佐賀宿
佐賀宿
明け六つに屋敷を出た、東の空が薄っすらと赤みを帯びている。
「トト、眠い・・・」薫が小さな手で目を擦りながら言った。
「どれ、トトが肩車をしてやろう、眼が覚めるぞ」
「ほんと?」
「ベンさんたら、薫に甘いんだからぁ!」
「昼前にバテられても困りますからね」
弁千代は軽々と薫を抱いて肩に乗せた。
「まぁ、薫、いいわねぇ、後でカカと変わってくれない?」
「嫌だ!」
「まっ、意地悪、誰に似たのかしら」
「ははは、私も鈴さんを乗せるのは御免です」
「ベンさんに似たのね。でも潰れられても困るから許してあげるわ」
「ははははは・・・」
初めての家族水入らずの旅に、気持ちが綿雪のように軽い鈴であった。
行程は山越えではなく、遠回りにはなるが長崎街道を行く事にした。
急ぐ旅ではない、ゆっくりと行けば良い。
佐賀宿で一泊、原田宿で一泊してそれから博多へ向かう。
佐賀までは、約五里。途中薫を歩かせたりおぶったりしてゆるゆると進んだ。
「鈴さん良庵先生を覚えてますか?」
薫の手を引いて歩きながら、弁千代が訊ねた。
「もちろんよ、私が疲れて倒れた時お世話になったわ」
「佐賀で、久し振りに良庵先生を訪ねてみませんか?」
「良いわね、お元気かしら?」
「さぁ、もう五年以上になりますからね」
「そうだ、あの時のお宿に止まらない・・・ええと、なんて言ったっけかなぁ?」
「芦刈屋です」
「そうそう、芦刈屋。どう、良いと思わない、あの頃の思い出に浸るの」
「良いですよ、そうしましょう」
「わぁ、楽しみね」
「カカ、まだ着かないの?」薫が泣きそうな顔で訊いた。
「あら、もう疲れちゃった?困ったわねぇ、まだ半分も来ていないのに」
「鈴さん、次の茶店で少し休んで行きましょう」
「そうね、お団子でも食べて元気を出しましょう」
「カカ、お団子あるの?」
「あると良いわね」
「絶対ある!早く行こ!」
「まあ、げんきんな子ね、泣きそうな顔してたくせに」
「トト、カカ、早くおいで!」
薫はもう一人で先を走っていた。
佐賀宿に着いたのはもう夕暮れだった。
芦刈屋は以前訪れた時よりも大きくなっていた。長崎街道の通行量が増えて、部屋を建て増ししたのだろう。
宿に入って訪いを告げると、見知った顔が現れた。
「まぁ!」目を丸くして驚いている。「中武様、まぁまぁようお越しで、あら、そちらはあの時の三味線のお師匠さん、まあ、すっかりお侍の奥方になって、見違えちゃいましたわ。あらっ!お坊ちゃんですか、賢そうなお顔をしていらっしゃいます・・・」女将は一気に喋った。まだ話しそうだったので弁千代がそっと口を挟んだ、この辺は剣術の間合いと変わりない。
「女将、お久し振りです、その節はお大変世話になりました。本日、三人でお世話になりたいのですが、部屋は空いておりますか?」
「ええ、ええ、空いてございますとも。当旅館で一番良い部屋をご用意致しますわ」
「い、いえ、普通の部屋で宜しいのです」
「まあ固いことを仰らずに。宿賃の心配は要りませんからゆっくりして行ってくださいね。坊ちゃんお名前は?」
「カオル・・・」薫が呆気にとられながらもなんとか答える。
「まぁまぁ薫ぼっちゃま、うちはおっきなお風呂があるんですよ、後で入って下さいね。あ、それからお好きなものは何かありますか?夕飯に付けますから、あっ、甘いものが良いわよね、板前さんに言っておかなきゃ」
「お、女将さん、お気使いありがとうございます。この子は何でも食べますので、どうぞご心配なく・・・」これは鈴が答えた。
「まぁまぁいいじゃありませんか。あっ、御免なさい、こんなところで立ち話しちゃって・・・仲居さんこちらのお客様を楓の間にお通しして!」
