため息をついた王子に同調するかのように、他の取り巻きも次々とシャラを褒めたたえた。慈愛に満ちた賢明な人だ、と。

 彼らはいつもそうだ。いつもそうやって、“姫神”であるシャラを肯定する。


 見目麗しい王太子に壮健な騎士、才気あふれる神官長と、それから国一番の豪商の息子。

 地位も金も権力もある若い男達が、今年やっと齢十六を迎えようとする小娘に傅いて愛を囁く。見ているだけで反吐が出そうだった。


 なんてくだらない茶番劇なのだろう。八年前からこの国は、何一つとして変わっていない。


「お仕事頑張ってくださいね、アルムス様。……ローウェンさんはここにいてくれますよね? いいでしょ、ローウェンさん?」


 刻一刻と色を変える、少女の右目がローウェンを捉えて離さない。その声音は蜂蜜のように甘かった。

 上目遣いで哀願する愛らしい少女を前に、まとも・・・な神経を持ったこの国の男は決して否とは応えないのだろう。


「大変申し訳ございません、シャラ様。せっかくのお誘いですが、私も王宮に参じねばならないのです。宰相閣下に拝謁の予定がございまして。どうかまたの機会に、その栄誉を受け取ることを許していただけますでしょうか」


 だから、ローウェンは精一杯悲しげな顔をする。やるせなさを声音ににじませ、深々と頭を下げた。

 ここまで言えば、シャラでもようやく引き下がる気になったようだ。シャラは残念そうに眉尻を下げる。


「そっか。じゃあ仕方ないですね。今度、一緒にお茶しましょう?  約束ですから!」


 今日は人目があるから態度を取り繕うだけで、二人きりの時はもっと直接的に拒絶の意思を吐いている。それでも、少女は決して諦めない。

 一体いつになったら彼女は気づくのだろう。眼前の男は自分のことを心底嫌っていると、どうやったら理解してもらえるのだろう。


*


「久しぶりの王都の空気はどうだ?」


 宮廷の空気についての所感、我が家にとって益のある家との交流。これまで王都で過ごして得た手ごたえの報告を終えると、宰相は表情をやわらげた。ぎこちなく微笑もうとした、と言ったほうが正しいかもしれない。


 ローウェンが王都にやってきて二週間が経つが、宰相が父親らしい眼でローウェンを見たのは今日が初めてだった。


 王都にいる間、ローウェンは宰相が所有している屋敷に滞在している。そこで顔を合わせる時すらも、無口な宰相は仏頂面でもってろくでなしの息子と接していた。もっともローウェンも、この壮年の気難しい男に対して息子らしい態度を示したことはなかったが。


「どう、と申されますと?」

「お前も今年で二十四だ。クレル子爵位も譲ったことだし、そろそろ真剣に私の跡を継ぐ勉強をしてみないか」

「オルヴェール領の治め方なら、この八年の間にも学んでいました。民の生活を肌で知り、より親身になって理解を深めることができたかと」

「そうではない。もちろん、レクスター家の家督とオルヴェール侯爵位もゆくゆくはお前のものになるだろうが……宰相補佐官として、宮廷に来ないかと言っているんだ」


 ローウェンは瞠目した。嫌味について軽く流されるどころか、よもや仕官する道に誘われる日が来るとは思わなかったからだ。


 かつてローウェンは罪を犯した。八年前、十六歳の誕生日の前日のことだ。その罰によりローウェンは王都から追放され、宰相エルドンが有するオルヴェール領の外に出ることを許されなかった。

 しかしその事実を知る者は、宰相夫妻とごく一握りの高位聖職者、そして国王しかいない。ローウェンの罪状は、決して表沙汰にできるものではなかったからだ。


 レクスター家の嫡男が罪人であるなど誰も思わない。表立って断罪されることはなかったし、過去の罪科を咎める者もいなかった。社交期になっても王都や他領に顔を出さずとも、社交嫌いの出不精だと噂を立てられるのがせいぜいだ。


 しかし今年の社交期からは話が違った。急に『クレル子爵』を名乗って社交界に顔を見せるよう強いられたからだ。


 当主が健在の貴族家において、その配偶者や子供達は厳密には貴族として扱わない、と国法は定めている。貴族の人間として尊ばれることはあっても、法律だけで見れば本当の“貴族”は爵位を有する当主ひとりだけだ。

 有力貴族の当主は複数の爵位を保有することができ、嫡子だけはその中の一つを儀礼的に名乗ることを許される。あくまでも名目上の称号であるため付随する権限などはないが、当主の爵位を名乗ることができるのは名家の嫡子として一人前と認められた証だ。ローウェンの場合は、それが『クレル子爵』だった。


