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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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暗転

暗転


壱岐が財政改革を始めてから一年半で藩庫には十四万両の蓄えが出来た。

勘定方などは小躍りして喜んでいる。

藩政の改革も公明正大で、民の壱岐への信頼は揺るぎないものになっていた。

万延二年二月七日、藩主立花鑑寛あきともは参勤の為江戸へ立った。

壱岐は鑑寛に「江戸ではくれぐれもみだりに動かれませぬよう」と釘を刺した。

鑑寛は頷き、「儂が帰るまで壱岐に政治向きの全権を委任する」と宣言した。

民の信頼と共にこれも保守派の家老達には面白くない事である。

七人いる家老の中で改革派は壱岐と吉右衛門のみ。十時摂津は壱岐の姻戚という事で中立を保っているが、後は保守派の家老である。

全権を委任された壱岐は、人事の刷新を測ろうとする。当然保守派の反発があった。

ここで思いもしない出来事が起こった。


「ご家老!」息急き切って伊織が書院に駆け込んで来た。

「どうした伊織、そんなに慌てて」

「これが慌てずにいられましょうや!」

「何があった」

「壱岐様が倒れられました!」

「何!」吉右衛門が片膝を立てた。

「腹痛、下痢、嘔吐を繰り返し、とても起きていられる状態ではないそうです」

「医者の見立ては?」

「蘭方医砥上玄達の見立てでは過労だと・・・」

「そうか、先日保守派の家老どもと三日三晩の激論を交わされたが、あれが祟っておるのか」

「壱岐殿は若い、大事ないとは思うが・・・」

「如何なされます?」

「今から見舞いに行く。伊織ついて参れ!」

「御意!」


*******


控えの間で伊織を待たせておいて、吉右衛門は壱岐の寝ている座敷に入っていった。

大石進が枕元に座っていた。

「大石か・・・壱岐殿の容態は?」

「これは無門様、ただいま薬が効いたと見えぐっすりと眠っておられます」

「お主の警護も病には効かぬようだな」

「はっ、面目しだいもございません」

「いや冗談だ・・・過労と聞いたが?」

「それが・・・」

「違うのか?」

「はい・・・」大石は苦しそうな表情で頷いた。「壱岐様は昔同じような症状で死にかけた事があります。今は高熱が出ない事がせめてもの救いですが・・・」

「それは?」

「肝の臓の病です」

「何と・・・」

「どうぞこの事はご内密に」

「うむ」

「人事異動の件、時期を遅らせねばなりません」

「壱岐殿は若い、きっと回復する、今は治療に専念させよ」

「保守派の家老どもがこの機会を逃すはずはありません、必ず巻き返しを図って来る筈です」

「大事無い、今すぐどうという事はあるまい。それより医者は何と言っておる?」

「砥上玄達先生は、自分の知識では快癒させる自信はないと申しております」

「玄達以上の医者はこの柳河にはおるまい」

「玄達先生は、長崎で松本良順先生の開設された長崎医学伝習所に参り、診察入院の手筈を整えてくると申しております」

「うむ、急がずばなるまい」

「許可が出次第長崎に向かう手筈です」

「そうか・・・では、壱岐殿を頼んだぞ」

「ははっ!」


吉右衛門は伊織を伴って壱岐の屋敷を出た。

「如何でございました?」伊織が訊いた。

「予断は許せまい、思ったより重い病のようだ」

「如何相成りましょう?」

「兎に角、壱岐殿が回復するまで保守派の家老どもの動きを阻止せねばなるまい」

「私に出来ます事は?」

「できるだけ情報を集めてくれ。どんな些細なことでも構わぬ」

「はっ」

「それから、弁千代を大石と共に壱岐殿の警護に就かせる」

「御意!」


*******


「屋島様、壱岐の病気は本当でしょうか?」小野高五郎が訊いた。

小野は屋島の取り巻きの一人で保守派の家老である。

「仮病を疑っておるのか、小野。それは無い」

「何故?」

「砥上玄達から長崎医学伝習所への出張願いが出た」

「では・・・」

「この機を逃してはならん、ムカイを呼ぶのだ」

「はっ!」


*******


「弁千代、来ると思うか?」

「必ず来る」

「どうしてそう言える?」

「ムカイは必ず目的を遂行しようとする」

「何故?」

「それが仕事だからだ」

「まるで侍みたいだな」