女将は大きな声で仲居を呼んだ。舌戦は女将の圧勝だった。
*******
「今は無門様と仰るんですか?」
荷を解いて寛いでいると、女将が挨拶にやって来た。
「先程は、あまりに懐かしかったものですから、とりとめもなく喋ってしまい失礼致しました」
「いいえ、覚えて頂いてたただけでも有難い事です」
「忘れられるものですか、牟田道場での稽古は今でも語り草ですよ」
「ところで、良庵先生はお元気ですか?」
ふと、女将の顔が曇った。
「良庵先生ねぇ、二年前に亡くなられたのですよ」
「えっ!」鈴が短く声をあげた。
「お正月にお餅を喉に詰まらせちゃってね、運悪く周りに誰もいなくって・・・全く良庵先生らしい死に方でしたよ」
「それは残念な事をしました」
「でもね、考えたら幸せな死に方でしたよ。誰にも迷惑をかけず元気に死んだんですから。ピンピンコロリは誰だって望んでも出来ない事ですからねぇ」
女将が考え深げに言った。
「ものは考えようですかねぇ・・・」鈴が目頭を押さえながら言った。
「今は良順先生が診療所の後を継いでやってますよ」
良順は良庵の弟子である。
「そうですか、明日診療所に寄ってみましょう。三人で御仏前にお参りもしたいし」
「是非そうしてやって下さい、良庵先生もお喜びになりますよぅ」女将も思い出して目を潤ませている。
「さぁ、夕飯が出来るまでお風呂にでも行ってさっぱりしていらっしゃい。お酒も付けておきますからね」
女将に言われて、弁千代は薫と風呂に行った。
「薫、疲れたであろう?」
「ううん、大丈夫。こんな遠くまで来たの初めて!」
「明日はもうひと頑張りしてもらわねばならん、いっぱい食べて早く寝るんだぞ」
「分かった!」
「さ、背中を流してやろう。終わったら交代だぞ」
「うん、トトの背中大きいから大変そう」
「ははは、力を入れて擦ってくれよ」
*******
翌朝、三人で診療所に行くと良順がもう患者を診ていた。
良順も妻帯して子供は二歳になっていた。
「良庵先生にこの子を抱かせてあげられなかったのが心残りです」良順は久しぶりに会った弁千代を驚きの表情を浮かべて見つめながらそう言った。
良順の妻に案内されて仏間に入って、良庵の位牌に手を合わせる。
帰りにまた寄る事を約して宿に戻った。
女将に礼を言って出立したのは、もう昼に近かった。
「今日は神崎宿で泊まりましょう」
「あら、原田まで行くんじゃなかったの?」
「これからでは無理です、薫もいるし」
「そうね、急ぐ旅でもなし、ゆっくりと行きましょう」
神崎宿は近隣の大名や幕府の重臣が休息する本宿なので立派な本陣、脇本陣がある賑やかな宿場である。
馬場川の近くの繁華な場所に宿を取り、明日の予定を鈴に相談した。
「長崎の”らいじん”の大将の先輩が原田宿に黒田屋という料理屋を開いていると言っていましたね」
「ああ、そうだったわね。ちょっと寄ってみましょうか?」
「その後の大将の消息も知れるかも知れません」
「懐かしいわ〜長崎、いろんな事があったわね」
「愛一郎殿は元気でしょうか?」
「そうね、ひょっとしたらその話も聞けるかも」
「ならば、明日の夕飯は宿ではなく黒田屋で食べる事にしましょう」
「大将の先輩の店ならきっと美味しいわ、なんだか楽しみね」
「薫はもう寝た様ですね」弁千代が川の字に敷いてある布団を見て言った。
「初めての旅で疲れちゃったのね、無理もないわ」
「明日も頑張って貰わねばなりませんからね」
「大丈夫、二人の子だもの。だって私たち、ずっと旅してたんだもの」
「ははは、違いない・・・」