 十六の時から、ローウェンは貴族社会とは縁遠い生き方をしてきた。法律絡みの話をする時以外は誰もきちんと守っていないような形骸化した慣習などではなく、正真正銘の平民として生きていたのだ。

 オルヴェール領で暮らす人間達に、あの・・ルー・レカが実は領主の息子だと言っても、きっと誰も信じないだろう。


 今さら『クレル子爵』の名を与えられてレクスター家の後継者として扱われたって、ローウェンとしては戸惑いのほうが大きい。

 それでもひとつだけ、希望があった。レクスター家を継ぐことができれば、八年前のあの日に叶えられなかったことを今度こそ叶えられるかもしれない、と。


 だからローウェンはその可能性に賭けた。どの面下げてと言われればこの顔だと答えるほかないが、とにかくぶ厚い面の皮でもって王都に舞い戻ってきたのだ。今のところの手ごたえは、レクスター家次期当主としての顔つなぎと、姫神を取り巻く環境に近づいたことしかないが。


「たとえどのような役職であれ、宮廷に私の居場所があるとは思えませんが」

「何を言う。お前はレクスター家の次期当主だぞ? 私の息子を拒む者など、宮廷のどこにもいない」


 宰相エルドンは、ようやく笑い方を思い出したようだった。普段は近寄りがたい雰囲気を醸し出す彼も、少し表情を変えるだけでだいぶ印象が変わるものだ。


 久しぶりに見たその笑みに、ローウェンも口元を綻ばせる。エルドンは自分以外を後継者にできないと、確信を得たからだ。


 思えば昼過ぎに、国王の使いが非公式にやってきて、大教会にいる王子を呼んでくるよう命じたのも、その布石だったのだろう。ローウェンをシャラに会わせるための理由いいわけが用意されるなら、シャラに侍るローウェンの身分を保証する大義名分そとぼりだって用意されてもおかしくない。


 息子を正式に後継に据えたかった宰相。

 自分の本当に望むものを与えてくれる男を傍に置きたい姫神。

 姫神の機嫌を損ねまいと、様々なわがままを叶える大教会。

 そして権威の象徴として、国王派の家から遣わせる姫神の“お気に入り”を増やしたい王家。

 これだけ揃えば、本来なら不安定な立ち位置にいるローウェンでも付け入ることのできる隙が生まれてくれる。


「宰相閣下。これまで私にレクスター家の籍を与えてくださったことは感謝しております。しかし私はこの八年間、レクスター家とは無縁の暮らしをしておりました。大変申し訳ございませんが──貴方を父と思ったことは、八年前のあの日以来ございません」


 その宣言に、エルドンの笑みが凍りついた。


「貴方が本当に私を息子だと思うなら、私を殺せばよかった。いつでもその機会はあったはずです。貴方と貴方の奥方が言ったことでしょう? 我が子を死なせることこそが、親の示せる最大の愛である、と」


 嗤うローウェンに、エルドンは顔を蒼褪めさせていく。

 この言葉を忘れたとは言わせない。エルドンもその妻フリジアも、ローウェンの実の両親だ。だからこそ、二人のしたことは絶対に許さない。


「……なんて、冗談ですよ。不肖の息子の、最後の反抗期です。少しは驚かれましたか?」


 憎悪のにじむ眼差しから一転して茶目っ気を見せるローウェンを見て、エルドンは顔を引きつらせながらもごもごと返事をした。


「ふふ。長らく捨て置かれたのですから、この程度の意趣返しはさせていただかないと。父上をも驚かせたのなら、私の演技力は宮廷でも通用しそうですね。貴族たるもの、腹芸のひとつもできなければ。そうでしょう?」

「た、確かお前は、オルヴェール領では役者をしていたんだったな。中々見応えのある演技だったぞ」


 舞台が終幕を迎えたときのように、ローウェンは気取った仕草で一礼する。「もちろん、過去の罪は深く反省しています。あれは当然の報いでした」としおらしく付け加えることも忘れない。


「そのうえで、父上が私を後継者に据えるとおっしゃるのであれば、謹んで拝命いたしますとも。私も心を入れ替えます。レクスター家の人間として、父上と母上のご期待に沿えるべくふさわしい人間になってみせましょう」


 いくら足場が整ったからと言って、まだローウェン自身の布陣は盤石とは言えなかった。あまりに反抗的な態度を取れば、せっかく手に入れた機会を失ってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならなかった。


 あの日から、短いとは言えない月日が流れた。もはや自分は子供ではない。

 再び王都に足を踏み入れ、大教会に行ける身にもなったのだ。


 だから、きっと、今度こそ────“姫神”を、殺してみせる。

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