「奴らは侍だ」

「ん?」

「昔、侍の身分を剥奪されたものが忍びになった」

「そうなのか?可哀想にな」

「可哀想ではない」

「何故?」

「だから、それが仕事だからだ」

「ああ、そうか・・・俺たちと一緒か」

「だから、全力で戦う」

「うん・・・そうだな」


*******


月は無い。家人と使用人は、既に避難させている。中庭には篝火かがりびを焚いた。

弁千代と進は、壱岐の寝ている座敷を守るようにして、庭に面した廊下に立った。

新しい草鞋で足元を固め、いつでも庭に飛び降りられるようにしている。

塀の上に影が湧いた。全部で七つ。皆頭巾で顔を隠し黒装束を身に纏っていた。

ただ一人、おもてさらしている者がいる。

「ムカイ・・・」弁千代が囁く。

「奴か!」

影は塀を乗り越えて中庭に立った。

「今日で全ての決着をつける」ムカイが言った。

「望むところ」

「そちらは大石進殿、相手にとって不足はない」

「武士としてお相手致す」

「それはありがたき事・・・皆、散れっ!」

影が二手に分かれた、ムカイは動かない。

弁千代と進は廊下から庭に飛び降りる。

それぞれの正面に三人ずつ。

皆短い刀を腰に差している。

「掛かれ!」ムカイが低く叫ぶ。

六人が同時に抜刀した。左目の端に大石進が飛び出すのが見えた。

弁千代は真ん中の敵に向かって走った。

正面の敵に当たると見せかけて右へ飛ぶ。

敵の動きが一瞬鈍った。

身を沈め、抜き付けに胴を薙ぎ払う。

十分な手応えがあった。反転して次の敵を目で追った。

絶叫が上がった。進が一人仕留めたらしい。

右から来た。

左へ飛んで反転。目の前に敵の背中があった。

逆袈裟に斬り上げる。手応えあり。

風が鳴った。

左の肩に激痛が走る。いつの間にかムカイが半弓を構えていた。

「弁千代!」

進の声が聞こえた。答える間も無く二ノ矢が飛んで来た。

身を捻って躱す。同時に三人目の敵が突っ込んで来た。

刀身を敵の刀に被せながら、棟に左手を添えて突き返す。刃は深々と敵の躰を貫いた。

一人を斬り伏せた進がムカイ目掛けて走るのが見えた。

「ムカイは俺に任せろ!」進が言った。

弁千代は頷いて、敵の躰から刀を引き抜くと、肩に刺さった矢を斬った。

抜くと血が吹き出して戦えなくなる。

ムカイが放った三ノ矢を斬り落とし、進が突進した。

ムカイは弓を捨てて刀を抜いた。

残った敵が一人、廊下に飛び上がって壱岐が寝ている座敷に走り寄り襖に手を掛けた。

弁千代は咄嗟に刀を逆手に持ち替えると敵の背中目掛けて投げつけた。

敵は背中に刀を突き立てたまま、襖を押し倒しうつ伏せに倒れて動かなくなった。

壱岐が布団に身を起こし目を丸くしているのが見えた。


ムカイは短い刀を二本持っていた。

どちらも逆手に握って、一本は前一本は背中に隠すように構えている。

進は長い刀を槍のように構えて隙を窺っていた。

「大石!」弁千代が叫ぶ。

「来るな、これは武士同士、尋常の太刀合いだ!」

弁千代は黙って廊下に座り、二人の戦いを見守る事にした。


進は迷っていた。

今の間合いなら自分の方が有利だ。

しかし、懐に飛び込まれたら立場は逆転する。

しかも、奴の構えはそれを狙っている。

ならば・・・

進は全身全霊を込めた突きをムカイの胴に放った。


ムカイは北叟笑ほくそえむ。来た!

進の動きが伸びるのを待っていた。

右の剣のしのぎで突きを流すと、半回転して懐に飛び込む。

左の剣を水平に寝せて、引き斬りに喉を狙った。


進は前足が地に着いた瞬間、右に躰を倒した。

左の頬を刃先が掠った。

ムカイの驚いた顔が振り返る。

ゆっくりと右袈裟に斬り下げた。

返り血が飛んできて、目の前が赤く染まった。


「見事!」

いつの間にか廊下に出て来た壱岐が叫んだ。

「ご家老、起きてはなりません!」弁千代が驚いて言った。

「何を言う、これが起きずにいられようか!」

進が歩み寄り地面に跪いた。

「進、見事であった」

「は、有難うございます、しかし、紙一重でありました」

「強敵であったな」

「御意」

「今日のお前たちの戦いを見たからには、儂も病などには負けてはおれんな」

「ご家老、無理は禁物です、無理をすれば敵には勝てません」進が言った。

「そうであったな、肝に命じておこう・・・」



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