誕生 無門弁千代
誕生 無門弁千代
「中武弁千代、面を上げよ」
頭の上から声が聞こえて来た。
「ははっ!」
返事をしたけれども、そうやすやすと顔を上られるものではない。
先ずはほんの少しだけ、申し訳程度に頭を上げた。
「もそっと上げよ」
また少し上げた。目の前の人物の輪郭が朧げに感じられる程度だ。
「儂の顔を見よ、と言っておる!」
イラついた声が降って来た。
「弁千代、殿の仰せだ、遠慮するでない」
横合いから吉右衛門の声がした。
「では、お言葉に甘えて失礼致します」
弁千代が顔を上げると、鑑寛の麗顔が目の前にあった。
何故こんな事になったのだろう。今朝突然お城から呼び出しがあって登城した。
家臣の侍に誘われて広間に入ると無門吉右衛門が一人座って居た。
「じき、殿からお言葉がある、ありがたく拝聴致せ」杓子定規に吉右衛門が言った。
「はっ」訳も分からぬまま返事をした。
小姓の声が聞こえた。なんと言ったかは分からない。
「頭を下げよ」吉右衛門が注意した。
両手をついて頭を下げる。人の入って来る気配がした。
こうして弁千代は、初めて藩主、立花鑑寛に謁見したのであった。
「此度のその方の働き、見事であった」
鑑寛は柔和な顔に戻って弁千代に言葉を掛けた。
「ははっ」直答する訳にはいかない。
「お陰で壱岐の改革案を諦めずに済んだ、礼を申す」
「ははぁ!」
額を畳に付くほどに下げた。
「褒美を遣わす」
「はっ・・・」
「そちは、今日から無門の姓を名乗れ」
「はっ?」思わず聞き返してしまった。
「吉右衛門の養子になれと言っておる」
「・・・」
「どうした、返事をせぬか!」
「ははっ、ありがたき幸せ・・・」主君の命に否はない。
「今後とも、藩の為により一層尽力せよ」
「ははぁ!」
弁千代は平伏した。
鑑寛が立ち上がって広間を出て行く気配があった。
「弁千代、もう良いぞ顔を上げよ」吉右衛門が言った。「控えの間で話をいたそう」
「いったいどう言う事でございますか?」
控えの間に移るとすぐに弁千代が訊いた。
「実はな、おいらから殿にお願ぇしたんだよ」伝法に吉右衛門が言った。
「何故で御座います?」
「知っての通り、おいらには跡継ぎが居ねぇ」
「それは存じております・・・」
「今更後添えを貰って子を成すには、ちぃとばかり薹が立ちすぎてる」
「そのような事はないと思いますが?」
「本当にそう思うかえ?」
吉右衛門は今年で還暦を迎える。まだ元気は残っているのだが、本人にその気は無い。
「い、いえ・・・それは」答え難い。
「これは、お前ぇを江戸にやった時から考ぇていた事よ。だから江戸では無門を名乗れと言ったんだ」
「しかし、私は妻も子もある身・・・」
「妻子持ちの養子は、夫婦養子と言って先例がない訳じゃねぇ。この柳河藩でも嘗て行われた事があるのさ。しかし、余程の事がなけりゃ許されぬ、此度のお前ぇの働きは十分これに値する。この機会を逃す訳にゃいかねぇんだ。お前ぇの気持ちを確かめなかった事は謝る、許せ!」
吉右衛門が頭を下げた。
「あ、頭をお上げください!」
「嫌かえ?」吉右衛門が上目使いに弁千代を見る。
「嫌だなんて、そんな・・・」
「じゃあ承知してくれるか?」
「わ、私のような者で良ければ喜んで」他に返事のしようはない。
「そうか、承知してくれるか!」
「はい」
吉右衛門は顔を綻ばせて笑った。
「時期を見て養子縁組の宴を設ける、その後に我が屋敷に移って来い、良いな?」
「はっ、仰せのとうりに・・・」
「では下がって鈴に報告して来るが良い。鈴は我が娘、薫は孫となるのだ」
「ははっ!」
弁千代は狐にでも摘まれたような顔でお城を下がった。
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「・・・という訳なんです」
弁千代は家に戻り、事の次第を鈴に話した。
「私は、ベンさんが良いと思うならそれに従います」
「私は良いお話だと思うのです。ただ、何かに流されているだけのような気がして気持ち悪いだけで・・・」
「ベンさんの夢は何?」
「それは剣の道を極める事です」
「剣の道を極めるって、どういう事?日本一の剣豪になる事?」
「それは違います」
「じゃあ、何?」
「それは・・・」
「私は今の暮らしが大切。子を持った母親は、無事に子供を育て上げるのが、目の前の夢です。それ以外には考えられません。その為なら少しでも有利な道を選ぶ」
「有利な道とは?」
「ご家老様の養子になる」
「では、いいのですね?」
「今更断れないでしょう?もし断ればここを出て行かねばなりません。私はそれは嫌です」
「分かりました。では、近々吉右衛門様の屋敷へ移る事になります」
「支度はしておきます。どうか、心配なさらずお役目を果たす事だけをお考え下さい」
「ありがとう、鈴さん。これでスッキリしました」
「もし苦しくなったら、また旅に出ましょう。今度は三人で」
「鈴さん・・・」




